2019年04月12日

565 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社にやって来た”

565 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社にやって来た”

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太宰府地名研究会 古川 清久


神社に関心を持ち相当に詳しい方でも、同地の方は別としてこの神社を知る方はほとんどおられないのではないかと思います。

村の鎮守様といった神社と言うよりも、もっと小規模な同族集団の非常に小さな神社ですが、恐らく山梨県でも最も古く最も重要な神社がこの天津司神社ではないかと考えています。

勿論、初見の神社であり、最も大切な祭礼も見ず、関係者へのヒアリングさえも行ってもいないのにどうしてそんなことが言えるのかと言われるかも知れませんが、まずはネット上から祭礼の異様さを知って頂こうと思います。


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古来よりの申伝へには此の地未だ開けず、草沼にありしころ、天津神十二神天降りまして、舞楽を為し給ふ。其の後に、二神は天上に昇り、一神は西油川村の古井戸に没し給ふ(此の井戸、祭日には神形影るを以て鏡の井と云ふ)。其の後も九神猶舞楽を為す。此地漸く開け人里となりて。その舞楽を見た人後、其の神形を模写して、神像九像九体を造り、神紋を九曜の星とし、毎年七月十九日(現在は四月十日に近い日曜日)神官等小瀬村古来の十七戸のもとに、諏訪神社に九神像御幸して、社前の御船囲にて、神舞楽(天津司の舞)祭祀を修行す。天津司の舞は大永二年以前から伝承されて今日に至る。因に、大永二年八月、武田民部少輔信乗、社殿修造の棟札、今に存す。

天津司の舞   

昭和三十五年 山梨県の無形文化財 指定   昭和五十一年 国の重要無形民俗文化財 指定

                           山梨県神社庁による


 カーナビとは便利なもので、もしもこれが無ければ遠来の者にはなかなかの辿り着けないような場所にひっそりと鎮座する神社です。

 しかし、これが重要無形民俗文化財の第一号と言うのですから、それなりにと言うよりも、内部では密かにその重要性は認識されているような印象を受けます。

 ただし、その重要性は国体に関わるものであることからあくまでも「民衆芸能扱い」として半ば貶めた形で存続だけはさせておこうと言った意図さえも感じられるのです。

 それは、これが初代神武天皇(神武僭称贈る崇神ではないと言う意味での)絡みの重要この上ない国家伝承である可能性があるからなのですが、初見の者が何を惚けた事を言われる事は承知の上でお伝えだけはしておこうと思うものです。

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訪れたのはGW前日の29日の午前中だったのですが感慨はひとしおでした


まず重要なのは、祭礼に際して「神官を迎えに行く」のではなく諏訪神社(諏訪大社などではない)の宮司が天津司神社(収蔵庫)の神像をお迎えに上がることです(偉いのはどちらか言わずもがなですね)。

また、この天津司が行われる舞台が「御船囲」と呼ばれている事が、彼らが遥か遠くから船に乗ってやってきた事を今に伝えているように思えるのです。

勿論、「天津司」が「傀儡(テヅシ)」舞の民衆芸能であるとされている(笑ってしまいますね)事は承知の上ですが、小瀬の17家(恐らく血盟的な同族集団)で伝承されていると言う事やただの民衆が傀儡舞を継承すると言うこと自体があり得ない話なのです(何故ならば傀儡は商業的な芸能集団なのであって、その元を辿れば大いなる主人持ちの宮廷芸能の継承者だった可能性もあるのであり、一般民衆に伝えるなどありえないのです。

 ここで、神社考古学の立場から故)百嶋由一郎氏が残された天津司舞に関する手書き資料をご紹介する事にしたいと思います。

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昇天の二神とは阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)=海幸彦を婿神とした市杵島姫(奴奈川姫)

百嶋メモに依れば、舞に登場する9人の神とは、大日孁貴(オオヒルメムチ)=天照大御神、経津主命とは山幸彦=ニギハヤヒ、黄幡神=博多の櫛田神社の大幡主=ヤタガラスの父神、月弓命は大山祗命、根裂神は金山彦、磐裂神は埴安姫=黄幡神の妹神、磐筒男命=八重(速)思兼(ヤタガラス)、磐筒女命=罔象女(大国主の姉)、豹尾神は本物の神武天皇になり、消えた一神とは神沼河耳(草部吉見の父神)

市杵島姫(奴奈川姫)とは神沼河耳の息子の草部吉見のお妃となったことから呼ばれた様なのです。

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百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで

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百嶋最終神代系譜(部分)この上段の神々こそが天津司神社の9人の神々に対応するのです


祭神は異なりますが、糸魚川市の奴奈川神社と天津神社が日本海ルートで信濃、甲斐の天井楽園への進入路を握る神社(事実上の行政機関)であり、その終点が甲府の天津司神社だったと考えられるのです。

 この底流に存在するのが、神武東征(これを行なったのは第9代開化天皇の臣下でしかなかった贈る崇神でしかなく)とは別の、神武巡行と言われる神武、天照、大山祗、金山彦、大幡主、海幸(草部吉見)、山幸(ニギハヤヒ=猿田彦)…なのであり、天津司神社が如何に重要で如何に古い列島王権成立に関わる神社であるかが理解できるのです。

 所謂「神武東征」(耳川河口からあくまで東征しただろう…程度の話)はやたら大袈裟に描かれていますが、この「神武巡行」はそれに遡る事数世代前に行なわれたもので、北九州の筑豊や瀬戸内海の尾道〜福山周辺などに薄いながらも今なお痕跡があり(筑豊、広島、福山…は一部ブログで公開しています)、その先端は男鹿半島にまで延びていたのです。

 これは大国主命の「国譲り」やそれに伴う建御名方命の抵抗と屈服などと描かれた「古事記」の偽装(国譲りの現場は九州でありその移動先が現出雲でしかない)よりも前に行なわれた「神武巡行」に関わる神社であり、その物証の一つがこの天津司神社になるのです。

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最後に、この神社の標柱正面上部には九法星が打たれています。これも天御中主命=白山姫=北辰=妙見を意味しており、その民族の後裔としてのプリンセスが市杵島姫(奴奈川姫)でもあったのです。

百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記