2019年06月17日

594 出羽から陸奥への道 M “親不知の手前朝日岳南麓の山崎神社”

594 出羽から陸奥への道 M “親不知の手前朝日岳南麓の山崎神社”

20180618

太宰府地名研究会 古川 清久


一般にも知られていない神社ですが、富山県から新潟県へと移る親不知〜有名な糸魚川静岡構造線の手前、実質的な西日本の最奥部で、広義の富山湾の縁のような丘陵地に鎮座する神社です。

 今回ここを訪ねた理由は、東北遠征を知った久留米の女性メンバーから訪問を依頼されたため、多少、遠回りして訪問する事にしたものでした。

無題.png

この朝日町が姫川の西に聳える高峰朝日岳と関係がある事は一目瞭然でしょうが、新潟と山形の県境にも朝日岳があるのです。

 とするとこの一峰だけが朝日町の起源となっている訳でもない事が少しは頭に描けてきます。

 勿論、朝日、夕日それ自体はどこにでもある様な名前であって何を拘っているのだろうとお考えかも知れませんが、我々、百嶋神社考古学の者には普通とは違う物が見えているのです。

無題.png

新潟県と山形県の県境にも朝日岳があるのですがこれは姫川の西方に聳える白鳥山〜朝日岳〜白馬岳

無題.png

目の前には広大な水田が広がっていますが、古代にはどうだったのでしょうか?

 富山湾は急に深くなる独特の地形ですが、この辺りはある程度の標高もあり、古代には波際線とは言わないまでも海は目の前には見えていたのではないかと思ってしまいます。

 この朝日町から十キロ余り親不知の大断崖に遮られ、そこからさらに十キロ余りでようやく姫川の河口の糸魚川市の中心部に入り、実質的にはここから甲信越への道が広がるのです。

 このような認識は古代に於いても同様だったはずで、その時代でもこの大山塊は列島の東西を遮るものだったでしょう。

無題.png

社殿はシンプルでこれと言った摂社、分社もなく立派さだけが際立つ神社ですが、まずは、もう少しご紹介して見ましょう。鳥居は厳島神社の白族系のものです。

無題.png

豪雪と寒風に備える堅ろうな覆い屋に守られた北国の社殿です。

無題.png

社殿正面には氏子総代だか宮司家だかの神社に繋がりのある大家の墓が置かれていました。

 この家紋が澤瀉(オモダカ)でした。このことから、この神社の重要な一族が八坂神社(祇園神社)=スサノウ系の方であることが見て取れました。以下は由緒をご覧ください。

無題.png

今回、どこにでもあるような普通の神社に見える山崎神社を取り上げた理由は、百嶋由一郎氏が残した手書きメモにこの朝日連峰(このような呼称があるかは知りませんが)の南北と言うか東西に、古代に九州からの植民があったと考えておられたようです。

 そこで想定されているのは神武僭称贈る崇神天皇の業績とされる四道将軍が活動した時代であり、その時代に九州からの進出、開拓、植民が見て取れるからなのでした。

 縁起にもある通り、肥後だか紀伊からの移住が書き留められており、この朝日連峰の、そして新潟〜山形県境の朝日連峰周辺にも日本海ルートで植民が行われているように見えるのです。

無題.png

こちらは山形県の朝日岳と朝日町7,000人ほどの村に近い行政単位ですが独立性が強いようです


 では、この朝日とは何でしょうか?富山や山形の方々は何を勝手な事を…とお考えになるかも知れませんが、百嶋神社考古学のものには思い当たる事があるのです。

 まず、神武僭称贈る崇神天皇の業績とされる四道将軍ですが、何やら山奥の奈良盆地からでも指揮したと思われているでしょう。しかし、崇神は筑前、筑後、豊前、豊後辺りを蠢いていたのです。高良玉垂命(実は藤原が第9代とした開化天皇)は仲哀死無題.png後の神功皇后と共に、その指揮下にはかなり年嵩の崇神(ツヌガノアラシト=敦賀にやって来た安羅伽耶の人)を臣下として、開拓政策を推し進めていたようです。まず、この高良玉垂命こと開化天皇には九躰皇子(クタイオウジ)と呼ばれる五人の皇子(開化と正妃神功皇后)と四人の開化or神功皇后(皇宮皇后命)の連子がいたのですが、筆頭のシレカシノミコト(後の仁徳天皇)次男、三男がこの朝日町の「朝日」に関係がありそうなのです。

