2019年05月22日

580 神社についてのお尋ねにお答えします

580 神社についてのお尋ねにお答えします

20180525

太宰府地名研究会 古川 清久


 最近、神社そのものについての問い合わせが増えています。関係する自らの一族が何者なのか、当家の家紋との関係は、神社に祀られている中でもある神様の正体が分からないのですが…と言ったものです。

 勿論、普通は神社の神官なり神社庁なりにお尋ねになられるべきなのでしょうし、昔は校長先生なりお寺の和尚さんにでも尋ねておられたのでしょうが、一般的には地元の郷土史会なり研究者とか教育委員会でも、神様に対する基礎的な理解が失われ暖簾に腕押しと言った状態になっていることから、このような話が舞い込むことになっているのだと思うのです。

 それは、戦後のマッカーサーによる占領政策によってと言うよりも、新たな支配者に対して靡き尾を振る傾向が強まり、戦前の国家神道の封殺にとどまらず、自主規制(実際にはこちらが大きいのでしょうが)は元より、古代史、郷土史研究者の間でさえ、神社を真面目に取り上げる方が激減しており、神社や祭神に対する基礎的知識が失っているようなのです。

 一方、激変と言っても良いような社会の変化によって、“自らとは何なのか?”“自らの一族とは何なのか”“自分はどこから来てどこに行こうとしているのか”…と何らかの答えを得ようと神社を彷徨い歩く神社探訪者は増えているような印象をもっています。

 こうした中、現在、東北から四国に至るまで多少の差はあるものの、百嶋神社考古学の影響を受けた古代史、神社に関する研究者、ブロガーが集まって来られました。

 また、この2530のブロガー以外にもブログは書かないまでも、家族を連れテントを張って多くの神社を丹念に調べておられる方、四六時中ネット・サーフィンを続けながら神社を洗っておられる方、古文書を読みこなし神社の謎を解いておられる方…を内部に囲い込んでいるため、私がお問い合わせに対してお答えできないとしても、このネット・ワークによってお答えできる可能性があるのです。

 我々も今後何年活動が続けられるかは分かりませんが、後進も養成を行っていますし、あと十年ぐらいは力を着けながら神社研究を続けられるものと考えています。

 このため、「神社について分からない事にお答えします」と横柄な事を書きましたが、グループ全体として対応できるのではないかと思うと同時に、問い合わせによって得られた新たな研究テーマの提供は新たな謎の解明や新たな問題の提起に繋がるものと考えているのです。

 このため、私自身がお答えできるという意味ではなく、グループとしてはこのような要請に対してお答えできるのではないかと思うのです。

 もしも、神社に関して、どうしても分からない、誰に聴いても要領を得ない、いくらネットで調べても分からない…といった場合、お問い合わせに対してお答えのお手伝いが出来るのではないかと考えますので、09062983254 までご連絡頂ければ対応したいと考えています。

 経費についてご心配される方も多いと思いますが、現地に行くとなれば別ですが、電話でのご照会程度の事であれば、研究会に参加して頂ければ(年会費10002000円で神代系譜のDVD版をお送りします)。

 お金が無い方には無料で対応いたしますので、ご心配は必要ありません。

 また、一年の定期会員になって頂ければ、24時間源泉掛け流しの温泉付きの研修所(日田市天ケ瀬温泉)にも一泊できます。

その中でご相談にお答えできるでしょう。


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本当にようやくですが、青森〜東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県6件、福岡県11件、熊本県1件 合計28件のグループが形成されました。宮崎も準備中です。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いています。

今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。

全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。
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2019年05月24日

581 出羽から陸奥への道 @ “往復4500キロの大遠征”

581 出羽から陸奥への道 @ “往復4500キロの大遠征”

20180609

太宰府地名研究会 古川 清久


52728日に掛けての薩摩川内(道真は薩摩の藤川へ落ち延びた)への泊まり込みトレッキングを終えたのですが、予定していた31日の熊本のトレッキングが中止になった事から、実質三週間の余裕が出来ました。

