2019年06月13日

592 出羽から陸奥への道 K “山形県鶴岡市由良の春日神社”

592 出羽から陸奥への道 K “山形県鶴岡市由良の春日神社”

20180617

太宰府地名研究会 古川 清久


 美しくも単調な越後最北部の海岸をようやく抜け山形県に入ります。正面には鳥海山も見え始めました。

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ここにも加茂地名がありますが、春日神社が鎮座していました。手前も今泉で大幡主系の土地ですね。

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加茂春日神社は、社伝によれば清和天皇の御宇貞観7年(865)大和国奈良春日神社より勧請し、春日大明神と称したと云われています。

奈良県奈良市にある総本社の春日大社は768年に創建されたとされているので、全国に約1,000社あるといわれている神社の中で無題.pngは、櫛引地域にある春日神社が807年に創建されたそうなので、この地域では、その次位に建立された神社なのかもしれません。            


御祭神は 武甕槌之神 經津主之神 天兒屋根之神 比賣神 としています。

この点、同じ鶴岡市でも黒川字宮の下291の春日神社が祭神を 健御雷命 伊波比主命 天津児屋根命 比売命の四柱としていることと多少表記が異なっています。伊波比主命は經津主之神=山幸彦でしょう。

 ただ、基本的な構造としては同じようで、呼称が異なっているだけのようです。

 お分かり頂けるでしょうか、私達は一般的に春日大社の祭神とされている鹿島大神=武甕槌之神が実は阿蘇高森の草部吉見神=海幸彦であると申し上げ続けて来ました。

 それが、黒川では健御雷命としているようで、同時にその孫の世代の崇神天皇(ツヌガノアラシト)を思わせているようです。

勿論、それがこの神社の本来の祭神ならばそれはそれで良いのですが、疑問は、なお、払拭できません。

 それは、もう一つの祭神とされる天津児屋根命も実は阿蘇高森の草部吉見神であるからで、黒川の春日神社では、そこに健御雷命が持ち込まれたために、祖父と孫が共に神座に上げられ二柱とされたように見えるのです。

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こう言った現象が何故起こるか?と考える時、崇神=賀茂別雷=ツヌガノアラシト=気比大神は上賀茂大社に祀られているのであって、この地の地名である「加茂」と無関係ではありえないのです。

 従って、本来、この地には上賀茂系の崇神祭祀か下賀茂系のヤタガス(豊玉彦)鴨玉依姫祭祀が基層として存在し、それに上賀茂=崇神が覆い被さった結果、春日神社が成立しているのではないかと考えられるのです。

 まず、「加茂」は中国の雲南省に追い込められた白族(白山姫)のもたらした地名であり、彼らは雲南省昆明から海南島に移動し黒潮に乗り九州西岸の熊本〜八代に移動して来た人々なのです。

 その証拠に、海南島の南西部の黎族苗族自治県に「加茂」という地名が現存するのです。


リー語 黎語(黎Hlai)は主に黎族が話す言語である。タイ・カダイ語族黎語派(英語版)に属する。もともと文字は無かったが、1957年中華人民共和国語言委員会が「黎語ラテン文字化方案」を考案した。地域としては海南省の黎族・苗族自治県を中心に分布する。

話者は2000年の統計では約70万人(1982年には81万人)いて、「哈(旧称「侾」)」、「杞」、「潤(旧称「本地」)」、「美孚」、「(または「加茂」)」の5つの方言がある。哈・杞はさらに3つの土語、潤は2つの土語に分かれる。うち「哈」が最も多く使用され、黎語の話者のうち58%が「哈」を用いる。「哈」と「杞」、「潤」と「美孚」はそれぞれ類似しており、相互に会話が可能であるが、「加茂(チャマオ)」のみ 

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最近、「老酒保's spaceというサイトがネット上に公開されています。以下…一部を紹介します。

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海南島移民史 投稿日: 2017-05-18 投稿者: laojiubao     

海南島移民史-海南的移民(第八届世界海南郷団聯誼大会2004323日)より抄録。

黎族は海南島の原住民と見なされている。しかし,原住民とされる黎人にしたところで,丸木舟を漕いで大陸から海を渡ってきた海南の第一代移民である。


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●先史時代において,海南島の住民は已に1万人を下らず,黎族、壮族等の民族があった。

