2019年05月14日

577 阿波の天津賀佐彦神社は神武巡幸の痕跡なのか? “天津賀佐彦神社徳島県美馬市美馬町西荒川”

577 阿波の天津賀佐彦神社は神武巡幸の痕跡なのか? “天津賀佐彦神社徳島県美馬市美馬町西荒川”

20180523

太宰府地名研究会 古川 清久


先に神武巡行に関わる甲府市の天津司神社、天津司舞の話を書きました。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

570

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 I “信濃〜甲斐は日本海側から入った人々が開発した”

565

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社にやって来た”

564

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 C “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(下)

563

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 B “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(上)

562

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 A “糸魚川市の奴奈川神社は市杵島姫を祀る”


まず、「百嶋神社考古学」では、「神武東征」は贈)崇神(ハツクニシラススメラミコト)によるものでしかなく、神武の遠征はあったが、神武ご巡幸と呼ばれ、本物の神武(カムヤマトイワレヒコ)による日向からの東征は存在しなかったとします

それは、神武東征(これは神武僭称贈る崇神がやったことで神武天皇の業績ではない)ではなく、多くの神々と共に巡行が行なわれ列島を調査した痕跡を辿るものだったのです。

 神武巡行に絡む伝承はかなり残されており、筑豊地方から広島、尾道、福山…山梨県甲府市の天津司神社や岡山県岡山市の阿仁神社…などがあります。

 そこで、故)百嶋由一郎氏の手書き資料を調べていたのですが、徳島県にもその痕跡がある事に気付き、少し調べて見る事にしました(遠い事から、まずは下調べになりますが、お付き合いをお願いします)。

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無題.png詳しくは、先行ブログをお読み頂くとして、この神武巡行に関係すると思われる神社が徳島県にも存在するのではないかと考えています。

徳島県美馬市美馬町西荒川の天津賀佐彦神社です。

 まさに、アメ(アマ)ツカサヒコ神社ですから、単に甲府市の天津司神社と偶然の一致とは考えにくいもので十分に考慮の価値はあるのではないでしょうか。

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この甲府の「天津司舞」は現在も氏子17戸によって守られています。

これが如何なるものであるかは地元でも良くは分かっていないようですが、恐らく1850年以上前に九州からやってきた開拓神(と言っても重要な神様ばかりですが)が天上楽園を発見した事を記念して舞われたものと考えられるのです。

それと、同名の神社が存在するのですから興味深いとしか言いようがありません。

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資料が不足していますので敬愛する玄松子氏からお借りします。


式内社 阿波國美馬郡 天都賀佐毘古神社 旧村社 祭神 級長津彦命 級長津姫命

境内は南向き。入口の鳥居の横に、「延喜式内社 天都賀佐比古神社」と刻まれた社号標。境内の由緒記の石碑には、社号は「天津賀佐彦神社」とあり、『平成祭データ』では、「天都賀佐彦神社」。

少し違うが、たいした違いではないのだろう。

境内に入ると、正面に拝殿。境内の左手に、境内社の若宮神社。境内の木の根の洞にも、何かが祀られている様子。

当社の創建は不詳。轟の地にあるためか、轟大明神、轟宮とも呼ばれる神社。もとは、当地の西方200mほどの高畑にあったという。 近くには「段の塚穴」と呼ばれる古墳や白鳳期の建立という立光廃寺の遺跡などがあり、古代から、美馬郡の中心として開けていた場所。

祭神は、風神である級長津彦命と級長津姫命。轟という鎮座地に相応しい神だといえるが、一説には、天都賀佐比古の「賀佐比古」が、「風彦」の意味であるとする後世の付会であるといい、建貝児王命を祭神とする資料もある。風の神なので、風神としての神威を伝える伝承も残っている。

一つは、この社の前を乗馬のまま横切ると吹き飛ばされるといい、また、吉野川を西へ遡る船は、帆をかけたまま通ると転覆するとも。そのため、境内・社殿は南の吉野川を向いているが、御神体は、北向きに安置されているという。本殿の屋根に卍の紋が付けられていた。

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この天津司神社に奇跡的にも残された天津司舞は、九州から僅かな船団で辿り着いた神々が、姫川河口の糸魚川から溯上し小谷村、白馬村を抜け松本から諏訪へと貫け山上楽園である甲府盆地に到達した事が伝えられているのです。

重要なのはそのメンバーであり、この天津司舞に列島開闢の神々が現在も記録されているのです。

 

大日靈貴  =卑弥呼→天照大御神    

経津主=山幸彦 彦火々出見 ニギハヤヒ

黄幡(大元)=大幡主(博多を拠点に武装船団を指揮していたヤタガラスの父神:神産巣日神)

磐筒男   =八意思兼:豊玉彦(ヤタガラス)

