2019年06月21日

596 出羽から陸奥への道 O “十和田湖の手前 秋田県鹿角市の三宝荒神”

596 出羽から陸奥への道 O “十和田湖の手前 秋田県鹿角市の三宝荒神”

20180621

太宰府地名研究会 古川 清久


秋田を抜け、当初の目的地であった青森県五戸町の高良神社に向けて走るのですが、既に、カーナビは十和田湖の縁ではなく南側の戸来岳の南麓を迂回し五戸町に向かう道を選択していました。

これでは面白くない上に朝も早かったため未だ見た事もない十和田湖と奥入瀬渓谷を見たいと思いました。

このため鹿角市から国道102号線を北上し、途中から外輪山を下り十和田湖に入るルートを走る事になった訳です。

現地は青森、岩手、秋田の三県の県境が集中する辺境ですが、その分、素晴らしいばかりの自然が残る場所です。このような東北地方の最奥部に於いてもお会いするのは九州の神様ばかりです。

 ここでは十和田湖や奥入瀬渓谷を取り上げるわけではありません。何故か三宝荒神の話になります。

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この途上、国道1034号線を走っていると左手に三宝荒神社が見えてきました。

 愛知の人ですが、幕末に東北全域の調査を行った菅江真澄という民俗学者と言うか文化人類学者います。


菅江 真澄(すがえ ますみ、宝暦4年(1754年) - 文政12719日(1829818日))は、江戸時代後期の旅行家、博物学者。生まれは、三河国渥美郡牟呂村字公文(現在の豊橋市牟呂公文町)と伝えられる。本名は白井秀雄、幼名は英二といった。知之(ともゆき)、白超とも名乗った。 …中略… 

旅先の各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残す。今日で言う文化人類学者のフィールド無題.pngノート(野帳)のようなものであるが、特にそれに付された彼のスケッチ画が注目に値する無題.png。彩色が施されているものもあり、写実的で、学術的な記録としての価値も高い。彼は本草学をもとにして、多少の漢方の心得もあったという。著述は100200冊ほどを数え、「菅江真澄遊覧記」と総称されている。この名前で平凡社の叢書・東洋文庫に収録され、2000年以降、同社の平凡社ライブラリーから5巻本として刊行されている。形態は日記・地誌・随筆・図絵集などとなっているが、内容は民俗・歴史・地理・文学・考古・宗教・科学など多岐にわたっており、特に近世後期の民衆の生活を客観的に記していることに特徴がある。


秋田県鹿角市十和田大湯白沢。国道103号線沿い。菅江真澄は箒畑を早いうちに出発し、三宝荒神社を参拝してから白沢の村に入りました。更に上流を目指して、止り滝・中滝、途中の大滝内の滝を見ながら、目的の銚子の滝に辿り着きます。

菅江真澄の道(三宝荒神の祠)…『そのむかし大檀那佐藤庄司の棟札ありしが野火にやけたり』。『文化4年(18079月、このところ十和田権現参詣の山口なり(十曲湖)』邦内郷村志によりますと、箒畑村には雄滝・中滝・泊滝からなる銚子滝があると記し、三宝荒神と白山社を祀り、別当と認められる修験宮本坊があることを記します。御祭神は竃神・火結神・大己貴命

無題.pngによる

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脇には護岸工事の無い清流が勢いよく注ぎ、境内には簡素な社殿と参拝場がありました。

 恐らく、この地元の小集落の信心深いご老人がお集まりになっている(た)のだと思います。

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西日本の日本海側が目立ちますが、この三宝荒神は山陰山陽などの海岸、山奥の辺境を中心に分布しています。

 実際、東北地方で三宝荒神とは…と思いましたが、まだ、フィールド・ワークの絶対量が低い為直ぐには判断できません。

 三宝荒神は産鉄地域、金山、鍛冶〜冶金〜彫金地帯に祀られる事が多いのですが、実は政治情勢も反映しているのです。

皆さんも荒神(コウジン)さんという神様があることをご存知でしょう。

 ただ、何者なのかが良く分からないまま、その名のイメージから怖い神様といった認識だけをおもちではないでしょうか?