三週間の時間的余裕があれば東北地方への遠征が可能になります。

東北には梅雨がありませんので、五月晴れが続いているようなもので、懸案だった秋田県男鹿市の真山神社と青森県五戸町の高良神社探訪…へと足を延ばす事にしました。

最低でも片道2000キロ近い遠征になることから、いくら燃費の良いホンダ・フィット・シャトルと言えども、往復160ℓ近い燃料消費(20,000円)となる上に、正味100時間の運転に耐えなければなりません。

予定では15日間を考えており、毎日8時間程度の運転が必要となります。

実際には道を間違えたり、急に思い立ったコースに入ったりとフィールド・ワークには色々な事が起こります。

勿論、人身事故や車の故障や私自身の体調の急変と言った不慮のトラブルさえ考える必要があり、実際には4500キロ近い行程になるでしょう。

思えば地球の半径が6000キロである事を考えれば、かなりの大遠征に成る事は間違いありません。

全て車中泊の予定ですから、燃料代と食費だけの勘定になるのですが、一般の方々の様に面白くもない上に危険だけが覆い被さる上に法外な料金をふんだくられる高速道路など利用するはずもなく(高速を使えば純粋な燃料代の五倍程度のつまり十万円近い出費になるでしょう)、そのうち、高速道路など誰も見向きもしなくなるでしょう。

豊かな旅とはその土地 土地の風物を楽しむ事であり、高速の「旅」など本来の意味での旅ではないのです。

理想は江戸期の旅であり、「東海道中膝栗毛」や「奥の細道」や古川古松軒(フルカワコショウケン)や頼山陽の世界になるでしょう。

ましてや、閉鎖された空間でトンネルと橋だけを見せられる航空機から新幹線やリニヤに至ってはお笑い草でしかないのです。

さて、4月の近江、5月の糸魚川〜山梨の調査は順調に行きましたが、今回はそれ以上の大遠征となるため極度の緊張に耐える精神力が必要となります。

暫く前、キリストの墓として知られた青森県新郷村の野田温泉の休憩室でブログを書き始めたのですが、初めての十和田湖、奥入瀬渓谷、戸来岳、五戸町の高良神社と好天に恵まれ順調に推移しました。

「日本中央碑」(十和田市)はあいにく休館日でパスしましたが、十三湊の安倍安東の拠点を実感する事ができ感慨もひとしおです。ついでに弘前市の鬼神社…と廻ったのですがポット出の新参者においそれと理解できるはずもなく、山形の出羽三山を見てようやく南に下る決心が着きました。

全体として好天に恵まれ、有難い限りでした。

朝は外気温が12℃まで下がりますが、日中は30℃近くまで上がり始めましたので、涼しい時間帯にしっかり睡眠を取らなければなりません。

しかし、百嶋由一郎氏が辿った神社を粗方廻る事が出来ましたので、アウトラインの把握はできるような気がしてきました。

今回の移動中にも、家族でテントを張って神社調査を行っておられる女性メンバーから何社かの代行調査の依頼を貰いました。

まずは、新潟県の手前、富山県朝日町の山崎神社をご紹介したいと思っていますが、地名や民俗学や古代史に関わる問題にも踏み込むことになるため、ひぼろぎ逍遥では地名や民俗学や古代史を、ひぼろぎ逍遥(跡宮)では神社を扱いタイトルとしての通し番号を共通とすることにします。

529日の夕方に出発した大遠征も、ようやく但馬の小代(オジロ)にまで辿り着き(残り6700キロ程度)、温泉に浸り畳の部屋の休憩室で休養しながら写真の整理を終え、記憶が鮮明な内にブログを書くことにしました。

最近、京丹後を通過する事が増えてきました。

但馬でも鳥取市から海岸沿いに香美町を経由して豊岡市に抜けるコースと、9号線で鳥取市から養父市を通過する場合が増えており、考えれば、四ケ月続けてこの小代温泉に浸っているようです。

