2019年01月12日

ビアヘロ 073 「伽耶」地名について百嶋メモから

ビアヘロ 073 「伽耶」地名について百嶋メモから

20180810

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 今回は、百嶋由一郎氏が残した手書きメモから伽耶国の地図をご紹介します。

無題.png

百嶋由一郎手書きスキャンニング・データ001草部吉見+キルギス20120717img003


 岡田先生や宮脇先生などは真実を追求されていますが、通説派の学者は嘘つきですから…まずは、ウィキペディアから民間研究をご紹介しましょう。


無題.png伽耶(かや)は加羅(から)の現代韓国に於ける表記。また加羅諸国(からしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。

後述のように、広義の任那に含まれるが狭義の任那とは位置が異なる。以下、本文上は加羅で統一する。

414年に高句麗が建立した広開土王碑文にある「任那加羅」が史料初見とされている。

中国梁国の時の537年に蕭子顯が編纂した史書の南齊書によると、加羅國,三韓種也。建元元年,國王荷知使來獻。詔曰:「量廣始登,遠夷洽化。加羅王荷知款關海外,奉贄東遐。可授輔國將軍、本國王。 と記録されている。

倭国の後継国である日本で720年に成立した『日本書紀』では、加羅と任那が併記される。

中国の史書では、『宋書』で「任那、加羅」と併記される。その後の『南斉書』、『梁書』、660年に成立した『翰苑』、801年成立の『通典』、『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)も同様の併記をしている。唯一、清代に編纂された『全唐文』に於いてのみ伽耶の表記が用いられている。

基本的には加羅と呼ばれる。「三国史記」新羅本紀の奈解尼師今6(202)条に「伽耶」という表記があるが、「三国史記」同14(210)条には「加羅」と表記されている。

倭国および任那との関連

詳細は「任那」および「任那日本府」を参照倭国の半島での活動については、『日本書紀』『三国史記』など日本、中国や朝鮮の史書にも記されており、3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条には、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)とある。または「韓は南は倭と接する」とある。

また高句麗の広開土王碑について改竄説が否定されたことで、倭が391年に新羅や百済や加羅を臣民としたことがあらためて確認された。高句麗は新羅の要請を受けて、400年に5万の大軍を派遣し、新羅王都にいた倭軍を退却させ、さらに任那・加羅に迫った。ところが任那加羅の安羅軍などが逆をついて、任那加羅の従抜城を守らせた。

日本列島での事例が大半である墓制の前方後円墳が朝鮮半島でも幾つか発見されている。

朝鮮半島の前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉に成立したもので、百済が南遷する前は任那であり、金官国を中心とする任那の最西部であった地域のみに存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物、遺構をともなう。そのほか、新羅百済任那で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)しており、朝鮮半島にはヒスイ(硬玉)の原産地がなく、東アジア地域においても日本とミャンマーに限られることや、化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明したことなど、倭国との交易、半島における倭国の活動などが研究されている。

任那地域については、日本が大陸での影響力を失い任那加羅が百済新羅両国により占領された後も、新羅と百済は倭国に対して任那地域の調を収めていた記録が残っている。

加羅地域にヤマト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏、或いはヤマト朝廷に臣従した在地豪族が、当地で統治権・軍事指揮権・定期的な徴発権を有していたとする主張もある。対して江上波夫は、騎馬民族征服王朝説を提唱し、加羅の製鉄の技術の高さと日本列島にある須恵器を見て、騎馬民族が加羅を建国し、その集団が九州に定住したと主張した。

ウィキペディア(20180810 0751による


 故)百嶋由一郎氏が作成された図に付された番号は、伽耶国の成立順番を示しています。

ようやく韓流ドラマの「朱蒙」「太王四神記」「善徳女王」「千秋太后」…で日本でも良く知られるようになってきましたが、伽耶の呼び名は、伽耶、加耶、加羅、駕洛、狗耶…などと表記され「日本書紀」では任那とされている事はご承知の通りです。