私達も方々で見掛けるこの民間信仰=土俗信仰とさえ思う神々が、何やら西日本の日本海側に広く分布していることだけを認識していたのです。しかし、これについても、百嶋先生は十分な知見をお持ちだったのです。さて、現在、荒神様については、京都や滋賀が中心と言った俗説が普及しています。

ここで、三宝荒神の震源地とも言うべき宮崎県のある神社をご紹介してこの問題の糸口とします。


荒神信仰は、西日本、特に瀬戸内海沿岸地方で盛んであったようである。ちなみに各県の荒神社の数を挙げると、岡山(200)、広島(140)、島根(120)、兵庫(110)、愛媛(65)、香川(35)、鳥取(30)、徳島(30)、山口(27)のように中国、四国等の瀬戸内海を中心とした地域が上位を占めている。他の県は全て10社以下である。県内に荒神社が一つもない県も多い。

荒神信仰には後述するように大別すると二通りの系統がある。(三系統ともいう。)屋内に祀られるいわゆる「三宝(寶)荒神」*(1)、屋外の「地荒神」である。

屋内の神は、中世の神仏習合に際して修験者や陰陽師などの関与により、火の神竈の神の荒神信仰に、仏教、修験道の三宝荒神信仰が結びついたものである。地荒神は、山の神、屋敷神、氏神、村落神の性格もあり、集落や同族ごとに樹木や塚のようなものを荒神と呼んでいる場合もあり、また牛馬の守護神、牛荒神の信仰もある。

御祭神は各県により若干の違いはあるが、道祖神奥津彦命(おきつひこのみこと)、奥津姫命(おきつひめのみこと)、軻遇突智神の火の神様系を荒神として祀っている。神道系にもこれら火の神、竈の神の荒神信仰と、密教道教陰陽道等が習合した牛頭天王(ごずてんのう)」のスサノオ信仰との両方があったものと考えられる。祇園社(八坂神社)では、三寶荒神は牛頭天王の眷属神だとしている。

牛頭天王は、祇園会系の祭りにおいて祀られる神であり、インドの神が、中国で密教、道教、陰陽思想と習合し、日本に伝わってからさらに陰陽道と関わりを深めたものである。疫神の性格を持ち、スサノオ尊と同体になり、祇園会の系統の祭りの地方伝播を通して、鎮守神としても定着したものである。

「ウィキペディア」20151021 1800


この「ウィキペディア」氏の解説はかなり正確で、まずは、見事と言えるでしょう。

以前、二、三度、荒神様の本山とも言うべき日向の白髭神社に参拝した事があります。

 現在、この白髭神社は、過去、明治維新期に神仏分離令の影響を受けた事を意識してか、幟を揚げては本来の神を祀ってはいないようです。

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多くの神社が、その時々の時勢、時流に合わせ、祭神を新たに受け容れ、隠し、入替、迎合して生き延びてきたのは情けない事ではありますが、致し方無い事であり、神社がそうだと言えばそれが正しいのであり、氏子ならばいざ知らず、外部がとやかく言ってもどうなるものでもないでしょう。

 それを批判する権利も資格もないのですが、この神社がかつてこの神々を表に掲げていた事だけは百嶋由一郎先生から聴き及んでおり、それを後世に伝える必要性を感じています。


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カーナビ検索 白髭神社 宮崎県児湯郡川南町 大字川南1987番地


では、我々が本来の祭神と考える荒神様はどうなったのでしょうか?

日本は中国や朝鮮などとは異なり、本当の神様を決して粗末に扱ったりはしないものなのです。

本来、神社の社家も本当の神様を表に上げたいと考えてはおられるはずでしょう。このため、境内にはきちんと荒神社が置かれていました。時勢が許せば何時でも本当の神様は戻って来る事はできるのです。

では、現在の祭神と元の神様との関係を考えて見ましょう。


伊邪郡岐大神(イザナギノオオカミ) 建速須佐之男大神(タテハヤスサノオオオカミ)猿田彦大神(サルタヒコオオカミ)

火産霊神(火之迦具土) 奥津彦(須佐之男孫) 奥津媛(須佐之男孫)

無題.png真新しい荒神社


まず、火之迦具土は、金山彦の事で、中国ナンバー・ワン王朝=秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ、イスラエル系の製鉄神であり、瀛(イン)氏の一族の長です。

