2019年01月20日

番外C 愛媛の白王神社 “愛媛県西予市鬼北町の白王神社”

番外C 愛媛の白王神社 “愛媛県西予市鬼北町の白王神社”

20180311

太宰府地名研究会 古川 清久


既に、ひぼろぎ逍遥(跡宮) 531 檮原街道の白皇神社 “愛媛県西予市城川町田穂の白皇神社”によって、驚愕の白川伯王神社の存在をお知らせしましたが、檮原街道の帰路、西予市にあるもう一つの白王神社を訪ねることにしました。

一つだけでも凄い事だと思っていたのに二つ目を帰路に拝めるとは、故)百嶋先生から頂いた知識のプレゼントと偶然に感謝したいと思います。

一般的にはこの重要性を理解して頂けないと思いますが、造化三神として知られる神産巣日神=神皇産霊尊神の父神=豊玉彦(ヤタガラス)の祖父神で、天御中主命の弟神にあたる文字通りの天地開闢の神なのです。

ところが、西予市と言う愛媛でも僻陬の地も、まだ、調査を始めたばかりにも拘らず、土佐に入り調べ始めると、四万十川流域を中心にとんでもない数の白川伯王系神社が存在する事が分かって来たのです。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 無題.png土佐の神社調査に関する資料としては、県立図書館に行けば門外不出のものも含めいくらかあるのですが、手っ取り早くは、市販されている竹内荘市氏による「鎮守の森は今」があり、この本に依れば、高知県だけでも44社の白王(白皇)神社が存在する事が書き留められていたのでした。

 今回で5度目の四国訪問でしたが、まだまだ、フィールド・ワークが全く不足している事を思い知らされたのでした。

 高知県での白王神社の調査はこれからですので何とも言えないのですが、四万十川流域に集中している事もあって、かつては広く広がっていたものがそのまま残されたと考えるよりは何らかの事情で、僻陬の地へ避退したのではないかと考えているのですが、それも含めて今後の課題です。

 2000社以上存在する高知県とはいえ、44社の白王神社以外にも聖神社(孝元天皇)、若宮神社(高良玉垂命=開化天皇と神功皇后の長子)、物部の仁井田神社…と重要な神社が目白押しなのです。

 これまで、九州全域は元より、山陰から甲信、北陸、関東以北へも調査を行ってきましたが、これほどの数があるとなると、最低でも10日から20日間の調査は必要となり、車中泊としても長期の滞在が必要になります。

 しかし、山陰、北陸にも比較して重要度は否定できません。

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ともあれ、愛媛の二つ目の白王(白皇)神社をご覧頂きましょう。

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白王神社は、愛媛県宇和島市百之浦1204 や愛媛県西予市鬼北町延川野村町釜川にもあり、早々に、再度、調査に入りたいと考えています。

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写真は省略していますが、神殿は鞘殿で奉斎氏族が気になります

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神社庁の資料では「吾田鹿葦津姫命(あたかあしつひめのみこと)」とされていますが、白王、白皇神社については関係者も良くご存じないのか、祭神がバラバラになっています。

 吾田鹿葦津姫命はコノハナノサクヤヒメでしょうが、白川白王神社の祭神としては齟齬をきたしているため当面保留したいと考えています。

 いずれにせよ二つ目の白王、白皇神社となりました。南予、西土佐は道路整備が遅れていた事から、移動だけでも大変ですが、逆に言えば久々に広大なフィールドが展開した事から新たな対象が天から降って降りてきたような気もしています。


百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 08:37| Comment(0) | 日記

2019年01月21日

535 九州王朝論にとっても神代史研究にとっても、土佐、伊予の神社調査は急務かつ極めて重要

535 九州王朝論にとっても神代史研究にとっても、土佐、伊予の神社調査は急務かつ極めて重要

20180313

太宰府地名研究会 古川 清久


 今般、伊予、土佐、石見を対象とした1500キロ10車中泊11日の神社調査を行いました。

 目的は33日の別役神社の例大祭に参加する事にありましたが、高知県の物部川流域を含め神社を踏み始めると、頻繁に訪れていた山陰の石見、出雲、因幡、伯耆…但馬以上に濃厚な神社群の存在にたじろいでいます。


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高知県には二千数百社の神社があるようですが、竹内荘市氏の「鎮守の森は今」によれば、我々が必死で追い求めていた、天御中主命の弟神と考えられる白皇(王)神社が44社存在するとあっさり書かれていたのでした。

