2019年03月18日

557近江散歩 S 女性達に囲まれて大江山皇大神宮の内宮再訪

557近江散歩 S 女性達に囲まれて大江山皇大神宮の内宮再訪

20180512

太宰府地名研究会 古川 清久


 外宮を下りて内宮に向かいました。

途中で三十代の半ばと思しき女性がおられ内宮に向かっておられるようでしたので、車にお乗せして、四人で内宮の最奥部に向かい、裏から社殿下の駐車スペースに駐めました(普通はできないですね)。

 正面には神体山=城山が聳えています。

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まず、宮川の支流になるのでしょうか、五十鈴川が流れています。

 伊勢の五十鈴川の元となった川のはずで、大江山の皇大神宮が伊勢の元宮ではないとする俗説はこれだけでも否定したくなります。

 奥にある天岩戸神社の方から流れ下っているようです。

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この縁起に強い違和感を意識するのは皇女豊鍬入姫命が大宮処を求めた…と言う部分です。

本来、この業績は崇神の娘ではなく倭姫命だったはずで、崇神系による業績の改竄が感じられるのです。

 さて、ここでも手強い神社だけに、敬愛する玄松子氏に助けを求めたいと思います。


旧府社 御祭神 天照皇大神

…鳥居をくぐると、右手に「天皇神道社務所」があるが当社・皇大神社とは別の団体のようだ。…

御朱印をお願いすると印は無かったが「天皇神道 元伊勢皇大神宮 岩長姫命」と墨書きをいただいた。…拝殿・本殿を取り巻く境内の周囲には、多くの境内社が祀られている。

まず拝殿左手前、少し低い場所に横向きの熊野神社 右手前には、變若水の榎と三女神社。

拝殿の右手には、天手力雄神社。左手には、龍灯の杉と栲機千千姫神社

確認できた境内社は、

梅宮神社、浅間神社大年神社加茂神社倭文神社、砥鹿神社、住吉神社、二荒山神社、出石神社、高瀬神社、春日神社、洲崎神社、愛宕神社、敢国神社、寒川神社氷川神社高良神社宇倍神社、水無神社、玉前神社、新良神社、枚岡神社、杵築神社吉備津神社白山神社、箱崎神社、気多神社、南宮神社香取神社伊射波神社倉稲魂神社若狭彦神社大鳥神社風之宮神社伊雑神社月読神社、荒祭神社、伊佐奈伎神社伊佐奈美神社、瀧原神社、日前神社日前大神 思兼命 石凝姥命)、天御柱神社、国御柱神社、大原神社、石上神社貴船神社宇佐神社物部神社興玉神社気比神社大神神社、鏡作神社、日吉神社、都佐神社、大国魂神社廣瀬神社龍田神社中山神社由良姫神社鹿嶋神社三島神社、田村神社、厳島神社大山祇神社玉祖神社八坂神社與止日女神社鹿児島神社少童神社、三上神社、出雲神社浦嶋神社玉依姫神社籠守神社(底筒男命、中筒男命、表筒男命の三神)松尾神社三日月神社、曲玉神社、斎宮神社

参道の燈籠・秋葉神社と御門神社を含めると合計八十四社。『全国神社名鑑』にも末社八十四社とあるのだが、『日本の神々』では七十九末社と記されている。境内社社殿の大きさ・規模を見ると栲機千千姫神社、天手力雄神社、熊野神社、興玉神社は別格のようで、燈籠・秋葉神社も別にして、七十九末社ということだろうか。また『神社名鑑』には末社八十一社とある。境内には境内社の他に、へそ塚や和泉式部歌塚などもある。『日本の神々』には旧村社となっているが、『神社名鑑』には昭和五年府社に列したとある。

社伝によると、崇神天皇三十九年、豊鋤入姫が天照大神の神教により神器・八咫鏡を奉じて倭国笠縫邑を発し但波国吉佐宮に還幸し、四年間天照大神を奉斎した。

当社は、その吉佐宮跡とされ、古来、元伊勢内宮と称され広く崇敬された神社で、日室岳を神体山とする古社。享保二十年(1735)の『丹後国加佐郡旧語集』には当所の天照太神は大和国より遷されたとあり、その後、伊勢国高間原へ遷宮されたと記されている。異説として『加佐郡誌』には、崇神天皇の御代、天照大神が大和国笠縫邑から吉依宮(吉佐宮)へ還幸の際、一時的にこの地にとどまったものという。