 この、瀛(イン)氏の一族を隠し、成り上がり者の恵比寿の連中などが跳梁跋扈したのが、明治の廃仏毀釈=神仏分離だったのです。

火産霊神(火之迦具土)の代わりに伊邪郡岐を、奥津彦、奥津媛の代わりに建速須佐之男大神を置いた事が分かります(それは神武に逆らった長脛彦隠しのために障りが薄い神が慎重に選ばれたのだと考えます)。面白いのは、百嶋メモに強調線があるように、縁起にスサノウが半島と列島を行き来している事がハッキリ書かれている事です。読み飛ばしてしまいそうですが、当時の雰囲気が掴めます。

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百嶋データファイル03012三宝荒神より まさに金山彦を中心とする強力な姻戚関係ですね!

右の画像は鴨玉依姫でどこにあるかは公にはできませんが!ここでは画像のみお知らせしておきます


豊玉彦(ヤタガラス)の子との扱いにされてはいるのですが、スサノオとクシナダヒメの間に産まれた娘が鴨(カモ)玉依姫であり、百嶋メモに長脛彦の子(二重線は姻戚関係と考えられるのですが…)のように扱われています。ここらになると意味がまだ掴めないでいます。奥津彦が実は神武天皇に逆らった長脛彦であることが、瀛(イン)氏隠しの最大の理由であり、また、それを口実に発動されたのが、明治期の神仏分離令だったのですが、白髭神社が祭神を公にしたくない理由は良く分かります。

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そして、伊勢神宮が這い上がったのです。その伊勢神宮が国体明徴運動宜しく偉そうに振る舞っている事も、既に、久留米大学の公開講座(九州王朝論)との関係でお話した通りです。

従って、 氏が祭神について三宝荒神と白山社を祀り、別当と認められる修験宮本坊があることを記します。御祭神は竃神・火結神・大己貴命。”とされていることは”興味深く、表向き三宝荒神が竃神・火結神・大己貴命を祀っている事は十分にあり得る事と言えそうです。

 現在、三宝荒神社は神社庁管理の神社ではない所が大半であり、これは国家権力から庇護ではなく逃避の保護ではなく迫害の歴史を意味しているのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分) 以下省略


百嶋由一郎氏が残された音声CD、神代系譜、手書きデータ…を必要とされる方は09062983254まで


蛇足ながら、金山彦の本質を理解するには、ひぼろぎ逍遥(跡宮)106白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”などをお読み頂く方が良いでしょう。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年06月23日

597 出羽から陸奥への道 P “山形県鶴岡市出羽三山神社初見”

597 出羽から陸奥への道 P “山形県鶴岡市出羽三山神社初見”

20180625

太宰府地名研究会 古川 清久


 冒頭から神社ではない画像が出て来ましたが、羽黒山、月山、湯殿山の俗に(これも失礼な表現にあたるかも知れません)出羽三山と呼ばれる巨大信仰圏への入口とも言うべき宿坊群の写真です。

 神仏混交が最後まで色濃く残った出羽三山ですが、無論、初見になります。

 かつては、南北朝争乱期の南朝方の背骨を支えたのは多くの修験者でした。

 一説には、全国の修験者の数は十万を超えていたと言われており、そのほとんどが消え去り、宿坊を利用していた末端の人々も姿を消しつつあるのです。

 九州では彦山が著名ですが、こちらも参拝客が消えさり今や存続の危機に立たされているのです。

では、何故、山岳修験は息の根を絶たれたのでしょうか?