●中国歴史上最初の組織的な海南島移民は,漢代に発生している。

50億年前には海南はまだ半島であったが,地殼の陥落,大陸の移動により,南中国海上にこの大陸と分離した海南島が出現した。滄海変じて桑田となり,星斗転じ移りて,この海外に孤立した島嶼にも人類の足跡と歴史が刻まれた。

海南島に原住民はいるか?海南島への最初の移民は誰か?史料によれば,上古時代にはすでに人類がこの海南の島嶼上に生息繁衍し,原始生活をおくっていた。最初に海南に進入したのは我国南方の百越族の一支たる黎族と見なされる。

百越族は黎族の祖先であり,その主要な分布地域は現在の広西、広東珠江三角洲と高雷地区である。海を越えた黎族の先人たちは島に定住し,海南で最初の人口集落を形成した。ここに,大陸を南下し移居してきた黎人は,海南島の第一代の移民となった。

一般に少数民族には支系が存するが,黎族にもその分布により五大支系がある:侾黎、杞()黎、本地黎、美孚(美阜)黎、加茂黎である。一般には本地黎を,海南最古の居民の一支と見なしており,本地黎が海南の原住民とされる。

原住民は土着(土生土長)ではないのか?

生活習俗、愛用する渡海用具、居住する船形家屋や方言などから考証すると,本地黎と大陸の越人とには極めて大きな相似があり,かれらの間の密切な親縁関係を反映している。よって,この原住民が海を渡って南下し,島に地を選んで居住したものであるとの結論が導かれる。

本地黎は最初に海南島に進入した黎人であり,現在,彼らは主に白沙山区に深処し,完整な支系を保ち,未だ分散していない。彼らの分布の軌跡は,島の東、西、北部から五指山に向かって收縮している。その集中地区の中心は黎母嶺と雅加大嶺の間に挟まれた盆地にあり,彼らが他の支系による度重なる圧迫によりここに追い込まれたことが見て取れる。高山深谷が彼らの防守の天然の屏障となり,また彼らが輾転のすえ定居した歴史的淵源でもあろう。あるいはこのような海南の腹地に深処する状況が,彼らを本地黎と自称させ,原住民であるとの意識を形成したのかもしれない。

無題.png 海南島山河map

南下北上,先史移民の双方向の移動軌跡

ドイツの史図博(H.Stubel)という学者は《海南島民族志》なる一書で,精神文化、物質文化および伝説故事に依据して,黎族と印尼古代馬来民族、印支亜大陸各民族とに多くの相似点のあることを指摘して,以下のように論証している:

黎族の中の本地黎と杞黎、侾黎、美孚黎とは異なった系統であり,前者は本島土著の居民であるが,後の三支系は数次にわたる民族移動の浪を経て南洋の海外から筏(浮槎)で北渡し海南島へ進入したものである。

この結論には西洋人のロマンチックな幻想が溢れているが,黎族の先人が馬来種族の特徴を備えていることを,その幾分の証左としている。しかし,重要なことは,多くの専門家学者の認める通り,海南と我国大陸との関係は,何処から見ても,南洋各地とは比べ物にならないことだ。民族移動の過程において,人類の物質文化も同樣に相互に交流伝布することには,なんらの人種や国別の制限はない。だからあるいは南洋諸島のある種族がなんらかの原因で海南島へ渡って来ることもありえようが,しかしそれは数少ない特殊な現象である。海南島の黎族先民が大陸から瓊州海峽を越え,海南へ遷移したものであるという大きな趨勢には,変わりはない。

当然ながら,この種の黎族多源説は,海南の先史時代の民族移動に新たな視点を加え,海島移民が茫々たる大海を南来北進する新鮮な図柄を彷彿させる。

海島先民の活動区域は広泛であり,人数は已に1万を逾える

歴史地理を研究する司徒尚紀博士は海南島の黎族言語を比較してこのように指摘している:

この地の少数民族の言語は,広西壮族および西南の一部地区の民族の言語と同類の「構詞法」を有し,語法には「倒装句」が多い,即ち形容詞や副詞は名詞あるいは動詞の前には置かずその後に置く。

