2019年02月01日

ビアヘロ076 新刊案内 『「日出処の天子」は誰か』(ミネルヴァ書房) 

ビアヘロ076 新刊案内 『「日出処の天子」は誰か』(ミネルヴァ書房) 

2018806

太宰府地名研究会 古川 清久


元)古田史学の会事務局長でもあり、久留米大学の公開講座でも私と一緒に講演して頂いた(「釜蓋」マンタ+「倭人も太平洋を渡った」)大下隆司氏が、山浦 純氏と共に『「日出処の天子」は誰か』を出版されました。

ここにそのご努力に敬意を表すると共に、併せて広くご紹介させて頂きたいと思います。

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新刊案内: 『「日出処の天子」は誰か』(ミネルヴァ書房)

折しも、太宰府地名研究会協賛としてメンバーの伊藤正子女史による「聖徳太子」を探る小規模講演を熊本地震の最大被害地の一つである熊本県西原村で始めたばかりでしたので思いもひとしおでした。

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勿論、聖徳太子と「日出処の天子」とは同一ではないのですが、それは相互の研究に従うべきでしょう。

 では、新著の概要をお知らせします。


 聖徳太子はすでに一万円札から消え、教科書からも消えようとしています。それでは『隋書』に記された「日出処の天子」とは誰だったのでしょう、古代史学会はその取扱いに困っています。

【謎だらけの日本の古代史】

世界の歴史はシュリーマンのトロヤ遺跡発掘以後、科学技術を歴史研究に導入することにより、多くのことが解明されてきました。最近ではアフリカなど各地の古い地層から見つかった骨のDNA分析により、5万年、10万年前に住んでいた人類の動きもわかるようになってきました。日本でも、放射性炭素14年代測定法の導入により、縄文人は世界に先駆けて1万6千年前から土器を作っていたことが判明しました。

ところが日本国成立のカギをにぎる古墳時代に入ると、急に日本の歴史は「謎だらけ」になってしまいます。この時代の解明には全国各地にある大型前方後円墳の調査が不可欠です。しかし主要な大型古墳は天皇陵・陵墓参考地に指定されて立ち入り調査すらも許されない状態です。歴史を調べる手法として、それまでの時代の解明に使われていた科学的手法が、急に使えなくなるのです。

それでは、古代史・考古学者はどのように日本の歴史を組み立てているのでしょうか。 “大和朝廷が日本の始まり”とする明治以降の国の基本方針から逸脱することは許されないためか、未だに考古出土物が見つかると、“これは『日本書紀』にある大和のどの天皇に関係するもの”と、すべて大和に結び付けて解釈をしています。

さらにほぼ同時代(3〜7世紀)に作られた「魏志倭人伝」や「宋書倭国伝」、「隋書国伝」など中国史書に記された地名・人名などを無理やり大和朝廷に結び付けています。同時代に記された一級史料を無視して、すべての歴史解釈を後世(8世紀)に作られた『日本書紀』をベースにして行っているのです。そして、その解釈がうまく出来ないと、それは謎です、と片付けます。

このため、世界のどの地域でもほぼ歴史が解明されている、わずか千数百年前の時代すら日本は「謎だらけ」になり、きっちりした歴史年表も作れない状況になっているのです。

“日本列島は万世一系の天皇家の統治するところ”とする思想をもとに作られた『日本書紀』に正しい歴史が描かれているのでしょうか。『日本書紀』の記述が違っていれば、日本国の成立はいつまでも謎につつまれたままです。

【本文の構成】

 『「日出処の天子」は誰か』は、特定の先入観や史観によりかかることなく、史書、金石文などを丁寧に読み解き、これらの史料が客観的に語ることに耳を傾けるという姿勢に努めました。そして、最新の科学的成果と知見を取り入れて、史料に記されている事実をできるだけ分かり易く語ることに心がけました。 

序章では、中国史書に描かれた「倭国」の興亡と歴史から抹殺された経緯、「日本国」の誕生を簡単に述べ、「日出処の天子」は「倭国」に実在した阿毎・多利思北孤であることを示しました。