南北朝争乱期にとどまらず、多くの政変で重要な役割を果たし続けてきた修験者のネット・ワークは、パルチザンにも似て反政府勢力の基盤にもなりかねないのであって山岳修験は明治政府にとっては危険極まりないものだったはずなのです。


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金山町から真室川音頭で有名な真室川町辺りを通り福島県の喜多方市辺りを目指して走っている時でしたが、「常陸の国探検隊」のK氏に携帯で連絡を取ると、出羽三山に回る事を勧められ、急遽ハンドルを右に切り羽黒神社に向かいました。

 もう東北からの帰路ですが、せっかくの機会だったにも拘わらずうっかり駒形神社をパスしてしまいくさっていたところでしたので、代わりに出羽神社(羽黒山)を回る事にしたのでした。

 場所は山形県でも庄内平野の海岸部の酒田市からは相当内陸に入る所にあります。

このため出羽神社はともかく月山や湯殿山へは、冬場は容易に近づけない聖域であるに違いないのです。

 まさに、パルチザンの根拠地のような場所なのです。

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出羽神社(羽黒山)正面


御由緒

日本の原郷【千四百年の歴史を刻んだ日本人の心のふる里

出羽三山-羽黒山(標高414M)月山(標高1984M)湯殿山(標高1500M)-は「出羽国」を東西に分ける出羽丘陵の主要部を占める山岳である。
 太古の大昔は火山爆発を繰り返す“怒れる山”であった。

 _____時が経ち、再び静寂を取り戻した頃、山には草が生え、樹木が生い茂り小鳥や獣がもどってきた。
 その時、麓の里人たちはそこに深い不思議な“神秘”を感じた。
「あの山こそ、我が父母や祖先の霊魂が宿るお山だ・・・」
「我らの生命の糧を司る山の神、海の神が鎮まっているお山に違いない・・・」

 _____それから更に時を刻んだ推古天皇元年(593年)、遠く奈良の都からはるばる日本海の荒波を乗り越えて一人の皇子がおいでになられた。
 第三十二代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子、その人である。
 イツハの里・由良(ゆら)の八乙女浦(やおとめうら)に迎えられ、三本足の霊烏に導かれて、道なき径をかき分けたどりついたのが羽黒山の阿古谷(あこや)という、昼なお暗い秘所____
 蜂子皇子はそこで、来る日も来る日も難行苦行の御修行を積まれ、ついに羽黒の大神・イツハの里の国魂「伊氏波神(いではのかみ)」の御出現を拝し、さっそく羽黒山頂に「出羽(いでは)神社」を御鎮座奉られた。
 今を去ること、千四百年前の御事である。
 出羽三山神社では、この時を以て「御開山の年」とし、蜂子皇子を「御開祖」と定め、篤く敬仰している。
 やがて、御開祖・蜂子皇子の御修行の道は「羽黒派古修験道(はぐろはこしゅげんどう)」として結実し、千四百年後の今日まで“羽黒山伏”の形をとって、「秋の峰入り(みねいり)」(峰中ぶちゅう)に代表される厳しい修行道が連綿と続いている。

 _____以後、お山の内外を問わず、全国六十六州のうち東三十三ヶ国の民衆はもとより皇室、歴代の武将の篤き崇敬に与り、いつしか本邦屈指の「霊山・霊場」としてその地位を築き、四季を通じ登拝者の絶えることがない。

 そもそも、出羽三山は、祖霊の鎮まる“精霊のお山”、人々の生業を司る「山の神」「田の神」「海の神」の宿る“神々の峰”にして、五穀豊穣、大漁満足、人民息災、万民快楽(けらく)、等々を祈願する“聖地”であった。
 加えて「羽黒派古修験道」の“根本道場”として、「凝死体験(ぎしたけいん)・蘇り(よみがえり)」をはたす山でもある。
 すなわち、羽黒山では現世利益を、月山で死後の体験をして、湯殿山で新しい生命(いのち)をいただいて生まれ変わる、という類いまれな「三関三度(さんかんさんど)の霊山」として栄えてきたお山である。

 出羽三山の信仰世界を語る場合、まず挙げなければならないのは、今日なお「神仏習合」の色彩が色濃く遺されているということであろう。
 古来より出羽三山は、自然崇拝、山岳信仰、など“敬神崇祖”を重視するお山であったが、平安時代初期の「神仏習合」の強い影響を受け、以後、明治初年の「神仏分離」政策の実施の時まで、仏教を中心としたお山の経営がなされてきた。

 今日、出羽三山神社は「神道」を以て奉仕しているが、古くからの祭は道教や陰陽道そして密教を中心とする「修験道」を持って奉仕している。
 まさに、これこそ今日の出羽三山神社の大きな特色といってよい。
 歴史をふり返って見ると、鎌倉時代には羽黒山をして、「八宗兼学の山」と称し、全国各地から修行僧が競って入山し、各宗を実践修得していった。

