2019年02月09日

541 近江散歩 C 熊野神社 “島根県松江市八雲町熊野”

541 近江散歩 C 熊野神社 “島根県松江市八雲町熊野

20180408

太宰府地名研究会 古川 清久


 近江〜丹波〜丹後の調査の帰路、休養が必要なこともあり温泉も併設されている松江市の熊野神社を訪れました。

 二十年ほど前に一〜二度訪問したことがあるのですが、当時は、まだ、神社の祭神に対して強い関心を持つに至っておりませんでした。このため、実質的には初見の神社と言えるかも知れません。

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意宇川河口には出雲国国府跡もあり、この流域が古代出雲の中心地、若しくはハート・ランドだった事は疑い得ません。

当然にもこの上流に鎮座する熊野神社が出雲大社に対してどのような関係にあるかに思いが馳せます。

まずは、島根県神社庁の「県内神社のご案内」の資料を確認しますと、スサノウを祀る神社となっています。

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このような祭神を考える時に重要な事は、仮にスサノウを祀るとしても、スサノウとクシナダヒメとの間に産まれた人々がスサノウを祀る場合もあれば、元々スサノウを奉斎する一族が住み着いていた場合もあるでしょう。

もう少し広げれば、百嶋神社考古学の立場からは、イザナミとイザナギの間に産まれたとしますので、イザナミ系、イザナギ系の後裔氏族のいずれかがスサノウを祀る場合もあるでしょう。

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同社掲示板


まず、イザナギ、イザナミのイザナギが祀られていない事がお分かり頂けるのではないでしょうか。

この傾向はある程度熊野系の神社を巡っておられる方は大体ご存じではないかと思います。

かなり一般的な傾向で、イザナミ、イザナギをセットで祀るのは多賀神社程度になります。

これを示唆するものにイザナギとイザナミのやり取りがあります。

日本書紀の一書では穏やかに話し合いを行い、イザナミが「もう別れましょう」と言うと、イザナギ命が「お前には負けないつもりだ」と妙なことを言って唾を吐いたときに生まれたのが、速玉男命(実は大幡主)と言われ、そして、そのままイザナギ命が黄泉の国の穢れをパパっと掃ったときに生まれたのが事解男命(実は金山彦)とされています。

イザナミとは金山彦の妹にあたる女神であり、ある意味でスサノウは金山彦の後裔である事が幾分かはお分かり頂けるでしょう。だからこそ博多の櫛田神社には大幡主と共にスサノウが祀られているのです。

そう思えば、この熊野大社にも金山彦系の荒神社が置かれている事も腑に落ちるのです。

その上に、そもそも櫛稲田姫とはイザナミの兄神の金山彦と大幡主の妹神である埴安姫との間に産まれたプリンセスであることから、この神社はプリンセスとプリンスを中心とする金山彦系が色濃い神社である事が見えてくるのです。

つまり、十束一担げに出雲系などと短絡するのではなく、より大幡主系(白族)にシフトした出雲大社に対して、金山彦系の神社が熊野大社と呼ばれている事を考える必要があるのです。

さらに重要な事は、この地に住み着いた人々も、九州からの移住者であって、スサノウとクシナダヒメが出会った場所も九州(熊本県山鹿市)であり、大国主命も少彦名命も福岡県内で活動していたのです。

これについてはひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下をお読み下さい。


300

大宮神社と猿田彦大神 S “総括:百嶋由一郎神代系譜と猿田彦”

299

大宮神社と猿田彦大神 R “広島県庄原市の蘇羅比古神社にも山幸と豊玉姫が…”

298

大宮神社と猿田彦大神 Q “岡山県津山市の大美禰神社も天宇受賣命を祀る古社”

297

大宮神社と猿田彦大神 P “『儺の国の星 拾遺』の真鍋大覚は猿田の意味を知っていた”

296

大宮神社と猿田彦大神 O “猿田彦は何故猿田彦と呼ばれたのか?”

