2019年02月27日

549 近江散歩 K 甲良神社初見 “甲良町の二つの高良神社”

549 近江散歩 K 甲良神社初見 “甲良町の二つの高良神社

20180417

太宰府地名研究会 古川 清久


既に、ひぼろぎ逍遥 スポット171 近江の伊吹山の麓に移り住んだ人々 により部分的にはご紹介していますが、琵琶湖の東岸に甲良町があり二つの甲良神社があるのです。

これは九州王朝の痕跡の様に見えますが、それが九州王朝の発展期に於ける痕跡なのか、九州王朝消滅後の痕跡なのかは今のところ見当が着きません。

ただ、隣接する豊郷町安食に阿自岐神社が存在する事を併せ考えれば、阿自岐地名が高良大社直下に阿志岐村として、また、太宰府の南側の現筑紫野市にもの存在していた事を考えれば、古代筑後湾の両岸に存在した地名が琵琶湖にも持ち込まれている事を意識せざるを得ないのです。

ここでは甲良神社が高良神社を置きかえたものと考えられるという提案だけをしておこうと思うものです。

無題.png

祭神が武内宿禰とされているのは九州島以外の全般的傾向であって、当の高良大社に於いてさえ、有馬藩の入府によって高良玉垂命は武内宿禰(腹違いの弟でありただの臣下)とやってしまっているので、高良神社と同一の神社である事は疑いようがありません。本当は藤原により第9代天皇とされた開化なのです(妃は仲哀死後の神功皇后)。

無題.png

この神社を実見して気付いた事は神紋です。ネットでの事前調べではこういう所が分からないのであって、やはり現地は踏まなければならないのです。


無題.png

賽銭箱にも神殿上部にも、参拝殿にも四ツ目紋が打たれていました。

これで、近江に高良神社を持ち込んだ人々の見当が少しついたような気がしてきました。

まず、この四ツ目紋は高木大神のもので、長崎県島原市の四面神社などが中心的な神社であり、旧南高来郡、北高木郡の地名にも表現されているのです。その上に同社の鎮座地は「甲良町尼子1」となっているのです。

そこで思い浮かぶのが、周防の大内氏と石見銀山を巡って死闘を繰り返した尼子氏です。

中でも山中鹿之介の活躍は有名で、彼は橘紋、新月紋を使う橘一族とも言われますが、それはともかくも尼子氏は佐々木氏であり、その代表的家紋が「四つ目結」なのです。

そうするとバサラ大名で有名な佐々木道誉の佐々木氏と繋がって来るのです。

ただ、これは同社が現地の守護大名だった佐々木氏を頂いているだけなのかもしれませんが、久留米の高良大社の草野氏にも通じるため無視できないのです。


尼子氏は宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家で、京極尼子家とも呼ばれる。家紋の四つ目結も、京極氏のそれである。南北朝時代の婆娑羅大名として初期の室町幕府で影響力を持った佐々木高氏(道誉)の孫・高久が、近江国甲良荘尼子郷(滋賀県甲良町)に居住し、名字を尼子と称したのに始まる。

京極氏の出雲守護代を務めるも、後に自らが守護となる。室町時代に高久の次男・持久は、宗家京極氏が守護を務める出雲の守護代として同地に下向し、月山富田城(現在の安来市広瀬)に拠った。やがて出雲と隠岐の守護代を通して雲伯の国人を掌握し、次第に実力を蓄えていった。応仁の乱では東軍に属している。                        ウィキペディア(20180417 11:05による


 何の事は無い、京極も佐々木も尼子も草野も、ともに高木大神系の氏族だったのかも知れません。

 この手の神紋を考える時重要なのは、この神社の庇護を受けた権力者を表現している場合とこの神社を建立した氏族の神紋である場合とがあることなのです。

 しかし、僅かな可能性ですが、実際は九州から移動した高木大神系氏族が高良大社を祀っていたのかも知れません。

さて、滋賀県犬上郡甲良町法養寺にももう一つの甲良神社があるのです。

無題.png
無題.png
無題.png

百嶋由一郎金神系譜(部分)


この際、高良玉垂命(藤原により第9代とされた開化天皇)と武内宿禰がどのような関係にあるかを百嶋由一郎氏が残された通称金神系譜でご紹介しておきます。

まだ、近江の調査は端緒に着いただけで不十分な点はお許しいただきたいと思います。


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記