 何故に「八宗兼学の山」であり、諸々の宗教・宗派がこれ程複雑に習合したのか_____。それこそ、出羽三山の大神、神々、そして御開祖・蜂子皇子の“御心(みこころ)”が成したものであろう。
 信ずる者来たれり、出羽三山の大神は何人にも等しく御神徳を授ける、偉大にして永久(とわ)に有りがたい神々である、との民衆の“確信”があったからに他ならない。
 人間の苦しみ・悩みは決して一様ではない。多様にして複雑怪奇、一つの“哲理・教義”のみでは決して救うことはできないということを、出羽三山の大神と御開祖・蜂子皇子は見抜いておられたに違いない。
 出羽三山の神々は寛大である_____

 信仰心は、まず、“信ずること”に始まる。自分の邪念・邪心をむなしくして、「神」を信ずること、それが信仰世界に入る第一歩である。   敬神崇祖(けいしんすいそ)_____。 神を敬い、祖先を崇めること、この一語に尽きる。出羽三山の神々に仕える者は、千四百年間一貫してこの根本精神を以て大神に御奉仕致し、かつ登拝者・信者の方々に等しく接し、教化に勤めてきた。

 出羽三山神社となった明治以降もお山は繁栄御神威の発揚が図られている。今日では東三十三ヶ国からの信者にとどまらず、全国の津々浦々から、四季を通じて登拝者の絶えることがない。
 そして、最近では、日本はおろか外国からもお山においでになられる方も目立って多くなってきている。
 まさに“国際化”である。これも、太古から綿々と受け継がれてきた山麓の宿坊・羽黒山伏の全国に向けた弛まぬ“布教・教化活動”あるいは、出羽三山神社の御神威の“発揚”があったからに他ならない。

 出羽三山の信仰は、いつの時代にも、親から子へ、子から孫へと伝えられる「親子相伝のお山」として著名であるばかりでなく、成人儀礼として男子十五歳になると、「初山駈け」をしなければならないという風習が各地にあって、今も健在である。

 特に関東方面では古くから、出羽三山に登拝することを「奥参り」と称して重要な“人生儀礼”の一つとして位置づけ、登拝した者は一般の人とは違う存在(神となることを約束された者)として崇められた。
 また、西に位置するお伊勢様を意識するように東に存在する出羽三山を詣でることを「東の奥参り」とも称した。つまり「伊勢参宮」は「陽」、出羽三山を拝することは「陰」と見立て“対”を成すものと信じられ、一生に一度は必ずそれらを成し遂げねばならない、という習慣が根強くあった。

 今日、出羽三山のお山が、 「日本の原郷・・・・」 「日本人の心のふる里・・・」
 といわれる所以は、類ない千四百年という歴史だけによるものではなく、“時空”を越えて一貫して顕わされてきた三山の大神の御神威・御神徳、合わせて御開祖・蜂子皇子の“衆生済度(しゅじょうさいと)”の御精神、皇室の御繁栄と民衆の息災を願う御心の「御仁愛」にあることを、私たちは今一度、識るべきであろう。

出羽三山の開祖蜂子皇子上陸の地

 出羽三山の開祖である蜂子皇子が羽黒山へ辿り着くまでのルートについては諸説あるが、その一つに由良の八乙女伝説がある。
崇峻5年(592)の冬、父である第32代崇峻天皇が蘇我馬子(そがのうまこ)によって暗殺された。このまま宮中に居ては皇子である蜂子の身も危ないと、聖徳太子(しょうとくたいし)の勧めにより倉橋の柴垣の宮を逃れ出て越路(北陸道)を下り、能登半島から船で海上を渡り、佐渡を経て由良の浦に辿り着いた。ここに容姿端正な美童八人が海の物を持って洞窟を往来していた。皇子は不思議に思い上陸し、乙女に問おうとしたが皆逃れ隠れてしまった。そこに髭の翁があらわれ、皇子に「この地は伯禽島姫の宮殿であり、この国の大神の海幸の浜である。ここから東の方に大神の鎮座する山がある。早々に尋ねるがよい」とおっしゃられた。そこで皇子はその教えに従い東の方に向かって進まれたが、途中道を失ってしまった。その時、片羽八尺(2m40cm)もある3本足の大烏が飛んできて、皇子を羽黒山の阿久岳へと導いた。これにより、由良の浜を八乙女の浦と称し、皇子を導いた烏にちなんで山を羽黒山と名付けた。
 このように、羽黒神は八乙女の浦の洞窟を母胎として誕生したとされ、しかもこの洞窟は羽黒山本社の宮殿と地下道で結ばれているという言い伝えがある。
伯禽島姫 ー 竜王の娘である玉依姫命(たまよりひめのみこと=竜宮にあっては伯禽島姫)で、江戸時代は羽黒神とされた。