295

大宮神社と猿田彦大神 N “ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と安心院の佐田神社 再掲”

294

大宮神社と猿田彦大神 M “鹿島、香取でご存じの香取神社の経津主も

猿田彦大神なのです”

293

大宮神社と猿田彦大神 L “福岡県豊前市の四公神社“

292

大宮神社と猿田彦大神 K “全国展開された猿田彦大神“

291

大宮神社と猿田彦大神 J “古代日向のヤゴローどん も猿田彦なのです“

290

大宮神社と猿田彦大神 I “山幸彦=猿田彦のもう一つのルーツについて”

289

大宮神社と猿田彦大神 H “猿田彦専門のサイトから”

288

大宮神社と猿田彦大神 G “猿田彦がニギハヤヒで山幸彦であることについて”

287

大宮神社と猿田彦大神 F “山幸彦=ニギハヤヒは博多の櫛田神社の主神の

大幡主の子であった”

286

大宮神社と猿田彦大神 E “佐野経夫(神理教教団)と菊鹿町「吾平」の

ウガヤフキアエズ陵”

285

大宮神社と猿田彦大神 D “佐野経夫(神理教教団)と猿田彦大神”

284

大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は熊本県

山鹿市で産まれた! ”

283

大宮神社と猿田彦大神 B “大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” 

282

大宮神社と猿田彦大神 A “大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” 

281

大宮神社と猿田彦大神 @ “山鹿市の大宮神社とは何か?


従って、この松江の山奥と言っても、古代の中心地である意宇川沿いの豊穣の地に住み着いた人々とは金山彦系の人々であって、より海人族の匂いのする出雲大社系の人々とは系統が多少異なる事が分かるのです。

なお、宇加能御魂神とは伊勢の外宮の豊受大神=伏見稲荷=アメノウヅメであり、スサノウとミヅハノメ(大山祗命の嫡女)との間に産まれたこれまた最高格式の女神なのです。

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同社参拝殿

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


ここまで分かれば、和歌山県の熊野との関係が気になりますが、それは長くなりますのでまた別稿とさせて頂きます。しかし、神紋を見ると亀甲紋に「大」の字が付されています。

この亀甲紋は博多の櫛田神社が起源であって(断じて出雲大社ではない)、「大」の文字の意味も「太一」の意味かも知れません(これは保留しますが)。丸に大なら大丸デパートか丸大ハムでしょうが…。

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スサノウの母君は良いとして、ここでもイザナギはどうしたのでしょうか?祀られていませんね。

故)百嶋由一郎氏の凄い所は、多くの神社の調査の結果、イザナミはイザナギと分かれており、博多の櫛田神社の大幡主と一緒になっていると突き止められているのです。

同社のHPには以下のように書かれています。

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さしずめ私達もそのような扱いを受けるのでしょうが、滋賀県の多賀神社の様にイザナギ、イザナミをセットで祀る神社もあれば、熊野神社の様にイザナギを祀らない神社も相当数存在するのです。

もしも、誤った紹介記事…と言われるのであれば、まず、この点だけでもご説明頂きたいと思うものです。

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最後に博多の櫛田神社前の掲示板には櫛稲田姫を右の様に書かれていました。

「マカミフル」とはそのまま解釈しますが、実際にはどのような意味があるのでしょう。

これは今のところ分かりませんので将来にまわすとして、アシナヅチとテナヅチこそ金山彦と、大幡主の妹である埴安姫であり、最後に掲げられている造化三神の神皇産霊尊こそ大幡主であり、ヤタガラスの父神にあたるのです。

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上で言うならば、中が素盞嗚尊(祇園宮)の紋、左が大幡主命(櫛田宮)の紋、そして右側が天照皇大神(大神宮)の紋になります。


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで
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2019年02月11日

542 近江散歩 D 石作神社 “滋賀県長浜市木之本町”

542 近江散歩 D 石作神社 “滋賀県長浜市木之本町

20180413

太宰府地名研究会 古川 清久


話は前後しますが、高島市安曇川町から長浜市の中心部に移動する途中で気になる神社を発見し慌てて引返しました。

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石作神社、玉作神社(イシツクリ、タマツクリ)は、滋賀県長浜市に鎮座する神社である。式内社で旧社格は県社。

中世以降の度々の戦禍により創祀の年代・由緒は不詳。近隣の水田に「石作」という塚があり、禁足地となっており、旧社地との伝承がある。明治9年(1876年)に村社、同18年に郷社、大正11年(1922年)には県社に列格した。