たとえば“有一個女子来過”は,“有女子一個来過”となる。この種の用法は今も当地島民の日常生活用語に見られる。

言語は一個の民族の演化変遷の残した最良の直接証拠であり,また海南黎族と広西壮族との両地の先民が同じく一個の支系に属することの言語上の痕跡である。この支系は海南島の先古の移民中では広西壮族とは同源不同流の“臨高人”とされ,渡海し来り,居住地は主に島の西北部であり,臨高を中心に,儋州、澄邁、瓊山および海口の一部地区にわたっている。また言語、習俗の共通するものは,海を挟んで相望する徐聞の地の居民にもある。彼らが海南へ進入した時期は黎族の先人が北から南へ遷移したより以後であるが,遅くとも西漢の頃である。

かくして,先史時代の海南島の移民には古壮族からの分化もあったのである。これが“臨高壮語”と呼ばれる臨高話が海南のその他の言語と異なった特殊性を有する所以である。

海南最早期の移民と開発の先駆は,つまり大陸あるいはまた南洋群島から来た先人は,陸続とこの島嶼の南北海岸に上陸し,大河の流れに沿って島内各地へ遡り,活動地域に広泛な各類の遺址を残した。一個の遺址は一個の血縁氏族の居地であり,歴史時代の一個の「村峒」に相当する。一般に黎族の一個の「村峒」は約40人であるので,先史時代の海南居民は已に1万人を下らなかったと推計できる。

歴史上最初の組織的移民は漢代

《漢書》記載:「漢元鼎六年,南越を平し,合浦徐聞より入海,大州を得る;元封元年,珠崖、儋耳の二郡を置く」。漢初の二郡の建置は,中国古代封建政権の最初の海南島建立であり,また海南の歴史上における最初の組織的な移民でもある。

当時,全島“合十六県,戸二万三千余”,毎戸6口を以て計算すれば,13.8万人となり,密度は平方キロあたり4人である。これは当時の広東の南海郡、合浦郡の平方キロあたり1.1人と比較すれば,4倍近い。これは面白い現象である,海南先民が広東大陸から渡ってみると,新しい寄居地の方が原住地より人口が数倍高かったのである。この現象は一方では,秦朝による霊渠の建設以降,南北流江(南流江、北流江)から北部湾に至るルートが南下漢人の主要交通路となり,海南島はこれに利を得て,人口の量も密度も自然に広東大陸よりも優ったのである。もう一方では,当時の海南移民は,已に広東、広西の沿海に限られず,早に北方中原の漢人が遷居してきていたのである。その主要成分は漢代の海島への派官、派兵であり,渡海作戦の軍隊の駐屯も多く,そのまま島の移民となった。また商業貿易その他の職業に従事する“善人”もあり,《瓊台外紀》の一書には“武帝置郡之初,已有善人三万之数”の記載がある。王莽の輔政時になると,更に「中原より“罪人”を此に遷徙す」ともある。これらさまざまな階層の移民が,“雑居其間,乃稍知言語,漸見礼化”し,ここに民族交流の拡大が始まった。

後漢の北方戦乱時には,海南は避難先となり,移民も次第に増加した。

“建武二年(公元26)青州人王氏与二子祈、律,家臨高之南村,則東漢有父子至者矣”。

これは海南移民で已に具体的な地域、姓氏、落籍地の記載のある最早のものである。

●戦乱からの遠離,これは海島が難民を吸引した重要な要因である

●宋代に海南への最初の大規模移民が発生し,元明を経て清で高潮に達する

●閩(福建省)、粤(広東省)、桂(広西壮族自治区)が本島人口の主要来源である

●渡海して南洋へ下るのは,明朝に始まる別種の移民現象である


老酒保's space」=「吞み屋の宇宙」とでも言うのでしょうか、好感の持てるサイトであり長々と引用してしまいました。

 話が逸れたかも知れませんが、この地に「加茂」(海南島ではチャマオと発音しますが)の人々で、一緒に列島に入って来た阿蘇氏=黎族=宇治族=多氏に対して、白族の人々定着したのが、黎族苗族自治県の加茂だったのです。