蜂子皇子【羽黒派古修験道を開いた御開祖】

御開山は千四百年余前の推古天皇元年(593年)、第三十二代崇峻天皇の御子蜂子皇子が、蘇我氏との政争に巻き込まれ、難を逃れるために回路をはるばると北上し、出羽国にお入りになりました。そして三本足の霊烏(れいう)の導くままに羽黒山に登り羽黒権現の御示現を拝し、山頂に祠を創建され、次いで月山、湯殿山を次々と開かれました。その後、皇子の御徳を慕い、加賀白山を開いた泰澄や修験道の祖ともいわれる役ノ行者、真言宗の開祖空海、天台宗の開祖最澄などが来山し修行を積んだと伝えられています。
出羽三山の沿革【悠久の歴史に育まれた限りなく深い信仰】

出羽三山とは、山形県(出羽国)にある月山、羽黒山、湯殿山の三つの山の総称です。
 月山神社は、天照大神の弟神の月読命(つきよみのみこと)を、出羽神社は出羽国の国魂である伊氏波神(いではのかみ)と稲倉魂命(うかのみたのみこと)の二神を、湯殿山神社は大山祗命(おほやまつみのみこと)、大己貴命(おほなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)の三神を祀っています。月山と湯殿山は冬季の参拝が不可能であることから、羽黒山頂に三山の神々を合祭しています。また広大な山内には百八末社といわれる社があって、八百万(やおろず)の神々が祀られています。
 出羽三山は元来、日本古来の自然崇拝の山岳信仰に、仏教・道教・儒教などが習合に成立した「修験道」のお山でした。それ故、明治維新までは仏教の、真言宗、天台宗など多くの宗派によって奉仕され、鎌倉時代には「八宗兼学の山」とも称されました。悠久の歴史の中で幾多の変還を重ねながら、多様にして限りなく深い信仰を形成し、「東三十三ヶ国総鎮護」として、人々の広く篤い信仰に支えられて現在に至っています。                                 
同社公式HPから


 無題.pngでは、祭神を考えましょう。

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  月山神社   天照大神の弟神の月読命

出羽神社   出羽国の国魂である伊氏波神と稲倉魂命の二神

湯殿山神社  大山祗命 大己貴命 少彦名命

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百嶋神社考古学では月読命と大山祗は同一神とします。

 出羽神社の伊氏波神と稲倉魂命は伊勢神宮外宮の豊受大神と夫

神のニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦=五十猛…だと考えられます。

 大己貴命 少彦名命は説明不要でしょうが、大己貴命も実は大山祗命の子であり、出羽三山とは実質的に(実はトルコ系匈奴)が非常に濃厚な…と言うより、大山祗系一色の神社である事が分かります。

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勝手な事を言わせて頂ければ、北に展開した熊襲=トルコ系匈奴と言いたいのですが、理解しては頂けないでしょう。

 問題は大己貴命と少彦名命です。一般的には出雲系の神々などと言われていますが、大山祗系から大幡主系(神皇産霊神)に送り込まれた有力な入婿のようなもので、だからこそ大幡主の一族から豊玉姫(タゴリヒメ)と市杵島姫(スセリヒメ)をお妃(ウムガイヒメ、キサガイヒメ)とされているのです。

 このため最奥部の湯殿山には 単に大山祗系だけではなく大幡主系も反映されているものと思われるのです。

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羽黒山414m 月山1984m 湯殿山1504m


 縁起にある そもそも、出羽三山は、祖霊の鎮まる“精霊のお山”、人々の生業を司る「山の神」「田の神」「海の神」の宿る“神々の峰”にして… には、やはり…という思いがします。

