2019年06月01日

586 出羽から陸奥への道 E “京丹後市峰山町金毘羅神社の狛猫”

586 出羽から陸奥への道 E “京丹後市峰山町金毘羅神社の狛猫”

20180614

太宰府地名研究会 古川 清久


 青森からの帰路、熊本の在住メンバーから福島神社(乙姫神社)を調べてほしいとの連絡が入り、少し軌道を曲げて網野町に廻りました。

 4月に伊藤女史一行と日本海最大の190mの前方後円墳を確認に廻った付近です。

 この傍に浦島太郎の住居伝承地があり浦野嶋子神社があり乙姫神社があるのですが、その話は後に回すとして、もう一つ要望のあった金毘羅宮に足を延ばしたのでした。

 京丹後市でも峰山町は京丹後市の中心部から海への出口である竹野と網野の分岐点のような場所で

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金毘羅宮という一般的にはかなり知られた神社ですが、元は違っていたのではないかと思ってしまいます。

 まず、大字「泉」という地名からも、猿田彦を思わせるのですが、この神社の祭神は

【 概 要 】−金刀比羅神社は文化8年に京極高備が金毘羅神社の本社の分霊を勧請して創建した神社です。峰山藩主京極家が篤く信仰し、社領の寄進や社殿の造営が行われました。神門(神社山門)は楼門造りの壮麗な建物で、秋は紅葉の名所として知られています。又、境内には全国的にも珍しい狛猫が建立されています。

【 場 所 】−京都府京丹後市峰山町泉

【 構 造 】−入母屋、銅板葺、三間一戸、八脚楼門

【 備 考 】−金刀比羅神社を創建した京極高備は峰山藩6代藩主京極高久の長男として生れ、天明8年(1788)に高久が幕府の若年寄に就任すると領内の行政を取り仕切るようになり、文化5年(1808)に高久が死去すると7代藩主となっています。文化9年(1812)には幕府の若年寄に就任し検地や寺社統治に尽力しています。

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この神社は藩政時代のものであって、真顔で議論するほどのものではないのですが、この神社の手入れの行き届いた美しさには感銘をさえ感じます。

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金毘羅神社は京極高備によってもたらされたものかも知れません。

 しかし、参道は二つあります。

この左側の参道こそ本物の元々の祭祀であり、「泉」という地名に対応する本来の祭祀だったように思います。

そこに、あるのは、稲荷であり猿田彦でした。

猿田彦と並殿する木島神社は、京都の太秦と同様に秦酒公が、天皇にたくさんの絹をうず高く積んで献上したとされており、蚕養神社とされています。養蚕、織物、染色の守護神として今も崇められています。

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稲荷神社(実は猿田彦のお妃である天鈿女命アメノウヅメを祀る)

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猿田彦が大幡主系(秦氏)の人であることがここでも分かりますね 狛犬ではなく狛猫の意味は不明

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八坂神社(スサノウ)と並殿されておられる方は見落としました

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金毘羅様ですが百嶋神社考古学では大山咋とします

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金毘羅神社の下には秋葉様(金山彦)が祀られていました


これら、金山彦、八坂神社(祇園神社)=スサノウ、猿田彦+天鈿女命(実は伊勢の外宮様)が、本来、峰山の人々が祀って来た本来の神々のはずなのです。

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狗は熊襲を意味しますので、金山彦系は熊襲を好まないため狛犬ではなく狛猫とされているのかも


一般的には大国主とか大物主とされますが百嶋神社考古学では大山咋神と考えます。周辺の神々はご自分でお考えください なお 金毘羅の意味はシルクロードのクンビーラ山が語源とします。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)百嶋先生は金毘羅は草部吉見と市杵島姫の子大山咋神とします

百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書き資料を必要とする方は09062983254までご連絡を!


象頭山松尾寺の縁起によれば、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅(宮比羅、クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の由来との伝承から、これが象頭山金毘羅大権現になったとされる。象頭山金毘羅大権現は、不動明王を本地仏とした。クンビーラ(マカラ)は元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。クンビーラ(マカラ)はガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもあることから、金毘羅権現は海上交通の守り神として信仰されてきた。特に舟乗りから信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上で金毘羅宮、金毘羅権現社が全国各地に建てられ、金毘羅権現は祀られていた。

クンビーラはシルクロードのクンビーラ山から…    ウィキペディア(20180614 2344による

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2019年06月02日

587 出羽から陸奥への道 F “酒田平野の縣社大物忌神社(酒田市)”

587 出羽から陸奥への道 F “酒田平野の縣社大物忌神社(酒田市)”

20180615

太宰府地名研究会 古川 清久


 新潟を抜け山形に入りましたが、朝からの上天気で雲一つ浮かんでいません。

 眼前には鳥海山が美しいシルエットを送ってくれています。

 酒田で見るべき神社と言えば大物忌神社となるでしょう。

通過したのは63日だったのですが、今の時期、どの町々でも金太郎飴のような安物イベントが行われており、落ち着いた佇みの酒田の町を見物する気など起こらず、いち早く大物忌神社を目指しました。

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山形県神社庁の資料でも御祭神は 稲倉魂命とされています。

稲倉魂命は実は伊勢の外宮の豊受大神であり、


倉稲魂命 うかのみたまのみこと

記・紀にみえる神。稲の精霊が神格化されたもので,五穀,食物をつかさどる。「日本書紀」では伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉(いざなみの)尊の子。「古事記」では須佐之男命と神大市比売(かみおおいちひめ)の子で,宇迦之御魂神とかく。