「斯礼賀志命」「朝日豊盛命」「暮日豊盛命」(朝日夕日)「渕志命」「渓上命」「那男美命」「坂本命」「安志奇命」「安楽應寶秘命」

以下、古田史学の会「新古代学の扉」(洛中洛外日記)古賀達也「筑後遷宮」

より

〔高良玉垂命と九人の皇子(九躰皇子)〕
高良玉垂命(初代)斯礼賀志命(しれかし)→隈氏(大善寺玉垂宮神職)へ続く
物部保連(やすつら) 

朝日豊盛命(あさひとよもり) →草壁(稲員)氏へ続く
暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
渕志命(ふちし)
渓上命(たにがみ)
那男美命(なをみ)
坂本命(さかもと)
安志奇命(あしき)
安楽應寳秘命(あらをほひめ)
※読みは「草壁氏系図(松延本)」によった。


以下も同様ですが、普段引用しない『九躰皇子』異論もご紹介します。


〈追記〉『九躰皇子』異論

 本稿で紹介した玉垂命の九人の皇子、いわゆる九躰皇子について若干の異論を述べてみたい。この九躰皇子を祀る神社は筑後地方に多く分布するが、もっとも有名なものは久留米市山川町王子山にある高良御子神社である。昨年末(平成十年十二月)、同神社を訪れたが、鳥居や社殿は「王子宮」と「坂本神社」の二つがあり、更に四百段の階段を登った妙見(安志岐)山頂(標高百五十メートル)には「古宝殿城跡」とよばれる平坦地がある。もともとはそこに社殿はあったそうである。

 ここで疑問に感じたのだが、なぜ高良御子神社に第七子の坂本命が別個に祭られているのだろうか。地名からして第八子安志奇命がこの地に特別に祭られるのならば、それはわかる。同様の現象が八女郡広川町にもある。同地は稲員宗家が代々大庄屋として居住してきたところだが、正応五年(一二九〇)稲員良参は新社を建て、坂本命を祭り坂本宮(現高良坂本神社、広川町古賀区)と号している。稲員家は次男朝日豊盛命の系統であるにもかかわらず、ここでも坂本命を祭っているのである。

 また、九躰皇子と称しているにもかかわらず、第九子安楽應寳秘命は稲員家系図などに記されたアラヲホヒメという訓が示すように、皇子ではなく皇女であるのも不審だ。

 こうした九鉢皇子への疑問から、この九人は全員が兄弟ではなく、親子関係や兄弟関係が混ざった系図ではないかと考えるようになったのである。もしそうであれば、「玉垂命」という名称はこれら九人全員に対する称号ではなかったか。したがって、初代玉垂命が斯礼賀志命で、名前の類似からその子供が朝日豊盛と暮日豊盛の兄弟。とすれば、倭王旨は初代玉垂命の斯礼賀志命、その子供倭王讃は朝日豊盛、次の倭王珍が弟の暮日豊盛となろう。そして、坂本命を倭王武と比定できれば、『宋書』で特筆された倭王武が国内でも坂本命として伝承され、特別に祭られたと考えられるのではあるまいか。以上、全くの作業仮説の段階でしかないが、ここに提示し、諸賢のご批判を賜わりたい。

 安志岐山頂の古宝殿城跡に至る四百段の階段から、ふと振り返ると、眼下には筑後平野を蛇行する筑後川が銀色に輝き、はるか真北には宝満山(三笠山)を眺望できた。少年の頃、日が暮れるまで遊んだこの地が九州王朝と深く係わりのあったことに、運命の不思議を覚えずにはいられないのである。

  (平成十一年三月三日筆了)

無題.png

久留米市の高良山の北麓に高良御子神社があります。ここに祀られる高良玉垂命の正室の皇子の5人の次男に朝日豊盛ノ命がいるのです。

 故)百嶋由一郎氏は、生前“朝日、暮日(夕日)のお二人は全国向かわれ朝日の名を遺しておられます。…”と言われていました。

 無題.png勿論、北部九州にも朝日を冠する地名は数多くありますのでこちらも注意して周辺の神社などを調べています。

 富山県と山形県の例を出しましたが、勿論、新潟県にも朝日村がありました。秋田県大仙市、青森県三重郡にも朝日町が…。


朝日村は新潟県の北部に存在した村である。村上市への通勤率は33.8%200841日に村上市、荒川町、神林村、山北町と合併し、村上市となったが、合併以前は日本の村では奈良県十津川村に次いで2番目に大きい面積を持っていた。ウィキペディア