 実は百嶋由一郎氏は鹿児島県などに数多く見られる“タノカンサーは大幡主と大山祗の犠神体です”と言われていました。

 「山の神」とは大山祗であり「田の神」とは大幡主であり「海の神」とは恐らく豊玉彦(ヤタガラス)=大幡主の子 であろうと思います。

 つまり、一般的に出雲系とされる大幡主系と大山祗系の強力なスクラムが見えてくるのです。

なお、「山の神」「田の神」については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から271 田神社(タノカンサー)は朝倉郡を中心に50社近く存在した をお読み頂きたいと思います。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏が残された音声CD、神代系譜、手書きデータ…を必要とされる方は09062983254まで

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年06月25日

598 出羽から陸奥への道 Q “山形県鶴岡市出羽三山神社の神々(沢に鎮座する摂社から)”

598 出羽から陸奥への道 Q “山形県鶴岡市出羽三山神社の神々(沢に鎮座する摂社から)”

20180626

太宰府地名研究会 古川 清久


 では、出羽三山神社に入りましょう…。

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始めは降り宮かと思ったほどでしたが、谷(東日本は沢と言わないと通じませんが)には多くの摂社が置かれていました。

この摂社の祭神から出羽三山神社の姿が多少とも見えてくるでしょう。

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西日本ではこの名称ではあまり出て来ませんので(道後温泉の周辺では見ました)ご存じない方が多いと思います。簡単に言えば金山彦のご夫婦です(勿論、磐裂が大市姫 根裂が金山彦)。

この磐裂、根裂は関東から北に目立つ星宮神社などに祀られていますが、神武天皇(あくまでも本物の方のカムヤマトイワレヒコですが)と衝突せざるを得なくなった長髄彦=那賀須泥毘古(ナガスネヒコ)の祖父神にあたるのです。

 この金山彦について百嶋由一郎氏は完全なモーセの後裔氏族のイスラエル人で、同族の秦の始皇帝姓は嬴(エイ)、氏は趙(チョウ)、諱は政(セイ)姻戚関係を結び先行して列島に進出している(新ヘブライ)系氏族の長であり、最高の製鉄技術を持って入っている。

 このため、海を渡っている事から、氵(サンズイ)+嬴(エイ)=瀛(イン)=忌部=因部=卜部=占部と言われているのです。

 そのため、宗像三女神の市杵島姫も本来は瀛ツ島姫と書くのです。

この一族には加計学園の一族もおられるのですが、別の話になるのでやめておきましょう。

 その後、秦の始皇帝の一族も漢帝国の時代になると王族クラスがごっそりと半島経由で豊の国に入り畿内に展開するのです。

 一方、先行して列島に入っていた人々は阿波から熊野を根拠地にしますが、何故かその中枢部は福岡に戻り博多を拠点にしているのです(それが本物のヤタガラスの一族なのです)。

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百嶋由一郎極秘神代系譜(部分)


長くなるのでこれまでにしますが、関心をお持ちの方は、ひぼろぎ逍遥 106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”外を検索してください。

次におられたのは五十猛神社でした。

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土地 土地で、また、時が移ろっても、名を変え、名を伏せ生き延びようとしますので、この神様が物部の権化であり、伊勢神宮の外宮の豊受大神の夫神であることや、海幸山幸神話の山幸である事など百嶋神社考古学の者しか知りません。最低でも物部氏の総大将のニギハヤヒの事であるとは理解して頂きたいのです。

 五十猛とはニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦=彦火々出見=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊…なのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 まだ俄かには信じられないという方は多いでしょう。

 その向きにはインターネットで山陰本線の大田駅(島根県太田市)の隣に五十猛駅がある事をご確認ください。

 この大田には石見の国一の宮の物部神社があるのです。そして、五十猛駅の先には馬路(マジ)駅もあるのです。そうです。ニギハヤヒの後裔(子とも…)のウマシマジのマジなのです。

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島根県大田市川合町川合1545

祭神こそウマシマジとされていますが、幟を揚げた物部神社であり延喜式内社であり石見国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社です。

