2019年03月01日

551 近江散歩 M 豊郷町の阿自岐神社は朝来市の足鹿神社と同系統の神社か?”

551 近江散歩 M 豊郷町の阿自岐神社は朝来市の足鹿神社と同系統の神社か?

20180418

太宰府地名研究会 古川 清久


先に、ひぼろぎ逍遥 550 近江散歩 L 阿自岐神社初見 “豊郷町の阿自岐神社は筑後川両岸からの移動か?”を書きました。前ブログをお読みの方はパスして下さい。以下、長くなりますが再掲載します。ただ、画像は小さくしています。以下


阿自岐神社は印象深い立派な庭園の奥にありました。

 この阿自岐神社はその名称だけでも非常に特徴的であり、筑前、筑後の古代史に関心を寄せる人であれば必ず知っていると言って良いほどの地名であって、久留米の高良大社直下の旧阿志岐村の「阿志岐」であり、太宰府の南側の筑紫野市阿志岐という現役の地名の事なのです。

 ただの地名じゃないかと言われる方はおられるでしょうが、まず、「阿自岐」「阿志岐」(好字令以前)と言った普通はない地名であって、ベクトルは別の問題としてありますが、このような場合はそれなりの移動の痕跡を辿る指標になるものなのです。


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同社正面の庭園池 阿自岐神社 カーナビ検索滋賀県犬上郡豊郷町安食西663 0749-35-2743


この神社に祀られているのは、アジスキタカヒコネの神阿自岐氏のことです。阿自岐氏はかなり高貴な百済系の渡来人で、この庭園づくりに、日本に漢字を伝えた王仁氏を招いたといわれています。それはなんと今から1500年も前の事ですから、まだ庭などなかっただけに、阿自岐庭園は古代豪族の憩いの場となっていたのでしょう。これは日本最古の庭園の一つともいえます。また、この地域が安食と呼ばれるルーツは、やはり阿自岐氏からきたと思われます。阿自岐氏が近江に来て美しい庭園を築き、心豊かに安らぐこの郷に住んだと聞いて訪れると遠く千数百年前、古代豪族の美の世界へロマンが広がります。

豊郷町HP

【延喜式神名帳】阿自岐神社 二座 近江国 犬上郡鎮座

【現社名】阿自岐神社

【住所】滋賀県犬上郡豊郷町安食西663

【祭神】味耜高彦根神

(配祀)道主貴神 天児屋根命 保食神 須佐之男命 天照大神 大物主神 応神天皇 宇迦之御魂神 大己貴命 猿田彦神 埴山姫神

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ここでは太宰府の阿志岐(福岡県筑紫野市)地名を紹介しましたが、古代、有明海が久留米市の北側まで大きく入っていた1500年前頃まで、高良大社の南麓まで阿志岐であったと言われているのです。


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山川校区は、耳納山地の高良山麓から筑後川の南側で、久留米市の東部に位置し、山と川に囲まれて、緑豊な人情味あふれる安心・安全なまちです。地名は明治6年、山麓の阿志岐村と川沿いの神代村の合併の際、両村の立地を組み込んで名付けられました。  無題.pngによる

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アジスキタカヒコネを主神とする同社由緒(左) 参拝殿神殿(右)


アヂスキタカヒコネ(アヂシキタカヒコネとも)は、日本神話に登場する神。 『古事記』では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神、『出雲国風土記』では阿遅須枳高日子と表記する。

また、阿遅鋤高日子根神、味耜高彦根命とも表記される。別名 迦毛大御神(かものおおみかみ)。

大国主神と宗像三女神のタキリビメの間の子。同母の妹にタカヒメ(シタテルヒメ)がいる。農業の神、雷の神、不動産業の神として信仰されており、高鴨神社(奈良県御所市)、都々古別神社(福島県東白川郡棚倉町)などに祀られている。別名の迦毛大御神は賀茂社の神の意味である。すなわちこの神は大和国葛城の賀茂社の鴨氏が祭っていた大和の神であるが、鴨氏は出雲から大和に移住したとする説もある。『古事記』で最初から「大御神」と呼ばれているのは、天照大御神と迦毛大御神だけである。

