2019年05月27日

584 出羽から陸奥への道 C “喜多方市の山三郷総鎮守 宗像神社初見”

584 出羽から陸奥への道 C “喜多方市の山三郷総鎮守 宗像神社初見”

20180613

太宰府地名研究会 古川 清久


青森での探訪を終え秋田〜山形〜福島へと東北地方の内陸部を南下し、喜多方辺りから〜新潟へと進む途上宗像神社を通過しました。

 早朝の通過でしたし、特別喜多方ラーメンを食べようとも考えなかったのですが、福島から南下したままだと北関東に入ってしまう事から、色々考えたのですが、結局、阿賀野川を下り新潟市郊外に出てそのまま賀茂市、三条市を通り抜け抜け日本海沿いの柏崎刈羽方面に出ようと考えたのでした。

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その道すがら図らずも宗像神社に遭遇した訳です。

 本州でも時おり宗像系の神社を見掛ける事はあるのですが、まさかこれほど遠いところまで広がりを見せているとは思いもよりませんでした。

 こういうところがフィールド・ワークの効果であり賜物でもあります。

 実は宗像神社が福島県から千葉県(白井市に2社)に掛けて散見されます。

旧山三郷総鎮守 宗像神社由緒には、


源頼義・義家親子が奥州征伐の時(前九年の役)家臣宗像某が、筑前の国宗像郡宗像神社の御分霊を奉じ軍に従い来りて、当社の西方約2kmの堂峰山に勧進された。


とあり、平安末期の言わば国策に乗った神社の様に見えるのです。

前九年、後三年の役の戦役=出羽、陸奥への攻略拠点、少なくとも宗教的拠点こそこの喜多方の宗像神社だった事が見えるのです。

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宗像神社由緒です

旧山三郷総鎮守 宗像神社由緒
御祭神 田心姫神 湍津姫神 市杵島姫神(後、弁財天に付会し、また市神として信仰)
御鎮座の由来・沿革
御祭神三柱の神々は、皇祖天照大神の御子神であらせられ、天孫降臨にさきだち天照大神の御神勅を奉じて筑前の国宗像の地にお鎮りになられました。九州と朝鮮半島を結ぶ玄界灘の真中にある沖ノ島に沖津宮(田心姫神)、海岸近くの大島に中津宮(湍津姫神)、そして陸地の田島に辺津宮(市杵島姫神)があり、この三宮を総称して宗像大社(旧官幣大社)と申し上げ、当神社の御本社です。
宗像三柱大神は、古事記・日本書紀等の古典によると、国つくりの前に天照大神によって「歴代の天皇を助け奉り、歴代の天皇からお祭りをけられよ」との御神勅を下された御神で、またの御名を「道主貴」とも申し上げ、国家と皇室を守護し奉り、国民のあらゆる道をお導きになる尊い大神であります。

(「宗像大社由緒記」より略記
伝えに曰く、当社は天喜年中(1053〜1058)源頼義・義家親子が奥州征伐の時(前九年の役)家臣宗像某が、筑前の国宗像郡宗像神社の御分霊を奉じ軍に従い来りて、当社の西方約2kmの堂峰山に勧進された。以来神威盛大にして繁栄した神社なりしが、天正年中(1573〜1592)伊達正宗の軍会津を攻める時の災禍に遭い、神殿及び社殿等ことごとく焼失する。その後郷俗類廃し祭奠の時を怠り、神祠荒れ果て60余年を経過。寛永年中(1624〜1644)当時、木曽組の郷頭斎藤孫右衛門清長(官命により舟岡邑から移住し小布瀬郷の長となる)霊夢に感じて、明暦元年(1655)資材を投じ良工をして神像を刻し、神殿・社殿を造営、堂峰山より現在の地に遷宮し、7月24日初めて祭祀の礼を執り行った。
寛文7年(1667)会津藩岨保科正之公の「神社改め」の祭、領内の神社を巡検し来った巡検使は、当社に及び、天然の神域なりと感嘆し、これが契機となって藩が援助して神域を整備した。延宝7年(1679)には郷頭斎藤茂左衛門清満の代に、藩主から修復料を賜り拝殿の普請を行なう。以来山三郷総鎮守と尊称し、代代の藩主社殿の修復料を給付、春秋の祭祀を行なうよう勧めた。
明治4年(1871)郷社に列せられる。その後神社の廃合整理により指定外村社に区分されたが、先年の神社制度改革によって社格を廃しして現在に至る。

(新編会津風土記・耶麻郡誌・蓮沼由道著「宗像神社記」より略記)
造営の沿革
安永8年(1779)神社の大普請成就。明治40年(1907)7月鳥居を石造に改築。昭和28年(1953)7月社殿の大改築(屋根替等)を行う。昭和30年(1955)御遷座300年を記念し、裏参道石段の新設整備を計り、昭和60年(1985)には大鳥居を改築する。
境内末社 諏訪神社 御祭神 建御名方命 

御神徳 辰・巳歳生まれの守り神 縁結び 安産 厄災消除 学徳成就 健康長寿 治山治水 所願成就
木曽のイチョウ(弁天様の大イチョウ)
樹齢400年余 樹高28m 胸高周囲6m福島県緑の文化財登録第64号 昭和58年2月17日指定
                                       宗像神社社務所

地元の方のブログと思われる「ビーズうさぎのハナちゃんです!!」に由緒をリライトされたものがありましたので有難く使わせて頂きました(深謝)。

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さて、立派な由緒書きでしたが表面的な祭祀を真に受ける事は当方の定石ではありません。

 この境内にはもう一つの祭祀が残されていました。

 これが、付近からの持ち込みだったとしても、この地に宗像祭祀が持ち込まれる以前には諏訪神社の祭祀が存在していた可能性があります。

 土地勘がない者として軽々には言えませんが、武家には諏訪の神の信奉者が数多くいます。

 それは、彼らの出自がそうさせるのですが、宗像の神が持ち込まれた後ではないと見るべきで、やはり、源家が進出する以前の奉斎の可能性がありそうなのです。

 ここでは憶測は止めて百嶋神社考古学の立場からの諏訪の神の出自だけを明らかにしておきましょう。

 無論、大国主命の子でありません、実は建御名方は阿蘇氏と長脛彦の間の末子なのです。

宗像氏で無い事だけは明らかですね。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏が残された神代系譜、音声CD、手書き資料を必要とする方は09062983254までご連絡を!

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記