2019年04月21日

568 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 G “身延の賀茂神社への疑問”

568 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 G “身延の賀茂神社への疑問”

20180503

太宰府地名研究会 古川 清久


 天津司神社を後にし、次に身延山久遠寺に向かう途中に何社か見ようと思い南に下ったのですが、まずは、若宮八幡神社と賀茂神社を選びました。神社は直ぐに見つかりました。

 参拝者は後から来られたご夫婦だけでしたが、かなりの水量のある清冽な水が滔々と流れ下っておりそれだけで来たかいがあったような気がしました。

 まず、賀茂神社とありますが、下賀茂系か上賀茂系かが気になるところです。多分後者のはずです。

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賀茂別雷は崇神ですね 雷神は祖父の草部吉見=武甕槌…となる訳です 風神〜雷神

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ここが穴山梅雪の領地だったとは縁起を読むまで分かりませんでしたが、武田信玄の娘を娶った一門衆(武田24将の一人)であるも勝頼を裏切り織田信長に寝返ったという人物だそうです。

名前からすると鉱山開発と関わりがあるはずで、調べると付近の下部温泉辺りの金山開発も手掛けていたようです。さて、祭神は考えていた通り賀茂別雷大神(神武僭称第10代贈る崇神天皇)でした。

 ニニギとのカップリングの経緯は不明ですが、まずは順当と言った印象です(諏訪の手前に穴山が…)。


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穴山氏は甲斐国南部河内領の国人、甲斐巨摩郡穴山(韮崎市)を本願とする一族で、明徳4年(1393年)に河内地方を領する南部氏が陸奥へ移った以降に河内へ入部したと考えられているようです。

 これで、南部町が東北の南部氏と関係がある事も粗方見当が着きましたし、姓名だけで見当を着けたのですが穴山姓の分布(四国中央構造線沿いに)からは、薄い根拠ですが、四国の構造線に沿っている事からやはり鉱山開発、金属採取に関わる氏族であるとして良いようです。

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さて、気になる事が一つあります。それは、参拝殿正面に掲げられた幔幕に記された神紋です。

 これはどのように見ても瀬戸内海の大三島の大山祗命(我々がトルコ系匈奴と考えている人々ですが)の神紋なのです。

 それが、何故、賀茂神社の幔幕に記されているのかです。

 見ると、隣接する宮司家の家紋も隅切り角(八角形)に三つ引きであり、少なくとも宮司家は大山祗命に繋がる一族に思えるのです。

 一般的には、宮司家が大山祗とすると氏子総代から氏子一統もその可能性があり、これらが甲州騎馬軍団の一翼を担っていた可能性さえも想像できるのです。

 遠来の、しかも、初見の人間が何をとんでもない事をと思われるかも知れませんが、それならば、何故、大山祗の神紋が使われているかをお教え願いたいと思うものです。

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最低でも、賀茂別雷命とこの神紋とは直接の繋がりが無い事から、本来は大山祗命を祀っていた氏族でしたが、その後、何らかの事情で、上賀茂系統に切り替えられたのかも知れません。

身延町には浅間神社と山神社が6社はあるのですから。

 そう考えるのは、参拝殿の左手に少彦名命を祀る社が残されており、大国主命と国土開発に携わった神とすれば、大国主命の父神である大山祗命にこの神社の本質を見てしまうからです。

 百嶋神社考古学では大山祗命と埴安姫の間に産まれたのが大国主命とするからです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

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百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで

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2019年04月24日

569 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 H “身延の若宮八幡神社は単独で仁徳を祀る神社であった”

569 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 H “身延の若宮八幡神社は単独で仁徳を祀る神社であった”

20180503

太宰府地名研究会 古川 清久


グーグルの検索画面で「身延町□神社」と入力すると同町の神社の概略が分かります。

一目、富士川左岸を中心に山神社(大山祗命)と浅間神社(大山祗命の娘木花咲耶姫)=トルコ系匈奴を祀る神社が卓越している事が分かります(富士山浅間神社のお膝元ですから当然ですが…)。

