2019年01月24日

537 赤村の超巨大古墳をグーグル・アースで発見された方とリンクしました 早速「淀姫命」転載します

537 赤村の超巨大古墳をグーグル・アースで発見された方とリンクしました 早速「淀姫命」転載します

20180327

太宰府地名研究会 古川 清久


既に前ブログ 536 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”

ご紹介した無題.pngとリンクを張る事になりました。

 「古田史学の会」系の九州王朝論者であり、「東海の会」のメンバーでもある石田泉城氏は、本物の研究者中の研究者であることはブログのタイトルを見るだけでも分かります。

 特に「淀姫」に関して長文を書いている当方としてはコダイアリーに掲載されている「淀姫命」を掲載させて頂くことになりました。簡潔ですが必要な事は全て押えられており、どのようにして百嶋神社考古学の心臓部まで把握されているのか不明ですが、是非ともお読み頂きたいと思います。

 なお、当方の「淀姫」は太宰府地名研究会のHPから「淀姫」をお読み下さい。

では、コダイアリーの「淀姫命」をお読み下さい。以下。


「淀姫命」2017/8/31() 午後 10:44付け 石田泉城


これまで、高宮八幡宮の社伝、筑紫の磐余稚櫻宮や磐余池、磐瀬宮と朝倉橘広庭宮の関連、大津皇子の歌による筑紫の五十川村と曰佐村と譯語田舎、墨江中王に名などに関連して、第十七代履中が九州の天皇である可能性を探りました。

 さて、履中記の記事では、気になる地名が登場します。
 難波宮と石上神宮です。


本坐難波宮之時、坐大嘗而爲豐明之時、於大御酒宇良宜而大御寢也。爾其弟墨江中王、欲取天皇、以火著大殿。於是、倭漢直之祖・阿知直、盜出而乘御馬令幸於倭。故到于多遲比野而寤、詔「此間者何處。」爾阿知直白「墨江中王、火著大殿。故率逃於倭。」爾天皇歌曰、・・・・・・<歌の関係部分を省略>・・・・・故、上幸坐石上~宮也。
                                       
                                   (『古事記』)


 履中は、即位してからは磐余稚櫻宮にいたはずですが、この記事の難波宮は、父の仁徳の皇居である難波高津宮のことと思われます。

 この難波高津宮は、通説では、浪速高津宮(こうづぐう)(高津神社、大阪府大阪市中央区)としますが、先述のとおり筑紫・難波にも高津(たかつ)神社(福岡県筑紫郡那珂川町山田359-3)があり、その本宮は伏見神社本宮(福岡県那珂川町山田)です。

 ただ、仁徳記には、この説話以前に「大雀命、坐難波之高津宮、治天下也」とあり、また仁徳紀にも「都難波、是謂高津宮」と記述され、すでに仁徳の皇居については高津宮とされていますので、この履中記の難波宮を、高津宮と理解してよいのか、やや疑問が残りますが、一応、筑紫・難波の高津宮の本宮である伏見神社本宮としましょう。
 以前にも述べたように、筑紫・難波の高津神社の御祭神は、伏見神社本宮から頓宮された豊宇気毘売神とある一方、伏見神社本宮の由緒書きには、御祭神は、淀姫命を筆頭に、須佐之男命、大山祇神、神功皇后、武内宿禰とあり、豊宇気毘売神はありません。さらに、由緒書きには「淀姫命は神功皇后の姉姫で千珠満珠を求め給う神徳の姫で欽明天皇二十五年十一月朔日佐賀の県に川上大明神として鎮座されたが託宣によって此の地に遷座され・・・」とあり「淀姫命は神功皇后の姉」と書かれています。

 また「佐賀の川上大明神」を遷座されたとも記されます。その佐賀の川上大明神は、川の守護神である與止日女(よどひめ)大明神とされ、佐賀県佐賀市大和町大字川上にある與止日女(よどひめ)神社に祀られています。この神社は、淀姫神社、河上神社とも言われます。ただし、與止日女神社の由緒書きでは、「淀姫は神功皇后の」とされ、伏見神社本宮の由緒書きとは姉とで違っており混乱しています。

