2019年06月06日

589 出羽から陸奥への道 H “青森県弘前市の鬼神社”

589 出羽から陸奥への道 H “青森県弘前市の鬼神社”

20180615

太宰府地名研究会 古川 清久


 これもメンバーの女性から是非行って欲しいと言われた神社ですが、青森での探訪を終え秋田に南下する途上に足を運んだ一社です。何とも凄まじい社名の神社です。

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旧郷社 

御祭神 高照比女神 伊奘那岐大神 大山祇神

青森県弘前市にある。岩木山から北東に直線距離10Kmの鬼沢に鎮座。東へ5Kmに板柳駅がある場所。

参道入口には赤い大鳥居が立ち、東北に多い俵型の注連縄が面白い。

参道を歩き、幾つかの赤い鳥居をくぐると川に出る。そこで左に曲がってUターンすると境内。

境内に入ると、狛犬のある場所に、魚が横になった狛魚が一対。

残念ながら、その由緒は分からないが、これも面白い。社殿の前には、通常の狛犬もある。

創祀年代は不詳。社伝によると、坂上田村麿東征のおり、岩木山山頂奥宮に鎮まる高照姫神の霊験により当地に再建されたお宮。一般には、鬼を祀った神社として、通称、おにがみさま。

資料では、鬼神社と記されているが、鳥居の扁額では、鬼のツノの無い文字になっていた。

当地にあっては、鬼は忌むべき存在ではないという意味か。一説には、旱魃に苦しむ人々のために、鬼が用水路を作ったという。拝殿には、額に入れられた鉄製農具が多く奉納されていた。社宝にも、1000年前の鉄製の鍬形があるらしい。神紋は、神社案内には「まんじ巴」とあったが、境内の鳥居には、まんじ紋が付いていた。境内に入ると、近所の子供たちが遊んでいた。撮影を始めると、男の子は興味深く此方を見つめていたが、女の子はチラチラと様子をうかがっている。社前の池の中央にある弁天社を見て戻ると、子供たちは消えていた。物騒な世の中だから仕方ないけど、少し凹む。

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祭神の 高照比女神 伊奘那岐大神 大山祇神ですが、玄松子氏はこの高照姫命についても書いておられます。いずれにせよ、青森まで大国主系、大山祇系のスクラムで開拓が行われている事が見えます。


別名 高照光媛大神:たかてるひめのおおかみ……

『先代旧事本紀』に、大己貴神と高津姫神の子とある神で、都味歯八重事代主神の妹。事績は不詳。

高照姫命 を祀る神社 (玄松子が参拝した神社のみ)

鬼神社   青森県弘前市鬼沢字菖蒲沢151

長柄神社  奈良県御所市大字名柄字宮271

水無神社  岐阜県高山市一之宮町石原5323


『古事記』では、大国主神と多紀理毘売命の娘で、阿遅金且高日子根神(アヂスキタカヒコネ)の妹とされますが、多紀理毘売命とは宗像三女神の豊玉姫の事で、青森の開拓にも大国主命(百嶋神社考古学では大国主命は大山祇命の子としますのでそもそも重複していますが)の後裔と大山祇系氏族が入っている事が分かるのです。

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『先代旧事本紀』地神本紀では、大巳貴神(大国主)と田心姫命の娘で、味金且高彦根神の同母妹。

事代主命

父:大国主命 母:神屋楯比売 (高津姫)子供:蹈鞴五十鈴姫(1神武天皇后)・五十鈴依姫(2綏靖天皇后)・天日方奇日方別名:都味歯八重事代主。 恵比寿さん  同母兄弟:高照姫三輪氏考参照 賀茂族の中心的神。出雲大社攝壮 大六持御子神社祭神 事代主神 高比売神 御年神であり、事代主神、高比売神は大國主大神の御子神で國土経営に大神を輔けて力を尽くした。後世大年神の御子御年神を合祀して 三歳社という。高比売と御歳神は、別神。                古代史俯瞰 by tokyoblog

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏が残された音声CD,手書き資料DVD,神代系譜を必要とする方は09062983254までご連絡を!

