2019年02月06日

ビアヘロ078 日田の大原八幡神社も物部の神社だった “大分県日田市の大原八幡宮を疑い再考へと”

ビアヘロ078 日田の大原八幡神社も物部の神社だった “大分県日田市の大原八幡宮を疑い再考へと”

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


日田の大原八幡宮と言えば、実質的には西豊後(そんな区分けは公式にないのですが)の一の宮とも言うべきもので、過去二度ほどトレッキングも行った大社でした。

以下もは年程前に書いたものですが、最近でも二度目のトレッキングを行なっています。以下再掲載。


058 豊後は日田の大社 大原八幡宮も元は高良玉垂命を祀る神宮だったのか!“2015新春日田三社詣りトレッキングより”


無題.png太宰府地名研究会主催の新春日田三社詣りトレッキングを行いましたが、日田の玉垂宮を見た後、日田の官庁街の中枢部にある大原八幡宮に廻りました。豊後の一の宮に劣らぬ実に立派な神社です。

豊後と言えば、北の柞原八幡宮、南の西寒多八幡宮の二社(この両社が豊後の一宮)が頭に浮かびますが、我々にとっては、筑後東隣の日田の大原八幡宮が実質的な一宮のイメージとなります。今回、玉垂宮から大原へと巡った理由は、「大原八幡宮」も元は高良玉垂命を祀っていたのではないかということにありました(この神社の鎮座地日田市田島も宗像大社(本来は大国主命)の大字田島から付されたものですね)。

現在、西の総社日田の大原八幡宮は誉田別命(ホンダワケノミコト)、大帯姫命(オオタラシヒメノミコト)比売大神(ヒメオオカミ)を祀っています。

今回も学者の権威を認めたくないため馬鹿にする意味で学者が馬鹿にする「ウィキペディア」を敢えて引用させて頂きます。学者の嘘より素人の真面目な研究を採用させて頂きます。

日田の八幡神社の初見は天武天皇白鳳9年(680靱負郷岩松峰(日田市天瀬町金場の北)に宇佐の鷹の居の社にいます神と名乗る神が現れ、社(鞍形尾の宮)を建てて祀ったことが初めである。慶雲元年(704)、杉原のの下に神が降りて村の女に神懸かり、「岩松の峰の神」を名乗って「杉原が便宜よいのでここにきた」と告げたとして、社を建てて祀ったというのが大原八幡宮の前身である杉原宮である。

貞観13年(871)若しくは仁寿2年(852)に、当時日田郡司であった大蔵永弘によって、杉原宮から現在の元宮に遷座され、宇佐神宮より橋本公則を迎え社司としている。建久4年(1193)、九州探題大友能直が、東の総社を柞原八幡宮、西の総社を大原八幡宮として鎌倉鶴岡八幡宮の参拝礼式に改めさせたといわれる。


ここも宇佐神宮と同様に比売大神を三女神としていますが、九州年号の「白鳳」が銘記されています。


「杉原宮から現在の元宮に遷座され」の元宮が何かは奇妙ですが今後の課題としておきます。

鷹居社も太宰府地名研究会のトレッキングで訪問しましたが、豊後では早くも七世紀から八世紀の変わり目に高良の神に替わり応神が出張って来ているようです(古田武彦が言う701年に九州王朝が消える…)。

一方、「高良玉垂宮神秘書」にも天平勝宝元年(749750)前後に「九州の宗廟を八幡に譲る」(104p)と書かれています。

全体としては八世紀半ばに高良大社(実際は高良玉垂神宮)は祭祀権を宇佐神宮に奪われたようですが、豊後に於いては、半世紀早く高良と宇佐八幡が入れ替わり始めたようです。

無題.png 個人的には四度目の参拝でしたが、トレッキング参加の皆さんに“この大原八幡宮にも「高良玉垂神宮」としての痕跡が残されている事”を確認してもらうのが最大の目的でした。