ウィキペディア(20170413 20:01による


鎮座地は『和名抄』楊野荘に属していた。中世は石作荘だった。

 当社は伊香郡の式内社である石作神社と玉作神社を延宝五年(1472)に合祀したもの。千田集落の南に古字石作があり、石作神社の旧地とされる小丘があり、紅梅の老樹があったと言う。ここから勾玉、管玉、砥石などが発見されたと言う。

 石作神社は石作部の祀る神社であって、祭神を祖神の天火明命としている。玉作神社は玉作部に関わる神社であり、玉祖命を祀ったのである。別名を天明玉命や玉屋命と言う。

 石作神社、玉作神社ともに創建年代は不詳。

玉姫物語

むかし、千田は、石作りの庄と呼ばれていました。

 この里に、そうざえもんという人が住んでおりました。

 そうざえもんさんには、名を玉姫という、それは美しい娘さんがありました。

 そして、このことを、どこから伝え聞いたのか、伊吹の山に住む伊吹の三郎という男が、この娘をひと目みたいと里へやってきました。

 伊吹の三郎は、大変な怪力をもった大男でした。その上、里をあらしまわり、人々からは、大層恐れられておりました。

 三郎は、草屋根の下で、無心に玉を磨いている玉姫の姿にひと目ぼれしてしまいました。そしてさっそく「娘をわしにくれ。」と、そうざえもんさんに頼みました。

 そうざえもんさんは、「嫁にはやsれぬ。」と恐る恐る、でも、きっぱりことわりました。

 怒った三郎は、伊吹の山の岩石を石作りの庄めがけて投げつけました。投げつけた石はその里の岩田という田に落ちました。

 今も、その石が、千田のお宮さんにまつられており、伊吹の三郎の手の跡が残っているのが見られるということです。

敬愛する「神奈備」による

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祭神は天火明命と玉祖命とする


 非常に上品で印象深い神社であり、縁起は縁起として尊重しますが、祭神については異論があります。

 元より政争の激しかった近江の事、祭神を入れ替えることを持って生延びてこられた事は十分に想像が着きます。どうもこの神社もその一例だと思えてしまうのです。

 まず、玉の祖の命という祭神は博多の櫛田神社の大幡主命かその先祖神の事であり、ヤタガラス=豊玉彦の親神、祖父神でしょう。豊前、周防(古代の豊の国)などにこの神社を56社は確認しています。

 ただ、この神社では玉姫(豊玉姫)に準えているようで、玉作とは女性神を意図しているようです。

 何故、この神社の縁起を疑うかと言えば、甲信〜関東に掛けて分布する磐裂命、根裂命の事を知っているからです(天之加々背男命=アメノカカセオノミコトと共にこの磐裂根裂神=イワサクネサクノカミ)。要はカガセオこと長脛彦(岐神)とはスサノウと櫛稲田姫の流れを汲む金山彦系(実は物部の本流)であり、逆賊ナガスネヒコ系の祭神を隠す必要があったからだと思われるのです。

石作はアブラハム、ヤコブのイサクかも…この話はまた別に。金山彦はイスラエル系の神なので菅…。

では、玉作神とされているのは如何なる神様なのでしょうか?

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百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで

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2019年02月13日

543 近江散歩 E に佐賀県東部と筑後から琵琶湖周辺に移動した人々について (縮刷版)

543 近江散歩 E に佐賀県東部と筑後から琵琶湖周辺に移動した人々について (縮刷版)

20180413

太宰府地名研究会 古川 清久


 今回の話は、これまでスポット版で数本書いてきたものの概略を分かり易くまとめたものですので、後段の数本をお読み頂ければそれで済むのですが、さらに簡略にまとめてみるとより鮮明に見えて来るのではないかと思うものです。

事の発端は野波神社の発見でした。五年ほど前に太宰府地名研究会の中島 茂氏が発見して十名ほどで現地にも入ったのですが、その後その重要性が分かり、古川が以前から注目していた旧背振村桂木の葛城一言主命を祀る神社との関係が見えて来るに至り、現佐賀市の旧三瀬村の水没した野波の里に神功皇后のご両親が住んでいた(従って神功皇后もこの地で産まれている)事までが見えて来たのでした。