神名の「スキ(シキ)」は鋤のことで、鋤を神格化した農耕神である。『古事記伝』では「アヂ」は「可美(うまし)」と同義語であり、「シキ」は磯城で石畳のことであるとしている。他に、「シキ」は大和国の磯城(しき)のことであるとする説もある。アメノワカヒコとそっくりであったとの記述から、元々アメノワカヒコと同一の神で、穀物が秋に枯れて春に再生する、または太陽が冬に力が弱まり春に復活する様子を表したものであるとする説もある。      ウィキペディア(20180417 15:37による


阿(遲)治志貴高日子根神(記)  味(婀膩)耜(須岐)高彦根神(紀) 阿遅鋤高彦根尊(神名)

阿遅須枳高日子命(出雲國風土記) 

阿遅須岐託彦根命(神名式)(播磨國風土記)(土佐國風土記)(出雲國神代詞)等

別名「建角身」またの名を「賀茂(迦毛)建角身命」           味耜高彦根の国譲り


無題.png味耜高彦根(アヂスキタカヒコネ)の国譲り氏は別名「建角身」またの名を「賀茂(迦毛)建角身命」とされていますが、これは豊玉彦=ヤタガラスそのものと考えています。

いずれにせよ味耜高彦根が実際にいたと思われる久留米市高良山直下の旧阿志岐村、太宰府の南の現筑紫野市阿志岐の想定古代筑後湾の両岸に展開していた味耜高彦根の一族が近江に移動していると見たいのです

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青木繁の ウムガイヒメが田心姫なのです


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで


さて、ここから読んで頂きたいものがあります。以下、ひぼろぎ逍遥から…全文掲載。


516 道中貴命とは何か? “兵庫県朝来市新井の足鹿神社”               20170809


 播但線、但馬街道を北から南に登って行くと、JR新井(ニイ)駅があり播但連絡道の朝来ICがあります。朝来市でも播磨との国境いに近い奥まった場所ですが、ここに式内社の足鹿神社があります。


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朝来市でも市役所が置かれた和田山から丸山川、播但線、但馬街道を南に上り詰める最も奥まった安全な場所に生野銀山などがあり、物部、新井というその系統の地名が拾え、左手に朝来山がそびえています。

この物部氏が住み着いたとしか思えない場所に足鹿(アシカ)神社があるのです。

 始めから予断した話はすべきではありませんが、「アシキ」という響きに思い当たる事があり今回足を向けることにしたものです。

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この神社の本殿も我々が筑後物部の「鞘殿」と呼ぶ覆屋の社殿様式を示しています(左)。

また、社殿の右手に境内社があります。迦具土神、奥津日子神、奥津比売命の三神です。

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百嶋由一郎三宝荒神系譜


迦具土神は金山彦です。この地に初期の九州王朝を支えた金属精錬の民があり、付近にある巨大な生野銀山とも底流で繋がっているものと考えています。

 ただし中国地方に多い三宝荒神が後付で持ち込まれたものか、本来の祭神であったものが道主貴命が進出した結果覆い被さったものかの判断は今のところできません。

交通の要衝に置かれた式内社であり、最低でも1000年の歴史を持つ神社ですが、最も重要な祭神の「道中貴命」です。“平安時代初期に天皇の命により都からこの地方に派遣せられ、この地において政務にあたるなど功績のあった人”(神とはされていませんね)として祀られたものと伝えられているのです。

勿論、これを真に受けるつもりが無い事は言うまでもありません。

 ただ、九州王朝論者にとって「アシカ」「アシキ」と言った語感は多少思い当たる事があるのです。

 九州王朝の本拠地である高良大社の麓の高良皇子神社=王子宮、坂本宮の神々に九人の皇子があり五人の正室(高良玉垂命と神功皇后)の皇子と四人の皇子がいたのですが、その中に安志奇ノ命神(アシキ)命が出てくるのです。


斯礼賀志ノ命神(シレガシ) 朝日豊盛ノ命神(アサヒトヨサカリ) 暮日豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ) 渕志ノ命神(フチシ) 谿上ノ命神(タニガミ) 那男美ノ命神(ナオミ) 坂本ノ命神(サカモト) 安志奇ノ命神(アシキ) 安楽応宝秘ノ命神(アラオホビ)


高良御子神社祭神は高良玉垂命の御子にて命に九躰の皇子あり、人皇二十代允恭天皇の御宇(412453)、高良の神の御託宣により阿志岐山上に九躰の社を、大宮司孝成造立す。(古宝殿) 四八代称徳天皇神護景雲二年(768年)阿志岐山上(古宝殿)より現在地へ遷宮された。…山川区郷土研究会