さらに、宝暦十一年(1761)の『丹後州宮津府志』には用明天皇の第三皇子・麻呂子親王が鬼退治の際に外宮とともに当地に勧請した社であるとし、元伊勢ではないとする説もあるようだ。

拝殿には菊紋の幕が付いており、『全国神社名鑑』にも神紋は菊花紋とある。

敬愛する 無題.png による


 前よりは境内摂社が誰を祀るものなのか理解できるようになりました。

 境内摂社は黄色のマーカーで色付けしたものぐらいしか分かりません。なお()書きは「玄松子」様のデータに当方が書き加えたものです。

 数が多すぎるので、これらの摂社が如何なる神様なのかについてはこれ以上触れませんが、元々これらの神々が並べられた理由は、従えている、若しくは、提携しているという意味だったと理解しています。

 まあ、表現は悪いのですが広域暴力団の提携関係図のようなものと理解しています。

 さて、玄松子様の資料には磐長姫社の記述がありませんでした。

 作成時点には存在しなかったからでしょうか?実際、祠も多少新しい為、そう言えない事も無いのかも知れませんが、その意味で触れておく必要があるかも知れません。

 一般的には、ニニギがコノハナノサクヤを見初めて求婚するのですが、父神の大山祗は姉のイワナガヒメと二人を送り、醜かったため返されたと言うとんでもない酷い話になっているのですが、実は、このイワナガヒメこそ福岡県糸島市の細石神社の主神であり、菊池氏が零落して逃げ込んだ宮崎県米良の銀鏡(シロミ)神社の主神であって、なおかつ、新羅の王子様であったスサノウが追ってきたヤタガラスの妹のアカルヒメなのです。

 従って、直接的には姉でも何でもなく、ましてや、大山祗の娘でも何でもないのですが、藤原にとっては貶めたい何らかの事情があったのかも知れません。

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無題.png

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋神社考古学に関する資料(神代系譜、音声CD、手書きデータ)を必要とされる方は09062983254まで


 通説ではお二人は姉妹とされています。コノハナノサクヤは確かに大山祗の娘であり大国主命の妹なのですが、イワナガヒメ=アカルヒメは大幡主の娘でヤタガラスの姉なのです。

 ただ、大山祗のお妃=埴安姫が大幡主の妹であることを考えれば、埴安姫にとってコノハナノサクヤは直接の娘であり、アカルヒメ=磐長姫は兄の娘となり姉妹に近い関係にはなるのです。

 では、何故、殊更磐長姫(イワナガヒメ)が祀られているのでしょうか?

 それは、スサノウ系、大幡主系、大山祗を繋ぐ重要な女神だったからだと考えるのです。

 多分、そこら辺りに大江山の外宮、内宮の秘密があるような気がします。

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さて、ここにも境内摂社として高良神社があります。

既に、前ブログで書いたように、外宮社には若宮神社があります。

 若宮神社はこれまで何度も申し上げてきた福岡県久留米市の高良大社の主神である高良玉垂命(実は消された第9代開化天皇)と仲哀亡き後の神功皇后との間に産まれた五人の皇子の長子シレカシノミコト=仁徳天皇(藤原から第14代とされ別王 応神の子などと貶められた)オオササギノミコトで事実上最後の九州王朝の天皇です。

 つまり、外宮に若宮神社が、内宮に高良神社が分離され祀られているのです。

 バリエーションは色々あるのですが、九州王朝の最期が反映されているような気がするのです。

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拝殿の右手に栲機千千姫神社があります。

また、皇女豊鍬入姫命が大宮処を求めた…という倭姫命の業績とされるものをニニギつまり高木大神系や豊城入彦つまり崇神系にシフトして表現されている事に気付きます。

栲機千千姫は百嶋神代系譜を見られれば分かるのですが、高木大神の次女でありニニギも高木大神の子なのです。

どうも、高木大神の色が濃い感じを受けるのが大江山皇大神宮でした。今後も探索は続きます。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年03月19日

ビアヘロ079 人吉盆地に奥深く鎮座する熊野神社の正体を見たか?“熊本県あさぎり町岡留熊野坐神社”