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佐賀県の脊振山中にある野波神社(左)と付近にある下ノ宮(右)です。

現在は北山ダム(1950〜)に水没した事によって移転した後、さらにゴルフ場建設によって再移転を余儀なくされた神社ですが、この縁起には付近にしたご両親を祀る下ノ宮の事が書かれていたのです。

 詳しくは以下の数稿を読んで頂きたいと思います。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

489 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた! “宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”

ひぼろぎ逍遥

スポット144 三瀬村トレッキング現地リポート

スポット171 近江の伊吹山の麓に移り住んだ人々

スポット172 姉川と妹川という名を付した人々と息長系氏族

スポット173 亀屋佐京


 メンバーの宮原誠一氏は、水没した野波の里で生活していたご夫婦の間に産まれたのが神功皇后であり、後に上宮として祀られたのが下ノ宮(皇后となったため下ノ宮と呼ばれた)であったのではないかとされているのです。

 いずれにせよ、桂木の一言主命神社の存在から葛城氏の一族が旧脊振村にいた事は推定されますが、縁起からは同じ脊振山系無題.pngの旧三瀬村辺りに息長宿禰もいた事も推定でき、葛城氏も息長氏もともに脊振山系に展開していた可能性があるのではないかと考えられるのです。

 当然ながら、通説派の方々は“何を馬鹿げたことを…”と取り合わないでしょうが、ではお尋ねしますが、皇后のご両親である息長宿禰と葛城高額姫を単独で祀る神社が何故この地に存在するのか、また、全国にそのような神社が存在するのであればご教授願いたいと思うものです。

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いずれにせよ、桂木の一言主命神社の存在から葛城氏の一族が旧脊振村にいた事は推定されますが、縁起からは同じ脊振山系の旧三瀬村辺りには息長宿禰もいたとも考えられ、葛城氏も息長氏もともに脊振山系に展開していた可能性があるのです。

 まず、葛城氏と言えば、カツラギノナガエソツヒコが頭に浮かびますが、今でも「長江」という小字が脊振村に残っています。また、「ソツ」はソシモリノの「ソ」であり、「牛津」(佐賀県小城市牛津町)ではないかと考えています。また、ここで申し上げておきますが、背振山頂にある航空自衛隊のレーダー・サイトの直下には「伊福」という地名もあるのです。

伊吹山の「伊吹」とは「伊福」の置換えの可能性があるのです。

 少なくともこの二つの氏族は佐賀県の脊振山系から福岡県うきは市の耳納山系に移動している様に見えます。

 それは、巨勢川という名の川が佐賀市を流れ、同じ名、同じ表記の巨勢川が福岡県うきは市から久留米市を流れ筑後川に落ちているからです。

 さて、通説では神功皇后の一族(息長氏)は近江にいたとされます(根拠は後裔とする氏族が居た程度)。

事実、敏達天皇のお妃となった息長広姫の陵墓などが滋賀県長浜市の姉川沿いにあるのですが、それはまだ後の時代の事なのです。

 ここで、佐賀県神埼市と福岡県うきは市に「姉川」と「妹川」という河川名、地名が存在している事をお知らせすることにしましょう。

 地名には戸籍がなく、僅かに文献に拾えるものだけが価値あるものとして採用されるものの、通常はまともに取り扱われる事はありません。

 勿論、そう言っておけば、権威が維持できる事から学芸員や教育委員会関係者といった方々は火中の栗を拾う事はしません。

 そのような事は十分に承知のうえなですが、当方には権威主義は一切関係がないため、故)百嶋由一郎氏が“95%が嘘”と言い切った「古事記」などを根拠に地名の起源を説明されていれば良いだけの事です。

この姉川地名は菊池氏の分流が肥前へ展開し現地の姉川地名を称したものと考えていますが、定かではありません。

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かつて、このダムが造られた北風の入る谷では多くの蹈鞴製鉄が行われていました。