高良皇子神社縁起


 この「安志奇」は筑後川を挟んだ対岸の太宰府側にも同一の地名があり、太宰府を防衛する宮地岳の神籠石のある一帯が「阿志岐」と呼ばれているのです。

 また、もう一つ気になるのが、「貴」(ムチ)と言われる尊称or称号(恐らく)と思われる「道中貴命」の「貴」に通じている様に思えるのです。

 当然、天照大神=大日霊貴神(オオヒルメノムチ)や大己貴神(オオナムチ)=大国主命の「貴」ムチ、モチも同じものでしょうし、久留米の高良大社と太宰府との中間の現筑後川の北岸に赤司八幡宮(最近は神功皇后の妹豊姫を祀るとするも「福岡県神社誌」に依れば、ただの石清水八幡系八幡神社)があるのです。この縁起にも気になるものがあるのです。

たまには綾杉るな女史による「ひもろぎ逍遥」からお読み頂きましょう。


赤司八幡神社のいにしえの姿「止誉比盗_社」とはどのようなものでしょうか。

この筑後平野のど真ん中にどうして宗像三女神が祭られているのでしょうか。

ここに縁起があるので、「楢原猛夫本」を口語訳します。

筑後の国・止誉比盗_社の本跡の縁起の序をしるす。

筑後の国の御井郡(みいぐん)惣廟(そうびょう)である赤司八幡大神宮は太宰別府で、もともと三女神が降臨した本跡で、誉田(ほむだ)天皇が降誕された霊地であり、筑紫中津宮である。

いわゆる日の神から生まれた三女神を筑紫の洲(くに)に降臨させた時に、日の神が「そなたたち三神は道の中に降居して天孫を助けて天孫のために祭られなさい。」と教えられた。こうして今、河北の道の中にあって、道主貴(みちぬしのむち)と言う。これは筑紫の水沼の君らが祭る神である。

天孫が降臨する時、天の真名井の一元の水を降ろし、蚊田(かだ)の渟名井(ぬない)に遷して、その水を供えた。大足彦(おおたらしひこ)天皇が来られて祭壇をたてて国乳別皇子(くにちわけのみこ)を天皇の代行者とした。この方が河北(こうこた)の惣大宮司・水沼の君の始祖である。

気長足姫(おきながたらしひめ)尊(神功皇后)は豊姫を神形代(みかたしろ)に立てられた。このために後の人は止誉比盗_社と呼んだ。神名帳に官社として載っている。

醍醐天皇の御代に誉田の神霊と武内の神霊と住吉の神霊を相殿に遷座して御井郡の惣廟となって初めて放生会を執り行った。  (後略)

無題.png道主貴(ミチヌシノムチ)という筑紫の水沼の君らが祭る神が、足鹿神社の道中貴命と同一ではないとしても同種の称号に見えませんか?

この北の「阿志岐」は現在も地名として残っていますし、南の「安志奇」は明治の阿志岐村として痕跡を残していました。

今後とも調査を継続します。

最後にこの間注目している吉田一氣の熊本霊ラインにもヒントがありそうなのでご紹介しておきます。

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武内宿禰や蘇我氏に繋がる須賀社 続編 No166 2010-09-25 01:36:56 | 日記


いくつか蘇我氏に繋がる須賀社をこのブログでも記載しているが式内社 但馬國二方郡 式内社須賀神社は もともとが菅神という謎の神霊を祭祀しているが後述するようにこれは蘇我氏に繋がる神社だと思える。

玄松子の記帳 式内社 但馬國二方郡 須賀神社この方のコメントで「須賀社でダントツに多いのは、福岡県に130社だが、 高知県29社、千葉県24社、茨城県23社、 山口県21社、静岡県20社、東京都19社と続くことから兵庫県と福岡県の多さが目立つ。

出雲そのものより、東と西へ少し離れた場所に点在するのは面白い。」そう書かれているが、 理由は須賀社が武内宿禰がらみの神社だからだと筆者は判断している。ちなみにこの式内社須賀神社から直線で10km程度のところに武内宿禰を祭る宇倍神社がある。またこの須賀神社で菅神としての候補される道中貴命という人物であるが八代大明神とも呼ばれておりこの八代は同じく祭神が道中貴命の但馬國朝來郡の足鹿神社が参考になるが八代という言葉はその地方の地名と川の名前にもなっている。