  一方、高津神社の御祭神である豊宇気毘売神については、食物・穀物を司る女神で、後に稲荷神と習合し同一視されるようになったので、稲荷神社である高津神社には、豊宇気毘売神が祀られるのは当然ともいえましょう。ただし、豊宇気毘売神は、淀姫命と同一ではないはずなので、やはりどこかで混乱しているように思われます。

  これに関して、百嶋神社考古学の神代系図(以下、百嶋神代系図)では、彦火火出見尊である山幸彦を父、豊玉姫を母として、その子が鵜草葺不合命になりますが、豊玉姫は子育てを放棄して竜宮に帰ってしまい、その代わりに異母妹の()玉依姫が子育てをします。鵜草葺不合命は、その育ての母である玉依姫と婚姻し、安曇磯良(表筒男)をもうけています。その安曇磯良の妻が、同父の鵜草葺不合命と奈留多姫の間に生まれた娘である豊姫(ゆたひめ)であり、玉姫・淀姫でもあります。

 したがって、鵜草葺不合命からすれば、豊玉姫が実母であって、()玉依姫は、乳母であり妻です。安曇磯良からすると豊玉姫が祖母であり()玉依姫が実母になります。また、豊姫(玉姫・淀姫)からすれば、()玉依姫は叔母であり義理の母という関係にありますので、豊玉姫と玉依姫は異なる人物であり、また彼女らは、豊姫(玉姫・淀姫)とも異なる人物です。
 なお、記紀では、神倭伊波礼琵古命(神武天皇)は鵜草葺不合命の子ですが、百嶋神代系図では、神武の別名の彦火火出見尊が鵜草葺不合命の父となりますので親子関係が逆転しているようです。
 整理すると次のようになります。

無題.png

ここに登場する姉の豊玉姫、妹の玉依姫は、それぞれ満珠、干珠に擬えられ、安曇族の海神豊玉彦の娘とされますので潮の干満に大いに関わりがあります。伏見神社本宮の由緒書きでは、その祭神の淀姫命は、「神功皇后の姉姫で千珠満珠を求め給う」と記されていますので、淀姫命を姉の豊玉姫に充てています。しかし、與止日女(よどひめ)神社の由緒書きでは、「淀姫は神功皇后の」とされ、伏見神社本宮の由緒書きとは姉と妹で違っています。いずれにしても「千珠満珠」の点では、淀姫命は、豊玉姫玉依姫の両方にかかわるようです。

 さらに、百嶋神代系図では、(ゆた)は、玉姫や淀姫と同一で、鵜草葺不合命の娘であって、河上タケルの妹(表筒男・安曇礒良の妻)に当たります。豊姫は、後に與止日女神社(川上神社)の河上大明神になりますので、豊姫淀姫とする百嶋神代系図と合致します。これに従えば、伏見神社本宮の御祭神の淀姫命は、豊姫と同一ということになります。

 一方、頓宮した高津神社では、その祭神を豊宇気毘売神とします。一説に、淀姫は豊玉姫であるともいいますので、本宮で祀る淀姫命豊玉姫とみなして、その豊玉姫と、豊受姫とを混乱しているのではないかと想像します。百嶋神代系図では、豊受姫は豊玉姫のいとこであり、豊受姫と豊玉姫は神としての役割も違うので同一人物とはいえません。また、海の神である豊玉姫と川の神である淀姫は同一とはいえませんが、時代の変遷とともに「千珠満珠」に関わる神として、豊玉姫は、淀姫へと移行・集約化してきたようです。

 以上を総合すると、淀姫命は、「千珠満珠」に関わり、大津波や洪水を防ぐ女神全般を包括する神を意味しているのではないかと思います。
 そして、淀姫命は、豊玉姫や玉依姫にも広くあてられる女神になり、百嶋氏が示すとおり、淀姫命は、豊姫や玉姫にあてられたのだと思います。

 さて、この玉依姫に「千珠満珠」を授けた山幸彦は、百嶋神代系図では、彦火火出見であり、また饒速日でもあるとされます。

 饒速日は、物部氏の祖であり、古くより天皇に関わっています。

 次回は、履中と物部の関係に焦点をあてます。

以上で引用部分終わり


いずれにせよ数年前まで全く知られていなかった百嶋神社考古学が多少とも浸透している事は驚きです。

 ここで、佐賀県のど真ん中を南に流れ降る嘉瀬川の畔に鎮座(嘉瀬川の上流の旧富士町上無津呂には河上の淀姫神社に50年先行する縁起を持つ淀姫神社がある)し、佐賀県西部から長崎県に数多く分布する淀姫神社は何故か京都の伏見に飛んでいるのです。