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そこで、秋葉神社(金山彦)を見るか、若宮八幡神社を見るかと考えましたが、より特徴的な若宮を選択する事にしました。

 普通はかなりの隘路でも入って行くのですが、この神社へのアクセス道路の狭さからどうしても入る気にならず付近の空き地に車をとめ歩くことにしました。

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しかし、それほど遠くない所になかなか立派な神社が見えてきました。

山門付の神社とは思いませんでしたが、単に神仏混交時代の名残なのかもしれません。

この富士川流域と言うか山梨全体でもそうかも知れませんが、特に身延の一帯は曹洞禅宗と当然にも日蓮宗が卓越した地域です。

百嶋由一郎氏は、「曹洞禅宗と日蓮宗に天理教は全てヘブライ系でもイスラエル系です…」と言われていました。

その意味でも、久遠寺のお膝元なのですから当然と言えば当然ですが、その系統の人々が大量に住み着いた領域だからこそ、南巨摩郡であり高麗は高句麗でもあり、高句麗の紋章はヤタガラス(三足霊鳥)でもあったのです。

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 さて、この若宮八幡神社が八幡神(例えば応神天皇)などではなく、単独で大鷦鷯命(仁徳天皇)を祀る神社である事に感動をさえ覚えます(良くある、応神、三女神or玉依姫、神功皇后がないのです)。

 この仁徳と呼ばれた天皇こそ事実上九州王朝最期の天皇であり、この事については過去何度となく取り上げて来ました。

 この発現例は山梨県でも幾つかあり、過去、ひぼろぎ逍遥(跡宮)のブログとしても取り上げています。

 韮崎市など外にもありますが、以下、一部再掲載。


345勝沼にも高良神社があった “山梨市の大井俣窪八幡神社”

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 無題.png山梨県甲州市勝沼の隣に山梨市があります。

 三階松、門光の神紋を打つ勝沼のぶどう寺大善寺からも直ぐ行けるところですが、大井俣窪八幡神社があります。道すがら、多少、気になって参拝させて頂いたのですが、愕くことに、高良神社と若宮神社が、立派な社殿の摂社として鎮座していたのでした。

 フィールド・ワークも馬鹿にならないと実感したのですが、このような幸遇はめったなにないものです。

 しかも、ひぼろぎ逍遥 416 那須与一の那須神社に高良神社を発見した! 北関東への神社調査 @

でお知らせしたような小さな境内社ではなく、堂々たる摂社の様であり、感動をさえ覚えました。

 どう考えても、この甲州まで九州王朝の氏族が進出しており、その痕跡が残されている事が見えて来たのでした。


大井俣窪八幡神社 カーナビ検索 山梨県山梨市北654  0553-23-5390


以下は省略させて頂きます。


 無題.pngそもそも、仲哀天皇亡き後の神功皇后と高良玉垂命(福岡県久留米市高良大社)=第9代開化天皇との間に産まれた五人の皇子の長子が仁徳であり、事実上最後の九州王朝系の正統なる天皇なのです(右は「高良玉垂宮神秘書」)。

高良玉垂宮の若宮、つまり、高良皇子神社=九体皇子神社(残る四神は神功の連れ子)か、その筆頭、斯礼賀志命(シレカシノミコト)=仁徳天皇を祀る神社なのです。

逸る気持ちを抑え若宮八幡宮を参拝させて頂きました。

若宮八幡神社(宮)という社名だけで判断した様に思われても仕方がないのですが、高良玉垂命の若宮である仁徳天皇(高良皇子神社の長男=斯礼賀志命)としか考えられないのです。


