2019年06月27日

ビアヘロ87 続)徳島の天津司神社 @〜A  “四国の「もう一つの歴史教科書問題」氏による近稿からの転載”

ビアヘロ87 続)徳島の天津司神社 @〜A  “四国の「もう一つの歴史教科書問題」氏による近稿からの転載”

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太宰府地名研究会 古川 清久


徳島の天津司神社(天都賀佐比古神社+天都賀佐彦神社)と甲府の天津司神社との間にどのような関係があるかは、調査の端緒に就いたばかりであり軽々には結論は出せませんが、アメノツカサヒコ神社と天津司(テンヅシ)神社というめったにない社名だけに当然にも関係なしとはしないでしょう。

そもそも「もう一つの歴史教科書問題」氏にこの徳島の神社をリポートして頂けないかとご相談した理由も甲府の天津司神社と同様にこの吉野川流域にも神武巡行(本物の神武は東征していない!東征したとされているのはハツクニシラススメラミコトこと神武僭称ハツクニ崇神…)が行われたのではないかと考えたからでした。それほどこの天津司彦神社の呼称は驚くべきものだったのです。

甲府の天津司神社には本物の神武天皇、大日孁貴(後の卑弥呼〜天照ですが通説では同時代の神では無い事になっていますが、実は腹違いの姉、弟なのです)、鹿島大神、経津主、大山祗、大幡主…と神代史のスーパー・スターが揃い踏みし、日本海航路を軸に船による列島の調査旅行を行っていた事が記録されているのです。

この事業を記念する祭が限られた家系の人々(謎の17家族)によって1900年前から継続されている可能性があるのです。以下、甲府の天津司神社をご紹介しましょう。

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天津司神社 カーナビ検索 山梨県甲府市小瀬町557 右は同社の天津司の舞


まず重要なのは、祭礼に際して「神官を迎えに行く」のではなく諏訪神社(諏訪大社などではない)の宮司が天津司神社(収蔵庫)の神像をお迎えに上がることです(偉いのはどちらか言わずもがなですね)。

また、この天津司が行われる舞台が「御船囲」と呼ばれている事が、彼らが遥か遠くから船に乗ってやってきた事を今に伝えているように思えるのです。

勿論、「天津司」が「傀儡(テヅシ)」舞の民衆芸能であるとされている(笑ってしまいますね)事は承知の上ですが、小瀬の17家(恐らく血盟的な同族集団)で伝承されていると言う事や、ただの民衆が傀儡舞を継承すると言うこと自体があり得ない話なのです。

何故ならば傀儡は商業的な芸能集団なのであって、その元を辿れば大いなる主人持ちの宮廷芸能の継承者だった可能性もあるのであり、一般民衆に伝えるなどありえないのです。

 ここで、神社考古学の立場から故)百嶋由一郎氏が残された天津司舞に関する手書き資料をご紹介する事にしたいと思います。詳しくはそちらを読まれるとして、この9神に加えて、阿蘇高森の草部吉見神=鹿島大神=武甕槌=表面上の春日大神=海幸彦とそのお妃である市杵島姫と神沼河耳=金凝彦(藤原により綏靖天皇とされた阿蘇神社の最奥部に祀られた神八重耳=カミヤイミミ=実は巨胆将来神)の3神が記録されているのです。

 結論は早すぎるかも知れませんが、徳島の天都賀佐比古神社(旧村社)所在地 美馬町字轟の2神=主祭神 級長津彦命・級長津姫命天都賀佐彦(天都賀佐比古)神社(旧無格社)所在地 美馬町字西荒川 主祭神 級長戸辺命 が阿蘇高森の草部吉見神=鹿島大神=武甕槌=表面上の春日大神=海幸彦とそのお妃である市杵島姫(宗像三女神の一神)とピッタリ対応することから、徳島の天津司神社とは、やはり、若き草部吉見神と市杵島姫を祀る神社で、甲府の山上楽園で夫婦神となることとなったお二人を待つ神社でもあるのです。

その名称である天都賀佐比古神社 天都賀佐彦神社から考えると、恐らく別行動を取り、甲府からの帰路、吉野川を遡り西に向かった瞬間を留めた神社であったのではないかとまで思わせるのです。

 この二神は早めに戻り、鹿児島の阿多で新婚生活に入ったとの百嶋メモがある事に注目して頂きたいと思います。このことから、徳島の二社はこの後の鹿島大神と市杵島姫二神を祀るものなのかも知れません。