第一章では、聖徳太子を巡る様々な謎を日本・中国の歴史書を比較検証し、かつ法隆寺にある釈迦三尊像の光背銘や古文書の分析から、聖徳太子の数々の業績が実は「倭国の天子」阿毎・多利思北孤のそれの盗用であることを述べました。

第二章では、「金印」授与の委奴国王や、女王「卑弥呼」の「邪馬台国」の所在地について検証します。また、中国史書に倭国の記述のない「謎の四世紀」については、韓国の史書を基に概観します。

第三章では五世紀の倭の五王の時代の日本列島、そして畿内で起きた武烈王朝から継体王朝への政権交代を取り上げました。

第四章では、六世紀の朝鮮半島の状況と九州王朝の誕生、全盛期を迎えた多利思北孤の時代、その後の朝鮮半島の同朋を救うため総力を上げ戦い、壊滅的敗北を喫した倭国の様子を示しました。

第五章では、乙巳の変、壬申大乱、白村江の戦いを通して天皇家が次第に権力基盤を固める一方、白村江の戦いで大敗し、衰退へ向かう「倭国」について述べます。

終章では、「倭国」滅亡と『万葉集』の歌に隠された「倭国」の風景、そして九州王朝の舞楽「筑紫舞」について語り、現代に蘇える「倭国」を描きました。

また、コラムにおいて、私たち現代人が知らされていない「倭人伝の短里(1里=約75m)」「二倍年歴」「太平洋を渡った縄文・弥生の人々」など、史料から見えてくる未知なる古代の姿を点描してみました。

さらに末尾には、古代日本において、中国・朝鮮と交渉していたのは九州の「倭国」だったということを、明確にするために、大和の近畿天皇家と北部九州の倭国・九州王朝を対比した年表を付しました。

 本書を読まれた方は、これまでの通説や学校で習ったこととあまりにも違う古代史像が提示されていることに驚かれると思いますが、これが中国史書等が証言している古代日本の真実の姿なのです。

701年に滅んだ倭国の痕跡は皆さんの近くにある古い神社の由緒のなかにも「九州年号」などに見出だすことが出来ます。是非この本を読み、「古代に真実を求める」旅に参加下さい。そして若い人たちに、わたしたちの祖先が残した素晴らしい足跡を伝えて下さい。

                               2018年8月大下隆司記

なかった別冊A

「日出処の天子」は誰か

よみがえる古代の真実

―――――――――――

2018年8月10日 初版第一刷発行

著者  大下隆司

    山浦 純

発行所 (株)ミネルヴァ書房

【目次】

はじめに

序 章 王朝の交代、「倭国」から「日本国」へ

 1 古代日本の姿 2 中国史書の中の「倭国」 3 日出処の天子は誰か

第1章 聖徳太子と多利思北孤

 1 日本人にとっての聖徳太子   2 聖徳太子をめぐる謎 

3 「隋書国伝」の多利思北孤 4 法隆寺の中の多利思北孤

第2章 金印・卑弥呼、弥生から古墳時代へ 弥生時代四世紀

 1 金印の時代 2 倭の女王卑弥呼 3 古墳時代の始まり

第3章 倭の五王と近畿天皇家 五六世紀

 1 倭の五王 2 「記紀」の天皇は倭の五王か 3 金石文解釈の疑問

 4 大和の王朝交代

第4章 九州王朝の成立から衰退へ 六七世紀

 1 六世紀、朝鮮半島の攻防 2 九州王朝の成立 3 多利思北孤の時代

 4 白村江の戦い

第5章 日本国の誕生 七八世紀

 1 大化の改新 2 壬申の乱 3 日本国の成立

終 章 よみがえる九州王朝

 1 疲弊にあえぐ倭国 2 万葉集の謎 3 秘かに伝えられた幻の筑紫舞

◆コラム

 @「一寸千里の法」と短里――古代中国の天文算術書『周髀算経』

 A 二倍年暦について

 B 太平洋を渡った縄文・弥生の人たち

 C ヨーロッパに伝えられた「九州年号」

 D「君が代」は九州王朝の賛歌

 E『古事記』と『日本書紀』

あとがき

参考文献

■資 料

 1  「魏志倭人伝」(紹熙本三国志)古田武彦による読み下し文

 2  「隋書国伝」原文(付古田武彦による読み下し)