三十近い○○多々良地名があったと言われています。現在はダムの底に沈んでいますが、記録は保存されているかもしれません。

また、久留米市の東隣のうきは市には妹川地区があり、伊福さんという鍛冶屋さんも沢山住んでおられる(た)のです。この人々の後裔が滋賀県の伊吹山(伊福の置換え)に移り住んだと考えられるのです。つまり、伊福さんという鋳物師が住む川が妹川(イモカワ、イモゴウ)ではなかったかと思うのです。

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太宰府地名研究会によるトレッキング(佐賀県神埼市脊振町桂木)葛城朝の起源か…


 筑後地方の人にとって、戦国期の草野氏の「草野」という地名はかなり重要です。

その久留米市草野町に対応する地名(長浜市草野町)が近江の姉川流域にもあるのです。

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無題.png勿論、姓名としての「草野」は不思議にも福島県に集中していますが、肥前起源とも言われる耳納山の麓に蟠踞した草野氏は戦国期でその支配領域を失います。しかし、この移動は地名が成立する程度の千五百年以上前に起こったはずなのです。

 もう一つ対応する例をご紹介しておきましょう。

 高良大社と言えば、筑後地方で知らぬ者のない大社ですが、これに対応すると思われる高良神社が彦根市にもあるのです。

高良神社 (コウラ)カーナビ検索 滋賀県彦根市鳥居本町2464 祭神 武内宿禰命無題.png


しかし、この程度の話ではなく、どうみても決定的と思える例が、地名と神社に認められるのです。

さて、ここから太宰府〜久留米を中心とした九州王朝の観点から少し考えて見ましょう。

 久留米と言えば高良玉垂命(実は仲哀死後の神功皇后をお妃として産まれた仁徳天皇以下五人の皇子の父神であり、藤原から第9代とされた開化天皇なのです)を祀る高良大社が頭に浮かぶのですが、その高良の置換えと思われる甲良町(甲良町は 近畿地方北東部、滋賀県東部にある犬上郡の町 滋賀県内にある地方自治体のうち 豊郷町に次いで面積が小さい があるのです)。

 高良神社に対応する甲良町があるだけじゃないかと思われるかもしれませんが、甲良神社がある上に、隣の豊郷町には安自岐神社を持つ安食という地区がある事に気付いたのでした。

 「高良」と「甲良」が対応しているだけならば、高知県東洋町甲浦のように(ここにも高良神社があります)他にもあるのですが、この甲良町の隣の安食の「阿自岐」まで揃っているとなると、どう考えても 

高良大社のある高良山の麓に居た阿自岐の一族が移動した痕跡地名としか考えようがないのです。

 ここでは太宰府の阿志岐(福岡県筑紫野市)地名を紹介しましたが、古代、有明海が久留米市の北側まで大きく入っていた1500年前頃まで、高良大社の南麓まで阿志岐であったと言われているのです。

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山川校区は、耳納山地の高良山麓から筑後川の南側で、久留米市の東部に位置し、山と川に囲まれて、緑豊な人情味あふれる安心・安全なまちです。地名は明治6年、山麓の阿志岐村と川沿いの神代村の合併の際、両村の立地を組み込んで名付けられました。   無題.pngによる

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甲良神社 カーナビ検索 滋賀県犬上郡甲良町尼子10749-38-2462


一目瞭然ですが、高良玉垂命は完全に消され祭神の入れ替えが行われていますね。

 もうひとつご紹介しておきましょう。


甲良(こうら)神社は天武天皇の奥方である尼子姫が筑後の高良神社の神を勧請したのが起源とされています。旧本殿は徳川家光の命により建立されたもので、社殿の彫刻などが室町時代の作風を色濃く表しているとして文部省の特別保護建造物に指定され、昭和35年には国の重要文化財に指定されました。建物の背の高さと規模が小さいながらもしっかりとした造りが特徴です。屋根の線や建物の配置などから伊勢神宮に似ているとも言われています。例年415日に行われる甲良神社の太鼓祭は2メートルもある大太鼓が目を引き、人気があります。  無題.png
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古賀事務局長の洛中洛外日記  第147話 2007/10/09 甲良神社と林俊彦さん