 それどころか「先代旧事本紀」でも筆頭に掲げられる二田物部(仁位田、仁井田、仁多、新田…)と考える仁井田神社(恐らく天神ニギハヤヒを奉斎する)も47社存在し、九州王朝の最期の天皇と考えている仁徳=オオササギを奉斎する若宮神社も24社は存在する…事など。

 非常に濃厚な消された祭祀が残されている事に気付いたのでした。

 この間、山陰には数十回どころか百回近くは入っており、多くの神社を見て来ましたが、リポートに値するような特筆すべき神社は数えるほどしかありませんでした。

 それが、高知県には九州王朝時代つまり701年の崩壊以前の祭祀と考えられるものが大量に残存している事が分かって来たのです。

 これが、元々存在していたものがそのまま残ったものなのか、それとも九州からの避退の結果なのかについては、まだ、これからの調査の結果分かるかどうかも不明なのですが、どちらにしても、伊予と併せて、しばらく集中して調べる必要があるでしょう。

 これは初期段階の推定でしかありませんし、九州王朝の中枢部の神社を丹念に調べられた方でなければなかなか理解して頂けない事なのですが、前掲の「高知県内神社数内訳表」に掲載されている他の神社群がどのようなものかについて概略の見当をつけて見ましょう。

 まず、@河内神社が107社とされています。これは中国地方の周防から安芸などに掛けてかなり見掛けるのですが、祭神が不明で謎の祭祀です。これほどの数がありますので、何か手がかりが残されているかも知れません。

 A次に星神社ですが、これは恐らく神武天皇に逆らった逆賊の長脛彦の事で関東のカガセオと同一神ではないかと考えています。

 B大元神社は島根県の益田周辺に強い分布を示していますが、今のところ宇佐神宮の大元神社と考えています。

 C日吉は大山咋神で、日枝山王権現、松尾神社、佐田大神(猿田彦に非ず)と何度も申し上げてきた通りです。

 D石槌神社は、始めは誤って大幡主と考えていましたが、恐らく金山彦の事で、カグツチ(長脛彦の祖父神)とされる神様です。

 E海津見神社は豊玉彦=ヤタガラスと考えられて構いません。それでよいでしょう。

 F若宮神社は高良玉垂命(開化天皇)と仲哀亡き後の神功皇后との長子(九体皇子)仁徳のことなのです(「高良玉垂宮神秘書」)。

 G神母神社は全く分かりませんが、鴨、賀茂、加茂の下賀茂(ヤタガラス)、上賀茂系(崇神)の神社ではないでしょうか?

 H分かりにくいのは聖神社だと思います。百嶋神代系譜の一つに聖神社系譜がありますが、開化天皇の父神である孝霊、孝元、開化の孝元天皇(=物部の祖でもある)と考えられます。

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これは一例で他にも集中している場所があるのですが、香美市は聖神社が集中する場所です。

 無題.png右は美良布神社の正面にある聖神社の境内に置かれた石塔ですが、武内姓の方が氏子総代か宮司をされておられるのでしょう。系図と対応してお考えください。三階松の神紋は孝霊、孝元、開化の三代を意味しています。

 I三島(大山祗)、愛宕(金山彦)、春日(実はミズハノメですが今は阿蘇の草部吉見=鹿島大神)は良いでしょう。

 J白山神社は天御中主命=妙見宮=北辰神社=白山姫神社ですが、白皇(白王)神社の白川伯王の姉に当たる神様です。

 K新田神社は仁井田神社と同様でしょう。新田義貞そのものではないでしょうから。

 L白髪(髭)は猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒで良いでしょう。

 分かる範囲で推定させて頂きましたが、長期滞在しかありませんが、今後、少しずつ調べさせていただきたいと思います。

全てを説明する事はできませんが、まずは、百嶋由一郎聖神社神代系譜をご覧頂きましょう。

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百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年01月22日

536 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”

536 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”

20180321

太宰府地名研究会 古川 清久


 本稿はひぼろぎ逍遥スポット151で公開したものの転載です。以下、現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。

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赤村に巨大な前方後円墳−。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。

丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。

また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。

2018/03/20付 西日本新聞朝刊=


既に公開されてしまった事から申し上げますが、この古墳の存在については一部の九州王朝論者の間ではかなり知れ亘っていましたし、信用できる研究者に対しては秘密裏に情報を流してもおりました。

報道でも登場した福永晋三氏は五年ほど前から香春町講演を行っていますが、福永氏と私とが3〜4年程前の香春町での講演の直前に川崎町のN某氏から“こんな映像が見れるんですが…”として、私のパソコンを引っ張り出してグーグル・アースの画面やらN氏の手持ちの画像で確認したのが事の発端でした。