 3  日本列島(倭国・九州王朝と近畿天皇家)の歴史年表

 4  倭国・九州王朝と近畿天皇家の系図


人名・事項索引

系図・史書・写真・史料・図・表 一覧


大下グループのブログへは、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)のリンクから「古田史学の継承のために」にアクセスして下さい。

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本当にようやくですが、青森〜東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2019年02月03日

ビアヘロ 077 読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…

ビアヘロ 077 読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…

20180829

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログをお読みの皆様、暑い中、丹念にお読み頂き有難いと思っています。

 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。

 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者が増え始め、神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。

 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし、ブログは書かないまでも、神社調査を行い記録を残している方もおられます。

 勿論、統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに、解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託すことになるでしょうが、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。

 百嶋先生と知り合いになったのは七年ほど前だったと思いますが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。

しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。

さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。

 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)

さて、四月の近江〜但馬、五月の糸魚川〜諏訪〜山梨、六月の青森と15日間づつ三度に亘って長躯の神社調査を行いました。

ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書かなければならず、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。

今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。

元々、福島の原子力災害辺りから、これ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのですが)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。事実、当会は研究を優先するためメンバーから会費を取る事なく僅かな参加費で運営しています。

人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。

基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二〜三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。

今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオンエアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。

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年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。

振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。

 大分銀行 若宮支店 0183−000093−7505802 フルカワ キヨヒサ

 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ

また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。

 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp携帯 09062983254 (常時対応)

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本当にようやくですが、青森〜東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件へ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件のアクセスはあるでしょう。ちなみに昨日のアクセスは両ブログで日量2000件を超えています。毎日続けば良いのですが。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2019年02月06日

ビアヘロ078 日田の大原八幡神社も物部の神社だった “大分県日田市の大原八幡宮を疑い再考へと”

ビアヘロ078 日田の大原八幡神社も物部の神社だった “大分県日田市の大原八幡宮を疑い再考へと”

20181031

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


日田の大原八幡宮と言えば、実質的には西豊後(そんな区分けは公式にないのですが)の一の宮とも言うべきもので、過去二度ほどトレッキングも行った大社でした。

以下もは年程前に書いたものですが、最近でも二度目のトレッキングを行なっています。以下再掲載。


058 豊後は日田の大社 大原八幡宮も元は高良玉垂命を祀る神宮だったのか!“2015新春日田三社詣りトレッキングより”


無題.png太宰府地名研究会主催の新春日田三社詣りトレッキングを行いましたが、日田の玉垂宮を見た後、日田の官庁街の中枢部にある大原八幡宮に廻りました。豊後の一の宮に劣らぬ実に立派な神社です。

豊後と言えば、北の柞原八幡宮、南の西寒多八幡宮の二社(この両社が豊後の一宮)が頭に浮かびますが、我々にとっては、筑後東隣の日田の大原八幡宮が実質的な一宮のイメージとなります。今回、玉垂宮から大原へと巡った理由は、「大原八幡宮」も元は高良玉垂命を祀っていたのではないかということにありました(この神社の鎮座地日田市田島も宗像大社(本来は大国主命)の大字田島から付されたものですね)。

現在、西の総社日田の大原八幡宮は誉田別命(ホンダワケノミコト)、大帯姫命(オオタラシヒメノミコト)比売大神(ヒメオオカミ)を祀っています。

今回も学者の権威を認めたくないため馬鹿にする意味で学者が馬鹿にする「ウィキペディア」を敢えて引用させて頂きます。学者の嘘より素人の真面目な研究を採用させて頂きます。

