2019年04月24日

569 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 H “身延の若宮八幡神社は単独で仁徳を祀る神社であった”

569 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 H “身延の若宮八幡神社は単独で仁徳を祀る神社であった”

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太宰府地名研究会 古川 清久


グーグルの検索画面で「身延町□神社」と入力すると同町の神社の概略が分かります。

一目、富士川左岸を中心に山神社(大山祗命)と浅間神社(大山祗命の娘木花咲耶姫)=トルコ系匈奴を祀る神社が卓越している事が分かります(富士山浅間神社のお膝元ですから当然ですが…)。

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そこで、秋葉神社(金山彦)を見るか、若宮八幡神社を見るかと考えましたが、より特徴的な若宮を選択する事にしました。

 普通はかなりの隘路でも入って行くのですが、この神社へのアクセス道路の狭さからどうしても入る気にならず付近の空き地に車をとめ歩くことにしました。

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しかし、それほど遠くない所になかなか立派な神社が見えてきました。

山門付の神社とは思いませんでしたが、単に神仏混交時代の名残なのかもしれません。

この富士川流域と言うか山梨全体でもそうかも知れませんが、特に身延の一帯は曹洞禅宗と当然にも日蓮宗が卓越した地域です。

百嶋由一郎氏は、「曹洞禅宗と日蓮宗に天理教は全てヘブライ系でもイスラエル系です…」と言われていました。

その意味でも、久遠寺のお膝元なのですから当然と言えば当然ですが、その系統の人々が大量に住み着いた領域だからこそ、南巨摩郡であり高麗は高句麗でもあり、高句麗の紋章はヤタガラス(三足霊鳥)でもあったのです。

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 さて、この若宮八幡神社が八幡神(例えば応神天皇)などではなく、単独で大鷦鷯命(仁徳天皇)を祀る神社である事に感動をさえ覚えます(良くある、応神、三女神or玉依姫、神功皇后がないのです)。

 この仁徳と呼ばれた天皇こそ事実上九州王朝最期の天皇であり、この事については過去何度となく取り上げて来ました。

 この発現例は山梨県でも幾つかあり、過去、ひぼろぎ逍遥(跡宮)のブログとしても取り上げています。

 韮崎市など外にもありますが、以下、一部再掲載。


345勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”

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 無題.png山梨県甲州市勝沼の隣に山梨市があります。

 三階松、門光の神紋を打つ勝沼のぶどう寺大善寺からも直ぐ行けるところですが、大井俣窪八幡神社があります。道すがら、多少、気になって参拝させて頂いたのですが、愕くことに、高良神社と若宮神社が、立派な社殿の摂社として鎮座していたのでした。

 フィールド・ワークも馬鹿にならないと実感したのですが、このような幸遇はめったなにないものです。

 しかも、ひぼろぎ逍遥 416 那須与一の那須神社に高良神社を発見した! 北関東への神社調査 @

でお知らせしたような小さな境内社ではなく、堂々たる摂社の様であり、感動をさえ覚えました。

 どう考えても、この甲州まで九州王朝の氏族が進出しており、その痕跡が残されている事が見えて来たのでした。


大井俣窪八幡神社 カーナビ検索 山梨県山梨市北654  0553-23-5390


以下は省略させて頂きます。


 無題.pngそもそも、仲哀天皇亡き後の神功皇后と高良玉垂命(福岡県久留米市高良大社)=第9代開化天皇との間に産まれた五人の皇子の長子が仁徳であり、事実上最後の九州王朝系の正統なる天皇なのです(右は「高良玉垂宮神秘書」)。

高良玉垂宮の若宮、つまり、高良皇子神社=九体皇子神社(残る四神は神功の連れ子)か、その筆頭、斯礼賀志命(シレカシノミコト)=仁徳天皇を祀る神社なのです。

逸る気持ちを抑え若宮八幡宮を参拝させて頂きました。

若宮八幡神社(宮)という社名だけで判断した様に思われても仕方がないのですが、高良玉垂命の若宮である仁徳天皇(高良皇子神社の長男=斯礼賀志命)としか考えられないのです。


 玉垂宮史料によれば、初代玉垂命は仁徳七八年(三九〇)に没しているので、倭の五王最初の讃の直前の倭王に相当するようだ。『宋書』によれば倭王讃の朝貢 記事は永初二年(四二一)であり、『梁書』には「晋安帝の時、倭王賛有り」とあって、東晋の安帝(在位 三九六〜四一八)の頃には即位していたと見られることも、この考えを支持する。
 さらに現地(高良山)記 録にもこのことと一致する記事がある。『高良社大祝旧記抜書』(元禄十五年成立)によれば、玉垂命には九人の皇子がおり、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として 仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続いているとある。この記事の示すところは、玉垂命の次男が跡目を継ぎ、その子孫が累 代相続しているということだが、玉垂命(初代)を倭王旨とすれば、その後を継いだ長男は倭王讃となり、讃の後を継いだのが弟の珍とする『宋書』の記事「讃 死して弟珍立つ」と一致するのだ。すなわち、玉垂命(旨)の長男斯礼賀志命が讃、その弟朝日豊盛命が珍で、珍の子孫がその後の倭王を継いでいったと考えら れる。この理解が正しいとすると、倭の五王こそ歴代の玉垂命とも考えられるのである。
 この仮説によれば、倭王旨の倭風名や倭の五王中、讃と珍の倭風名が判明する。さらに推測すれば、三瀦地方の古墳群(御塚・権現塚・銚子塚)が倭の五王の墳墓である可能性も濃厚である。

〔高良玉垂命と九人の皇子(九躰皇子)〕

高良玉垂命(初代)――――― 斯礼賀志命(しれかし)→ 隈氏(大善寺玉垂宮神職)へ続く
物部保連(やすつら)  ―― 朝日豊盛命(あさひとよもり) →草壁(稲員)氏へ続く
            ―― 暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
            ―― 渕志命(ふちし)
            ―― 渓上命(たにがみ)
            ―― 那男美命(なをみ)
            ―― 坂本命(さかもと)
            ―― 安志奇命(あしき)
            ―― 安楽應寳秘命(あらをほひめ)
              ※読みは「草壁氏系図(松延本)」によった。

九州王朝の築後遷宮 玉垂命と九州王朝の都(『新・古代学』古田武彦とともに 第4集1999年新泉社)  古賀達也


久留米高良大社を中心に多くの若宮神社がありますが、これらは、高良玉垂命の若宮であり、久留米市山川町の高良皇子神社の意味であり、九体皇子を(高良玉垂命と神功皇后の間の5人の皇子と、年嵩となる仲哀の連れ子)祀っているのです。

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「高良玉垂宮神秘書」の一部


もはや疑う余地はありません。身延に於いても若宮八幡宮とは、高良玉垂命=第9代開化天皇と神功皇后との間に産まれた若宮=第14代仁徳天皇を祀る神社だったはずなのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記