ここは氷山(ヒョウノセン)とかハチ高原(ハチはすり鉢の「鉢」の意味です)といった明治期に開発されたスキー場にも近く、小代にも立派なスキー場があるのですが、衰えたりとは言え復活し始めたスキー・ブームに乗り遅れまいとあの手この手の振興策が行われているようです。

ただ、高度経済成長期に一気にブームとなったスキーも、バブル崩壊から売国奴小泉竹中改革のせいで国民の所得が半減し、大手企業がほとんど外資系ユダ金のものとなり(買いたたく為に経済成長が抑えられた日銀白川出てこい!)、非正規雇用の拡大、生産拠点の海外移転、切り捨てによる労働法の無視、競争激化…の中、特にまともな所得が得られない若者たちは、恋愛、結婚、子育て、次世代の再生産を諦め、結果、国民経済が縮小する中、三十年間の長期低迷から未だに浮揚できずに明らかな低落への道をひた走っているのです。このためスキーはおろか車からさえ遠ざかり、頼みの綱は韓国人や中国人と言った品性の低い連中で、国民所得の下った日本は昔の後進国並みの格安の旅ができる格好の観光地として扱われ、それを奨励しているのが行政権力と言うのですから情けない限りです。安倍は国慶節に日本観光を宣伝。

スキー場の目を覆うばかりの陰りから話が脱線しましたが、この小代は山も川も素晴らしく、何度も訪れたくなる隠れた温泉地です。

往復4,500キロにもなる大遠征のため、まだ、何から書き始めるか考えがまとまりません。

ここではウォーミング・アップを兼ねてこの小代温泉をご紹介する事にします。

最初から息抜き(閑話休題=本当の意味は違うのですが…)では先が思いやられますが、まだ、6700キロ以上ある帰路も残るため興奮が収まっておらず、直ぐには神社のリポートには入れない気分なのです。

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伊勢の松坂牛とは、本来、但馬牛の小代


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まず、不思議なことに…伊勢の松坂牛とは、本来、但馬牛の事なのです。


松阪牛の起源は松阪牛…ではなく、但馬地方に生息する「但馬牛」という牛です。

但馬牛は小型な牛で脂肪分が少なく、ほどよく筋繊維が含まれた良質な肉質を持っていました。

明治時代以降は肉専用の牛とされ、改良が進められながらも但馬牛のみを交配に用い、但馬牛の純血を保ってきました。そのため、他県の血統を入れない純粋な但馬牛が生産されているので、どの和牛よりも明確なルーツを持っています。

松阪牛、神戸牛、宮崎牛、近江牛などといった和牛の85%以上が但馬牛をルーツに持っているほど。

但馬牛という存在があったからこそ、現在の極上肉牛がいるのです。


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当ブログをお読みの方には自明な事ですが、伊勢は博多の櫛田神社の大幡主=神産巣日神、神皇産霊尊、神魂命(その子がヤタガラス)と書かれる最高神の領域であり、但馬とは宗像大社の鎮座地の「田島」であり、佐賀県唐津市の田島神社の田島である事は、過去、何度も書いてきました。

つまり、大幡主、ヤタガラスと濃厚な関係のあるところだからこそ、本物の松坂牛の生産地が但馬であり小代になる事がお分かり頂けるのではないでしょうか。

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では、上の地図をご覧ください、矢田川がこの地から流れ下り日本海に注いでいる事がお分かり頂けるでしょう。この矢田川がヤタガラスと無縁であるはずはないのです。

その事が分かるだけでもこの小代温泉に入りに来る価値があると言うものです。


支配階級に迎合し媚びへつらったユダヤ人は出世しましたが、反対に権力に反抗・抵抗したユダヤ人達は中央・都市部から地方・山奥の河原等に逃れて最下層の賎民として扱われる事になりました。仏教の国教化によりユダヤ人の牛の屠殺が穢れたものとみなさ ...