磐筒女   =弥都波能売神

月弓    =大山祗(トルコ系匈奴:月読命)

根裂    =金山彦

磐裂    =埴安姫

豹尾    =神武天皇

吾勝(二神)=天忍穂耳(阿蘇高森の草部吉見:海幸彦、武甕槌)

置瀬(二神)=市杵島姫(宗像三女神:ヤタガラスの姉のアカルヒメの娘)

神沼河耳  =阿蘇神社神殿最奥部の金凝彦


天津司舞ではこのうちの二神が天に昇る(夫婦になる)のですが、その子が大山咋となるのです。

 これらの解析には、65年間も神社を調べ続けた故)百嶋由一郎の研究が凝縮されていますが、逆に言えば、阿波の天津賀佐彦神社によっても解析に誤りが無い事が分かるのです。

天津賀佐彦神社(式内社) 天都賀佐毘古神社の祭神は 祭神 級長津彦命 級長津姫命 です。

 この級長津彦命 級長津姫命こそ天忍穂耳(阿蘇高森の草部吉見:海幸彦、武甕槌)と市杵島姫(宗像三女神:ヤタガラスの姉であるアカル姫の娘)

 もう一つは、天津賀佐彦神社が西岡宮とも呼ばれている事です。

熊本県宇土市神馬町には西岡神宮があり、一之宮(春日大神 - 天児屋根命)、二之宮(八幡大神 - 誉田別尊)、三之宮(住吉大神 - 住吉三神)が祀られているのです。

言うまでもなく春日大神 - 天児屋根命が阿蘇の草部吉見神であることは過去何度も申し上げて来ました。

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この神社も何れ訪問する事になりそうです。

 まさか、山梨は甲府の天津司神社と同じ系統の天津賀佐神社があるとは考えも及びませんでした。

 してみると、神武巡行は、筑豊から広島、福山、尾道から岡山の安仁神社などに残されていますが、当然にも四国も巡行のコースだったはずなのです。

 恐らく、吉野川を溯上し、この一帯まで巡行に入っていたのです。

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2019年05月17日

578 清水の滝の奥の金山彦祭祀 “佐賀県小城市の八天神社”

578 清水の滝の奥の金山彦祭祀 “佐賀県小城市の八天神社”

20180523

太宰府地名研究会 古川 清久


 多少、おどろおどろしいイメージの神社ですが、羊羹で有名な佐賀県小城市の山奥に鎮座する八天神社です。

 ほとんど知られていない神社ですが、佐賀県にはこの金山彦系祭祀がかなり存在します。

 特に県内の山の峰々には小さな祠が山頂に置かれており、その背景には豊前市の求菩提山からの避退があったからのようです。

 この背景には彦山の高木大神系と求菩提の金山彦系の衝突があったように思うのですが、現在、求菩提には八天狗の痕跡(資料館と史跡)があるだけです。


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八天神社 カーナビ検索 佐賀県小城市小城町松尾2710 пF0952-72-6524


 現在、佐賀県内の金山彦を祀る神社としては佐賀県嬉野市塩田町大字谷所乙766の八天神社(下の写真)が最も大きく、嬉野市を中心に崇敬を集めています。しかし、この神社は今回はご紹介に留めます。

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また、長崎県内にも八天神社がかなりあり豊前から肥前に金山彦祭祀が移ったという印象を持っています。この神社もかなり分かり難く、修験者の水行、瀧行で知られた清水の滝から西に一キロほど入った山中にこの神社があるのです。

 言うまでもなく祭神は軻遇突智=金山彦にてあらせらる…。

 そもそも、吉野ケ里遺跡に近い神埼市の市役所のとなりには櫛田神社がありますが、こちらはスサノウのお妃の系統の方々の居住地であり、この櫛稲田姫の父神こそ金山彦であり(母神は大幡主の妹の埴安姫)、製鉄の技術を持った金山彦系の人々が住み着いていたのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで

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2019年05月20日

579 二丈町トレッキングで発見したどえらい稲荷 “福岡県糸島市二丈町松末の松末稲荷神社”

579 二丈町トレッキングで発見したどえらい稲荷 “福岡県糸島市二丈町松末の松末稲荷神社”

20180524

太宰府地名研究会 古川 清久


 この間、佐賀県佐賀市北西の境界領域である旧富士町の最奥部、峠を越えた唐津市の旧七山村での二度に亘る神社トレッキング(中島、古川)、そして今回の中島 茂 氏による糸島市の旧二丈町に於ける調査を行いました。いずれ私の選択による同地の神社調査も行うのですが、佐賀県西北部〜福岡県北西部一帯の神社調査を行った結果(一部は次回)、この地域に支配的な祭祀が見えてきました。