無題.png

百嶋由一郎氏が残された音声CD、神代系譜、手書きデータ…を必要とされる方は09062983254まで


 無題.png故)百嶋先生は古代の宝飾品であるヒスイとかメノウと言った物を採取するために入っていたのではないかと言った意味で理解しているのですが、実際、夏の日本海は穏やかで、単に対馬海流に乗って移動して行くだけの事であり、日本海側には数多くの入江から発達した潟湖が十三湖まで数多く存在し、最適の泊地となっていた事が分かるのです。

 新潟〜山形〜秋田は古代の開拓民にとっては魅力的な土地だったのかも知れません。ちなみに右がメノウで左がヒスイです。

追 補

無題.png

百嶋由一郎 011聖神社系譜


ナガスネヒコ系の血も引く大彦こそこの山崎神社の祭神と考えられていたようです

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年06月18日

ビアヘロ085 阿波の天津賀佐彦神社は神武巡幸の痕跡なのか? “徳島県美馬市美馬町西荒川”

ビアヘロ085 阿波の天津賀佐彦神社は神武巡幸の痕跡なのか? “徳島県美馬市美馬町西荒川”

20180523

太宰府地名研究会 古川 清久


先に神武巡行に関わる甲府市の天津司神社、天津司舞の話をしました。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

570

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 I “信濃〜甲斐は日本海側から入った人々が開発した”

565

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社にやって来た”

564

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 C “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(下)

563

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 B “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(上)

562

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 A “糸魚川市の奴奈川神社は市杵島姫を祀る”


まず、「百嶋神社考古学」では、「神武東征」は神武僭称贈)崇神(ハツクニシラススメラミコト)によるものでしかなく、神武の遠征はあったが、神武ご巡幸と呼ばれ、本物の神武(カムヤマトイワレヒコ)による日向(耳川も勝手な推定でしかないのですが)からの東征は存在しなかったとします

それは、神武東征(これは神武僭称贈る崇神がやったことで神武天皇の業績ではない)ではなく、多くの神々と神武巡行を行ない列島を調査した痕跡をたどるものでした。

 今でも神武巡行に絡む伝承はかなり残されており、筑豊地方から広島、尾道、福山…山梨県甲府市の天津司神社や岡山県岡山市の阿仁神社…など多くの伝承があります。

 そこで、故)百嶋由一郎氏の手書き資料を調べていたのですが、徳島県にもその痕跡がある事に気付き、少し調べて見る事にしました(遠い事から、まずは下調べになりますが、お付き合いをお願いします)。

無題.png

無題.png詳しくは、先行ブログをお読み頂くとして、この神武巡行に関係すると思われる神社が徳島県にも存在するのではないかと考えられるのです。

徳島県美馬市美馬町西荒川の天津賀佐彦神社です。

 まさに、アメ(アマ)ツカサヒコ神社ですから、単に甲府市の天津司神社と偶然の一致とは考えにくい為考える価値があるのではないかと思うのです。

無題.png
無題.png

この「天津司舞」は現在も氏子17戸によって守られています。

これが如何なるものであるかは地元でも良くは分かっていないようですが、恐らく1850年以上前に九州からやってきた開拓神(と言っても重要な神様ばかりですが)が天上楽園を発見した事を記念して舞われたものと考えられるのです。

それと、同名の神社が存在するのですから興味深いとしか言いようがありません。

無題.png
無題.png

資料が不足していますので敬愛する玄松子氏からお借りします。


式内社 阿波國美馬郡 天都賀佐毘古神社 旧村社 祭神 級長津彦命 級長津姫命

境内は南向き。入口の鳥居の横に、「延喜式内社 天都賀佐比古神社」と刻まれた社号標。境内の由緒記の石碑には、社号は「天津賀佐彦神社」とあり、『平成祭データ』では、「天都賀佐彦神社」。

