2019年02月23日

547 近江散歩 I 大国主神社“滋賀県高島市新旭町”

547 近江散歩 I 大国主神社“滋賀県高島市新旭町

20180416

太宰府地名研究会 古川 清久


 安曇川での調査に区切りをつけ本来の目的地の長浜市へ向かいました。出雲にも長浜がありますが、この琵琶湖北(東)岸の長浜も博多の長浜の地名移動としか考えようがありません。

 バイパスを離れ古代のルートであったはずの山沿いの道を走っていると大国主神社を見出しました。

 大国主命を出雲の神様と信じ込んでおられる方は致し方ありませんが、肝心の九州王朝論者でさえ、故)百嶋由一郎氏が“95%が嘘である”と言い切った「古事記」を偏重するあまり、何故、琵琶湖に大国主神社があるのかといった藤原が造ったトリックに陥ってしまわれるのです。

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大国主命を出雲の神様だと思い込んでおられる方が多い…とは故)百嶋先生でしたが、この地図の上の方に出している津野神社に通底するであろう宮崎県都農町の都農神社(日向国一の宮)の主祭神も実は大国主命なのです(今の時代そんなことはネットで瞬時に確認できるのであり要は通説に疑問を持つかどうかなのです)。

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この神社を見た瞬間、同社の祭神は改竄されているのではないかと思いました。

 それはこの神社が鎮座している地が五十川と呼ばれているからであり、五十川とは「イソカワ」であり、五十猛命(イソタケル)こと山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦を意味しているのです。

 福岡市も南区でしたか、「五十川」(ゴジュッカワ)が有りますね…。

 つまり、元はニギハヤヒ系の祭祀が存在していた事が見えからでした。

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同社前のコミュニティーバス停

 ウィキペディア氏も


明治維新までは、「高嶋今宮」「今宮山王宮」と称した。通称、「五十川神社(いかがわじんじゃ)」。旧社格は村社。


 と書いているとおり、今宮山王宮と呼ばれたのであれば、“今宮の「今」の意味は「射魔」であって、基本的にニギハヤヒ系のエリアには、今宿、今山、今津…といった地名が付される”としたのも故)百嶋由一郎氏でした。

 さらに、比叡山のお膝元の事、江戸時代の幕末までは山王宮であった訳で、その点でも明治維新によって祭神が入れ替えられている可能性があるのです。

 江戸時代は開幕以来裏のフィクサーであった天海僧正は比叡山の天台系の僧侶であって、彼は山王一実神道を創り日枝山王権現信仰を広めたのでした。


山王神道(さんのうしんとう)は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、天台宗の総本山である比叡山延暦寺で生まれた神道の流派である。狭義には、江戸時代の天海より以前のものを山王神道という。

日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道、天台宗が融合したのが山王神道である。山王権現(日吉大宮権現)は釈迦の垂迹であるとされ、神仏分離では大山咋神とされた。また、「山」の字も「王」の字も、三本の線と、それを貫く一本の線からなっており、これを天台宗の思想である三諦即一思想と結びつけて説いた。

ウィキペディア(20180416 1628による


そして、この神社でも日枝山王権現=日吉宮=松尾神社=大山咋が祭神とされていたのでした。

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ここまで見てくるとほとんど祭神について議論する事に意味がなくなり、神社研究としての意味は存在しない事に成るのですが、比叡山のお膝元の事、政争に明け暮れた神社の悲哀を理解しなければならないと思うものです。むしろ大国主命については北の津野神社を取り上げるべきだったかも知れません。

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2019年02月25日

548 近江散歩 J 多賀神社初見 “遅れ馳せながらも多賀大社初見”

548 近江散歩 J 多賀神社初見 “遅れ馳せながらも多賀大社初見

20180416

太宰府地名研究会 古川 清久


 お前は多賀大社にも参拝していなかったのか?と馬鹿にされそうですが、今回初めて足を踏み入れました。

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多賀神社と言えば知らぬ者のない大社ですが、伊邪那岐大神 伊邪那美大神を祀る神社とされています。

ただ、本来はスサノウや姉の神俣姫を祀る神社であり、その後継氏族が祀る神社であろうと考えています。

早くも祭神の話に入り込んでしまいましたが、まずは神社の概要をご覧頂きましょう。


〜由緒〜

古くから「お多賀さん」の名で親しまれる滋賀県第一の大社です。

日本最古の書物「古事記」によると、この二柱の大神は神代の昔に、初めて夫婦の道を始められ、日本の国土、続いて天照大神をはじめとする八百万(やおよろず)の神々をお産みになられました。…中略…