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昇天の二神とは阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)=海幸彦を婿神とした市杵島姫(奴奈川姫)

百嶋メモに依れば、舞に登場する9人の神とは、大日孁貴(オオヒルメムチ)=天照大御神、経津主命とは山幸彦=ニギハヤヒ、黄幡神=博多の櫛田神社の大幡主=ヤタガラスの父神、月弓命は大山祗命、根裂神は金山彦、磐裂神は埴安姫=黄幡神の妹神、磐筒男命=八重(速)思兼(ヤタガラス)、磐筒女命=罔象女(大国主の姉)、豹尾神は本物の神武天皇になり、消えた一神とは神沼河耳(草部吉見の父神)

市杵島姫(奴奈川姫)とは神沼河耳の息子の草部吉見のお妃となったことから呼ばれた様なのです。

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祭神は異なりますが、糸魚川市の奴奈川神社と天津神社が日本海ルートで信濃、甲斐の天上楽園への進入路を握る神社(事実上の行政機関)であり、その終点が甲府の天津司神社だったと考えられるのです。

 この底流に存在するのが、神武東征(これを行なったのは第9代開化天皇=高良玉垂命の臣下でしかなかった神武僭称贈る崇神でしかなく)とは別の、神武巡行と言われる神武、天照、大山祗、金山彦、大幡主、海幸(草部吉見)、山幸(ニギハヤヒ=猿田彦)…なのであり、天津司神社が如何に重要で如何に古い列島王権成立に関わる神社であるかが理解できるのです。

 所謂「神武東征」(耳川河口からあくまで東征しただろう…程度の話)はやたら大袈裟に描かれていますが、この「神武巡行」はそれに遡る事数世代前に行なわれたもので、北九州の筑豊や瀬戸内海の尾道〜福山周辺などに薄いながらも、今なお痕跡があり(筑豊、広島、福山…は一部ブログで公開しています)、その先端は男鹿半島にまで延びていたのです。

 これは大国主命の「国譲り」やそれに伴う建御名方命の抵抗と屈服などと描かれた「古事記」の偽装(国譲りの現場は九州でありその移動先が現出雲でしかない)よりも前に行なわれた「神武巡行」に関わる神社であり、その物証の一つがこの天津司神社であり天津司の舞になるのです。

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百嶋最終神代系譜(部分)この上段の神々こそが天津司神社の9人の神々に対応するのです


無題.png最後に、この神社(甲府の天津司神社)の標柱正面上部には九法星が打たれています。これも天御中主命=白山姫=北辰=妙見を意味しており、その民族の後裔としてのプリンセスが市杵島姫(奴奈川姫)でもあったのです。


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。実費程度で、貴重な資料が手に入ります。

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ビアヘロ86 徳島の天津司神社 @〜A  “四国の「もう一つの歴史教科書問題」氏による近稿からの転載”

ビアヘロ86 徳島の天津司神社 @〜A  “四国の「もう一つの歴史教科書問題」氏による近稿からの転載”

                                    20180113

太宰府地名研究会 古川 清久


 本稿はグループ・メンバーとしてリンクを張らせて頂いている高知県の「もう一つの歴史教科書問題」

氏に依頼しリポートして頂いたものの転載です。

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徳島の天津司神社 @徳島県美馬市美馬町轟の天都賀佐比古神社(以下転載部分)


天都賀佐比古神社@  徳島県美馬市美馬町轟


「徳島県美馬市にある天都賀佐比古(あまつかさひこ)神社を調査してほしい」との依頼が以前あったものの、徳島県に行く機会もなく日が過ぎていた。やっとお盆休み(というよりよさこい祭り休み)に入って、岡山県に行く用事ができた。ついでにといっても、かなり寄り道になるが、頼まれていたことを優先しようと坂出から高速を降り、讃岐山脈を越えることにした。

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徳島県美馬市に入って天都賀佐比古神社を検索すると、意外にも2か所ヒットして少し戸惑った。美馬町轟にあるほうが、鳥居・社殿等が立派で、立地も開けた中心部に近いところにあり、見つけるのが容易であった。こちらが本命であろうか。境内に入って右手、神社由来記の石碑にも「6世紀以前の創建と思われる」とし、かつての鎮座地に近い郡里(こうざと)には白鳳時代の廃寺跡(法起寺式、12弁蓮華文軒丸瓦が出土)もあって、大和朝廷以前の歴史を持つ可能性が見える。