そして、淀姫の「淀」が新大阪駅の正面を流れる淀川の語源となっているのです。

無題.png

由緒

山城国乙訓郡の式内社。

元は桂川の対岸の水垂町に鎮座していたが、淀川改宗工事に際して淀城跡北の現在地に移転。

淀姫社、水垂社、大荒木神社とも呼ばれていた。

 『三代実録』に、貞観元年(859)に、正六位上与度神を従五位下の叙したとある。

 『寺院神社大事典山城編』には、旧鎮座地は『和名抄』の乙訓郡榎本郷の地であったと云われ、従って豪族榎本連の居住地と思われ、一族の祖神として祀られたとの説があるとしている。『姓氏録』によれば、左京神別に榎本連があり、道臣命十世孫佐弖彦之後也とある。大伴氏の系統だと高皇産靈神より発していることになる。

社伝によれば、応和年中(961〜964)千観内供が肥前国佐賀郡の河上神を勧請したことに始まるとされている。祭神の一の豊玉姫の説明であろう。


殆どの淀姫神社を実際に踏んだものとしては、何故、東の伏見に一社だけ飛んでいるのかという事が気になります。

ただ、糸島半島の桜井神社には淀姫神社の神額が残っており、元は淀姫であった事を思わせます。

また、これは最近発見したのですが、島根県石見八幡宮(石見銀山にも近い太田市)にも立派な境内社が存在する事を確認した事から、東方にもまだ存在する可能性は否定できません。

ただ、この程度ではピースが少な過ぎて、如何なる氏族が如何なる意図で淀姫祭祀を持ち出したのかという問題は解明できないでしょう。


百嶋神社考古学ではオウスノミコトに誅殺された河上タケルの妹の淀姫こそが豊姫とされウガヤフキアエズ命=表筒男命となるのですが、ここで、底筒男命たる開化天皇のお妃が神功皇后であるとすると、お表筒男命と底筒男命を兄弟と見做し、淀姫=豊姫(ユタヒメ=ユタカヒメ)を神功皇后の妹とか姉とかする混乱が生じているものと理解しています。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋神社考古学に関する神代系譜、音声CD、手書きデータ・スキャンニングDVDを必要とされる方は09062983254までご連絡下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 09:00| Comment(0) | 日記

2019年01月26日

538 近江散歩 @ 白鬚神社“滋賀県安曇川町”

538 近江散歩 @ 白鬚神社“滋賀県安曇川町”

20180406

太宰府地名研究会 古川 清久

ひぼろぎ逍遥 600 花の舞鎮の先に鎮座する式内社 “京都府舞鶴市の阿良須神社”

その前ブログ 599 花に浮かぶ八幡神社 “山口県山口市阿東の徳佐神社”ではこのように書きました。

 このところ北部九州から近江に移動した人々の具体的な姿を描く作業に追われています。

既に、以下のブログを公開していますのでご覧になった方もおられるでしょう。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)

489 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた! “宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”

ひぼろぎ逍遥

スポット144 三瀬村トレッキング現地リポート

スポット171 近江の伊吹山の麓に移り住んだ人々

スポット172 姉川と妹川という名を付した人々と息長系氏族

スポット173 亀屋佐京

598 遠い古代に佐賀県東部と筑後から琵琶湖周辺に移動した人々について (縮刷版)


 研究会のスケジュールを縫って再び、近江に足を踏み入れることにしました。

それは、伊藤まさ子女史の丹波丹後の調査に随行する前についでに近江の調査をやってしまおうと思ったからでした。

こうして、おっとり刀の調査旅行が始まりました。

日田市を4216:00に出発したのですが、関門橋を渡り王司パーキング・エリアで最初の車中泊、二区間目の小月インターチェンジで降りれば500円未満で済みますので、渋滞を避けて国道2号線から9号線で山陰に入りました。