 それは、天御中主(アメノミナカヌシ)命=白山姫系統の濃度の濃さでした。

 そうです、海路を握っていた大幡主(ヤタガラスの父神=塩土翁)の支配領域であり博多の櫛田神社の主神の系統のエリアだった事が見えるのです。

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何故、この領域が重要かと言うと、この一帯こそ魏使が(古くは漢使さえも)通過した領域であり、松羅に上陸し、「親魏倭王」という称号や多数の銅鏡を授かり入って来たのですが、塞曹掾史張政(チョウセイ)ら魏使も松羅〜伊都国辺りへの移動(陸路と言われますが)に通ったルートだったのです。

 一般的な古代史ファンの方は「三国志」とか「古事記」「日本書紀」などを前提に議論されますが(と言っても初歩の方々は私も含めてですが所謂邪馬台国本を中心に読まれている方が普通でしょう)、現場は踏まず、目の前に佐賀県唐津市の菜畑遺跡辺りから福岡県糸島市の平原遺跡といった通説が言う通路

さえも、実際にはどのような道を通過したかを踏んで見ようとはされていないのです。

 しかし、私達には長年の神社外の調査から、その地域にどのような神々を奉斎する人(民族、氏族)が住んでいたのかが見えるのです。

 この一帯は天御中主命=白山姫系の神社が卓越しています(それしかないという程ですが)。と、言うことは、唐津(七山)から糸島(二丈)への領域が下賀茂、上賀茂、白山、子安、妙見…といった神々を奉斎する人々、つまり博多の櫛田神社の大幡主の領域だったからこそ、魏の遣いを通過させ、デモンストレーションと検疫、武装解除を同時に行なったとも言えるのであって、自らの支配領域の大きさを見せる必要性もあったからこそ陸路を通っているのです。

 それはともかくも、この二丈町の神社でも中島 茂氏は妙な…と言えば失礼になりますが、興味深い神社を拾い出してくるものです。ほとんどこれは彼の才能と言って良いものでしょう。

 松末権九郎稲荷神社です。

 まず、「松末」と聴くと直ぐに頭を過るのは、昨年の豪雨災害でも酷い被害を被った朝倉市(旧杷木町)の林田〜松末地区の事が浮かんで来ます。

 ベクトルは不明ですが、恐らく同じ名を持つ地名であり、古い時代の氏族の別れを起源にした分家集落ではないかと思うのです。

 まず、「松末」の「松」ですが、古代史研究者の一人で元朝日新聞の記者であった内倉武久氏の説に従えば、「松」は、木+公であり、実は呉の太伯王の末裔つまり松=姫の末裔の一族(紀氏)が住み着いた地の意味なのです。その事が、後で分かるのですが、まずは神社をご覧頂きましょう。

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現在耕地が広がっている陸化した部分は古代には浅い海だったと思われ、冬場は荒れる玄界灘の風波を遮る半島、島の裏側と言った安全かつ居住に適した土地だったはずで、徐々に陸化も進み、農耕地が拡がり豊かな土地になったはずです。

 また、豊かな海産物が得られるうえに交易により収益や、海路が主であった時代には潟湖は交通路の要衝であり、その点でも重要な土地だったはずなのです。

まず、社殿に向かう前に参道階段を登る途中振り返ると、参道が個人住宅の敷地を縫って上がっている事に気付きました。

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このような場合、まず、最初に考える事は、この神社自体の起源は古いとしても、この神社自体が造られたのは、かなりの後であり、明治期辺りの新興宗教教団によるものではないかと考えられるのです。

 後で分かるのですが、やはり自宅の敷地の一部を使って参道を整備し、山上に祭祀(それ自体は元々存在したのでしょうが)場を設け、神社庁からも独立した管理を受けない(保護もない)神社として存在していたものとのお話でした。

 恐らく、同族集団による祭祀であって、単なる稲荷信仰を継承していると言ったものでもないようです。

 このため、「福岡県神社誌」にも搭載されていません。

 この一帯には 松末稲荷、三九郎稲荷、権九郎稲荷、権九郎稲荷(奥の院)…と多くの祭祀が集中しています。

 それもこれも、古代からこの一帯が半島から大陸へと移動する海路の要衝であったからであり、唐津への通路だったからだと思うのですが、古代から中近世の街道ラインも把握できておらずこれについては憶測に過ぎません。

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中心的な宗教施設集会場で中には大きな観音菩薩も置かれた神仏混合の神社

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無題.png半島から対馬、壱岐を経て東松浦半島に入った人々は、潮に乗って東の博多湾に向かうでしょうが、その一帯に住み着いていた人々が誰だったかを考えます。二丈町から七山村に掛けての一帯が大幡主系=豊玉彦(下賀茂神社)、崇神天皇系(上賀茂神社)系の人々が住み着いていた場所である事を確認するためのものでした。七山村については正月以降のトレッキングとしますが、古代の糸島〜唐津に掛けての一帯がいかなる領域かを確認します。

 無題.png2018520日 日曜日玄海、太宰府地名研究会トレッキング二丈七山の生白山宮を探る!  