 玉垂宮史料によれば、初代玉垂命は仁徳七八年(三九〇)に没しているので、倭の五王最初の讃の直前の倭王に相当するようだ。『宋書』によれば倭王讃の朝貢 記事は永初二年(四二一)であり、『梁書』には「晋安帝の時、倭王賛有り」とあって、東晋の安帝(在位 三九六〜四一八)の頃には即位していたと見られることも、この考えを支持する。
 さらに現地(高良山)記 録にもこのことと一致する記事がある。『高良社大祝旧記抜書』(元禄十五年成立)によれば、玉垂命には九人の皇子がおり、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として 仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続いているとある。この記事の示すところは、玉垂命の次男が跡目を継ぎ、その子孫が累 代相続しているということだが、玉垂命(初代)を倭王旨とすれば、その後を継いだ長男は倭王讃となり、讃の後を継いだのが弟の珍とする『宋書』の記事「讃 死して弟珍立つ」と一致するのだ。すなわち、玉垂命(旨)の長男斯礼賀志命が讃、その弟朝日豊盛命が珍で、珍の子孫がその後の倭王を継いでいったと考えら れる。この理解が正しいとすると、倭の五王こそ歴代の玉垂命とも考えられるのである。
 この仮説によれば、倭王旨の倭風名や倭の五王中、讃と珍の倭風名が判明する。さらに推測すれば、三瀦地方の古墳群(御塚・権現塚・銚子塚)が倭の五王の墳墓である可能性も濃厚である。

〔高良玉垂命と九人の皇子(九躰皇子)〕

高良玉垂命(初代)――――― 斯礼賀志命(しれかし)→ 隈氏(大善寺玉垂宮神職)へ続く
物部保連(やすつら)  ―― 朝日豊盛命(あさひとよもり) →草壁(稲員)氏へ続く
            ―― 暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
            ―― 渕志命(ふちし)
            ―― 渓上命(たにがみ)
            ―― 那男美命(なをみ)
            ―― 坂本命(さかもと)
            ―― 安志奇命(あしき)
            ―― 安楽應寳秘命(あらをほひめ)
              ※読みは「草壁氏系図(松延本)」によった。

九州王朝の築後遷宮 玉垂命と九州王朝の都(『新・古代学』古田武彦とともに 第4集1999年新泉社)  古賀達也


久留米高良大社を中心に多くの若宮神社がありますが、これらは、高良玉垂命の若宮であり、久留米市山川町の高良皇子神社の意味であり、九体皇子を(高良玉垂命と神功皇后の間の5人の皇子と、年嵩となる仲哀の連れ子)祀っているのです。

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「高良玉垂宮神秘書」の一部


もはや疑う余地はありません。身延に於いても若宮八幡宮とは、高良玉垂命=第9代開化天皇と神功皇后との間に産まれた若宮=第14代仁徳天皇を祀る神社だったはずなのです。

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2019年04月28日

570 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 I “信濃〜甲斐は日本海側から入った人々が開発した”

570 糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 I “信濃〜甲斐は日本海側から入った人々が開発した”

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太宰府地名研究会 古川 清久


 二年前は新潟県の上越市から長野、千曲、上田、小諸、佐久から一気に北関東に入り茨城県北部の常陸太田を拠点に、埼玉、群馬、福島、千葉、一週間ほど神社探訪を行った後、山梨に戻り甲府のぶどう寺やその一帯の調査から山中湖村のこの別荘にやって来て諏訪から中央高速で関ケ原に向かい九州に戻りました。今回は富山を抜け新潟の糸魚川で奴奈川神社、天津神社を見せて頂き、姫川沿いに小谷、白馬、大町、安曇野、松本、塩尻、諏訪、甲府へと入り天津司神社を見せて頂いたのですが、身延山久遠寺は付け足しでしかなく、実質的には糸魚川の奴奈川神社、天津神社と甲府の天津司神社を見ることが旅の目的でした。

 結果、山中湖村に到着してからはGWの喧騒を避け、別荘に閉じ籠り今回の十本目のブログを書いているところです。別荘暮らしもそろそろ飽きて来ましたので、少しずつ西に向かって移動しようかと考えているところですが、切が良いように、まずはこのブログを書き上げたいと思っています。

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確かに上越から長野に向かうルートは平坦で自然に長野まで進出できるのですが、千曲、上田、小諸、佐久まで進むと、北関東にも、山梨にも入るのはかなりハードになります。

