2019年04月03日

562 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 A “糸魚川市の奴奈川神社は市杵島姫を祀る”

562 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 A “糸魚川市の奴奈川神社は市杵島姫を祀る”

20180430

太宰府地名研究会 古川 清久


既に、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 538近江散歩 @ 〜“滋賀県安曇川町”以下20本近いブログで書いた通り3月末から4月上旬に掛けて、近江、京丹後、養父、朝来のトレッキングを(一部3人)で行いました。

その後、大型連休前後のスケジュールが空いた事から、懸案だった糸魚川の天津神社、奴奈川神社、それに甲府市の天津司神社の調査に入る事にしました。

今回も一般道を基本に移動するのですが、王司パーキング(山口県)、鳥取市、魚津市(富山県)、韮崎市(山梨県)で車中泊し、片道四泊五日(1500キロ)でようやく富士山正面の山中湖湖畔にある友人(T氏)の別荘に到達しました。

川崎市から高速で駆けつけてくれた学生時代の親友と合流し、山中湖畔での一週間ほどの滞在が始まりました。勿論、別荘正面には山中湖と富士山が見えています。

友人は部屋を開くためだけに出て来てくれたようなもので翌朝には帰って行きましたが、以後、別荘を独り占めに、調査してきた神社のブログを書き始めることになった訳です。

 さて、前ブログではのっけから身延山の久遠寺から圓生の落語の話にしてしまいましたが。今回の旅で最も見たかったのが糸魚川市の奴奈川神社、天津神社と関連する甲府市の天津司神社でした。

 糸魚川〜静岡構造線の一部なのでしょうが、今回は有名な難所中の難所の「親知らず」を避けてその区間だけは高速で移動しましたが、早朝から糸魚川市に入り一路、奴奈川神社に向かいました。


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列島の東西を分ける文化の境界線 親不知断崖


式内社 越後國頸城郡 奴奈川神社 旧郷社

御祭神 奴奈川比賣命 大日孁命 八千矛命

梶屋敷駅の西、8号線側に鳥居があるが、神社は北陸線の線路を越えた所にある。

境内ではゲートボールの試合をしていたので、遠慮しながら参拝。ということで、境内は狭くはない。末社も幾つかある。本殿は拝殿と繋がっているが流造ということは判別可能。

社伝によると、成務天皇の御宇、市入命が越後国の国造となって当地に来られ、奴奈川姫命の子・建沼河男命の裔長比売命を娶り、当社を創祀したという。

式内社・奴奈川神社の論社で、明治六年十二月村社に列し、大正八年郷社に昇格した。

神紋は、何かの葉で作られた枝丸だった。「神社名鑑」には、榊九葉とある。榊の葉かどうかわからなかった。「式内社調査報告」に宮司は榊氏の世襲とあるが、それが理由か。

敬愛する「玄松子」による

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御祭神は 奴奈川比賣命 大日孁命 八千矛命ですが、奴奈川比賣命が主神であろうことは間違いありません。

 では、この奴奈川比賣命とは誰なのでしょうか?

 幸いなことに、百嶋神社考古学の者にはこの女神様が誰なのかの見当がある程度着くのです。

 大日孁命はともかくも、仮に八千矛命(大国主命)のお妃が奴奈川比賣命とすると市杵島姫か豊玉姫ではないか?との想像ができることになるのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 百嶋由一郎氏の手書き資料にこの神社に関する部分がありました。

百嶋神社考古学初期03230121の一枚だけの資料ですが、「天津神社+奴奈川神社」には付近の天津神社と併せ、この神社祭神に関するコメントが加えられていました。


 スサノウの御子の時代の御名前の●市杵島ヒメ●が、天照の御子になられてからは奴奈川ヒメ、佐用ツ姫と目まぐるしく、お変わりとなりました。婿は八千矛(※大国主)です。


市入命は市杵島ヒメの曹孫です。この人の子孫の長尾さんが出石神社の宮司です。


 お分かりでしょうか、列島全土を船で移動していた大幡主の一族の市杵島姫(宗像大社のスセリ姫=佐用姫…)こそが奴奈川姫であり、恐らく、ここの氏子集団とは九州からこの地に移住し、この祖神を奉斎した氏族だったのです。

 してみると、建諸隅が市入命という事に成るのでしょうか…。もう少し調べなければ分かりません。

 さて、始めはカーナビの指示通りに神社に向かった事から、海側の北陸本線を跨ぐ跨線橋正面の鳥居の前に車をとめて参拝させて頂きました。

参拝を終え戻ってくると鳥居の脇の小さな畑で手入れをされていた上品なご婦人に「この跨線橋は昔からあったのでしょうか…」とお尋ねしたところ、「前はなかったんですが…」とお話を始められました。

 当然、海からの参道もあったはずで、だから海側に鳥居が置かれているのですが、明治の北陸本線の敷設によってこの参道は切断され、離れた踏切から廻る形で参道が造り直されたのだろうと想像しました。

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ここで、このご婦人から面白い話を仕入れました。

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「元々はこちらが参道だったのではないのでしょうか…」とお尋ねすると、「そうですね、実はうちの土地もあるんですよ、だから、山一(聴き間違いでなければ…)の印が参道に残されているんです…」「すると奥様のお宅は廻船業か何かされていたんですか…」「そうです。宮司家と同じ榊の一族で、昔は北前船などが行き来していたと聴いています…」といったお話しだったのです。

 もう、疑う余地がありません。再度、前掲の百嶋由一郎最終神代系譜(部分)をご覧ください。

 この列島中央部の信濃、甲斐への大峡谷の入口の糸魚川の地に対馬海流に乗って日本海を移動してきた大幡主(武装商船隊を率いた海人族の長)の一族が住み着き拠点とした場所が糸魚川だったのです。

「古事記」では出雲の国譲りで登場する建御名方命が大国主命の御子であるとされており(勿論、百嶋神社考古学では認めませんが)母が誰かも書かれてはいません。

しかし、「先代旧事本紀」には、大国主命(彼は大幡主への入り婿なのです)が高志(コシ)の沼河姫を妃として一男が生まれた。そして、御子建御名方は信濃の諏方神社に鎮座される…とされます。

恐らくこれは建御名方命の一族が強力な大国主の一族の権威に肖ろうとしたのではないかというのが今のところの印象であり理解です。

 百嶋神社考古学の凄い所は一般的に信じられている国譲り恭順派の事代主命(兄)も反対派の建御名方命(弟)も共に大国主の配下ではあっても子ではなく、国譲りの現場も九州であって、国譲りの結果、移動した一つが現出雲でしかない(事実上藤原が創作したテーマ・パーク)とするところです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 富士山と山中湖が正面に見える山中湖湖畔の友人の別荘に一週間も滞在しブログを書いています…。思えば遠くに来たもんだ…(大分から1500キロ)ですが、この後のブログでも書く予定のものでも触れる糸魚川の天津神社、甲府の天津司神社にも市杵島姫が関係しているようです。

こう見てくると列島中央の神様も大半が九州からの移住者でしかなく、その後の後裔氏族が神様に祀り上げられたものはあるとしても、祖霊である祖神は九州からの神々である事が分かるのです。

そして、甲斐、信濃の神々も基本的(初期)には日本海ルートで進出した神々の後裔であった事が見えて来るのです。


百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記