 従って、阿蘇氏とこの加茂の一族とがこの地に存在する事は、列島の開拓史を思わせるもので、同地に存在する加茂神社まで足を延ばさなかった事が残念でなりません。

 実は、海幸彦=阿蘇草部吉見神=天児屋根=藤原の祖神と宗像の市杵島姫との間に生まれたのが大山咋神であり、そのお妃となるのが下賀茂神社の鴨玉依姫であり(これまで玉依姫ウガヤフキアエズのお妃となり神武など4人の御子を産んだなどととんでもない話にされているのですが、下賀茂は私達がお祀りしている玉依姫とは違うと主張されています)、そのお一人が贈)崇神天皇になるのですが、この崇神を本物の神武に仕立てあげたい藤原は無理な主張をしているものと考えられるのです。

 それは置くとしてしても、この地に加茂地名が存在し、加茂神社と春日神社が存在する事には、ヤタガラスと阿蘇系氏族とが安曇族の船で進出している事が見えるのでした。


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境内摂社と思われるものが二つありますが、右の大きな社には上の神々が祀られています。分かり難いのは加茂神社の横の石峯神社です。恐らく大山祗と思われますが、ここでは触れません。

その奥にある境内摂社には、鹿島神社、大神宮、八坂神社といった現在の春日神社の在り様にそぐわなくなった神々が慎重に祀られているようです。

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その舞台裏が少し見えますので触れておこうと思います。

 そもそも、春日神社とは権力を手に入れた藤原氏(阿蘇高森の草部吉見系)が一族の軍神(守神)として、常陸の国まで進出していた鹿島大神=武甕槌=海幸彦=支那ツ彦=風神を回収したものとされていますが(現在鹿島神社には跡宮があります)、実は当時の吉見さんの神格はそれほど高くはなく、スサノウと大山祗の娘の神大市姫=ミヅハノメ(コノハナノサクヤの姉)の間に産まれた支那ツ姫=伊勢の外宮の豊受大神=伏見稲荷=アメノウヅメ(後にニギハヤヒ=山幸彦のお妃となる)とその母神たる神大市姫(ミヅハノメ)こそが本来の春日大神になるのです。

 ただ、熊襲を倒して権力を手にした藤原にとっては、熊襲=大山祗(実はトルコ系匈奴)が疎ましく、結果、自らが表に出る形で成立したのが現在の春日神社と考えられるのです。

 従って、この境内摂社に鹿島大神と八坂神社(スサノウは豊受大神の父神)そして大神宮(天照とトヨとの間を繋ぐ伊勢神宮代行)の豊受大神が粗末にされる事無くヒッソリと祀られているのではないでしょうか?

百嶋由一郎氏の音声CD、神代系譜DVD、手書き資料…などを必要とされる方は09062983254まで連絡を

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2019年06月14日

ビアヘロ 084 令和元年賛美と日本劣等民族凋落への道標 

ビアヘロ 084 令和元年賛美と日本劣等民族凋落への道標 

20190501

太宰府地名研究会 古川 清久


 新元号の発表が行われたのは201941日でした。

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この発表は熊本の平成御代替わり阿蘇山上トレッキングで聴いたのですが、その瞬間、非常に嫌な沈んだ印象を持ちました。

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巷では平成を送り令和を迎える芸人中心の馬鹿騒ぎが行われていますが、少し知恵のある方ならば違和感を持たないはずはないのであって、今後の既に完了した感のある日本劣等民族の行く末と合わせ、暗澹たる雲に閉じ込められた嫌な思いが駆け巡りました。

@  まず、明治〜大正〜昭和〜平成〜令和…という流れは、一つ前の平成の前に昭和の「和」が採用されているにも拘らず、再び令和の「和」が重なっている事が違和感を持つ理由の一つで、同じ文字を重ねないと言われた法則性(所詮はそんなものは存在しないのですが)はどうなったのでしょうか?慣例を重んじる我が国の厳粛さなどと過剰に持ち上げられてきたものも一気に吹き飛んだのでした。

A  もう一つは過去中国の漢籍から選ばれてきた元号に対し我が国の「万葉集」から採用されたなど…と手放しで拍手喝采する注意の無さに対して、唯一日本の未来を託せるはずの真正保守勢力、民族派の中からさえも安直な賛美の声が漏れてくるのですから輪を掛けた馬鹿馬鹿しさに呆れる始末です。