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2019年06月08日

590 出羽から陸奥への道 I “青森県五戸町の高良神社”

590 出羽から陸奥への道 I “青森県五戸町の高良神社”

20180615

太宰府地名研究会 古川 清久


 今回の東北探訪の目的の一つは五戸町の高良神社を確認する事でした。


高良神社

高良神社の創成は大同年間となっており、祀神は軍神竹内宿禰です。前身は毘沙門様であったといわれ、現在は毘沙門様との合祀になっております。宝暦13年(1763年)に第34代藩主・南部利雄が奉納した、五戸地方最古といわれるお御輿には「奉納御輿、崇高三四代南部大膳大夫利雄公」「武運長久」と記され、南部候にかかる由緒ある自慢の御輿です。

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倉石郵便局前に交差する旧道沿いに鎮座する神社です。

ご覧の通りの丘陵地の住宅地といった場所に鎮座する神社ですが、宝暦13年(1763)に第34代藩主の南部利雄が奉納した神社である事が分かりそれなりに納得したところです。

 南部氏は、山梨県の身延を拠点として青森の東部に進出しており、その際に持ち込んだものと理解すれば謎が解けた気がしています。

 ただ、山梨県(山梨市には窪八幡神社末社高良神社ありますが)でも身延地方は今年の五月に入っていますが、高良神社は発見できていない事からこの神社の元宮がどこであったのかは今後調べる必要があるでしょう。

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参拝殿には蔦紋の幔幕が掛けられていました。

 南部氏は向かい鶴のはずですので、これは宮司家の紋章なのでしょうか?

 高良神社では通常蔦紋は見ませんので多少奇妙な印象を受けます。

 九州島以外では顕著なのですが、高良神社の祭神を武内宿祢とする傾向があります。

 これは、江戸期に武内宿祢とするか高良玉垂命とするかの争いが起こり、結局、久留米の有馬の殿様の裁定によって武内宿祢とされてしまった事が全国に影響を与えているものなのですが、これはとんでもない誤りであって、高良玉垂命こそ九州王朝の天皇(藤原によって第9代とされた開化天皇)であり、仲哀死後の神功皇后との間に5人の皇子をもうけているのです。

 その長子こそ有名な仁徳天皇になるのですが、それも藤原によって応神の子などととんでもない系譜が造られているのです。

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いずれも百嶋由一郎神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏が残された音声CD,手書き資料DVD,神代系譜を必要とする方は09062983254までご連絡を!

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2019年06月11日

591 出羽から陸奥への道 J “兵庫県香美町の黒野神社”

591 出羽から陸奥への道 J “兵庫県香美町の黒野神社”

20180615

太宰府地名研究会 古川 清久


 引き続き出羽、陸奥へ探訪記を書くことにしますが、この神社は、いつも休憩に使わせて頂いている兵庫県でも香美町の小代温泉(オジロン)の手前、村岡にある堂々たる神社で、今回、初めて参拝させて頂いたものです。

 国道9号線は兵庫県養父市から鳥取市へと下りますが、豊岡市から直接この村岡区で9号線にアクセスする国道482号の合流地点付近に鎮座するのがこの黒野神社です。

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黒野神社 カーナビ検索 兵庫県美方郡香美町村岡区村岡723-2 0796-94-0432


「鳥取県神社誌」は手に入れていますが「兵庫県神社誌」は手持ちが無い事から、ここでも敬愛する玄松子氏を引用させて頂きます。


式内社 但馬國七美郡 黒野神社

合祀  式内社 但馬國七美郡 志都美神社二座 旧県社

御祭神 黒野坐大神 (天津彦火能邇邇芸命)

配祀  志都美上大神 (天御中主命) 志都美下大神 (木花咲耶姫命)

兵庫県の香美町村岡区にある。山陰本線養父駅の北西32Kmほどの村岡に鎮座。

村岡は、江戸時代に山名氏が入部するまで黒野と称されていたらしい。9号線を北西に進み、482号線へ入って200mほどの場所。482号線に面して境内入口がある。地図を見ると、山陰本線江原駅から神鍋高原を越えて482号線を進んでも社前に到着するようだ。