「天皇家とユダヤ人」による

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鳥取から京都に掛けて国道9号線が氷ノ山(ヒョウノセン)の北麓を貫通していますが、そこから谷田川沿いに5キロほど山に入った所にあるのですが、渓流の美しさ、水の美しさ、山々の重なり、僅かばかりの良く手入れされた水田…と心惹かれる山間の景勝地です。

冬こそ雪に閉ざされますが、目の前を流れる渓流には清冽な水が注ぎ、夏でも都市部とは異なり冷涼な過ごしやすいひと時を提供してくれます。

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2019年05月25日

582 出羽から陸奥への道 A “山を森と呼ぶ人達”

582 出羽から陸奥への道 A “山を森と呼ぶ人達”

20180610

太宰府地名研究会 古川 清久


青森県弘前市を最後にいよいよ九州に向かって南下する時がやってきました。

弘前から国道7号線で日本海沿いに南下するのが無難で普通の選択なのでしょうが、同じ道を引き返して帰るは愚である…とばかりに、古代出羽の国の中心部を南下する事にしました。

勢い、105号線でマタギの里として知られる秋田県北秋田市阿仁辺りを通る事にしたのですが、その途中でかなり興味深い事に気付きました。

突然妙な話を持ち出しますが、皆さんは山を何と呼ばれているでしょうか?

山は山じゃないか…と言われるでしょうが、実はそうとも言えないのです。

 これまで、高知県の西部と言うか南部と言うか、当然ながら愛媛県の西南部も含むのですが、このエリアでは山は「〇〇森」と表記されているのです。

勿論、会話上では「山」で通じないなどという事はないのですが、地図をご覧になればお分かりの通り、大半、「〇〇森」と表記されているのです。

 これをどう考えるかですが、かつて山を普通に「森」(モリ)と呼ぶ人々が多数派であった痕跡ではないかと思うのです。

 この「〇〇森」は四国の西南部に広く分布しており、以前から注目していました。

 ところが、今回、青森、秋田、山形、福島…など東北地方の神社調査、民俗調査に入ったのですが、秋田県北秋田市の阿仁地域を横断したところ、「〇〇森」型表記が支配的である事に気付いたのでした。

 まず、山を「山」以外で表記する例は外にもあります。

 当然ながら「岳」「嶽」「峰」は普通に存在しますが、「山」でも「セン」と呼ぶ傾向も中国地方から兵庫県に於いてかなり見掛けるもので、大山(ダイセン)、氷ノ山(ヒョウノセン)、蒜山(ヒルゼン)、弥山(ミセン)、烏ケ山(カラスガセン)…これらは、一応、山岳修験のもたらしたものと理解しています。

 これで、山を「ヤマ」「サン」と呼ぶのが必ずしも当然とは言えない事がお分かり頂けたのではないかと思います。

 さて、ここで多少思い当たることがあります。

 そもそも「山」という文字はホコ(鉾、銛)の形をしています。

海神(ネプチューン)の持つ三叉槍の形が「やま」であるとすれば、祇園山笠の山鉾が「山鉾」(ヤマボコ)と呼ばれている事にも奇妙な付合を感じています。

 まずは、山が森と表記されている四国南西部の事例をご覧頂きましょう。

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これは高知県須崎市の西の津野町の○○森ですが、別に特殊なものではなく、四国南西部全域に普通に分布している一例ですので、後はご自分でお調べになって下さい。

 まだ、半信半疑かと思いますので愛媛県の例を出しておきましょう。

 司馬遼太郎の効果で良く知られるようになった西土佐の檮原町の直ぐ北の西予市○○森の例です。

 無論、山奥の集落には違いが無いのですが、恐らく四国全域には数百の○○森型表記が確認できるのではないでしょうか?

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まだまだありますのでご自分で


では、秋田県の○○森型表記をご覧ください。

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秋田県大館市、北秋田市の境界領域にある2峰ですが南西四国と東北に○○森型表記が残っているのか?