これは熊本の八代でも考察しているが武内宿禰と羽田八代と八大龍王神に通じる。

ちなみに菅=スガ(菅・須我)は菅=スゲという植物同じと辞書に出ているが足鹿=アシカは奈良時代には「みち」と呼ばれていたそうである。それで道中貴命は足鹿神社と繫がることになる語源は「葦鹿」で「葦(アシ)の生えているところにいるシカ」の意味であるという。

つまりアシもスゲでありアシカも須我に通じる言葉ということになる。

須賀社⇒菅神⇒八代大明神⇒道中貴命⇒足鹿神社 菅と八代から蘇我氏系の神社であると推察される。

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兵庫県朝来市の足鹿神社周辺


 この生野銀山を制圧する要衝の通路に置かれた足鹿神社が福岡県筑紫野市の阿志岐、久留米市阿志岐(安志奇)に関係があるのではないか、もしかしたら現赤司八幡宮にも関係しているのではないかと考えているのですが、これが、近江の豊郷町安食の阿自岐神社と対応している事が見えてきました。

 つまり、高良玉垂命(開化天皇)と神功皇后の皇子とされた(恐らく神功の連れ子)九躰皇子の安志奇ノ命神が筑後の「阿志岐」地名、但馬の「足鹿神社」、そして近江の「安食」地名(所謂、「好字令」713以降の地名ですね)「阿自岐」神社と関係があるのではないかと言う事に気付くに至ったのでした。

 特に、この但馬の朝来市には粟鹿神社の付近には二つの勅使門を持つ神社(当然、九州王朝の勅使門です)足鹿神社、赤淵神社が存在するだけに、今後とも注目したいと思います。跡宮480482参照のこと。


482

突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… 

M 朝来市の足鹿神社再訪

481

突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… 

L 朝来市の赤淵神社の驚愕 下

480

突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… 

K 朝来市の赤淵神社の驚愕 上


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2019年03月03日

552 近江散歩 N 気比神社再訪 “兵庫県豊岡市”

552 近江散歩 N 気比神社再訪 “兵庫県豊岡市

20180424

太宰府地名研究会 古川 清久


 既に近江散歩からの帰路であり、タイトルとの齟齬が生じている事は承知していますが、丹波、丹後の調査を企画した女性メンバーでブロガー「地図で知る」(伊藤女史)の二人行に合流させて頂いた以上、近江以外は彼女たちの企画とチョイスに従うばかりです。

 温泉には入ったものの相変わらず車中泊を続ける私は既に兵庫県豊岡市内から気比宮に向かいました。

それに比べ京丹後市の久美浜温泉に泊まられた御一行と城崎温泉正面を流れる円山川の右岸の絹巻神社で合流しました。

 気比地区はともかく、気比宮は普通には容易に見つけられない場所にある事からご案内する事にしたのでした。

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まず、良く混乱しますので整理しておきますが、福井県敦賀市の気比神宮(百嶋神社考古学では贈る崇神天皇ことツヌガノアラシト)があります。

 一方、円山川右岸の気比川合流部の気比宮は単なる地名の移動でしかなく、この気比は贈られる崇神とは一応無関係と考えています。これについては、まだ、確信が持てないでいますが提案はしておきます。

 一方、円山川の支流に出石川があり、出石地区と出石神社がありますが、この出石神社は播磨国風土記の大国主系とスサノウ系の衝突の結果、敗北したスサノウ系が出石に閉じ込められたといった印象を持っています。

 無題.pngここはスサノウ系の神社と理解していますが、半島からアカルヒメを追ってきたスサノウ(アメノヒボコ)が入って来たのが気比であり出石だったのではないかと思っています。

 一方、古代史では知られたアカルヒメ(実は大幡主の娘でヤタガラスの妹)が逃げてきた姫島(大分県国東半島正面姫島村)の姫古曽神社では贈る崇神の話に仕立てられているのです。

 どうも、偽装か混乱が起こっている様に思えてなりません。

 右は大分県の国東半島正面姫島村の比売語曽社の縁起です。

 この話だと同社の祭神は贈る崇神の縁者と言う事になりそうではないですか?

