2019年03月09日

554 近江散歩 P 丹後で合流した 地図を楽しむ古代史の謎 の伊藤女史のブログの転載

554 近江散歩 P 丹後で合流した 地図を楽しむ古代史の謎 の伊藤女史のブログの転載

20180510

太宰府地名研究会 古川 清久


 メンバーには優秀な方がおられます。中でも、blog「地図を楽しむ・古代史の謎」のライターの伊藤女史は秀逸で、考古学、万葉集、古代史…に精通した第一級の研究者と考えています。

 既に、ひぼろぎ逍遥にはリンクしていますので、このブログにも目を向けて頂きたいと思います。

 今回、当方の「近江散歩」と伊藤女史一行の「丹波丹後但馬の旅」とのタイミングが合った事から、当方がオジャマムシとばかりに合流し現地を見て廻ったことから自分で書くのを止めて「地図を楽しむ…」にお任せする事にしました。(古川)


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ちなみにこのニャンコ(マオ)も古川家の子猫だったので、私は伊藤家の外戚にあたるのです。(古川)

網野銚子山古墳と福田川流域の浦嶋子伝承と宇良神社網野銚子山古墳に道案内をしてくれたのは、竹野の姫達でした 竹野川と福田川流域の大型古墳の距離は10キロ

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道案内のおかげで、どうやら辿りつきました。網野銚子山古墳は発掘中でしょうか。ブルーシートがかかっていました。前方部にトレンチを入れているようです。改葬されたのか、もともとの墳形や版築技術などいろいろ分かることでしょう。

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ここからは、丹後地域特有の円筒埴輪が出土しています。丹後地方に特有の円筒埴輪です。


 今回、伊藤女史が選んだポイントで最も驚き、重要に思えたのが網野調子山古墳でした。

 全長200メートル・クラスという日本海側最大最長の前方後円墳でした。

 恐らく、伊藤女史にご案内頂かなければ一人では絶対に踏まなかったはずの場所であり、この古墳が丹後半島の西の付け根に存在していると言う事実を認識しているだけで物事の理解が変わる訳で、実に有難い知恵を頂いたと感謝しています。

 後段で書かれている「網野銚子山古墳の傍にも、浦嶋子伝承地」とあるものも実に心を揺さぶるもので、浦島太郎=大幡主(博多の櫛田神社の主神=ヤタガラスの父神)説を取るものとして、丹後半島東岸の伊根の浦島神社と併せ、日本海航路の中間点である丹後半島西岸の付け根を見下ろす位置に、大幡主系白族の後裔氏族の拠点があり、志賀島の海人族の拠点があり、実際に大幡主が住居としていた事さえも現実味を帯びて理解できるのでした。(古川)

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網野銚子山古墳は、神明山古墳から10キロ、黒部銚子山古墳や大田南古墳から6キロ、赤坂今井古墳から5キロほど離れているだけです。埴輪を持つ古墳は、竹野川・福田川・野田川流域にあります。

地図を見ると、野田川流域に特に「埴輪を持つ古墳」が集中していますね。
天橋立のある阿蘇海に流れ込む野田川流域の人が、より多くの富を築いたのです。
浦島児(うらのしまこ)伝承や羽衣伝承は、阿蘇海周辺以外の丹後地方の伝承ですから、阿蘇海の人々を見た人々は別世界へのあこがれを強く持ったのでしょうね。     (伊藤女史のブログから)


 まず、有名な天の橋立の内側が、何故、阿蘇海と呼ばれているかについて不思議に思われる方は多いと思います。

 我々九州王朝論者にとっては、古来、北部九州の海人族が対馬海流に乗って大量に入っていた事実上の神代を確信しているものとしては不思議でもなんでもないのであって、阿蘇山を知る「阿蘇」という地名を知る人々が数多く住み着いていた事を示しているのです。

 一例ですが、阿蘇高森の草部吉見(実は鹿島大神=武甕槌命)のお妃は宗像(古くは志賀島の安曇族)の市杵島姫であり疑問はないのです。(古川)

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網野銚子山古墳の傍にも、浦嶋子伝承地

此処にも竹野川の羽衣伝承と同じような「浦嶋子伝承」があります。
網野銚子山古墳の前方部の前の空き地は、「浦島児の宅址の伝承地」となっていました。この古墳の西を流れる福田川の河口には、浦嶋子を祀る「島子神社」がありました。

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この浦嶋児宅址伝承地はかなり衝撃的でした。「浦島太郎」の話からお伽話とされているのでしょうが、この網野調子塚古墳は宣伝や案内板はおろか、地元の人もほとんど知らないと言うもので、その傍にこのような伝承地があることは、どうみてもあやかりではなく真実性が感じられるのです。

 特に、伊根の浦島神社に何度も足を運び、浦島太郎が大幡主=塩土老翁であることを探った宮崎県の日南海岸の野島神社を探った者として逆に真実を感じてしまうのです。関心をお持ちの方は、ひぼろぎ逍遥(跡宮)201 宮崎市(日南海岸)のアコウの茂る野島神社 を…。(古川)

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浦島児は此処で玉手箱を開けたのだそうです。
古墳の前方部の裾の空き地です。

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此の空き地が浦島児(うらのしまこ)の住いの址なら、彼の系譜は網野銚子山古墳の関係者なのですかね? 
豊かな世界を夢見て船出して乙姫様の愛を得たのに、約束を破って失敗してしまったこの辺りの首長の話なのでしょうか。
では、海の向こうの豊かな国とは何処なのでしょう。

拘りますが、工事中だったからかも知れませんが、進入路も含め、殺風景この上もなく、逆に信憑性を感じるのです。浦島太郎は決してお伽話ではなく、古代に於いてそれなりの外洋船を駆使して列島を港伝いに移動していた武装商船隊があり、その一族の長が浦嶋太郎として崇められ後には末裔の氏族によって祀られていたのだと思うのです。(古川)

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網野町の島児神社は、海辺の小さな社でした。


浦嶋子を祀る神社は丹後半島にもありました。伊根町の浦島神社です。

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ここは式内社ですね。


元宮はこの田んぼの水溜まりの辺りに在りました。現在の社殿と50mほど離れています。立派な社殿を建てかえられた宇良神社は、大事にされているのですね。
相殿神は、月讀命・祓戸大神でした。

海辺ではなく高所に社殿を置いたのは、津波や高潮を避けたのでしょうか。

丹後地方の伝承は、風土記ができる以前の状況を反映しているのです。古代、素晴らしい国が何処かにあって、人々はあこがれていた。その国の王は海神だった。豊玉彦なのですかね?

豊玉彦って、九州の神話の神様ではありませんか? 
鏡だけではなく伝承も神様も、九州とのかかわりは深かったと思います。
では、今日はここまで。

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逆に当方のご紹介で優良ブログを傷つけたかも知れませんが、今後ともお読みいただきたいと思います。(古川)

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 14:43| Comment(0) | 日記