2019年01月13日

ビアヘロ074 「魏志」伊都の長官「爾支」(ニキ)を祀る神社

ビアヘロ074 「魏志」伊都の長官「爾支」(ニキ)を祀る神社

20180810

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


伊都の長官「爾支」と言えば古代史ファンであれば直ぐに反応される重要な人物ですが、「自女王國以北 特置一大率 検察諸國 諸國畏揮之 常治伊都國 於國中有如刺史…」と書かれ 刺史を恐れるが如しと書かれているのです(於國中有如刺史)。


いとこく【伊都国】

3世紀の邪馬台国の時代に倭にあった小国の一つ。後の筑前国怡土(いと)郡,今の福岡県糸島郡。その中心は,三雲,井原の地とみなされている。《魏志倭人伝》によると伊都国は,末盧(まつら)国の東南陸行500里の地点にあって,その国の官に爾支(にき),泄謨觚(せまこ)があり1000余戸の人口があって,代々王がいたけれども,みな女王国に統属し,帯方郡の使者が往来するのに当たって,常にこの国にとどまったという。一大率(いちだいそつ)の駐留した国。  「世界大百科事典 第2版の解説」による


この人物を祀っている神社があるなどと言えば眉唾物と顰蹙を買う事になるでしょう。

 その神社とは、通称、荒江櫛田神社(福岡県福岡市の福岡県福岡市城南区荒江1丁目13-13)です。

無題.png

故)百嶋由一郎氏が残された手書きメモにこの伊都の長官「爾支」に関するものがありますので公開することに致します。

 これ自体をどのように受け留められるかは読み手の力によりますが、百嶋翁は何らかの聴き取りをされていたものと考えています。

無題.png

百嶋由一郎手書きメモ百嶋神社考古学追加19塩谷ファイル(大和神社)(荒江櫛田神社)


天照大御神は良いとして、大若子、小若子は、博多の櫛田神社の大幡主とその子ヤタガラスの意味であることは直ぐに分かります。

右に書かれた五穀神とはスサノウになるでしょう。

それは博多の櫛田神社にスサノウが祀られている事とも符合します。

問題は、天児屋根命です。これは「福岡県神社誌」にも登場するので厄介ですが、藤原の祖であり阿蘇の草部吉見(ヒコヤイミミ)=武甕槌=鹿島大神の事で、大和朝廷による挿入と見て良いでしょう。

この右の由緒が本物なのです。

無題.png

この表の由緒は改竄に近いものだと我々には分かるのですが、この天児屋根命を入れた由緒には幸神が入れてありません。明らかに排斥されたものと思えるのですが、「県神社誌」にはその痕跡が留められています。

無題.png

境内神社 幸神社(同祖神)荒江字幸の前に無格社として祭祀ありしを大正四年七月五日許可を得て合併古く荒江の産土神と伝ふ。と書かれています。

 まず、「荒江字幸の前に無格社として祭祀ありしを合併古く荒江の産土神と伝ふ」と書かれています。

「幸の前」という字があるのは幸神が祀られていたからそういう字名になっている訳であり、しかも産土神なのですから元々の祭祀があった(恐らく藤原対策で外に出された)からであり、大正デモクラシーの時代に締め付けが弱まった事から合祀され復活したものと考えられるのです。

考えれば分かる事ですが、櫛田神社の本社とも言うべき博多櫛田神社に天児屋根命など片鱗もありません。

つまり、本来、ニギハヤヒ=山幸彦を祀る神社であったことからそれを排除し、天児屋根命=海幸彦が入れ替えられたものと考えられるのです。

その理由は、追放された物部の頭目だったからに相違ありません。

重要なのは、この神社は元年間に早良区の野芥櫛田神社から持ち込まれたとされている事から、野芥の櫛田神社にも同様に山幸彦が祀られている可能性があるのです。

この神社についても、百嶋先生は話しておられ、“猿田彦=実は山幸彦のお妃であるアメノウヅメ=豊受大神はストリップでもしたかのように神話では描かれているが、この神社では頑として否定しておられます…”と話しておられました。

その意味でも、元々、野芥櫛田神社には山幸彦+豊受大神が祀られていた可能性があるのですが、今後の課題です。

 幸神は当然にも山幸神の山を外したもので、場合によっては海幸彦として繕うための配慮でしょう。

無題.png

伊都の長官爾支を祀るものですが赤い鳥居から判断してお妃の稲荷様

=アメノウズメ=豊受大神とご一緒ではないかと思っております


宇佐神宮とは何か 2012317日百嶋由一郎講演 


倭人伝にでてくる伊都国の長官は爾支「ニキ」、キがついているので新羅系であることがわかる、将来、饒速日となる山幸彦(猿田彦)です。投馬国の長官は弥々「ミミ」、彦山の天忍穂耳である海幸彦です。ある時期はこういう時代もあったということです。倭人伝は、何十年かのことをごっちゃ混ぜにして圧縮して書いているので、そのまま信じると間違えてしまう。伊都の国は伊都、投馬国は宇佐です。そして、すこし時代はおくれて、宇佐津彦が出てくる。宇佐津彦は生目(贈垂仁天皇)です。足一つ騰がりの宮、これを生目が、神武天皇(これは本当は贈祟神天皇)に献上したことになっている。贈祟神天皇を神武天皇とわざと混同したい連中がいる、高木の大神系統です。ところで高木の大神の故郷に日本の高天が原がそっくりそのまま移転したことをご存知ですか?近鉄奈良駅の地名、高天です(あの付近の地名は高天町です)。ほら吹き集団はどこに一番多く住んでいたか。一番多いのは福岡県です。もちろん奈良県も多いです。熊本の第五高等学校付近の龍田から、奈良の立田(風神、雷神の立田神社)まで、阿蘇火山帯(中央構造線)でつながっている。阿武隈(=おおくま)、大隈、七隈、嘉麻市の中心部の大隈、これは大集落という意味です。博多の櫛田神社系統の大集落という意味です。そして、奈良では葛木連山の葛木古道の中に高天神社があったが、次第にお賽銭が上がらなくなった。そして最終的には、この人たちは朝鮮半島の八万大蔵教のある高麗に移った。今、そこで非常にはやっている。


肥後翁のblog 民俗・古代史及び地名研究の愛好家 による


 驚きになったと思いますが、真実とはいつもベールに被っているものです。

 「記」「紀」だけを聖典と崇め、大家の説を真に受けるだけでは真実には到底到達などできないのです。

ましてや村興し町興し世界遺産登録に狂奔するような方々や、邪馬台国九州説を学ぶ会や九州王朝論を楽しむ会として通説派の学芸員などの御高説に平伏するような姿勢では古田武彦が一生を掛けて切り開き将来に託した九州王朝論は地に落ちる事にしかならないはずです。

 とりあえず、伊都の長官「爾支」=ニギハヤヒを祀る神社が存在する事、その祭神がニギハヤヒである事までが分かれば、ニギハヤヒの意味が見えてくるかも知れません。

 伊都の長官「爾支」は「ニキ」と読むべきかどうかも含めて(例えば大幡主の主「ヌシ」と呼ぶ…山幸は経津主とも呼ばれているのです)検討すべきかも知れません。

 逆に、ニギハヤヒの意味はニキハヤヒであり、この「ハヤ」も速玉大社の「速」早日別けの「早」かも知れないのです。 「幸神」の解釈には孝元天皇の可能性があり、こちらでも可能性を探っています。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