 次は大歳(大年)神社です。

 前掲の神代系譜をご覧ください。豊受大神=伏見稲荷=アメノウヅメにとっては五十猛神の前の夫神にあたるのがこの大歳神=海幸彦=ヒコヤイミミ=阿蘇高森の草部吉見神=東北の方にとっては常陸の鹿島大神こと武甕槌であり、後に奈良の春日大社の表面的な主神であり藤原氏の祖先神になるのです。

 従って、五十猛と大歳神が並べられている事にもそれなりの意味があるのです。

そしてその事は直ぐ分かるのです。

どうやら出羽三山神社は理解してこの配置を取っておられるようです。

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下居社とは沢におられる神々の社というほどの意味なのでしょうが、イザナギ、イザナミ、アマテラスオオミカミ、天八神、クグヌチ、ヒコホホデミ、ミズハノメ七神が祀られています。

良く分からないのが天八神です。

誓約(ウケイ)などと妙な表現になっていますが、天照とスサノウの子産み争いの結果生まれた五神(男神)+三神(女神)なのでしょうか?

これについても百嶋由一郎氏の最終神代系譜で確認しておこうと思います。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 黄枠の市杵島姫、豊玉姫はスサノウが誓約で産んだとする三人の女神のお二人です(勿論嘘話ですが)。

アマテラスの五人の御子神はここには書かれていません。

 スサノウはイザナギとイザナミの子ですが、結果的に分れるアカルヒメとの子が市杵島姫になります。

 一方、ヤタガラスと高木大神の長女にあたる豊秋ツ姫の子が豊玉姫になるのです(一応、一般的に云う天八神の一部となるでしょう)。

 クグヌチ、カグツチは火之迦具土神とも軻遇突智とも書く、最初にご説明しました製鉄の神である根裂神=金山彦です。

 ヒコホホデミは、これも最初の方で説明申し上げた五十猛であり、ニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦=彦火々出見命=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊… になるのです。

 それに水の神様として知られていますが、スサノウのお妃であり(アカルヒメ、櫛稲田姫の前のお妃)、大国主命とコノハナノサクヤヒメの姉にあたる神大市姫がミズハノメになります。

そして、その御子が出羽三山の山頂に祀られる稲倉玉命とか倉稲玉命とされる伊勢の外宮の豊受大神になるのです。

 当然、一緒に祀られているのが伊氏波神(イデハノカミ)で、恐らく五十猛であり、ニギハヤヒ=山幸彦=猿田彦=彦火々出見=天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊だと理解しています。

 かなり重複していますが、山頂の二神はこの下居社にも祀られており、400メートルも登る必要はないことになるのですが、山岳修験の神社でそのような事を言うのは不行き届きとなるでしょう。

 では、伊氏波神(イデハノカミ)が彦火々出見命であるという解読が許されるとしても、伊氏波神(イデハノカミ)とはどういう意味でしょうか?彦火々出見命は伊達氏にしてもそうなのですが、「伊」が付く地名は彦火々出見命と関係が深いと考えています。

 故)百嶋由一郎氏も、例えば福岡市が糸島市に連続する今津、今山、今宿…は、山幸彦=彦火々出見の支配地ですよ…と言われていました。

 同様に、伊氏波神(イデハノカミ)とは、「イデハノカミ」であり伊の出羽の神と解読できそうです。

 ここまで見てくると、羽黒山の出羽三山神社とは、伊勢神宮の外宮がそのまま移動したような配神であり、豊受大神を中心に、大山祗系(私達はトルコ系匈奴の一派と考えていますが)、スサノウ系、金山彦系ががっちりとスクラムを組んだ物部系の神々を祀る神社群であることが分かるのです。

 当然、その敵対物とは権力を掌握した阿蘇系=藤原系、高木大神系だったと言えそうです。

 月山、湯殿山と併せ羽黒山の出羽三山神社とは過激な物部氏の流れを汲む強面の神々の連合体だったようですし、両勢力の間に入りバランスをとったのがヤタガラス系=橘一族であり海人族だったようです。


百嶋由一郎氏が残された音声CD、神代系譜、手書きデータ…を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記