その後しばらくして元朝日新聞の記者でありミネルヴァ書房から「太宰府は日本の首都だった」外3著を出しておられる内倉武久氏をお連れして、現地の筍(タケノコ)山などに入り、高坏の破片となどの土器片を拾い、地権者である筍栽培農家の方からも大量の土器片を入れた箱などを見せて貰った事から、何とかオーバー・グランドに引き上げられないものかと工作を始めたのでした。

無題.pngそもそも傍流の九州王朝論者の一部には「豊前王朝論」なる概念があり、九州王朝の連合国家、分封制、分裂国家(南北朝ならぬ東西朝)といった様々な仮説が提出されていました。

 代表的なところでは大柴英雄の「豊前王朝」、坂田 隆氏、室伏志畔氏、佃収…と言った主として傍系の九州王朝論者の一群になるのですが、発見以来、私自身の当初の考え方としては始めから宣伝戦を行なうべきだというものでした。

それは、邪馬台国畿内説の最大の根拠とされてきた畿内の大型古墳群に対して、九州などには巨大古墳は存在しないし、あってはならないとするのが、利権集団としての考古学協会であり、その神輿に乗っている(その実使われている)京都学派なのであって、九州でどのように重要なものが出土しようが発見されようが、どうせ蓋をして重要なものほどコンクリートで固めてしまい、発掘調査費のほとんどを畿内で独占しようとの思惑があるからと考えてきました。

これこそが、古田武彦や九州王朝論が無視され攻撃され、他愛もない邪馬台国九州説までもが相手にされず、お伽話風のご当地邪馬台国説だけが許容されてきたのでした。

つまり、教育委員会や学芸員は元より、京都学派に占拠された今の発掘調査の現場では本物は蓋をされ、畿内説を補強する発掘調査や中程度の重要性を持った物だけを自分たちの都合で独占的に調査すると言う構造が存在し、通常は絶対に蓋をされてしまう恐れがあるのです。このため考古学の発掘調査の現場に精通した内倉武久氏は、蓋をすることが絶対にできないレベルの何らかの物証(羨道など)を得るところまで進め、その後公表するべきであろうと考えられ、その指導に従ってきたのでした。

私自身は、通説派はどうせ蓋をするに決まっているし、潰される事は決まっているのだから、一早く公表し、畿内に先行する豊前一帯の巨大古墳の存在(実はまだまだあるのです)を明らかにして、原子力村同様の京都学派による考古学村ぶりを炙り出し暴露すべきであると言ってきたのでした。

勿論、内倉氏の考え方が正論なのですが、現在の文化財保護法は京都学派のイニシアの元に独占的に発掘の権利を付与する構造になっており、時間だけが失われるだろうと考えていたのでした。当然にもN某氏に続き、いずれはグーグル・アースによって誰かが発見するだろうと思っていました。

そして、それが現実のものとなるのです。そのブログが公表されたのは2018年の1月でした。以下。

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古田史学の会系の名古屋の「東海の会」の石田さんによるものですが、その201818日付で公開された「福岡県田川郡赤村 巨大古墳地形」です(その続編もオンエアされていますので探して見て下さい)。

この第一発見者は、確かにN某氏でしたが、結果的にネット上に公表されたのは石田さんが最初だったのでした。当然、いずれは誰かが発見する事になったはずですし、いずれはAIの発達も含め、最終的には無視しひた隠しにしようとする通説の京都学派の横腹に風穴を空けて行く事に成るでしょう。

思えば、邪馬台国畿内説論者であり京都学派として大和説を主張した大御所の故)門脇貞二氏も、死ぬ間際には年来の持論である大和説と訣別し、「地域王国論」の立場から北九州説を主張したのでした。

彼によれば、邪馬台国の時代は、大和も吉備や出雲や筑紫など各地にあった王国の一つであって、それらの王国が競合しながら雄略朝前後に大和を中心に纏まったといった国家形成史を主張していたのです。

ただ、身内には“邪馬台国は九州にあったに決まっている…”と言っていたと言われていますので、所詮、京都学派とは利権によって形成されているだけのものである事が見えるのです。それはさておき、公開されたブログをお読み下さい。


福岡県田川郡赤村巨大古墳地形

 先に紹介した宮原遺跡は古墳と認められていないようですので私はこれを宮原古墳地形と称したいと思います。

 この宮原古墳地形の南方の福岡県田川郡赤村内田小柳において朱色を施した横穴式石室があったことが記録されており「小柳古墳」と名付けられています。しかし、香春町との境界付近に位置する低丘陵上に位置する古墳とされるのみで詳細は不明です。