 まず、「カヤ」と「カラ」が同じと言われると違和感を持たれるかも知れません。

 それは子音+母音で考える日本語からの違和感であり、仮に日本語風にアルファヴェット表記で代行して見ましょう。

 KAA KAA の様に子音が一つ入れ替わっているだけで、恐らく、R音(本当はL音)とD音の入れ替わりでしかなく、KAAのR音の発音が苦手な人々はKADA→KAJA→KAYAと発音したのではないかと思うのです(ラジオとダジオ、ラッパとダッパ…の問題は日本の幼児語にも反映しています)。南米スペイン語とスペイン語でも外国語でも見られる現象です。

 最も知られたのが、@金官伽耶であり、この地を拠点とした金海金氏(トルコ系匈奴)こそ天御中主命の夫神であるウマシアシカビヒコヂと書き留められた大国主命の父神である大山祗の父神に当たる人物なのです。

無題.png

無題.pngAが安羅伽耶です。話を進めるために簡略化して言えば、藤原により第10代と過大に格上げされた崇神天皇の出身地です。

御間城入彦五十瓊殖天皇・御肇國天皇・御眞木入日子印恵命

 別名、ミケイリノミコト、ツヌガノアラシトとされ、敦賀にやってきたアラカヤの人なのです。


都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は、『日本書紀』に伝わる古代朝鮮の人物。

『日本書紀』では「都怒我阿羅斯等」、他文献では「都怒賀阿羅斯止」「都怒何阿羅志止」「都奴加阿羅志等」とも表記される。また『日本書紀』では別名を「于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)」とする。

意富加羅国(大加耶/大加羅)の王子で、地名「敦賀(つるが)」の由来の人物といわれる。

『日本書紀』では垂仁天皇2年条の分注として2つの所伝が記載されている。1つ目として崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着したという。そしてこれが「角鹿(つぬが)」の語源であるとしている(角鹿からのちに敦賀に転訛)。また垂仁天皇の時の帰国の際、天皇は阿羅斯等に崇神天皇の諱(御間城<みまき>天皇)の「みまき」を国名にするよう詔した(任那(弥摩那)の語源)。その時に阿羅斯等に下賜した赤絹を新羅が奪ったといい、これが新羅と任那の争いの始まりであるとする。

2つ目の所伝では、阿羅斯等が国にある時、黄牛の代償として得た白石が美しい童女と化したため、阿羅斯等は合(まぐわい)をしようとした。すると童女は阿羅斯等のもとを去って日本に行き、難波並びに豊国国前郡の比売語曽社の神になったという。

なお2つ目の所伝の関連伝承が、『古事記』の天之日矛(天日槍)・阿加流比売神説話や、『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引)に見える。

ウィキペディア(20180810 0918による


一番北の高霊郡(コリョン)郡は大韓民国慶尚北道南西部にあり大伽耶国の故地になります。


古代の大伽耶国の地であり、大伽耶は始祖・内珍朱智から道設智王まで16520年続いた。伽耶時代前期の盟主は金官伽耶(現・金海市)であったが、5世紀以降は大伽耶が伽耶連盟の盟主となった。562年新羅に滅ぼされて大伽耶郡となり、757年高霊郡(高陽郡)と改称した。

ウィキペディア(20180810 0926による

Bの高霊(コリョン)こそ高木大神こと、「日本書紀」では高皇産霊尊、「古事記」では高御産巣日神と書かれる天孫ニニギの親父の本拠地だった土地なのです。

 冒頭の地図でも気付かれたように、半島南部にも、「洞」「里」地名が大量に存在します。

 下も韓国の高霊郡の地名であり、あたりまえのように「里」地名が存在します。

 そして、殆ど知られていませんが、佐賀県の東半部を中心に異常なほどの里地名が拾えます。

代表的なのが吉野ケ里ですが、西部にも伊万里などが拾え、確か「佐賀県史」で読んだと記憶していますが、佐賀県には3000近い「里」という小字、大字が存在するのです。

それだけでも半島南部からの大量の移住を感じさせますが、最低でもこの一帯への半島からの移住を考えさせるのです。

無題.png
無題.png

百嶋由一郎手書きメモ(007E(大蛇伝説)金朱露img001img002より

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