今回はあまり主観を交えず、客観的なリポートにしたいので、『美馬町史』(美馬町史編集委員会、1989年)からそのまま引用しておく。


天都賀佐比古神社(旧村社)所在地 美馬町字轟三二番地  

主祭神 級長津彦命・級長津姫命

例 祭 十月二十日

境内地 五九八坪主要建物 本殿・弊殿・拝殿・神庫

 氏 子 八一戸

宗教法人設立 昭和二十八年四月十五日

〔沿 革〕

川原部落の西端、轟谷の東側に位置し、阿讃の山々を背景に、郡里ジマの沖積地が眼前に開ける景勝の地に建っている。この社はもと現在地の約二〇〇b西、字高畠にあり、創立年代は明らかではないが、延喜式内社としての天都賀佐比古神社に比定されており、既に平安初期から尊信を集めていたようである。

境内中央北寄りに本殿・弊殿・拝殿が南面して建てられ、正面入口には大鳥居、その北側に狛犬、灯籠等が両側に並び立っている。

古くから「轟さん」と呼ばれて、旧郡里里分の総氏神として崇敬され、風の神として知られる。『阿波志』には「天都賀佐毘古祠 郡里村宗重名に在り、或いは轟宮と称す。天正年中(一五七三〜九一)兵燹に罹り、いまだ旧制に復せずと雖も結構頗る大、連松繁苑或は曰く延喜式所載是也と…(後略)」とある。

十月二十日の秋祭りには、喜来、中山路、宗重、川原町の各氏子から、屋台、勇台を繰り出し神輿渡御の行列に加わり、数十に及ぶ練り物で行列は一大豪華を極めていた。しかし大正年間よりしだいに祭りも簡素となり、現在は川原町部落八一戸の氏神として祭礼が行われるのみとなっている。

なお、昔からの言い伝えとして、この神前を乗馬で横切ったり、頬かむりで通ると、勢いよく投げ出され、また前の吉野川を西上する舟が帆をかけたまま通ると転覆するといわれた。

それでこのような災難を避けるため、御神体を北向きに鎮座してあるといわれ、古いお守札には「日本一社北向鎮座」と記されている。

なおこの社の神職として記録に残る古いものでは、寛永十八年二宮権頭が奉仕しており、それより代々二宮氏が神職として仕え、二宮正芳に至っていたが、昭和五十六年以降は加藤熊男が奉仕している。

(以上、引用終り)

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さて、御神体が北向きというのは確かに珍しいが、高知県にも似たような話がある。

高知市春野郷土資料館のHPに掲載されている荒倉神社の昔話である。

県外のことを知って、県内のこともよく理解できるというもの。井の中の蛙になってはいけない。

はるの昔ばなし「ご神体は北向き」(前略)…… 二代目藩主山内忠義公は狩が好きで、たびたび各地の狩猟場へ出掛けました。ある年、側臣や勢子を多数連れてこの荒倉山に来ました。この日は獲物がたくさんあり、忠義公はたいそうごきげんでありました。さっそくこの神社の馬場先で獲物を料理しました。ところがその肉はなんぼ煮ても軟かくなりません。煮ても煮ても煮えないというわけです。

家来たちは「これは神前をけがしたからではないか。」と話し合っていました。忠義公はこれを聞いて「領内のことはすべて藩主の意のままになるものだ。

気に食わねばご神体を北向けにしておけ。」と言われました。
 このことがあってから、荒倉神社では、社殿は南向きでもご神体は北向きにしてお祀りするようになったといわれています。
 土佐には大小五千近い神社があり、その大方は南向きで、東向き或は西向きのものも少しありますが、荒倉神社のように社殿に対してご神体が反対向きというのは例がないようです。


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで


徳島の天津司神社 A 徳島県美馬市美馬町西荒川の天都賀佐彦神社(以下転載部分)


天都賀佐彦神社 A  徳島県美馬市美馬町西荒川


もう一つの天都賀佐彦(あまつかさひこ)神社が美馬市美馬町轟の天都賀佐比古神社より西方、同市美馬町西荒川の小高い岡の上にある。厳密に言うと「比古」と「彦」の漢字が違う。同一町内に同一の神社が存在することによる混乱を避ける配慮もあるのだろうか? 祭神も微妙に違っており、例祭も一日違い(1人の宮司さんが複数の神社を兼任しているためであろうか)になっている。