日田の八幡神社の初見は天武天皇白鳳9年(680靱負郷岩松峰(日田市天瀬町金場の北)に宇佐の鷹の居の社にいます神と名乗る神が現れ、社(鞍形尾の宮)を建てて祀ったことが初めである。慶雲元年(704)、杉原のの下に神が降りて村の女に神懸かり、「岩松の峰の神」を名乗って「杉原が便宜よいのでここにきた」と告げたとして、社を建てて祀ったというのが大原八幡宮の前身である杉原宮である。

貞観13年(871)若しくは仁寿2年(852)に、当時日田郡司であった大蔵永弘によって、杉原宮から現在の元宮に遷座され、宇佐神宮より橋本公則を迎え社司としている。建久4年(1193)、九州探題大友能直が、東の総社を柞原八幡宮、西の総社を大原八幡宮として鎌倉鶴岡八幡宮の参拝礼式に改めさせたといわれる。


ここも宇佐神宮と同様に比売大神を三女神としていますが、九州年号の「白鳳」が銘記されています。


「杉原宮から現在の元宮に遷座され」の元宮が何かは奇妙ですが今後の課題としておきます。

鷹居社も太宰府地名研究会のトレッキングで訪問しましたが、豊後では早くも七世紀から八世紀の変わり目に高良の神に替わり応神が出張って来ているようです(古田武彦が言う701年に九州王朝が消える…)。

一方、「高良玉垂宮神秘書」にも天平勝宝元年(749750)前後に「九州の宗廟を八幡に譲る」(104p)と書かれています。

全体としては八世紀半ばに高良大社(実際は高良玉垂神宮)は祭祀権を宇佐神宮に奪われたようですが、豊後に於いては、半世紀早く高良と宇佐八幡が入れ替わり始めたようです。

無題.png 個人的には四度目の参拝でしたが、トレッキング参加の皆さんに“この大原八幡宮にも「高良玉垂神宮」としての痕跡が残されている事”を確認してもらうのが最大の目的でした。

 では、物証としての痕跡を見て頂きましょう。

まずは、参拝殿正面最上部に打たれた五七の桐の神紋です。

 本殿最上部にも同様の神紋が十六葉菊(これは後鳥羽が定めたものですが…)と共に打たれています。

 これは、何度も言う様ですが、高良玉垂命の神紋です。

 無題.png以前の文書をお読み出ない場合は、「ひぼろぎ逍遥」 153 超高格式瀬高玉垂宮の神功皇后像が消えた “みやま市河内の高良玉垂の宮”他をお読みください。

 では、その妃である神功皇后の神紋はというと、表参道階段脇に置かれた数個の灯篭に三五の桐紋が打たれています(十六葉菊が削られてもいるようですが…)。

 蛇足になりますが、本殿上には非常に珍しい日田大原八幡宮特有の剣(鬼)洲浜紋がありました。

これは、メンバーから教えて頂いたものですが、大蔵氏=財津庶家(実はその方のご関係)のもので、これを使う一族も実は高良玉垂命の流れを汲む紀氏なのです。


大蔵氏


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東漢氏の一族で、壬申の乱の功臣である大蔵広隅を祖とする。姓は直のち忌寸・宿禰・朝臣。大蔵氏の名は大蔵に仕えたことに由来するが、東漢氏の祖・阿智使主が播磨国明石郡大蔵谷に館を構えたことに由来するとの説もある[要出典][2]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E6%B0%8F
大蔵氏は春実以降、代々大宰府府官を務め、子孫は九州の原田氏・秋月氏・波多江氏・三原氏・田尻氏・高橋氏の祖となって繁茂し、大蔵党一族と呼ばれる。
また幕末の尊皇攘夷の志士で福岡藩士の平野国臣(大蔵種徳)は、春実の三男種季の子孫という。
秦氏の内で大蔵の出納を務めた者が大蔵を称した。雄略朝において初めて大蔵官員を設置し、秦酒を以て長官としたという。氏姓は大蔵秦公のち秦大蔵造。
後漢の王の阿多倍の直接の子孫 は坂上氏、大蔵氏、内蔵氏、永嶋氏、阿倍氏、です。 坂上氏は坂上田村麻呂として有名  ...
http://www.aoki.cc/cgi-bin/upbbs/upbbs.cgi?bbs=upbbs&page=1&num=377&view=1