B  さらに加うるもう一つの理由は、令和の「令」の発音の問題です。まず、列島民族はR音(実はL音なのですが)を使いません。それは、尻取り遊びにラジオ、ラッパ、ランプ、ライオン、竜胆(平安期には使用されていたようですが、これも中国の漢方薬紀元の外来語のようです)…と外来語しか出てこない事でも分かるはずで、要は和語にR音(実はL音)は存在しなかったのであって、こんなことさえも万葉学者とかいう振れ込みのただの御用学者が知らないというのも情けない限りで、国学も劣化が極限まで進んでいるようです。元より発音は苦手ですが、歌のアルゼンチン・タンゴをこよなく愛する者としては、日本の和語にR音もL音も存在しなかった…と思う以上、令和が元号である事も、「令」が入る元号が国風を高めるものといった認識も含め全てイカサマであり、国民を甞めきった悪意ある元号制定にしか思えないのです。所詮、令は命令の令でしかなく、命と令は同義語であり同語なのです。一方、元号廃止を叫び、戦後一貫して本質的には米国の手先であり続けた既成左翼勢力、民主勢力…つまり、現在で表現すれば目先の利益のみを追求する親中派も含め、猛獣共が蠢く無法世界に対抗軸を放棄しているとしか言いようがなく、暗雲に閉ざされた亡国への道を突き進んでいるとしか思えないのです。抵抗すべき時に戦わずして和に徹せよ、小さく和して降伏せよとの指示(日米合同委員会)を感じるのは私だけでしょうか?

C  令和の「令」を令息、令嬢の麗しいといった意味で賛美する皮相な向きもあるのですが、副次的な派生語でしかないものを、さも有難い物でもあるが如く拝跪するに至るや辞書でも三番手以降の意味に沿って慰めるなど屈従は極まっているようです。


 私の場合は既成の権力に対する侮蔑と敵意があまりに強すぎて冷静に考えられないのですが、このままでは第二の韓国(ユダヤ金融資本=IMF管理下)に成り下がり、さらにはベトナム、インドネシア・クラスの三流国に引きづり降ろされる事が予測できるだけに、現政権は勿論の事、対抗勢力と称するグローバリスト志向勢力への怒りを抑えられないのです。

 全ては、中曽根国鉄民営化…以来の売国奴小○(それに輪を掛けた恥知らずな竹○)一派による日本の冨の持ち出し売り飛ばし政策(年金の株式運用…)と売国政策、その後の二〜三十年に亘る非正規雇用の一般化、ヤミの外国人労働者の拡大、資本規制解禁による大手企業の大半が外資に支配される亡国政策によって、もはや剥ぎ取る所が無いほどまでにボロボロにさせられているのです。

 とうとう年金が無価値になり始め、もはや、死期を迎える80歳まで働き続けざるを得ない国家に成り下がっているかのようです。私の令和に対する憎しみや敵意は強すぎるため伊藤女史にバトンタッチします。

 この令和問題に関しては、万葉集の専門家でもある伊藤女史がblog「地図を楽しむ・古代史の謎」tizudesiru.exblog.jpで好論を展開されていますので全文をご紹介したいと思います。

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最新稿 「平成」最後の日に「令和」の弥栄を願う

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それにしても、次が「令和」という元号であると発表されたことには驚きました。

「令和」が万葉集・巻五の「梅花歌卅二首幷序」から採用されたと聞いて、更にびっくりしました。

確かに、大宰府の大伴旅人の館で催された正月儀式「梅花の宴」は華やかな宴会で、三十二首の梅を詠んだ歌会です。天平二年正月十三日、無官の者から高官の大弐紀卿までが一同に会して「梅花の歌を詠む」という前代未聞の催し事でした。