ビアヘロ079 人吉盆地に奥深く鎮座する熊野神社の正体を見たか?“熊本県あさぎり町岡留熊野坐神社”

20181120

太宰府地名研究会 古川 清久


本稿は重要と考えますので、ビアヘロ版079として先行掲載します(予定では掲載が15か月程度先になりますので)。2018111718日に掛けて「宮原誠一の神社見聞諜」の誠一先生に随行し人吉盆地に踏み入りました。

と、言っても、八代から球磨川を溯上したのではなく、宇土市と八代市の中間の旧小川町から山を越え五木村から相良村に降り下り晩秋の人吉盆地に入ったのでした。

暫く前からネット上で遭遇した「ひろっぷ」というブログをお書きの聡明な女性と頻繁にメールをやりとりしておりました。

このため、誠一先生も含め、まずは、直接お逢いしてお話ししたいと思っていたのです。

以外と早くこの思いが叶い、静かな人吉盆地のご自宅を訪問し数時間に亘ってお話しさせて頂き、一旦青井阿蘇神社の付近の安宿に戻り翌朝から、あさぎり町と多良木町を中心に神社を見せて頂きました。

私は十数年前から天子宮調査で延二十日間は入っていましたので、ある程度の土地勘を得ていましたが、地元の方のご案内を頂くと全く違う世界が広がるもので、新たな知見が幾つも飛び込んできました。

この間研究会内部では不思議と橘一族の後裔が集まり始めており、静かな広がりを見せています。

既に56人の橘一族の後裔によるネット・ワークが形成されており(ブロガーだけでも4人の5ブログがあり、それに宮原姓をお持ちの「ひろっぷ」様が加わって頂ける事になりそうです。

実は、私も橘一族の後裔として末席を汚していることが最近になって分かり、当方の二本のブログに加え、百嶋神社考古学256のブログの中に、


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高知の別役(一応伏せますが)まで、56本のブログが揃う事になるのです。

早朝から宮原誠一先生に青井阿蘇神社をご案内、その後ひろっぷ様から十社ほどの神社をご案内頂きました。

私にも初見の神社がいくつもあり、非常に興味深く見せて頂いたのですが、その中から今回は一社だけをご紹介したいと思います。

人吉盆地内の神社については、これまで、雨宮神社(相良村)、十島菅原神社(人吉市)、大宮神社(多良木町)、槻木四所神社(多良木町)白水阿蘇神社(水上村)、…などこれまで10社程を書いていますが、まだ、それほどの深入りはしておりません。それは、まだ人吉盆地内の神社群の全貌が見えていないからです。青井阿蘇神社をそのまま阿蘇系神社と考える様に単なるガイド・ブック的な話をするならばいざ知らず、私達は、覆い隠された古代の真実を探り、出来れば相良入府以前の世界までも解き明かそうとしている訳で、部分的に試みてはいるものの、中々、おいそれとは踏み込み難かったからでした。


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岡留熊野神社座神社 カーナビ検索 熊本県あさぎり町免田西1582

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熊本県には熊野坐神社、熊野神社…が訪問や通過までも加えれば、知っているだけでも二十社程度はあるようです。勿論、人吉盆地内でも他に数社は拾えます。

特に、「坐」(います)を付す神社は古いようで、この神社(「座」としてはいますが)もその一つになるのでしょう。

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同社由緒 御祭神 伊邪那岐 伊邪那美 速玉之男神


まず、神社ウォッチャーの方ならば大体お分かりだと思いますが、イザナミは祀るものの、イザナギを祀らない神社が非常に多い事にお気付きだと思です。

事実、熊野三山には、本来、イザナギは祀られてはいないのです。…以下簡略化して説明します。


熊野本宮大社  アカルヒメ=ヤタガラスの姉でスサノウのお妃で姫島に逃れている(市杵島姫を連れ)

熊野速玉大社  豊玉彦=ヤタガラスの父神 大幡主=カミムスビの神(造化三神)神産巣日神、神皇産霊尊、神魂命とされる

熊野那智大社  イザナギと別れた後、名をクマノフスミと名を変えたイザナミ


「古事記」神話と違うではないか…と猛然と抗議される方がおられると思いますが、その根拠を問えば神社庁が言うからとのことなのです。この手合いには、ご自分でお調べ下さいとしか言うしかありません。