秋田県大館市、北秋田市の境界領域にある2峰ですが南西四国と東北に○○森型表記が残っているのでしょうか?いずれも辺境と言えば辺境の地ですので、通説派の学者の様に好い加減に答えれば、ただの方言でしかない…となるのですが、では、ただの方言ならば何故○○森と一致しているのか?と言えば答えに窮する事でしょう。

こうして、普通に考えれば列島の先住者たちに広く○○森型表記=表現が普遍的に存在しており、それが、○○山、○○岳、○○嶽、一部に○○峰(これは明らかに半島系でしょう)駆逐されていった様に見えるのですが、中間系と言うか移行期と考えられる表記も拾えます。

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この雄物川は秋田県南部の大仙市から北流し秋田市に注いでいますが、この一帯には○○森山型表記が拾え(南の横手市にも三ツ森山があります)、森とは山の事ですよ…と敢て説明しているような表記に見えるのです。

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山を「山」と呼ぶ人々が新たに進入し、山を「森」と呼ぶ人々を駆逐され始めた時期に成立した地名の様に見えるのですが、共存も垣間見えるのですが、どちらの民族(氏族)にも分かるようにと森でもあり山でもあるという「森山」表記が成立している様に見えるのです。

 では、山に対して「山」と呼び、「山」という表記を使っていた人々とは誰でしょうか?

 地図を見ればご覧の通り、「土筆森山」の隣の「伊豆山」には森が含まれていません。

 百嶋神社考古学の者には、この「伊豆」地名を使う人々とは大幡主系(白族)氏族であり、山を「森」と呼ぶ人々とは倭人の進出(侵入)以前に先住していた人々だったのではないかと考えるのです。


「伊豆」地名を使う人々とは大幡主系(白族)氏族であり…については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下をお読み頂ければある程度ご理解頂けるでしょう。


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伊豆能売の神とは何か? E “伊豆能賣の中間調査を終えて思う事” 

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伊豆能売の神とは何か? D “伊豆能賣は 何故「イヅノメ」と呼ばれたのか?”

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伊豆能売の神とは何か? C “遠賀川左岸に伊豆能賣を発見した ”遠賀町の伊豆神社“ 

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伊豆能売の神とは何か? B “遠賀川右岸の二つ目の伊豆神社の元宮か?”久我神社 

434

伊豆能売の神とは何か? A “二つ目の伊豆神社” イヅノメの神が少し分かってきました

433

伊豆能売の神とは何か? @ “遠賀川河口の両岸に伊豆神社が並ぶ”


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これは田沢湖周辺を国土地理院地図から拾ったものですが、この部分切り取りの中にも○○森型表記が11、○○森山型表記が4、○○山型表記が5、○○岳表記が6例拾えます(岳、山が一例重複)。

 如何に○○森型表記が普通に存在している事がお分かり頂けるのではないでしょうか?

 詳しくはインター・ネットで「地理院地図」を検索され確認して頂きたいと思います。

 少し調べただけですが、青森、岩手、秋田、福島、山形、東北地方に広く見られる傾向である事が分かります。ただ、何故か山形県では数例しか拾えません。また、新潟県には村上市の鹿森山など僅かしか拾えないようです。

 恐らく、福島、新潟(新潟は東北=古代の出羽国)になると激減する事から、かつて、毛人、蝦夷と呼ばれた人々が普通に使っていた山の呼称が「森」だったのではないかと思うのですが、では、何故、四国の南西部と東北地方(この他にもあるかも知れませんが…)にしか認められないのでしょうか?

 全国の山の呼称を拾い出しているデータ・ベースでもあれば助かるのですが今後の課題です。

 これを単純に方言とか縄文人と弥生人といった対立構造で理解しようとする傾向には迂闊に乗れないのですが、私達、百嶋神社考古学の立場からは事代主系、恵比須(3000年以上前から入っている古古代ヘブライ系の)ではないかと考えています。

当然、アイヌも加え、漂白民としてのサンカ(山窩)にマタギの問題も横たわっています。

ここには未だ解読できない列島の民族成立に関わる問題が横たわっているようです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記