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

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神紋は左二つ巴紋であり 印象としては崇神天皇を意味するもののようです


 庄内藩は徳川の酒井が入っています。徳川でも松平が新田義貞の後裔であるとか、徳川の本多が賀茂神社の宮司家の一族であったとか言われる中、この神紋に対応するのは本多であって酒井(酒井は剣片喰)ではないため今のところ理解が出来ません。

 この神社の本質が掴めないのですが、デジタル版 日本人名大辞典が主張するように、“「古事記」では須佐之男命と神大市比売(かみおおいちひめ)の子で,宇迦之御魂神とかく。”が正しければ、御祭神は伊勢の外宮の豊受大神になるのですが、敬愛する玄松子氏によっても、“須佐之男命と大山津見神の娘・神大市比売命との間の御子として大年神とともに生れた稲の神。”とあり、この神社の御祭神は豊受大神で良いのでしょう。そうであれば、大物忌神社の「忌」とは、忌部氏の「忌」であり、ただ、豊受大神が大物忌とは受け入れ難いかったため少し時間を要したのでした。

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ともあれ、忌部のエリアが酒田まで拡がっているとは、やはりフィールド・ワークは無視できません。
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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

百嶋由一郎氏が残された音声CD,手書き資料DVD,神代系譜を必要とする方は09062983254までご連絡を!

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2019年06月04日

588 出羽から陸奥への道 G “酒田平野の大物忌神社(遊佐町)”

588 出羽から陸奥への道 G “酒田平野の大物忌神社(遊佐町)”

20180615

太宰府地名研究会 古川 清久


基本的には前ブログで取り上げた酒田市本楯字新田目85の縣社大物忌神社 と同様の神社なのでしょうが。

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式内社 出羽國飽海郡 大物忌神社 名神大 出羽國一宮 旧國幣中社

御祭神 大物忌神

山形県遊佐町にある。遊佐駅から直線で南東に3Km、鳥海山の南西麓、蕨岡に鎮座し、当社は、蕨岡口之宮と称されている。

鳥海山の西麓、吹浦にも、吹浦口之宮が鎮座しており、本殿は、鳥海山上(2236m)にある。

社伝によると、景行天皇の御代に出現し、欽明天皇二十五年、鳥海山上に鎮座した。

他説では、欽明天皇七年の鎮座とする。

祭神・大物忌神については、倉稲魂命・豊受大神・大忌神・広瀬神などと同神とする考えがある。

鳥海山は古代日本の北の境界に位置し、異狄に対して神力を放って国家を守ると考えられており、更に、穢れを清める神でもあるという。

社殿内正面には「鳥海山大物忌神社」の額が掛かり、右手には、「鳥海山大権現」の額。

当社は、鳥海修験としての歴史が長く、往時には三十三坊を有していた。

『和漢三才図会』によると、鳥海山は慈覚大師が始めて登山したとあり、麓の社は鳥海弥三郎の霊祠とする。鳥海弥三郎は、鎌倉権五郎景政と戦い、右目に矢を受けながら、返しの矢で敵を射殺した。

眼にささった矢を抜き、近くの川で眼を洗ったといい、そのため、その川の鰍は一眼であるという伝説がある。いくつかの境内社がある。

赤い鳥居の境内社は、社殿横の案内板には「荘照居成神社」と書かれていたが扁額には「摂社 風神社 末社 稲荷神社」となっていた。その境内社の横にも祠が並んでいたが、その中に荘照居成神社があるのだろうか。

敬愛する「玄松子」による

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鳥海山大物忌神社 由緒(略記)には酒田市本楯字新田目85の縣社大物忌神社と異なり、大物忌神をはっきりと豊受大神(伊勢の外宮の主神)と書いている以上に月山神=(月読命)が併祀されているのです。

 これは、遊佐町教育委員会の解説盤にもはっきり打ち出されており、どちらかと言えば、月山が月読命(実は大山祗命)系の修験である事までが垣間見えたのでした。

 つまり、大物忌神社の本質とは豊受大神を表に出した月読命を祀る神社であり、百嶋神社考古学が熊襲=トルコ系匈奴と考える大山祗命を本体とする神社である事までが見えたのでした。

 では、百嶋由一郎最終神代系譜(部分)をご覧ください、表に出された稲倉魂命とどう繋がるかがお分かり頂けるのではないでしょうか?

 大山祗命が博多の櫛田神社の大幡主の妹である埴安姫をお妃として産まれた神太市姫=罔象女神がこの

神社の主神とされる稲倉魂命の母神にあたるため月読命(実は大山祗命)が独立した神殿に祀られているのです。

付け加えれば、遊佐町教委が置いた境内案内図において、何故、神殿の左隣に白山姫神社が置かれているかも、白山姫を天御中主命とする百嶋神社考古学では難なく謎解きができるのです。

 何故ならば、天御中主命と現在出雲大社の客人(マロウド)の間に祀られる可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコチ)の間に産まれたのが月読命(実は大山祗命)だからなのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

百嶋由一郎氏が残された音声CD,手書き資料DVD,神代系譜を必要とする方は09062983254までご連絡を!


 今回、天御中主命が白山姫であり、月山の神が月読命=(実は大山祗命)であることがより鮮明になった思いがしています。

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