一例をご紹介しましょう。人吉市から球磨川を少し下ると、球磨郡球磨村神瀬甲820の巨大鍾乳洞内に鎮座する熊野座神社があります。

ここでも、イザナギは祀られていないのです。以下は、その熊野座神社の御由緒です。


ひぼろぎ逍遥 でも取り上げています。

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イワツバメの大群が飛び交う巨大鍾乳洞に鎮座する熊野座神社


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速玉男命 死んで黄泉国にいかれた伊邪那美神を、伊邪那岐神が追っていったところ、 すでに伊邪那美神の遺体は腐ってうじがたかり、遺体の各部に八雷神が生まれていた。

『古事記』や『日本書紀』本文では、伊邪那岐神は慌てて逃げ帰ったと記されているが、 一書には、穏やかに「もう縁を切りましょう」と言い、「お前には負けないつもりだ」と言って唾を吐いた。 その唾から生まれた神が速玉男命。次に掃きはらって生まれた神が泉津事解之男

敬愛する「玄松子」様より引用

一書のとおりイザナギとイザナミは分かれた後、大幡主のお妃となられているのです。

ここでは、事解之男を採用されていますが、百嶋神社考古学では熊野速玉神社は速玉男命とします。

従って、後代の追加による例外はあるものの熊野系にイザナギが祀られる事はないのです。

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百嶋由一郎 004ヤタガラス系譜(部分)クマノフスミこそイザナギと別れた後のイザナミなのです


ここで、話を岡留熊野座神社に戻しますが、念のために「熊本県神社誌」でも確認しておきましょう。

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「熊本県神社誌」262p(部分)左は境外摂社 ご覧のとおりイザナギが入っています


私には明治の村社昇格に絡んで、通り良く「記」「紀」に沿うように祭神が入れ替えられた(イザナギが挿入された)様に見えるのですが、無論、これは推定でしかありません。

ただ、この事が、同社の参道階段右手に置かれた境内摂社によってある程度の推定ができるのです。

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一言で言えば、本来神殿に祀られていた神様がごっそり祀られているようです。

窪権現(権現は神仏混合時代=江戸期以前の神仏名ですが…)の窪の意味は不明ですが、熊野大神とされている事からこの神様こそが元々鎮座されていたイザナミの後の夫となられた大幡主=造化三神のカミムスビの娘(ヤタガラスの妹)であるアカルヒメ(熊野本宮大社の主神)の事なのです。

この大幡主が神殿から下の摂社殿に降ろされているのです。

イザナミが神殿に残された以上、この岡留神社の基層には、前述の神瀬(コウノセ)の熊野座神社が金山彦を掲げる様に金山彦(イスラエル)系の神が祀られていたことになり、これを祀った人々もその系統の人々だったことになるのです。

菅公は良いとして、と言っても、こちらも大幡主系と金山彦系の本家同志で成立したのが菅原家ですからここでも消された二系統が大切に祀られている事が分かります。

ただ、人吉盆地でも散見される八王子は十年来の謎でまだ分かりませんのでパスします。

二宮は阿蘇神社の二宮の意味ではなく、健磐龍を祀る阿蘇神社に対する二宮、つまり、高森の草部吉見神社のヒコヤイミミの事であり、この草部吉見と宗像三女神の市杵島姫との間に産れたのが左端の阿蘇北宮(ここでは北嶽と書かれています)国造神社の大山咋(オオヤマクイ)=現地では速瓶玉命の事なのであり、後の日枝山王権現、日吉神社、山王神社、酒の神様松尾大社、佐田神社(出雲)、の佐田大神(断じて猿田彦に非ず)…となるのです。これらの話は幾らも書いているのでネット検索で確認してください。

池王社を飛ばしましたが、これも大幡主の子(母神は言うまでも無くクマノフスミと名を改めた金山彦の妹イザナミ)豊玉彦=ヤタガラスとなるのです。

何故、池王と呼ぶかは多少の見当が着くのですが話が逸れますのでここでは止めておきましょう。

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そう考えていると参拝殿の横にヤタガラスの掲示がありました これでは丸わかりですね