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集落の路地を入って行き、民家に紛れて見つけにくかったが、何とかたどり着いた。木の鳥居に木彫りの扁額。旧無格社であるから、このようなものかもしれないが、『美馬町史』(美馬町史編集委員会、1989年)によると、鎮座している場所が古墳群であったことが推測でき、廃瓦の出土もあって、轟の天都賀佐比古神社に勝るとも劣らない古い歴史を持っていることが伺える。

 境内には五角柱の石碑があり、五柱の神様の名が刻まれている。「天照皇大神・倉稲魂命・埴安姫命・少彦名命・大己貴命」――この後、徳島県の神社では、このややいびつな五角柱を何度も目にすることになる。

主祭神は「級長戸辺(しなとべ)命」とされており、『古事記』『日本書紀』によって風の神とするのが一元史観の解釈である。土佐国一宮である土佐神社の夏祭り「しなね祭(しなね様)」の語源についても諸説ある。風の神・志那都比古に結び付ける説もあるが、全国的にも「しな〜」を冠する名前はいくつか見られる。多元史観による解釈の必要があるのではないだろうか。

今回も『美馬町史』から関連するところをそのまま引用させていただく。


天都賀佐彦(天都賀佐比古)神社(旧無格社)所在地 美馬町字西荒川四八番地ノ一

主祭神 級長戸辺命 例祭 十月十九日 

境内地 二四〇・七坪 主要建物 本殿・拝殿 氏 子 四五戸

〔沿 革〕

西荒川中央部、四方を人家に囲まれた中に在る。本神社については『阿波志』に「延喜式亦小祀と為す重清村荒川里に在り或は西岡宮と称す老樹叢生頗る閑寂たり祠畔小塚三あり又廃瓦あり古色鬱然往々地を穿て黒玉、塗金環、塗銀環及び銅器等を得、舊神戸あり天正中兵燹に罹る或は曰く其主級長戸辺命也と神代紀に言ふ伊弉諾尊曰く吾生む所の国唯朝霧ありて薫満つ哉、及ち吹き揆ひ気化する神號を級長戸辺命と曰ふ亦は級長津彦命と曰ふ是風神也」とあるが、この天都賀佐毘古神社については古来異見があるが、上述の如く『阿波志』はこれを本神社に比定している。

そして郡里、轟の天都賀佐毘古神社についても、延喜式内社である可能性を一説として参考に挙げている。

字西荒川方面の住民を氏子としている。十月十九日の祭礼には、氏子は十月十五日の八幡祭りに続いて同社の祭礼をも行い、神恩感謝の一日を過ごしている。

戦前は神輿も部落をまわっていたが現在は出ていないようである。


立派なリポートを頂き大変助かりましたが、まずは場所を再確認しておきたいと思います。

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吉野川右岸の農耕地が広がり始めるまずは住良い土地といったところでしょう


確認できたところで本題に入ります。ひぼろぎ逍遥(跡宮)に以下の5稿外を書きました。


570

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 I “信濃〜甲斐は日本海側から入った人々が開発した”

565

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社にやって来た”

564

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 C “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(下)

563

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 B “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(上)

562

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 A “糸魚川市の奴奈川神社は市杵島姫を祀る”


まだ、公開していません(20195月頃の予定)が、ひぼろぎ逍遥に先行掲載する事も考えています。

重要なのはこの山梨県甲府市にひっそりと鎮座する天津司神社です。

この神社の重要性は語り尽くせないほどの価値があります。

まずは多くの大社を押さえ山梨県と言わず甲信越で最も古く重要な神社ではないかと考えています。

この神社には天津司舞という不思議な舞が継承されています。

私達百嶋神社考古学の者からはこれが1900年前から舞い続けられている最も古いものある事が見えるのですが、無論、通説派の方々には民俗学的価値しかないただの土俗舞程度のものとしか理解されないでしょう。長くなりますので続きはひぼろぎ逍遥(跡宮)から次稿をお読み下さい。

「主祭神は「級長戸辺(しなとべ)命」とされており、『古事記』『日本書紀』によって風の神とするのが一元史観の解釈である」とされましたが、草部吉見=海幸彦=武甕槌と市杵島姫と思われますので、想定通り草部吉見=風神=支那都彦(雲南省麗江から列島へ移動した黎族の頭目です)ピッタリです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