しかし、諏訪や山梨でも甲府に入るとなると、糸魚川から姫川の大峡谷を通るとしても、進入路としてはこちらを採用したのではないかと思えます。

そこで考えるのですが、少なくとも、始めに諏訪、甲府、山梨に入った人々は、糸魚川ルートを通ったのではないかと思うのです。

今回は、高速道路ではなく、この辺りを実際に通り古代の実感に近いものを得たいと言うのも目的の一つでした。恐らく糸魚川の奴奈川神社と天津神社とが甲府の天津司神社と関係があるのではないかなどとはどなたも考えておられないと思うのですが、故)百嶋由一郎氏の手書きメモを見るとどうしてもそのようにしか読み取れないのです。

 つまり、私宛に送られてきた糸井川の奴奈川神社、天津神社と甲府の天津司神社に関する資料は一緒の封筒に入れられていたからでした。

 当時の事ですから、恐らく悪路を乗り越え(私と百嶋先生とには25年の年齢差があったのですから)糸魚川から甲府を目指されたのではないかと思うのです。

 私の場合は、パソコン、インター・ネットに調理器具まで載せ休憩も車中泊も自由にでき、ブログ作成もできる環境で移動するのですが、恐らく多大な出費をされながら小さな車で調べ廻っておられたのだと思うのです。

 先生は紀元165年前後とされていますが、本当の神武天皇(神武僭称贈る崇神は後世の高良玉垂命と神功皇后とが夫婦であった時代で全く別で、当時、崇神は天皇でも何でもなかった)、その腹違いの姉である天照大御神=大日孁女神、金山彦、大幡主、山幸彦(経津主命)、海幸彦(草部吉見神=ヒコヤイミミ)、海幸のお妃となる市杵島姫(奴奈川姫)…などと共に列島の調査のための巡行を行ない、実際に甲府まで踏み入っている言われているのです。

 その巡行の痕跡こそこの甲府市の一角に奇跡的に残された天津司神社の天津司舞だったのです。

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昇天の二神とは阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)=海幸彦を婿神とした市杵島姫(奴奈川姫)

百嶋メモに依れば、舞に登場する9人の神とは、大日孁貴(オオヒルメムチ)=天照大御神、経津主命とは山幸彦=ニギハヤヒ、黄幡神=博多の櫛田神社の大幡主=ヤタガラスの父神、月弓命は大山祗命、根裂神は金山彦、磐裂神は埴安姫=黄幡神の妹神、磐筒男命=八重(速)思兼(ヤタガラス)、磐筒女命=罔象女(大国主の姉)、豹尾神は本物の神武天皇になり、消えた一神とは神沼河耳(草部吉見の父神)

市杵島姫(奴奈川姫)とは神沼河耳の息子の草部吉見のお妃となったことから呼ばれた様なのです。

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甲府の地に御巡幸で立ち寄られた列島の開拓神(これこそが本来の開闢神)の伝承を今に留めているものが天津司舞になるのです。

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百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで

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白馬村付近から望む北アルプス 昇天したとされる奴奈川姫と海幸彦も含め巡行の一行も見たのです


 この神武巡行の痕跡は、天草〜筑豊〜広島湾〜福山〜尾道〜岡山(阿仁神社)…秋田の男鹿半島の赤神社辺りまで延びています。

 大半は船による移動ですが、中には甲府に駆け上がったものもあり、同じく糸魚川に戻り、海路、日本海沿いに男鹿半島辺りまで進出したのではないかと考えています。

 今年の秋にでも男鹿半島の赤神社(八郎潟周辺に数社ありますが、草部吉見神を祀るものです)と併せ青森の高良神社(4社前後あるようですので)を確認する旅に出るのではないでしょうか。

 今回の旅は、三社詣によって古代の神武巡行の痕跡を確認するものでした。

 古代に於いても、船で移動する事はさほど難しい事ではありませんでした。

 ただ、何故、山上楽園とも言うべき甲府の地まで目指そうと思ったかは不明です。

 もしかしたら、夏尚白き白馬の大山脈を見たかっただけなのかもしれません。

 いずれにせよ、糸魚川の奴奈川神社、天津神社、甲府の天津司神社は貴重この上ない神社なのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:12| Comment(0) | 日記