そして、この神社の宮司家は尾形(緒方)ですから大雑把に言えば阿蘇神社の系統になるでしょうが、大神一族ですね、そう考えると、ここに雨ノ宮姫が祀られている事にも納得がゆくのです。

何故なら、この雨の宮の雨宮姫から事実上の阿蘇家初代の阿蘇惟人(コレヒト)が産まれるのです。

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百嶋由一郎 018阿蘇系譜@-2 神代系譜(部分)


してみると、左の雨の宮殿の中に置かれた3体の男神像は、阿蘇氏初代の惟人と高橋+速日と考えられそうです。ここまで考えてくると、少し面白い事に気付きました。

ご迷惑になるといけませんので、あくまでも可能性の範囲とご理解いただきたいのですが、このあさぎり町には、白岳酒造があります。

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人吉盆地にも百済=旧多良木の人々が入っているようです。だから錦町はあさぎり町とは別なのです。

 あさぎりはどちらかと言えば百済ではなく新羅の多羅伽耶から入った人のような気がします。

それは山の名を見れば分かります。

 白髪岳、小白髪岳、白髪野、陀来水(多羅を見る)と半島の東南部を偲んだ名が残されているのです。

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白岳酒造があさぎり町の南の高峰白髪岳から名を取っている事は明らかでしょう(高橋が新羅と言う意味ではないのでご注意を)。

白岳がそうだとして、そこに高橋酒造が在ったとしたら、再度申し上げますが、阿蘇高森の草部吉見ヒコヤイミミと宗像三女神の市杵島姫との間に産れた阿蘇国造速瓶玉(大山咋、日枝山王権現、日吉大社、佐田神社…)は、酒の神様=松尾大社でもあるのです。

相良村の雨宮神社や市房山神宮の境外摂社雨宮姫(岩野)は元より、熊本市内などにも数社存在する雨宮(阿蘇ツ姫の娘)が大切に守られ、今尚「白岳」を造る高橋酒造とは、この阿蘇国造と雨宮姫の直系の一族であるかも知れないのです。してみると、上の三体の神像のうちの二体のどちらかが高橋神であり、速日(速瓶の子)と思われ、高橋酒造から焼酎を奉納し祀られる価値があるのではないかと思うものです。

そして、「岡留」(元寇期までは辿れるとの事)という地名が気になっていました。何とも違和感のある奇妙な地名だと思っていましたがようやく見当が着きました。下の神殿に降ろされた筆頭の神が熊野大神ならば、それは熊野本宮大社のアカル姫のはずなのです(隠れ菊池一族の米良の銀鏡神社の主神でもある)。その消されたアカル姫の「アカル」の置換えが「岡留」(オカル)なのではないか…と考えるのです。今後の課題ですね。消された理由も分かります。アカルヒメは金山彦の妹のイザナミの娘であり神武天皇に背いたナガスネヒコに繋がるから慎重に神殿から外されたのです。簡単に言えば神祇官対策ですね。

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最期にこのフクロウが気になるのです。ヤタガラスとフクロウと言えば、茨城県の鳥子山上神社が頭を過ります。ヤタガラスの子である鳥の子と言えばトリノコ山上神社に繋がるかはこれからの課題です。

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雨宮姫については幾つか書いていますので、関心をお持ちの方は ひぼろぎ逍遥+雨宮姫で検索を…

また、フクロウについてはブログ「ひろっぷ」で興味深い話を書かれておられます。


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2019年03月24日

558近江散歩 21 出石神社再訪 “兵庫県豊岡市出石町”

558近江散歩 21 出石神社再訪 “兵庫県豊岡市出石町”

20180512

太宰府地名研究会 古川 清久


 女性陣のための神社ガイドを続けていますが、気比の宮を後にして向かった場所は、言うまでもなく出石神社でした。

 本来なら出石蕎麦の店に雪崩れ込みそうですが、時間帯がずれており、昨夜以来久美浜温泉旅館でグルメに堪能されたご一行の事、如何に出石蕎麦でも触手はピクリともしなかったようです。


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「兵庫県神社誌」は無い事からHP「玄松子」を参考にさせて頂きます。