 以来、日本海側の無料の高速道路は利用するも、基本的には一般道を利用して750キロを走り、現在は福井県小浜市の手前の高浜町(高浜原発の高浜です)の道の駅の温泉施設の休憩室でブログを書いています。

などと言っていたのは44日までで、既に近江で二日目が終わり、明日の午前中で甲良町、安食町の「高良神社」調査を終えて福井県の小浜市〜高浜町周辺に戻るつもりです。

そこで、どんな温泉でも良いのでのんびりとブログが書けるような所で忘れないうちにブログを書きたいと思っています。

今後、前後もバラバラに思いつくままの第二次近江調査の簡単な備忘録を書きたいと思います。


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初見の神社ばかりでもあり、地元の詳しい方から見れば馬鹿にされるかも知れませんが、遠来の訪問者の目で見た場合はどのようなものになるかとご容赦願いたいと思うものです。

 さて、安曇川です。そもそも滋賀県の「滋賀」とは志賀島の海人族の移動によってもたらされた地名移動であることは一目です。

 その上で、安曇川も安曇(アヅミ、アドゥミ)族が入っている領域にこの地名が齎されている事は既に述べています。当然にも安土城の安土も同様です。

 このため、この地で最も際立つ神社である白髭神社はというと、この安曇族を率いる大幡主(博多の櫛田神社の主神=ヤタガラスの父神)の配下の神こそがこの神社の本質である事を改めて意識するのです。

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由緒書きによれば、崇神以降に倭姫命による創建とされています。

 何故、伊勢神宮の鎮座地を探し求められた倭姫命が関係しているのでしょうか?

 結論を急ぎますが、この白鬚神社の祭神こそ山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒであり、そのお妃こそが豊受大神=アメノウヅメ=伏見稲荷様=伊勢外宮様であり、ご夫婦神なのです。

 伊勢の外宮の豊受大神の夫神であるからこそ倭姫命が関係しているのです。

 無題.pngによると主祭神は以下の通りです。

 しかし、少しおかしなことに気付きます。

それは一般的にも言えることですが、背後の高地に置かれている神様の方が遥かに神格が高いのです。

ここでもその例に違えません。


御祭神 猿田彦大神

境内社(摂社・末社)若宮神社 天照皇大神宮社 天満宮 豊受大神宮社 八幡三所社 稲荷神社 岩戸社


そして、県神社庁も隠しておられるようですが、若宮神社=仁徳天皇(高良玉垂命と神功皇后との間の実子五人の長子)の父神である高良神社(高良玉垂命)も境内摂社として存在しているのです。

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さて、それほど格式が高くもない猿田彦大神が本来の祭神なのか、格式の高い高良の神や稲荷が元々鎮座してものの何らかの事情があって、猿田彦が表に出されているのかは不明です。

 ここでは、倭姫命が何故登場しているのかという側面についてだけ推定させて頂きます。

 実は、摂社に回されている豊受大神の夫神は、始めは海幸彦=草部吉見=武甕槌命を夫神とされていたのですが、後には山幸彦=ニギハヤヒ=五十猛命=猿田彦を夫神とされ添い遂げられています。

 見てきたような話をしていますが、故)百嶋先生は、伊勢神宮、猿田彦神社の解析によって突き止めておられるのです。

 倭姫命は海幸彦(阿蘇高森草部吉見)と市杵島姫(宗像三女神)との間に産まれた大山咋神と鴨玉依姫(ヤタガラスとの櫛稲田姫の女神)の子である崇神の弟 倭(ウヅ)彦=椎根ツ彦の子である黒砂(イサゴ=砂金)であることから言わば海幸系、阿蘇系の方なのです。

 このことから、この猿田彦のお妃であった豊受大神(伊勢外宮)と天照大神(伊勢内宮)の鎮座地を求めて彷徨われた倭姫命との繋がりができているのです。

 しかし、海幸彦系、阿蘇系でありながら山幸系、ニギハヤヒ系の猿田彦の神社を祀るのは奇妙なのです。

 してみると、元々海幸彦が豊受大神をお妃としていた時代に、豊受大神を祀る神社として成立していたのではないかという可能性があるのです。

 つまり、本来の主神は豊受大神であるとすれば納得が行くのです。

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では、百嶋由一郎最終神代系譜をご覧ください。

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研究目的で百嶋神社考古学の資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年01月28日