少し違うが、たいした違いではないのだろう。

境内に入ると、正面に拝殿。境内の左手に、境内社の若宮神社。境内の木の根の洞にも、何かが祀られている様子。

当社の創建は不詳。轟の地にあるためか、轟大明神、轟宮とも呼ばれる神社。もとは、当地の西方200mほどの高畑にあったという。 近くには「段の塚穴」と呼ばれる古墳や白鳳期の建立という立光廃寺の遺跡などがあり、古代から、美馬郡の中心として開けていた場所。

祭神は、風神である級長津彦命と級長津姫命。轟という鎮座地に相応しい神だといえるが、一説には、天都賀佐比古の「賀佐比古」が、「風彦」の意味であるとする後世の付会であるといい、建貝児王命を祭神とする資料もある。風の神なので、風神としての神威を伝える伝承も残っている。

一つは、この社の前を乗馬のまま横切ると吹き飛ばされるといい、また、吉野川を西へ遡る船は、帆をかけたまま通ると転覆するとも。そのため、境内・社殿は南の吉野川を向いているが、御神体は、北向きに安置されているという。本殿の屋根に卍の紋が付けられていた。

無題.png

この天津司神社に奇跡的にも残された天津司舞は、九州から僅かな船団で辿り着いた神々が、姫川河口の糸魚川から溯上し小谷村、白馬村を抜け松本から諏訪へと抜けさらに山上楽園である甲府盆地に到達した事が伝えられているのです。

重要なのはそのメンバーであり、この天津司舞に列島開闢の神々が現在も記録されているのです。



大日靈貴  =卑弥呼→天照大御神    

経津主=山幸彦 彦火々出見 ニギハヤヒ

黄幡(大元)=大幡主(博多を拠点に武装船団を指揮していたヤタガラスの父神:神産巣日神)

磐筒男   =八意思兼:豊玉彦(ヤタガラス)

磐筒女   =弥都波能売神

月弓    =大山祗(トルコ系匈奴:月読命)

根裂    =金山彦

磐裂    =埴安姫

豹尾    =神武天皇

吾勝(二神)=天忍穂耳(阿蘇高森の草部吉見:海幸彦、武甕槌)

置瀬(二神)=市杵島姫(宗像三女神:ヤタガラスの娘)

神沼河耳  =阿蘇神社最奥の金凝彦


天津司舞ではこのうちの二神が天に昇る(夫婦になる)のですが、その子が大山咋となるのです。

 これらの解析には、65年間も神社を調べ続けた故)百嶋由一郎の研究が凝縮されていますが、逆に言えば、阿波の天津賀佐彦神社によっても解析に誤りが無い事が分かるのです。

天津賀佐彦神社(式内社) 天都賀佐毘古神社の祭神は 祭神 級長津彦命 級長津姫命 です。

 この級長津彦命 級長津姫命こそ天忍穂耳(阿蘇高森の草部吉見:海幸彦、武甕槌)と市杵島姫(宗像三女神:ヤタガラスの姉であるアカル姫の娘)

 もう一つは、天津賀佐彦神社が西岡宮とも呼ばれている事です。

熊本県宇土市神馬町には西岡神宮があり、一之宮(春日大神 - 天児屋根命)、二之宮(八幡大神 - 誉田別尊)、三之宮(住吉大神 - 住吉三神)が祀られているのです。

言うまでもなく春日大神 - 天児屋根命が阿蘇の草部吉見神であることは過去何度も申し上げて来ました。

無題.png

この神社も何れ訪問する事になりそうです。

 まさか、山梨は甲府の天津司神社と同じ系統の天津賀佐神社があるとは考えも及びませんでした。

 してみると、神武巡行は、筑豊から広島、福山、尾道から岡山の安仁神社などに残されていますが、当然にも四国も巡行のコースだったはずなのです。

恐らく、吉野川を溯上し、この一帯まで巡行に入っていたのです。

 百嶋先生の資料では、草部吉見と市杵島姫の夫婦神は早めに戻ったとありますので、この二柱は先に戻ったものと思われます。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:24| Comment(0) | 日記

2019年06月19日

595 出羽から陸奥への道 N “鮭川村の白鬚神社の龍神様と弁天様”

595 出羽から陸奥への道 N “鮭川村の白鬚神社の龍神様と弁天様”