 まあ、「記」「紀」を信じるかの話もあるのですが、スサノウ(アメノヒボコ)はアカル姫を追い姫島までは追ってはいないのです。

 さて、豊岡の気比の宮です。私はアメノヒボコの上陸地と考えています。

 ここは非常に印象深い所です。何故か心が和むような古代の汀線を思わせる場所です。

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気比神社 カーナビ検索 兵庫県豊岡市気比286


祭神 五十狹沙別命 配祀 神功皇后


社伝によると、和銅二年(709)の創祀。敦賀にある氣比神宮と同様に、伊奢沙別命(大気比日子命・五十狹沙別命)を主祭神とし神功皇后を配祀する神社で、式内社・氣比神社に比定されている古社。
一説には、神功皇后が敦賀から穴門へ向う途中若狭、加佐、與佐、竹野の海を経て、この地から円山川を遡り、
粟鹿大神夜夫大神伊豆志大神小田井縣大神を詣でた後一時、この地で兵食を備へたという。
ある夜、
越前筍飯の宮に坐す五十狹沙別大神が神功皇后に託宣して曰く「船を以って海を渡らば須く住吉大神を御船に祀るべし」神功皇后は住吉三神を船に祀り御食を五十狹沙別大神に奉って、この地を気比浦と称するようになったという。 社殿の右前に、境内社の稲荷社が祀られている。気比川を迂回して当社へ向う途中、当社から北へ少しの場所に、銅鐸出土地の史跡がある。道端にある岩の根元に、案内があるだけだが。出土した銅鐸は、現在、東京国立博物館にあるようだ。

敬愛する「玄松子」による


−「兵庫県神社庁」−


『国司文書 但馬神社系譜伝』に、田結郷 気比神社 城崎郡気比浦鎮座 

祭神 五十狹沙別命・仲哀天皇・神功皇后

人皇十四代仲哀天皇の二年、神功皇后は道を北海にとり、穴門国に至るの時、粟鹿・養父・出石・小田井の諸神を参詣し、この浦に留まりたまう。一夜(ある夜)、越前筍飯(気比)宮に坐す五十狹沙別大神夜の夢に見(まみ)え、皇后に教えて曰く、「船をもって海を渡るには、住吉大神を祭るべし」と。

皇后教えを奉じ、住吉の三柱大神を祭り、御[食丁]を五十狹沙別大神に奉る。故に気比大前神の十三世孫 気比彦命は、この三神を斎きまつるなり。

無題.pngによる


気比神社は北陸一帯に数十社確認できますが、今のところ実体が掴めずにいます。

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2019年03月06日

553 近江散歩 O 九州王朝の勅使門を持つ粟鹿神社再訪 “兵庫県朝来市和多山”

553 近江散歩 O 九州王朝の勅使門を持つ粟鹿神社再訪 “兵庫県朝来市和多山

20180424

太宰府地名研究会 古川 清久


既に、ひぼろぎ逍遥 スポット120 緊急リポート 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝の古代官道と勅使門”外でお知らせした兵庫県朝来市の粟鹿神社、赤淵神社の二社ですが、伊藤女史一行をご案内して半年ぶりに再訪させて頂きました。彼女らの感性では別の新発見もあるのではないでしょうか。

ご一行のスケジュールもかなり過密であり、朝来市では外にもお見せしたい神社が幾らかあったのですが、とりあえず当方が最も重要と考える二社を御見せして、後は養父市に取って返して大屋町宮野の御井神社を案内する事にしました。


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無題.png既に3本のblogで報告していますが、まだ、九州王朝論者でもこの重要性については気付いておられ方は少ない様です。

 九州王朝にとって、養父市〜朝来市の重要性は語り尽くせないほどです。

 丹波丹後と併せ、この一帯には北部九州と対応する地名(二字であることから「好字令」以降)がある事は明らかで、この事はその時代に大量に北部九州の人々が入っている事を考えさせるのです。 

ただ、粟鹿神社の縁起を読むと「好字令」以前から北部九州からの植民が行われていた事は間違いないはずなのです。

 まず、「養父」も「朝来」も「朝倉」も北部九州の要地の地名です。それに加えて高良玉垂命=開化天皇の皇子が出てくること、神功皇后(開化天皇の正妃)の色濃い伝承もあることから、この二社に残る(勿論改築されていますが)勅使門とは九州王朝の勅使門にしか思えないのです。右は女性宮司から買い求めたお札です。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

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突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… M 朝来市の足鹿神社再訪

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突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… L 朝来市の赤淵神社の驚愕 下

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突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… K 朝来市の赤淵神社の驚愕 上

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


開化天皇の臣下でしかない贈る崇神の子の四道将軍を含め開化天皇周辺の人々が入っているのです

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