鳥居の右脇に「縣社黒野神社」と刻まれた社号標が立ち、鳥居扁額には、「式内 縣社」とあり黒野神社の左右に志都美下神社、志都美上神社と刻まれている。

鳥居をくぐり参道を進む、階段を上るともう一つの鳥居。その奥に、入母屋造の堂々とした拝殿がある。

境内の左手に社務所があり、右手には神庫。拝殿の左右に、上へのぼる階段があり、入母屋造の本殿。

創祀年代は不詳。式内社・黒野神社に比定されている神社。一説には、橘諸兄公ゆかりの従三位参議黒野経秀卿が但馬国に配流された時に創祀したとも伝えられ、大同二年(807)、境内背後の伊津岐山山頂に鎮座し、永享八年(1436)麓に遷座したとも伝えられている。伊津岐山には、式内社・志都美神社二座の社殿も鎮座していたが永享八年(1436)、当社の遷座と同時に合祀したという。

よって、伊津岐三社大明神とも呼ばれていたというが、寛永十九年(1642)に当地に入部した山名氏が伊津岐大明神と改称したとも伝えられている。

以後は、城中鎮護の氏神として、歴代領主の崇敬を受け建て替えや多くの寄進を受けた記録が残っている。

黒野神社も志都美神社も七美郡の式内社だが、黒野神社が黒野村(現・村岡)の守護神であるのに対し、合祀されている志都美神社は、七美神社とも記されており七美郡全体の守護神だと考えられている。

ただし、黒野の地に遷座した後は黒野神社と称され黒野神が主祭神として扱われるようになったらしい。

現在、黒野神は天津彦火能邇邇芸命。志都美上神は天御中主命、志都美下神は木花咲耶姫命となっている。ちなみに、七美郡と二方郡が合併したのが、現在の美方郡。明治六年郷社に列し、大正十二年県社に昇格した。

境内社がいくつか祀られている。参道脇に金刀比羅宮。本殿の右手には皇大神社。本殿の左手に、天満宮、西宮神社・愛宕神社・稲荷神社。山神社・御滝社などの遥拝所などもある。境内に神馬像があり、三つ巴の神紋が付けられている。

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右は境内摂社 金毘羅宮

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参拝殿

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西宮は普通は恵比須神社で、愛宕は金山彦(多分主神です)、稲荷は伊勢の外宮様こと豊受大神ですね

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今回は特別なイメージが湧いてきません。何度も通過している村岡地区ですが、正直言ってこの土地がどのような氏族(民族)が入っているかが掴めていないからですが、神社の概要は玄松子氏が完璧なリポートを降ろして下さっています。ただ、主祭神がニニギであるというのは奇妙に思えます。

 多分、明治期の縣社昇格のためにニニギが選ばれたのであって本来は別の祭祀が存在していた様に思います。天御中主命と木花咲耶姫命とのバランスが何とも悪いのです。

 なんでだ?コノハナノサクヤはニニギのお妃ではないかと言われる方は多いでしょうが、百嶋神社考古学ではニニギとコノハナノサクヤとは短期間で、後は前玉姫と名を変え北関東(埼玉県)に移動している事を知っているからであり、さらに言えば、ニニギを主神として祀る神社は非常に少ない事も経験的に分っているからです。

直感だけで申し上げれば、元々この神社は玄松子氏が指摘されている“橘諸兄公ゆかりの従三位参議黒野経秀卿が但馬国に配流された時に創祀したとも伝えられ、大同二年(807)、境内背後の伊津岐山山頂に鎮座し、永享八年(1436)麓に遷座したとも伝えられている。”ように、橘氏の支配地であり、その証拠にヤタガラス(豊玉彦)を象徴する矢田川が流れ出しているのです。

このように、橘氏のエリアにニニギが主神として祀られるというのはレアな上に異常な印象を受けてしまいます。そもそも黒が付く名は金山彦系という印象もあります。

もう一つ気になる事があります、この但馬地方は百嶋先生が言われた通り九州の地名が数多く拾える事から、九州王朝が(恐らく8世紀初頭から平安遷都までの間)橘一族のエリアに避退しているのではないのかとしてきました(ひぼろぎ逍遥531533「但馬」上中下)。

無題.png特に、ここには村岡と小城と言う地名が拾えることから、どうみても佐賀県小城市の人々が地名を持ち込んでいるとしか思えないのです。そうです。祇園さんで知られる村岡屋の小城羊羹ですね…。

この地の村岡区小城にも八坂神社がありますね…。私は、初めてこの地を通過し村岡という地名に遭遇した時点で気づきましたが、この佐賀県小城市もスサノウ系、金山彦系祭祀が濃いエリアなのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記