遥かに離れた都にもその事は伝わり、噂を聞いて宮中はおどろきました。

それまでの都の正月儀式は一月七日の「白馬節会(あおうまのせちえ)」、十七日頃の「射礼(じゃらい)」などで優雅な歌を詠むなどという正月儀式はなかったのです。

同じ年三月に、聖武天皇は宴を開きました。『天皇松林宮に宴を催す。文章生「曲水の詩」を賦す』とあります。旅人が行ったような優雅な儀式をやりたかったのです。

しかし、前年の長屋王事件の後遺症はまだまだ残っていて、皇后に立った光明子は苦しみ続けていました。宴どころではなかったでしょう。

都では、長屋王事件の後にあらぬ噂が流れ、人々は混乱していました。

それなのに、大宰府では優雅な儀式をしていた…違和感があります。

なぜ、大伴旅人は「梅花の宴」をしたのでしょう。そこが重要です。その旅人の意図を解く鍵は、「梅花の宴」の序文にあるのです。

『初春の令月にして、気淑く風和ぐ』

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令月の「令」は、漢字本来は「おきて・法律」などのように『神の言葉を以って命ずる』という意味だったのです。後に、それが敬称として用いられるようになりました。今日、ご令息・ご令嬢などと使います。同じように「令月」=よい月 となりましょう。
しかし、もう一つの令月「
陰暦二月の別名」を忘れてはなりません。
旅人は正月(初春)の十三日に『令月』を使いました。「正月はよい月」という意味ではなく、「陰暦二月」として旅人は使ったのです。正月に「二月を意味する」のはおかしな話です。
二月長屋王事件は前年の神亀六年の二月に起こりました。
旅人は神亀六年二月に薨去した長屋王を偲んだのです「天平」に改元されたのは半年後の八月でした。神亀から天平(天が反逆者を倒し平らげたの意味)に改元されました。
つまり、天平二年は「天平に改元されて初めての正月』です。
旅人は大宰府で長屋王を偲び続けていたのです、おくびにも出さずに。

梅花の宴
そこにあるのは、前年二月に謀反のかどで死に追い込まれた長屋王への追悼の思いでした。九州の古代王権が行っていた正月儀式を、高市皇子の長子である長屋王の霊魂を鎮めるために再現したのです。そうして、九州に所縁のある長屋王を偲んだと、そうとしか思えません。

そもそも、「梅花歌卅二首」は万葉集・巻五置かれているのです。
巻五の冒頭歌は、旅人の名歌「絶望と怒りの歌」、『大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌一首』からはじまるります。その793番歌、

よのなかは 空しきものと しるときし いよよますます かなしかりけり

この歌の強さ「悲しかりけり」と感情を率直に述べながら、深く「世の中は空しきもの」と述懐する歌、このような歌はこれまでに有りませんでした。その歌の表現の新しさに、編者が感動したかもしれません。それで、冒頭に持って来た・・・
いえいえ、そうではなく、巻五には編者の思いがあふれています。
次に794番歌として、続くのは山上憶良の歌。旅人の妻への挽歌『日本挽歌』なのです。巻五はほとんど、挽歌と雑歌がないまぜ状態ですね。
憶良の「貧窮問答歌」も巻五です。巻五は、冒頭から最後まで重く悲しい歌が連続しています。(巻五の最後は、憶良の「死亡した我が子・古日を恋うる歌」なのですよ)
これで、巻五がどのような意図で編集されたか想像に難くないでしょう。「梅花歌三十二首」は、巻五に掲載されています。それが、重く沈む歌群の中に異彩を放っているのです。

少し長くなりました。
長屋王事件について、少しスライドで補足しました。
旅人については、このブログ「
大伴旅人、水城にて乙女と別れの歌をかわす
に詳しく書いています。読んでみてください。

令和の弥栄を祈らずにはおれません。
大伴旅人も柿本人麻呂も、自分がどんなに苦しい立場に追い込まれても、人生が終わろうとしていても、世を寿ぎ世の弥栄を願う歌を詠みました。それは歌人として、言霊を信じる歌人として、当然のことだったのでしょうか。

敷島の倭の国は言霊のたすくる国ぞ真福(まさきく)在りこそ  (人麻呂)
新しき年の始めのはつはるの きょうふる雪の いやしけよごと (家持)

では、令和の佳き日にお会いしましょう。

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2019年06月15日

593 出羽から陸奥への道 L “亡国の東京電力柏崎刈羽原発正面の見日神社”

593 出羽から陸奥への道 L “亡国の東京電力柏崎刈羽原発正面の見日神社”

20180618

太宰府地名研究会 古川 清久


 これは青森からの帰路、東京電力柏崎刈羽原発付近の国道116号線の左側に見日神社なる奇妙な名前の神社を見た事から徐に車を止め小丘を登り参拝する事にしたものです。

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“石柱は「日」の部分で折れているのです”としましたが、15年ほど前、2004年の中越地震で鳥居