春のしだれ桜、秋の奥書院の紅葉なども見事で、近辺には彦根城や湖東三山、琵琶湖などの名所にも恵まれ、年間約170万人の参拝者を迎えています。


 無題.png同社HPトップ画面


 文字通り押しも押されもせぬ大社であり、九州にも福岡県直方市直方御館山にも多賀神社があります。

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同社には多くの境内摂社がありますが、著作権を強調されており、非常に印象が悪くこれ以上は同社HPについては引用も掘り下げる気には成りません。

 もう一つ、神社の系統を考える上で重要な神紋も見ておく必要があるでしょう。

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三つ柏紋とユダヤの燭台メノラー


 ユダヤなどと書くと直ぐに目つきが変わる方がおられますが、多賀神社の直ぐ南には、多賀神社と全く同様の伊邪那岐 伊邪那美を祭神とする胡宮(コノミヤ)神社があるのです。

無題.pngでは、胡人とは何かご存じでしょうか?


中国人が北方や西域の諸民族をいう汎称。前3世紀末に匈奴が勃興してからは,胡は匈奴の同義語として用いられたが,漢では西域人を胡ということもあった。唐代でも主として西域人をさしたが,北方民族をさしていうこともあった。前者の場合,東トルキスタンの住民のほかに,ペルシア,大食やインド方面のものまでをさすこともあり,またソグドの住民だけを胡ということもあった。


ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

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胡宮神社 カーナビ検索 滋賀県多賀町敏満寺49 0749-48-0136


この神社の方が多賀神社よりよほど関心を持ちますが、今回のブログに多少の混乱を招きますのでこれまでとして多賀神社に戻ります。

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ここで境内末社について少し触れておきましょう。

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同じ区画に二社が置かれていましたが左が愛宕神社で右が秋葉神社です


 実は愛宕神社も秋葉神社も等しく金山彦=加具土命…を祀る神社の事なのです。

 それが何故二社置かれているかを考えると、合祀の結果なのか勘違いなのかと思わざるを得ないのですが、逆に言えば、同一神と理解されているからこそ一緒に置かれているのかも知れません。

 分かり難い神社もあります。聖神社です。この神社が境内分社として祀られているのも興味深いです。

 聖神社とは第8代孝元天皇なのですが、何故、祀られているのでしょうか?

 そして、イザナギとイザナミとどのような関係があるのでしょうか?

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 結論から言えば、伊勢の外宮の豊受大神そして卑弥呼宗女伊予を通じて孝元天皇にイザナミ、イザナギの血が注がれているからだろうと思うのですが、ここで詳しく述べるのは止めておきましょう。

 ただ、何故、孝元なのかなど関心をお持ちの方は、つい最近書いた ひぼろぎ逍遥の方で以下をお読み頂きたいと思います。


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別役神社祭礼の日の前に見た心惹かれる一社

“孝元天皇を祀る高知県香美市香北町の聖神社”


 多賀神社についてはもっと重要な事があります。それはイザナギとイザナミは早い段階で別れて、イザナミは名をクマノフスミと変え熊野那智大社に祀られているのです。

 このように、イザナミは死んだことにされてはいますが、それはイザナギに対する配慮であって、列島の神々の協調を思わせるのです。

日本書紀の一書では穏やかに話し合いを行い、イザナミが「もう別れましょう」と言うと、イザナギ命が「お前には負けないつもりだ」と妙なことを言って唾を吐いたときに生まれたのが、速玉男命(実は大幡主)と言われ、そして、そのままイザナギ命が黄泉の国の穢れをパパっと掃ったときに生まれたのが事解男命(実は金山彦)とされています。

 半信半疑かも知れませんが、イザナギを祀らないイザナミを祀る神社が異常に多い事は神社研究者ならば知らないはずはないのであって、その理由はイザナミが早い段階で別れて熊野系に移行したからなのです。それは、イザナミは金山彦の妹だからなのです(だから愛宕神社、秋葉神社が大切に祀られているのです)。しかし、スサノウも神沼河耳のお妃である神俣姫も両神の子なのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年02月27日

