2019年03月27日

559近江散歩 22 竹野神社再訪 “京都府京丹後市丹後町”

559近江散歩 22 竹野神社再訪 “京都府京丹後市丹後町”

20180513

太宰府地名研究会 古川 清久


 既にひぼろぎ逍遥(跡宮) 475

突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… F 竹野神社(京丹後市)初見 としてとりあげた竹野神社ですが、今度は、考古学と万葉集それに古代史全般に対して造詣の深い伊藤女史ご一行をご案内し再訪する事になりました。

一月に単独で訪れたのですが、半年も立たないうちに再訪するなどとは思いもしませんでした。

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無題.png何とも頭がくらくらするような縁起ですが、この地に九州王朝の中枢部を担った人々が相当数入っており、また、祀られている事が分かります。

その前に、学会通説では欠史8代は架空であり、何らの信憑性もないものとして扱われるはずの開化天皇とそのお妃(勿論、正妃は神功皇后なのですが「高良玉垂宮神秘書」)の一人が竹野姫になるのですが、学会通説に媚びる教育委員会が、何故、開化天皇の妃を表に出されるのか不思議です。良いとこ取りでなければと思うばかりです。

藤原により第9代とされた開化天皇こそ九州王朝の高良玉垂命そのものであり、正妃が神功皇后(仲哀死後)なのです。

さて、当方のグループには福岡県の旧竹野郡のご出身で「息長氏は秋永氏である。」の顛末記というブログをお書きの秋永氏がおられます。ここではその中から関連するところをご紹介しましょう。ここでは、丹後の竹野郡の起源が筑後の竹野郡であることをご紹介しておくことにします。


竹野姫(豊姫)命と彦湯産隅命の住んで居られた場所。

2012-04-13 | 古代史

古事記に置いては由布院から、福岡の春日に居られたと想われる第9代開化天皇(開化は孝元の子ですから息長氏の血が這入っています。)に皇后として嫁がれた由碁理(建諸隅命)の娘である竹野姫は、その後、彦湯産隅命一柱を儲けています。

その後、福岡の春日市に居られたと考えられる開化天皇は伊迦賀色許賣命を妃として娶り、御眞木入日子印恵命(崇神天皇)と御眞津比賣命の二柱を、意祁都比賣命を妃として、日子座王(後に近畿に渡ります。)を一柱、また、鷲比賣命を妃として、建豊波豆羅和気命の一柱儲けている事になっています。彦湯産隅命は崇神天皇の兄である事になっています。

崇神天皇は久留米大善寺の玉垂宮に居られたと考えられますが、彦湯産隅命は何処に居られたのでしょうか。考えて見る事にしました。

開化天皇は、4人の妃を娶りますが、自分の館に全員を住まわして居たのでしょうか。わたくしは、どうも、婦人毎に館を設けて、自分が通い夫として、転居しながら暮していたのではないだろうか。と考えています。そうすれば、女性同士の諍いを避ける事が出来、子育ての問題も母親に委ねる事が出来、好都合であったと考えられます。また、姓氏一族を背負って嫁に来る訳でありますので、姓氏間の諍いを避け、王から居住地を拝領し、一族の館を建てて王を迎えたものと考えられます。

と謂うことであれば、崇神天皇は大善寺玉垂宮にて、母である伊迦賀色許賣命と、妹の御眞津比賣命と一緒に暮して居たとも考えられます。

わたくしの父の実家である田主丸町に「竹野」と謂う地があります。元々竹野郡から田主丸町は命名されており、この「竹野」には、古来、正院や正倉院が在ったとされており、天皇に匹敵する人物が住んでいたと考えられています。この天皇に匹敵する方こそ竹野姫とその子である彦湯産隅命であると考えられます。此処には、禊や奉祭祀に必要な卑弥呼の最も神聖大事な井戸と想われる古い井戸があり(三明寺・井の丸井戸、)、由来では西暦755年、初代国司「道君首名(みちのきみおびとな)」公の末子が筑後国竹野郡の郡長になり、此の地に「郡衙」を造った事から始まった。と謂う事になっていますが、はっきりとは解って居らず、通称、長者の井戸と呼ばれています。

以前は竹野媛と彦湯産隅命が棲んで居た。ものと想われます。近くには墳墓も多くあり、弥生時代から古墳時代に架けての形跡が多く残っています。

御眞木入日子印恵命(後で、崇神天皇)は兄である彦湯産隅命(後で、崇道天皇と呼ばれたと想われる。)に遠慮して、日子座王と伴に近畿に出たとも想われます。

此の地の近くの北野町には、豊比賣(竹野姫)を祀っています神社が幾つも見受けられ、間違い無いものと感じられます。

此処が、2代目卑弥呼が居た場所である。と考えられます。(ひょっとしたら、竹野姫と甕依姫は関係があるのかも知れません。しかし、此処付近には宇奈岐日女命や倭迹迹日百襲姫命  御井津媛命も来ているとも考えられますので、考察には慎重にならねばならないでしょう。)

彦湯産隅命には息長氏の血が流れていますので、此の地に秋永氏が居る事が自然であります。わたくしの血にもひょっとしたら彦湯産隅命の血が混じっているのかも知れません。

《追補》

その後の2014年7月1日のブログ、(『小熊山古墳』は『崇神天皇陵』と考えられます。)の考察により、彦湯産隅命と彦坐王は同一人物であったものと考えられます。亦、2014年10月15日のブログ(『崇神天皇の没年を考える。その2』)の考察により、2代目卑弥呼は竹野姫ではなく崇神天皇の子であります豊鍬入姫命であったと考えられます。

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まず、竹野(たけの)は、福岡県(筑後国)にあった一郡です。

面白いのは「タカノ」と呼ばれていた事です。

しかも、この中枢領域である、現久留米市田主丸町には「豊城」があり、百嶋由一郎氏は「崇神の息子が住んでいた」とも言われていました。

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久留米市田主丸町豊城の交差点は崇神の息子の豊城入彦が住んでいた可能性がある土地


竹野郡(明治の竹野村)はかつて「タカノ」と呼ばれていました。

竹野郡(たけのぐん)は、西海道筑後国(福岡県)にあった郡。

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古代の潟湖と思われる竹野神社の正面は日本海に点々とする格好の展開地だったと思われます。

丹後半島の西の付け根の格好の泊地に到達した九州からの移住者は筑後の「竹野」を移したのだと思います。

名目的に開化の息子となった日子坐王の一族などが筑後川左岸からこの地に展開したのです。

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百嶋由一郎金神神代系譜(部分)


百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで


通説では琵琶湖周辺の人で神功皇后の母とされる葛城高顙媛も久留米の竹野(タカノ)郡に関係があった人のはずであり、葛城高顙媛も葛城系で竹野が(所有の格助詞)姫と考えれば氷解します。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記