 先週の土曜日は、滋賀県湖東をドライブしました。第一の目的は、甲良町にある甲良神社を訪れることでした。甲良神社は、天武天皇の時代に、天武の奥さんで高市皇子の母である尼子姫が筑後の高良神社の神を勧請したのが起源とされています。そのため御祭神は武内宿禰です。筑後の高良大社の御祭神は高良玉垂命で、この玉垂命を武内宿禰のこととするのは、本来は間違いで、後に武内宿禰と比定されるようになったケースと思われます。

 ご存じのように、尼子姫は筑前の豪族、宗像君徳善の娘ですから、勧請するのであれば筑後の高良神ではなく、宗像の三女神であるのが当然と思われるのですが、何とも不思議な現象です(相殿に三女神が祀られている)。しかし、それだからこそ逆に後世にできた作り話とは思われないのです。

 わたしは次のようなことを考えています。それは、天武が起こした壬申の乱を筑後の高良神を祀る勢力が支援したのではないかという仮説です。天武と高良山との関係については、拙論「『古事記』序文の壬申大乱」(『古代に真実を求めて』第9集)で論じましたので、御覧頂ければ幸いです。

 この甲良神社のことをわたしに教えてくれたのは、林俊彦さん(全国世話人、古田史学の会・東海代表)でしたが、その林さんが10月5日、脳溢血で亡くなられました。まだ55歳でした。古田史学の会・東海を横田さん(事務局次長、インターネット担当)と共に創立された功労者であり、先月の関西例会でも研究発表され、わたしと激しい論争をしたばかりでした。その時に、この甲良神社のことを教えていただいたのです。7日の告別式に参列しましたが、棺の中には古田先生の『「邪馬台国」はなかった』がお供えされており、それを見たとき、もう涙を止めることができませんでした。かけがえのない同志を失いました。合掌。


古賀達也氏が見たのは尼子1の甲良神社の方ですが、滋賀県犬上郡甲良町法養寺にももう一つの甲良神社があるのです。

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甲良神社 カーナビ検索 滋賀県甲良町法養寺


本殿は、流造(ながれづくり)で、檜皮葺(ひわだぶき)、蟇股(かえるまた)、組物(斗拱(ときょう))、木鼻(きばな)などの様式から江戸時代(16031868)初めごろの本殿建築の好例とされています。 境内には「町の木」であり、「湖国百選」に選ばれた高さ26メートル、750年以上の年を経た欅(けやき)があります。 木鼻:などが柱の外側に突出している部分で、この部分に繰形(くりがた)や彫刻をしています。                                        甲良町HP


以下は阿自岐神社です。

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カーナビ検索滋賀県犬上郡豊郷町安食西663 0749-35-2743


この神社に祀られているのは、アジスキタカヒコネの神阿自岐氏のことです。阿自岐氏はかなり高貴な百済系の渡来人で、この庭園づくりに、日本に漢字を伝えた王仁氏を招いたといわれています。それはなんと今から1500年も前の事ですから、まだ庭などなかっただけに、阿自岐庭園は古代豪族の憩いの場となっていたのでしょう。これは日本最古の庭園の一つともいえます。また、この地域が安食と呼ばれるルーツは、やはり阿自岐氏からきたと思われます。阿自岐氏が近江に来て美しい庭園を築き、心豊かに安らぐこの郷に住んだと聞いて訪れると遠く千数百年前、古代豪族の美の世界へロマンが広がります。

豊郷町HP

【延喜式神名帳】阿自岐神社 二座 近江国 犬上郡鎮座

【現社名】阿自岐神社

【住所】滋賀県犬上郡豊郷町安食西663

【祭神】味耜高彦根神

(配祀)道主貴神 天児屋根命 保食神 須佐之男命 天照大神 大物主神 応神天皇 宇迦之御魂神 大己貴命 猿田彦神 埴山姫神


もうひとつ思いつく地名対応があります。

 佐賀県東部〜筑後川左岸と琵琶湖の地名対応を考える時始めに頭に浮かぶのは前原と米原です。

 旧脊振村、旧三瀬村から北側の福岡県に下れば、現在糸島市となった前原町(旧前原市)こちらは「マエバル」と呼ばれていますが、伊吹山の麓、関ケ原の手前の東海道新幹線の米原駅の米原(滋賀県米原市米原)ですね。どう見ても近江にはこちらの人々が入っているとしか思えないのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 19:14| Comment(0) | 日記