539 近江散歩 A 塩津神社 “滋賀県西浅井町塩津浜”

539 近江散歩 A 塩津神社 “滋賀県西浅井町塩津浜”

20180407


太宰府地名研究会 古川 清久


近江散歩(447日)の初日の安曇川では、若宮神社(高良玉垂命と神功皇后の長子=仁徳天皇を祀る)を二社、大荒比古神社、大国主神社(五十猛神社)などに訪問し、早々にも主たる目的地である長浜を目指しました。

足早な理由は前回の近江調査で訪問できなかった塩津神社に行きたかったからでした。

 場所は戦国期の浅井、朝倉、徳川、織田の戦いで著名な賤ヶ岳の合戦で著名な賤ヶ岳の北西に位置する湖岸ですが、実は同名の下鹽津神社(滋賀県長浜市西浅井町集福寺455)があるのですが、こちらは、まだ訪問していない事からまたの機会にまわすとして、まずは、枝垂桜が美しい塩津神社をご紹介する事にしましょう。

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御祭神 塩土老翁神 御神紋 三ツ巴

御由緒 当社創立の年代は詳かではないが、伝えるところに拠れば、上古この地「志波谷」に塩池あり。ささやかな池ながら、塩水間断なく湧出で、これを汲んで製塩の業を行うもの23戸あった。この人等その遠租塩土老翁神を祀り、後又縁の神、彦火火出見尊、豊玉姫尊をも合わせ祀るに至ったと伝える。玉朝時代以降縉紳顕門の来遊もあり、当社を崇敬せられたのである。わけても和気仲世近江呂介に任ぜられるや、数次参籠して霊示の随に、誉田別尊を本社境内に、瀬織津姫尊を境外に奉祀した。文和元年、足利高氏の子義詮、後光厳帝を奉じて当社に参拝され当地の熊谷兵庫直高、治左衛門尉直久等当社を崇敬し、社殿修復に尽くしたが元亀元年火災に罹り殿舎鳥有に帰した。嘉永年中伏見稲荷神社の分霊を勧請して、相殿に奉祀し、居成明神又稲荷神社とも称した。明治5年稲荷の神霊を境外地字清水に奉遷し、社名を塩津神社と復称し、同9年村社に、同17年、郷社に列した。延喜式内未定社。同43年神饌幣帛料供進神社に指定された。尚、当社は中葉「海北之宮」の別称があった。


塩土老翁神とは山幸彦(実はニギハヤヒ=猿田彦)が釣針を失い途方に暮れている時に現れ、龍宮に行き龍王に逢う事を勧めた神として知られていますが、実は博多の櫛田神社の大幡主の事であり、ヤタガラスの父神でもあるのです。

縁起は読み辛いでしょうから前掲の神社庁の由緒をご覧ください。

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愛宕権現は金山彦であり秋葉権現でもあるのですが愛宕山とある以上金山彦祭祀でしょう

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伝えるところに拠れば、上古この地「志波谷」に塩池あり。ささやかな池ながら、塩水間断なく湧出で、これを汲んで製塩の業を行うもの23戸あった。この人等その遠租塩土老翁神を祀り、後又縁の神、彦火火出見尊、豊玉姫尊をも合わせ祀るに至ったと伝える。


 琵琶湖は淡水でしょうから、上記の話は俄かには信じがたいのですが、温泉に食塩泉があるように、内陸部でもミネラル塩たっぷりの塩水が得られる場所があるものです。

 海に恵まれない近江ですが、海に出る事無く塩が得られるとすればこれほど便利なものはなく、しかも船を操る安曇族の入ったところであり、琵琶湖を利用し販路は滋賀県全域をカバーしたのではないかと思われます。ただ、それほどの塩泉ならば、必ず瘡湯や眼病に効く泉といった話が残っているはずであり、今の時代の事温泉センターの一つでもありそうなのですがどうもなさそうなのです。

ちなみに、塩土翁の勧めで龍宮に向かった山幸彦とはニギハヤヒ=猿田彦のことなのです。

 これは結論を急がず、もう少し調べて見たいと思います。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


研究目的で百嶋神社考古学関係資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 21:00| Comment(0) | 日記