2018020

太宰府地名研究会 古川 清久


青森からの帰路山形県鮭川村を通過しました。

弘前市から秋田の大館市、北秋田市、大仙市、横手市、湯沢市を通過し山形県に入ります。

金山町から真室川音頭の真室川町の隣が鯉川村です。

無題.png

通り過がりに急に見ようと思った神社でしたが、急ハンドルを切って参拝させて頂きました。

 ここで、白髭神社についてふれておきます。一番分かり易く言えば、猿田彦となるでしょう。

しかし、この神こそ山幸彦でありニギハヤヒであり五十猛、近くでは、茨城県の鹿島(海幸)、香取(山幸)の香取神社の経津主…と言えばついて行けないと言われるかも知れません。

このため、琵琶湖の白髭神社の御祭神の猿田彦命と考えられても結構でしょう。

境内は簡素そのもので、山神社=山之神(大山祗)以外これと言って見るべきものもなかったため、境外摂社とも言うべき白髭沼に向かいました。直ぐに分かるのですがここにも市杵島姫がおられるのは一目でした。

 東北を足早に通り過ぎましたが、この陸奥(ミチノク)、出羽に於いても遭遇する神々は全て九州から広がった氏族が持ち込んだ九州起源の神々であると再認識させられています。

無題.png

白髭神社(鮭川村)概要: 白髭神社の創建年などは分かりませんでしたが、神社の下手にある小さい沼が古来からの自然崇拝の対象になっていたと思われます。現在でもその沼は白髭と呼ばれ、神社の奥の院となっています。伝承では、この沼に竜が住んでいると言われ、御神酒を捧げると願いが叶うと伝えられています。又、古来からの雨乞いの儀式が行われ、江戸時代の古記録にも掲載されるなど当時からの民俗信仰が続いているようです。

白髭沼の伝説: 鮭川村に伝わる伝承によると白髭沼には竜神が棲み、酒を捧げると雨が降ると言い伝えられてきました。その話を聞いた、新庄藩2代藩主戸沢正誠(法名:香雲寺荘海慧巌・通称:香雲寺様)が是非、その竜神を見てみたいと申し、周囲の家臣や村人が止める中、大勢の人夫を集め沼の水をかき出しました。その行為は7日7晩続き、ようやく、沼の底が見え始めると、急に空が暗くなり雷鳴が轟くと今まで見た事も無い程の大雨が降り一瞬で沼の水が元に戻りました。さらに、天から沼に向かい紫雲が降り始めると、それを見ていた見物人や立会人は竜神の祟りと恐れ戦きました。正誠も身に危険を感じ、全員にこの場から離れるように指示しましたが、怒った竜神は正誠に向かって襲ってきた為、自ら愛馬に跨り新庄城に戻ろうとしました。しかし、猿鼻峠で竜神に追いつかれ、何とか宝刀の霊力により振り払う事が出来ましたが、愛馬は無残に食いちぎられ命を落としたと伝えられています。

白髭沼の伝説: 鮭川村に伝わる伝承によると白髭沼には竜神が棲み、酒を捧げると雨が降ると言い伝えられてきました。その話を聞いた、新庄藩2代藩主戸沢正誠(法名:香雲寺荘海慧巌・通称:香雲寺様)が是非、その竜神を見てみたいと申し、周囲の家臣や村人が止める中、大勢の人夫を集め沼の水をかき出しました。その行為は7日7晩続き、ようやく、沼の底が見え始めると、急に空が暗くなり雷鳴が轟くと今ままで見た事も無い程の大雨が降り一瞬で沼の水が元に戻りました。さらに、天から沼に向かい紫雲が降り始めると、それを見ていた見物人や立会人は竜神の祟りと恐れ戦きました。正誠も身に危険を感じ、全員にこの場から離れるように指示しましたが、怒った竜神は正誠に向かって襲ってきた為、自ら愛馬に跨り新庄城に戻ろうとしました。しかし、猿鼻峠で竜神に追いつかれ、何とか宝刀の霊力により振り払う事が出来ましたが、愛馬は無残に食いちぎられ命を落としたと伝えられています。

無題.png

ここでも浮島(半島)に弁在天様が祀られています。この祭神こそ竜神こと豊玉彦の姉アカル姫の子である市杵島姫なのです。

無題.png

百嶋由一郎「最終神代系譜」

百嶋由一郎氏の音声CD、神代系譜DVD、手書き資料…などを必要とされる方は09062983254まで連絡を

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記