「二丈町の白山宮を探る!トレッキング」(企画を変更して中島 茂氏の選択で巡ります)


2018520日 日曜日 午前1000 集合〜出発 連絡は中島まで 090-5289-2994

二丈町(糸島市)有)ふくの里 福岡県糸島市二丈福井6333 092-326-6886

 駐車場に集合!                     緊急連絡 :09062983254

大雨の場合は中止! ※参加費(資料代)500円 各自、弁当、お賽銭、傘持参の事…


以下は古川の選択ですのでいずれ機会を見て再度行います


訪問予定の神社

@ 白山神社 福岡県糸島市二丈福井4909

A 加茂神社糸島市二丈吉井(二丈森林公園糸島市二丈福井355-2手前)

B 白山宮 糸島市二丈吉井2990

C 浮嶽神社 糸島市二丈吉井954(白山宮より5キロ山へ登る)

D 白山神社 糸島市二丈(住所不明)鹿家交差点より入る500m左

現在、百嶋神代史研究会グループ全体の年間アクセス数は恐らく5070万件になるでしょう…

トレッキング注意事項  玄海、太宰府合同地名研究会(トレッキング)実際には55ポイントを巡りますが、どなたもどこかの神社には心惹かれるものがあると思います。最近は神社の祭事、経営が非常に難しくなっています。お賽銭を準備の上安全に留意され参拝して下さい。神社に関して何かご質問があれば09062983254 古川までご連絡下さい。参加申込等:090-52892994(中島)

 今回のテーマは二丈町から七山村に掛けての一帯が大幡主系=豊玉彦(下賀茂神社)、崇神天皇系(上賀茂神社)系の人々が住み着いていた場所である事を確認するためのものでした。七山村については正月以降のトレッキングとしますが、古代の糸島〜唐津に掛けての一帯がいかなる領域かを確認します。

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無題.pngの幔幕の下には大黒天(大国主)祭祀に関わる由緒も認められます。

 幔幕の右は事代主の神紋であり、「古事記」が大国主の息子で長男とする和戦派です(勿論、百嶋神社考古学は事代主も建御名方も大国主の配下ではあっても子とはしないのですが)。

 問題は左の二重亀甲に「大」の紋章であり、これは呉の太伯の正統皇統の神武天皇を表す紋章の場合もあるのです。

 二重亀甲ではなく、亀甲に「大」は神武巡行(東征ではない)に関わるものでもあるのですが、そうすると「松」+「末」という呉の太伯の後裔を思わせる「松末」という地名にも繋がるのです。


今回のテーマは亀甲大の神紋に関する話です。

 勿論、これ以外でも何度かこの神紋に遭遇した事はあるのですが、類例は少なく貴重なシンボルなのです。

 実は、百嶋由一郎氏が残された手書き資料に次のものがあります。

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ご覧のとおりですが、この神紋には特別の意味があると考えておられたようです。

 問題はその解読です。


未だに意味が解らず逆に公開する事によってアドバイスを受けたいとさえ考えているのですが、上の三社の内二社が大国主命を、一社がスサノウ命を祀っているとしても、本当の祭神は神武天皇(藤原が捏造した贈崇神ではない)の事ですよ、と読み解きなさいとの百嶋先生のメッセジ、アドバイスなのか、それとももっと深い意味があるのかが分からないのです。

 福岡市城南区柏原は神武の本拠地(生誕地は糸島市)だったところであり、腹違いの姉であるオオヒルメムチ=天照大御神=卑弥呼は同じく城南区檜原にいたと百嶋先生は話されていました。

 確かに亀甲紋章は大国主=出雲大社で使われています。

そこで、亀甲紋章のルーツは出雲大社に起源があるなどととぼけたことをおっしゃる方がおられますが、とんでもない馬鹿げた話であり、亀甲紋章は博多の櫛田神社の大幡主の神紋なのです。

 それに大の文字が入っている事から、さらに悪乗りして大国主の「大」が亀甲紋章に入っているのは大国主の意味と単純に考えるべきではないとおっしゃっているように思います。

 そう考えれば、櫛田神社にはスサノウが祀られており、出雲の熊野大社にスサノウが祀られており、亀甲大の神紋である事も整合性が取れるのです。

 スサノウ、大国主共々大幡主の配下で働いておられた事を読み取らなければならないのかも知れません。

 最後に蛇足になりますが、神武がいた福岡市城南区の柏原、天照がおられた檜原の中間に置かれたのが、柏原の羽黒神社なのです。

 その地名が持ち出されたのが当然にも奈良なのです。

 以下の百嶋メモも関連がありそうですが意味が解りません。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記