(赤村文化財調査委員会編1976『郷土我鹿文化財を訪ねて』、赤村教育委員会編2008『赤村史』)

 福岡県田川市WEBサイトの筑豊地区埋蔵文化財発掘調査の記録(田川地域編)には、「遺跡調査リスト3」に「小柳古墳周辺」として、次のよくわからない写真が掲載されています。
http://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/kiji0034837/3_4837_2363_up_w08gdxpb.pdf



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福岡県田川市WEBサイトの筑豊地区埋蔵文化財発掘調査の記録(田川地域編)より


 この写真は、東側から撮ったところと思います。

 そこで、私は平成筑豊鉄道の田川線の内田駅の北西辺りをGooglemapで眺めてみました。すると、方円墳(前方後円墳)と思われる地形が認められます。たぶん、これを前方後円墳状の地形として見つけたのは、私が初めてではないかと思います。


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<西からの鳥瞰>

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先の発掘調査の記録では、前方後円墳とは記されていませんが、航空写真で見る限り方円墳の形状が認められます。私が写真上で計測すると、350m程度の大きさと思われます。

宮内庁では仁徳天皇陵について、大阪府堺市堺区大仙町にある大仙陵古墳(大山古墳)を「百舌鳥耳原中陵」として治定されており、これが日本最大の墳丘長486mとされます。次いで誉田御廟山古墳(応神天皇陵古墳)の425m、さらに石津ヶ丘古墳(履中天皇陵)の365mとされることから、もし、小柳古墳が方円墳であるとしたならば、これらに次いで全国で3番手クラスの大きさと考えられます。
 また、実は小柳古墳の東にも、同程度の方円墳らしき形状が見られますが、こちらは全く調査されていないようです。開発がらみでないと調査されませんから致し方ないところです。


確かにグーグル・アースによって古墳を探ると言う手法は民間人ならではのものであって、N某氏の作業は他の行橋市内から豊前一帯までの古墳群に帯びており、その意味で先鞭を付けたものだったでしょう。

しかし、ネット上で公表して世間一般に知らしめたのは、結果でしかありませんが石田ブログとなり、ネット上の第一発見者は石田さんとなった訳です。既に意見が一致しており4月からリンクの予定です。

勿論、“自分が最初の発見者の栄誉に浴したい”などといったさもしいお考えは毛頭ないはずですが…。

ただ、350m程度の大きさというのは現地を踏み、付帯施設である環濠の問題などを考慮する必要性があり、直ちに二番目、三番目とは決めつけられない要素があって当面は保留する必要があるでしょう。

事実、内倉氏やN某氏と共に古墳を一周した際に、葺石の痕跡は実質的にはなかったものの、三段築成の跡や環濠の痕跡とも思える耕作放棄田やため池様のものも確認しており、実質的にそれを環濠と考えれば、二番手クラスの巨大古墳に成るとした内倉説の推定(可能性)は無視できない事になるのです。

皆さんも、まずは、平成筑豊鉄道田川線の内田駅周辺を検索される事から始めて頂きたいと思います。

ただ、残念なことに、九州王朝論者と自認する人々でさえ、現地を踏み薮を掻き分けて調べて見ようとされる方は極少数どころか皆無であって、大半は邪馬台国本読みの半通説紛いの方々ばかりと言った有様では京都学派の専横ぶりは今後とも続く事でしょう。

しかし、“あんなところにそんな大きな古墳などがあるはずはないんですが…”と言わざるを得なかった京都学派のNダニ氏(元は小学校の教員養成大学)の半ば引きつった記者会見は見ものでした。

今後どのようにしてこの巨大古墳(?)を無き物とされるのかは興味深い上に、日本の考古学会の在り様を見据えて行きたいと思うものです。ただ、直ちに「卑弥呼の墓」などとするのは村興し町興しには使えるのですが(坂田先生の説…外)、内倉氏は第28代宣化天皇(センカ)陵墓説を提案されています。

なお、朝倉市には本物の継体天皇の陵墓(巨大円墳)と思われるものがあるのですが(内倉説)、これは、また、別の機会にお話しする事にしましょう。既に一部はブログでご紹介しています(長田大塚古墳)。

最後に、赤村と言っても九州島内におられる方でもご存じない方が多いと思いますので、場所をお知らせしておくことにします。宇佐神宮への鏡を造った採銅所とか、有名な香春神社からも至って近い場所です。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記