共々倒壊したものが補修されているようです。

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1985年建設の柏崎刈羽もたった20年も経たない2004年に中越地震に遭遇しているのです。

この馬鹿さ加減には呆れますが、このような危険極まりない場所に東電は原発を持ち込んでいるのです。

実は、この日はスキャンダルで辞めた新潟県知事選挙の投票日だったのですが、アメリカ金融資本に占領されたイカサマ国家、嘘つき国家ではどうしようもないのです。

どうせ、さもしい議員や首長に加え国家を食い物にする土建屋のような集かり肖かる薄汚い人間の方が多数派になってしまうからです。もはやどうでも良いとしか言えません。

軟弱地盤の断層帯に事実上最高出力の原発が存在しているのです。中越沖地震でも火災事故を起こしていますが、再び大規模なかつ破滅的な事故が起こり、東日本の裏と表で壊滅するのです。

 従って、広島〜長崎によって軌道修正が図られたように、福島に続く第二の福島が起こってようやく軌道修正が行われるはずで、もう一つの第二の福島が起こらない限りこの米国占領下の被植民国家は転換できないのです。

 早く第二の福島が起こって欲しいものです。そうしてアメリカの手先となって自分だけ良い目に逢ってきた連中共々に死に絶えれば良いだけなのです。

 話が逸れましたが、実は、境内にも何らの謂われも書かれておらず、「新潟県神社誌」など持つはずもありません。

 神社庁の県内神社一覧でも住所以上のデータは出て来ません。

 尚も検索を続けるとようやくまともなブログを発見しました。以下良いとこ取りをさせて頂きます。


     無題.pngというサイトです。


見日神社(けんにちじんじゃ)は,JR(越後線)刈羽駅の南800メートルに鎮座する。

景行天皇(人皇第十二代)の時,東夷を平定して帰国する吉備武彦命が沖を船で通ったが,暴風雨に襲われた。日の神に祈ったところ風雨が止み,また大雀が現れて先導し刈羽の岸に上陸することができた。よって,上陸地の当方にある丘(現社地)に日の神である大日孁尊を祀った。

以上は伝承であり,創立の時期は不明であるが,刈羽の守護神として古くから崇敬を集めている。

明治末に,外山の神明神社と前田の眉見神社を合併した。

現在,大日孁尊のほか,大己貴命稚日女命を合祀している。

社殿の横に石塔や石祠が集められている。

資料には,十二神社(句句廼馳命),熊野神社(伊弉諾命),道祖神社(武甕槌命,経津主命)の石祠が記録されている。刈羽村刈羽の見日神社社殿正面


 ですが、大日孁尊を主神とし、オオナムチと天照を追祀している様にしか見えません。

 百嶋神社考古学では大日孁尊と卑弥呼は同じですが、天照大御神とも同一神なのです。

 ところが、姻戚関係の変更やその時代の要請に応じて神々の呼称が変わるように、大日孁尊→卑弥呼→天照大御神へと呼ばれ方が変わっているのです。

 大日孁尊の意味も孁女(巫女)の事ですが、卑弥呼も国際的に通用する(シャーマン)を意味しています。

そして、それらの歴史を消し去ってもの凄い昔の想像上の神であったとしてしまいたいという要請に応じ、いわば架空の存在に祀り上げられてしまったものが天照大御神なのです。

 従って、その最も古い呼称の大日孁尊が使用されているところには、何らかの古代の業績の痕跡が感じられるのです。

 「新潟県の神社」氏が書かれている事をそのまま受け入れれば、“東夷を平定して帰国する吉備武彦命”(開化天皇の指示下に臣下でしかなかった神武=カムヤマトイワレヒコ僭称贈る崇神(ハツクニシラス…)が開化の指揮下に行なった四道将軍派遣)の帰路大日孁尊を祀ったのが見日神社になるようです。

珍しい記念碑的神社なのです。

無題.png百嶋由一郎極秘神代系譜


 高木大神の伯母(これが分かるのが兵庫県の旧佐用町佐用神社の最奥部に鎮座)と呉の太伯の後裔との間の子が大日孁尊(大日女貴)なのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