式内社 但馬國出石郡 伊豆志坐神社八座 並名神大 旧國幣中社 但馬國一宮


御祭神 天日槍命 出石八前大神


 創祀年代は不詳だが、社伝によると、谿羽道主命と多遅麻比那良岐とが相謀って天日槍命を祀ったという。日本書紀によると垂仁天皇三年三月、新羅王子である天日槍が渡来

播磨国に着いた日槍は、八種の宝物を天皇に貢献した。天皇は、播磨国宍粟邑と淡路の出浅邑を与えようとしたが日槍は諸国を巡って心に適った土地に住みたいと希望。

宇治川を遡って近江国に一時住み、若狭を経て、結局、但馬国に住みつき、出石の大耳の娘、麻多島を妻として但馬諸助を生んだ。その但馬諸助の子が日楢杵。その子が清彦、その子が田道間守であるという。

このように但馬国は天日槍一族の根拠地であり天日槍に関係した神社が多く存在する。

当社の神紋について。拝殿には菊紋を染めた幕がかけられ本殿の屋根には、鬼桐の紋も付いていた。

『官國幣社 例祭之由来と神紋』には「五三の桐及三ツ巴」と記されている。

ということで、全部掲載しておく。境内社が幾つかあるが、確認できたものは以下の四社。

社殿の右手、禁足地へ向かう参道の脇に比賣社と夢見稲荷社。

社殿の左手の池に弁天社があり、拝殿の左に天神社。比賣社の祭神は、天日槍の妻である麻多島。


敬愛する無題.pngによる

無題.png
無題.png

夢見稲荷社                 比売社


この神社は新羅王子である天日槍(アメノヒボコ)の渡来伝承のあるところで、現在の宮司家もその血をひく後裔氏族なのです。

無題.png

これは故)百嶋由一郎氏が残された新潟県糸魚川市の奴奈川神社〜天津神社〜甲府市の天津司神社に関する手書きメモですが、この神社の由緒に登場する市入命こそが市杵島姫の孫にあたり、その後裔氏族が出石神社の社家となっていると書かれているの無題.pngです。

 してみると、境内の左手奥に浮島が設えられ弁天様(市杵島姫)が祀られている意味がお分かり頂けるのではないでしょうか?アカルヒメの娘なのです。

 ここでは、スサノウとヤタガラスの妹の間に産まれた、スサノウの血をひく大幡主(白族)系のプリンセスが市杵島姫であり、スサノウの列島への上陸地が出石であった事を確認すれば良いのではないでしょうか?

 ただ、摂社の比売社が市杵島姫かどうかは未確認です。

無題.png椎根津彦の末裔と言えば、在野の神社考古学研究家である百嶋由一郎氏は、講演会の中で、このように話されています。


「出石(いずし)神社(兵庫県豊岡市出石町)の宮司は、市磯長尾市(いちしのながおち=真砂(まさご)=増御子(ますみこ))の子孫の長尾さんで、(祭神である)スサノオ(=天日槍(アメノヒボコ))をずうっとお護りし、1800年間、祀っていらっしゃる。」


市磯長尾市といえば、大和神社の由緒にも登場しています。

ウイキペディアでは、


『日本書紀』に伝わる古代日本の人物であり、倭直(倭氏)の遠祖である。

倭大国魂神(奈良県天理市の大和神社祭神)の起源譚で知られる。

『古事記』に記載はない。

さらに、

『日本書紀』崇神天皇787日条によると、倭迹速神浅茅原目妙姫(倭迹迹日百襲姫命)・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君ら3人は同じ夢を見て、大物主神(のちの大神神社祭神)と倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にすると必ず天下太平になると夢告があったと天皇に奏上した。

そこで崇神天皇7118日、夢告の通りに大田田根子と長尾市とに祀らせると、疫病は収まって国内は鎮まったという(垂仁天皇253月条の「一云」でも同様)。

また同書垂仁天皇33月条では、「一云」として、三輪君祖の大友主とともに新羅から渡来した新羅皇子の天日槍を尋問するため、播磨に行くよう天皇から命じられたとある


なるほど、ここに市磯長尾市天日槍(=スサノヲ)が登場しています。

「市磯」の名称については、大和国十市郡の地名(奈良県桜井市池之内付近)のようです。

その後、市磯長尾市の子孫がそのまま播磨に留まり、天日槍を奉斉した出石神社の宮司となられたようですね。


無題.png

ひとつあがりのカフェテラスから

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記