「世界史掲示板(荊の紀氏)」より


無題.png境内社も大山祇、大国主、住吉三神、松尾様=大山咋、稲荷(豊受大神)様と九州王朝の家臣団が揃踏みです。

大山祇も大国主も?と思われるかも知れませんが、「記」「紀」神話に騙されてはいけません。いずれも九州王朝の臣下なのです。

最後に、大原八幡宮の参拝殿の神額を見て頂きましょう。

「八幡宮」の書体が少し変わっていますね。これは鳥文字と言われるもので、菅原道実候の一族の影響下にあるもので、鷽替え神事の鷽を模したものなのです。

日田市の東、九重町には菅原地区があり、太宰府で死んだとされる菅侯は、藤原の刺客を避けこの地に秘かに潜伏し、地元の有力者の一族に道真侯の種を残しておられると聴いております(現在も末裔が…)。

その後、鹿児島の薩摩川内市の奥地に移動し、藤川天満宮付近で余世を全うされた様で、現地には多くの伝承が残されています。

これについても「ひぼろぎ逍遥」019 道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った!をお読みください。それと関連するかは不明ですが、この大原八幡宮の社家、もしくは有力氏子にこの菅原系(ナガスネヒコ系&ヤタガラス系)のどちらかの氏族が関係している事は間違いないでしょう。神額の鳥は六羽(?)は描かれているようですが分かりますか。

以上再掲載

 ところが、大原八幡なる神社が豊前にも二社ある事に気付き(実際には以下の如く)、その二社は日田の大原からの勧請だと(「福岡県神社誌」)言っているのです(前ブログ参照のこと)。

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調べ始めると、山陰、山陽から畿内、北関東まで広い分布を示している事が分かって来たのです。

 では、何故、大原と言う呼称が成立しているのでしょうか?と言うよりも、そもそも、全国に分布する大原八幡宮、大原八幡神社とは同じタイプの神社なのでしょうか?

 この一事をもってしても、単なる郷土史会、史談会程度の視野では一種の神社の本質さえ掴めないで記紀や神社庁のデータや由緒だけで理解できたような気がして満足している事がお分かり頂けるのではないでしょうか?

 ましてや政情の変化に併せ祭神を隠し、あるいは復活させ、あるいは合祀するなどされている者からその神社の本質に迫る事が如何に難しいかがお分かり頂けるのではないでしょうか?

 どうやら、日田、みやこ、苅田の三社に関してはニギハヤヒ、大原足尼(「先代旧事本紀」ニギハヤヒ十世の孫…)…の神社である可能性があるようなのです。

 それには前ブログを読まれれば分かりますが、

702 大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県苅田町の大原八幡神社”

703 大原八幡神社は物部の神社だった “福岡県みやこ町の大原八幡神社”

ニギハヤヒ、大原足尼命…との祭祀が日田の大原からの勧請であると書いているから分かったのであって、最低でも「福岡県神社誌」にはその片鱗がある訳で、日田の大原は「大分県神社誌」といったものが存在しない上に、当方がそこまで探っていなかった事の結果でしかないため、大分県の場合使う明治の「神社神名帳」を大分のブロガーで、メンバーの「ひとつあがりのカフェテラス」氏から頂く予定ですので、最期に写しを添付しておきます。

 少なくとも、日田の大原では、この事はそれこそ日田隠しにされている訳で、神社調査が容易ではないことに痛感させられますのです。

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以下は一例ですが、千葉県流山市の大原神社(三階菱も豊玉彦系=小笠原家の家紋)の画像ですが、祭神が全く異なる事はお分かり頂けるでしょう。下調べとしても大変な作業になります。

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祭神:《主》瀬織津比当ス,速開津比当ス,気吹戸主命,速佐須良比当ス

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:38| Comment(0) | ビアヘロ