日の神に祈ったところ風雨が止み,また大雀が現れて先導し刈羽の岸に上陸することができた。よって,上陸地の当方にある丘(現社地)に日の神である大日孁尊を祀った。

以上は伝承であり,創立の時期は不明であるが,刈羽の守護神として古くから崇敬を集めている。

明治末に,外山の神明神社と前田の眉見神社を合併した。


 この地に残る伝承は四道将軍の時代に東夷を平定して帰国する吉備武彦命の伝承ですので非常に貴重なものであるようです。合祀された外山の神明神社、眉見神社も大己貴命と稚日女命を合祀しているようですが、稚日女命も大日孁尊であり、天照大御神神社として重複している事になるのです。

なお、高木大神の伯母(これが分かるのが兵庫県の旧佐用町佐用神社の最奥部に鎮座)と呉の太伯の後裔との間の子が大日孁尊(大日女貴)なのです。と書きましたが、ひぼろぎ逍遥(跡宮)273 兵庫県佐用町の佐用都比売神社とは何か? で、お腹違いの姉である神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)大日孁尊の母神の事について触れています。

そういった状態だったのですが、彼女から突然電話が入り(電話というのはいつでも突然ですが…)、「高木大神を祀る境内社がありましたよ、それに伯母宮神社という不思議な社がある」と連絡してこられたのでした。前置きが長くなりましたが佐用都比売神社をご紹介しましょう。

それについては今後の課題として、佐用都比賣神社の底流に“高木大神=高皇産霊尊が存在していた”と言う百嶋先生の話はこの境内摂社、若宮神社の存在からある程度推測できそうです。

次に三寶荒神社です。金山彦=加具土命、軻遇突智の流れを汲む一族とされますが、百嶋神代系譜(三寶荒神)には二人ずつの奥(瀛)ツ彦、奥(瀛)ツ姫が書かれています。もしも、佐用都比賣神社の基層に高木大神があるとすると二系統(というより二代に渡る)のどちらかが気になります。

さて、水神社(彌都波能売命=ミツハノメノミコト)は百嶋最終神代系譜の青枠で良いとして、最大の難問が、伯母宮神社(片宮神社、天照皇大神)の意味です。

この神社の境内摂社の祭神には違和感が付き纏います。塩川神社(速佐須良比売命)にしても普通は天照大御神と塩槌翁(大幡主)とするはずですし、仮に速佐須良比売命としても、これは鴨玉依姫で塩槌翁の孫になると思います。また、若宮神社=高木大神というのも奇妙です。さらに佐用姫稲荷神社(豊受大神)というのも、伊勢の外宮を市杵島姫と言いたそうです。明治期の縣社昇格に絡んで祭神が弄られているように見えてなりません。そのため、そのまま素直に推測できないのですが、極めて重要な古社であることに間違いはなく(勿体無いですね)、伯母宮=天照大御神という組合せに古層が反映されているのではないかとの思いが消せません。それは、“神武天皇のお母さんは大幡主の姉の神玉依姫ですが、”天照大御神=卑弥呼の母は多分高木大神の叔母だろう”と言っておられた事から、あくまで推測ですが高木大神の匂いが濃厚な佐用都比賣神社にある伯母宮=天照大御神とは高木大神=高皇産霊尊の妹(叔母)の可能性があるのではないかと思います(極秘系譜を参照のこと)。これも今後の課題ですね。そのうち再度訪問しようと思っています。

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百嶋極秘神代系譜


 一番右端の奥ツ彦は高木大神系統なのですが、ナガスネヒコではないため、もしかしたら百嶋先生も間

違っておられるのかも知れません。この点、当方の理解不足から上下が整合しません。課題です。

佐用神社の 想定)大日女貴こと(天照大御神)母神 大伽耶の姫=高木大神の叔母を祀る伯母宮神社(片宮神社、天照皇大神)に象徴される永遠に続く天照の光と柏崎刈羽原発の光とどちらが有難いかは言わずもがなでしょうが、日本とは本当に実にくだらない国になってしまったようです。防衛用(報復用)の核ミサイル製造のためのプルトニウム生産のための限定的原子炉ならば仕方がないのですが、地震の巣のような場所に造られる大量の原発ほどくだらないものはないのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜


研究目的で百嶋神代系譜、講演録音声データを必要とされる方は09062983254までご連絡下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記