 では、物証としての痕跡を見て頂きましょう。

まずは、参拝殿正面最上部に打たれた五七の桐の神紋です。

 本殿最上部にも同様の神紋が十六葉菊(これは後鳥羽が定めたものですが…)と共に打たれています。

 これは、何度も言う様ですが、高良玉垂命の神紋です。

 無題.png以前の文書をお読み出ない場合は、「ひぼろぎ逍遥」 153 超高格式瀬高玉垂宮の神功皇后像が消えた “みやま市河内の高良玉垂の宮”他をお読みください。

 では、その妃である神功皇后の神紋はというと、表参道階段脇に置かれた数個の灯篭に三五の桐紋が打たれています(十六葉菊が削られてもいるようですが…)。

 蛇足になりますが、本殿上には非常に珍しい日田大原八幡宮特有の剣(鬼)洲浜紋がありました。

これは、メンバーから教えて頂いたものですが、大蔵氏=財津庶家(実はその方のご関係)のもので、これを使う一族も実は高良玉垂命の流れを汲む紀氏なのです。


大蔵氏


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東漢氏の一族で、壬申の乱の功臣である大蔵広隅を祖とする。姓は直のち忌寸・宿禰・朝臣。大蔵氏の名は大蔵に仕えたことに由来するが、東漢氏の祖・阿智使主が播磨国明石郡大蔵谷に館を構えたことに由来するとの説もある[要出典][2]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E6%B0%8F
大蔵氏は春実以降、代々大宰府府官を務め、子孫は九州の原田氏・秋月氏・波多江氏・三原氏・田尻氏・高橋氏の祖となって繁茂し、大蔵党一族と呼ばれる。
また幕末の尊皇攘夷の志士で福岡藩士の平野国臣(大蔵種徳)は、春実の三男種季の子孫という。
秦氏の内で大蔵の出納を務めた者が大蔵を称した。雄略朝において初めて大蔵官員を設置し、秦酒を以て長官としたという。氏姓は大蔵秦公のち秦大蔵造。
後漢の王の阿多倍の直接の子孫 は坂上氏、大蔵氏、内蔵氏、永嶋氏、阿倍氏、です。 坂上氏は坂上田村麻呂として有名  ...
http://www.aoki.cc/cgi-bin/upbbs/upbbs.cgi?bbs=upbbs&page=1&num=377&view=1


「世界史掲示板(荊の紀氏)」より


無題.png境内社も大山祇、大国主、住吉三神、松尾様=大山咋、稲荷(豊受大神)様と九州王朝の家臣団が揃踏みです。

大山祇も大国主も?と思われるかも知れませんが、「記」「紀」神話に騙されてはいけません。いずれも九州王朝の臣下なのです。

最後に、大原八幡宮の参拝殿の神額を見て頂きましょう。

「八幡宮」の書体が少し変わっていますね。これは鳥文字と言われるもので、菅原道実候の一族の影響下にあるもので、鷽替え神事の鷽を模したものなのです。

日田市の東、九重町には菅原地区があり、太宰府で死んだとされる菅侯は、藤原の刺客を避けこの地に秘かに潜伏し、地元の有力者の一族に道真侯の種を残しておられると聴いております(現在も末裔が…)。

その後、鹿児島の薩摩川内市の奥地に移動し、藤川天満宮付近で余世を全うされた様で、現地には多くの伝承が残されています。

これについても「ひぼろぎ逍遥」019 道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った!をお読みください。それと関連するかは不明ですが、この大原八幡宮の社家、もしくは有力氏子にこの菅原系(ナガスネヒコ系&ヤタガラス系)のどちらかの氏族が関係している事は間違いないでしょう。神額の鳥は六羽(?)は描かれているようですが分かりますか。

以上再掲載

 ところが、大原八幡なる神社が豊前にも二社ある事に気付き(実際には以下の如く)、その二社は日田の大原からの勧請だと(「福岡県神社誌」)言っているのです(前ブログ参照のこと)。

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調べ始めると、山陰、山陽から畿内、北関東まで広い分布を示している事が分かって来たのです。

 では、何故、大原と言う呼称が成立しているのでしょうか?と言うよりも、そもそも、全国に分布する大原八幡宮、大原八幡神社とは同じタイプの神社なのでしょうか?

 この一事をもってしても、単なる郷土史会、史談会程度の視野では一種の神社の本質さえ掴めないで記紀や神社庁のデータや由緒だけで理解できたような気がして満足している事がお分かり頂けるのではないでしょうか?

 ましてや政情の変化に併せ祭神を隠し、あるいは復活させ、あるいは合祀するなどされている者からその神社の本質に迫る事が如何に難しいかがお分かり頂けるのではないでしょうか?

 どうやら、日田、みやこ、苅田の三社に関してはニギハヤヒ、大原足尼(「先代旧事本紀」ニギハヤヒ十世の孫…)…の神社である可能性があるようなのです。

 それには前ブログを読まれれば分かりますが、

702 大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県苅田町の大原八幡神社”

703 大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県みやこ町の大原八幡神社”

ニギハヤヒ、大原足尼命…との祭祀が日田の大原からの勧請であると書いているから分かったのであって、最低でも「福岡県神社誌」にはその片鱗がある訳で、日田の大原は「大分県神社誌」といったものが存在しない上に、当方がそこまで探っていなかった事の結果でしかないため、大分県の場合使う明治の「神社神名帳」を大分のブロガーで、メンバーの「ひとつあがりのカフェテラス」氏から頂く予定ですので、最期に写しを添付しておきます。

 少なくとも、日田の大原では、この事はそれこそ日田隠しにされている訳で、神社調査が容易ではないことに痛感させられますのです。

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以下は一例ですが、千葉県流山市の大原神社(三階菱も豊玉彦系=小笠原家の家紋)の画像ですが、祭神が全く異なる事はお分かり頂けるでしょう。下調べとしても大変な作業になります。

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祭神:《主》瀬織津比当ス,速開津比当ス,気吹戸主命,速佐須良比当ス

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:38| Comment(0) | ビアヘロ