549 近江散歩 K 甲良神社初見 “甲良町の二つの高良神社”

549 近江散歩 K 甲良神社初見 “甲良町の二つの高良神社

20180417

太宰府地名研究会 古川 清久


既に、ひぼろぎ逍遥 スポット171 近江の伊吹山の麓に移り住んだ人々 により部分的にはご紹介していますが、琵琶湖の東岸に甲良町があり二つの甲良神社があるのです。

これは九州王朝の痕跡の様に見えますが、それが九州王朝の発展期に於ける痕跡なのか、九州王朝消滅後の痕跡なのかは今のところ見当が着きません。

ただ、隣接する豊郷町安食に阿自岐神社が存在する事を併せ考えれば、阿自岐地名が高良大社直下に阿志岐村として、また、太宰府の南側の現筑紫野市にもの存在していた事を考えれば、古代筑後湾の両岸に存在した地名が琵琶湖にも持ち込まれている事を意識せざるを得ないのです。

ここでは甲良神社が高良神社を置きかえたものと考えられるという提案だけをしておこうと思うものです。

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祭神が武内宿禰とされているのは九州島以外の全般的傾向であって、当の高良大社に於いてさえ、有馬藩の入府によって高良玉垂命は武内宿禰(腹違いの弟でありただの臣下)とやってしまっているので、高良神社と同一の神社である事は疑いようがありません。本当は藤原により第9代天皇とされた開化なのです(妃は仲哀死後の神功皇后)。

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この神社を実見して気付いた事は神紋です。ネットでの事前調べではこういう所が分からないのであって、やはり現地は踏まなければならないのです。


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賽銭箱にも神殿上部にも、参拝殿にも四ツ目紋が打たれていました。

これで、近江に高良神社を持ち込んだ人々の見当が少しついたような気がしてきました。

まず、この四ツ目紋は高木大神のもので、長崎県島原市の四面神社などが中心的な神社であり、旧南高来郡、北高木郡の地名にも表現されているのです。その上に同社の鎮座地は「甲良町尼子1」となっているのです。

そこで思い浮かぶのが、周防の大内氏と石見銀山を巡って死闘を繰り返した尼子氏です。

中でも山中鹿之介の活躍は有名で、彼は橘紋、新月紋を使う橘一族とも言われますが、それはともかくも尼子氏は佐々木氏であり、その代表的家紋が「四つ目結」なのです。

そうするとバサラ大名で有名な佐々木道誉の佐々木氏と繋がって来るのです。

ただ、これは同社が現地の守護大名だった佐々木氏を頂いているだけなのかもしれませんが、久留米の高良大社の草野氏にも通じるため無視できないのです。


尼子氏は宇多源氏佐々木氏の流れを汲む京極氏の分家で、京極尼子家とも呼ばれる。家紋の四つ目結も、京極氏のそれである。南北朝時代の婆娑羅大名として初期の室町幕府で影響力を持った佐々木高氏(道誉)の孫・高久が、近江国甲良荘尼子郷(滋賀県甲良町)に居住し、名字を尼子と称したのに始まる。

京極氏の出雲守護代を務めるも、後に自らが守護となる。室町時代に高久の次男・持久は、宗家京極氏が守護を務める出雲の守護代として同地に下向し、月山富田城(現在の安来市広瀬)に拠った。やがて出雲と隠岐の守護代を通して雲伯の国人を掌握し、次第に実力を蓄えていった。応仁の乱では東軍に属している。                        ウィキペディア(20180417 11:05による


 何の事は無い、京極も佐々木も尼子も草野も、ともに高木大神系の氏族だったのかも知れません。

 この手の神紋を考える時重要なのは、この神社の庇護を受けた権力者を表現している場合とこの神社を建立した氏族の神紋である場合とがあることなのです。

 しかし、僅かな可能性ですが、実際は九州から移動した高木大神系氏族が高良大社を祀っていたのかも知れません。

さて、滋賀県犬上郡甲良町法養寺にももう一つの甲良神社があるのです。

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百嶋由一郎金神系譜(部分)


この際、高良玉垂命(藤原により第9代とされた開化天皇)と武内宿禰がどのような関係にあるかを百嶋由一郎氏が残された通称金神系譜でご紹介しておきます。

まだ、近江の調査は端緒に着いただけで不十分な点はお許しいただきたいと思います。


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記