2019年01月02日

531 但 馬 (上)

531 但 馬 (上)

20171014改訂稿(20120211

太宰府地名研究会 古川 清久


宗像大社の辺津宮は宗像市大字田島にあります。地図を見ると深田にあるようにも見えるのですが、同神社の公式のホームページを見ても、「 福岡県宗像市田島2331 」と出てきますので、やはり田島で良いのです。

本稿は五〜六年前に書いたもののこれまで非公開のままにしていたものです。

その後何度となく但馬に入り長期間の調査を経てようやく公開できるところまで漕ぎ着けました。

当時、本稿を故)百嶋由一郎氏にお見せし、多くの付箋を頂き添削を受けましたが、それを理解できるまで時間を要したのでした。今般、新たに編集を加え公開する事にしたものです)。

このため、初期の原稿にかなりの手を入れたものになりましたが、基本的なエッセンスは変わりません。

まず、宗像大社周辺の地図を見て頂きますが、鐘崎、黒崎、岡垣、田島という地名が確認できます。

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地図は昭文社の「アクセルA4九州道路地図」一九九〇年


現在、普通に参拝している宗像大社の辺津宮は海岸から二キロほど後退した場所にありますが、それは、陸化が進んだからであって、この神社が成立した時代には相当奥まで海が入っていたはずです。

つまり、田島と呼ばれる沖の小島の形状もあり、そこに宗像大社の原形が存在していた可能性はあるのです(ただ、呼子の田島神社が起源かも知れません…)。

ここで玄界灘沿いに西に目を転じると佐賀県の東松浦半島に呼子(唐津市)があります。

秀吉の朝鮮出兵のための出船基地であり背後の台地に名護屋城が築かれたことで良く知られていますが、この呼子の港に壁のように蓋をし、湾内を穏やかに鎮めている加部島(これも恐らく壁の意味でしょうが)に鎮座するのが、式内社(旧国幣中社)の田島(田嶋)神社(たしまじんじゃ)です。

確認するまでもないことでしょうが、祭神は田心姫尊、市杵島姫尊、湍津姫尊であり、宗像大社に祀られる沖津宮の田心姫神、中津宮の湍津姫神、辺津宮の市杵島姫神と完全に対応することから、この田島神社の名は宗像大社の辺津宮が鎮座する宗像市田島から付されたものであることが容易に推察できます。

ついでに言えば、唐津市の「湊」「岡」も呼子の田島神社から船で行けば直ぐのところですから、宗像の「神湊」から付されたものの可能性なしとはしないでしょう(ベクトルが宗像⇔呼子はなお不明)。

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地図は昭文社の「アクセルA4九州道路地図」一九九〇年


引き続き福井県敦賀市の地図をご覧頂きたいと思います。

宗像市の「鐘ケ崎」という地名が、朝倉氏の居城金ヶ崎城があった敦賀市の金ヶ崎になっており、付近の「黒崎」や「岡」という地名が、宗像から敦賀にも移動し順番に並んでいる事がお分かりになったと思います。

 してみれば、その中間地点の兵庫県の但馬地方の「但馬」も呼子の壁島の田島神社の「田島」や宗像大社の大字「田島」が地名移動(当然にもその一族も移動しているのですが)したものである事が分かると思います。甘木朝倉周辺の地名が奈良に移動しているなどと騒いだ学者がいましたが、それどころではないのです。この、大字、小字レベルではなく、「但馬」という旧国の地名にまで高まっている事は、その事だけで、安曇族(鐘ケ崎は宗像族ではなく安曇族であるため)、宗像族という九州王朝の海軍を支えた人々が大挙して日本海沿いに移動している事がご理解いただけるのではないでしょうか?

 お疑いになる方もおられると思いますので、もう少し申し上げれば、兵庫県養父市の市役所の傍には「朝倉」という大字が残り、「朝倉」という交差点までがあります。

さらに山に向かえば、「天空の城」で知られた朝来市がありますが、これも朝倉氏にちなむ地名であり、事実、養父市では朝倉氏が弟の日佐氏に養父一帯を渡し東の敦賀に進出した拠点であったとされています。

 どうも、安曇族、宗像族を海軍とすれば、この「朝倉」地名を持ち込んだ人々こそ九州王朝の陸軍を支えた氏族だったのではないかと考えています。

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さて、あまり知られてはいませんが、宗像大社には奥ノ院ともいうべき高宮(これも福岡市高宮と関係があるでしょう)がありますが、ここには出雲大社同様、稀人の間のような扱いを受けたものがあり、百嶋由一郎氏からは本当の祭神としては大国主命が祀られているとお聴きました。

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事実、隣の岡垣町手野(国造神社がある阿蘇と播磨にも手野=テノ、タノという地名があります)には大国主神社がありますが、参拝殿が西(つまり宗像大社の方角)を向いていたのが印象的でした。

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“宗像の主神は大国主命である”と教えてくれたのは、六十数年間神社を調べ続け近年亡くなられた八十四歳の百嶋 由一郎氏でした。氏は以前から、「神功皇后を主祭神として祀るとする宮地嶽神社に祀られるワカヤマトネコヒコが四王寺山に降臨し、いわゆる欠史八代として架空とされた九州王朝の第九代開化天皇として即位した。」(『高良山神宮秘書』から)とされています。

さて、この宗像大社の公式ホームページには、


高宮は、社家の説によると「第一神始めて降臨有し、辺津宮の旧址といふ、神代より天應元年(781)まではここに惣社の御座あり、旧社に社を立て下高宮といふ」との記録があり、宗像大神降臨の伝承地である宗像山・高宮を神奈備山・神奈備の杜と崇められて来ました。神奈備とは、「神々が降りてくる山や杜」を意味します。


と、書かれていますが、どう考えてもここにこそ本来の祭神が祀られているようなのです。同じく、


奈良時代以前は、神社には社殿が無く神奈備としての杜や山や島などを聖なる所と祀られていました。当大社では「昭和の大造営」の際に、この地を古神道の在り方を踏まえ社地・参道等を整備しました。今日では数少ない古神道の聖地として奈良の大神神社の神体山・三輪山などと共に広く知られて多くの崇敬を集めています。伊勢の神宮で執り行われる多くの祭儀が夜の御祭であることから分かる様に、古来の祭儀は浄闇の中執り行われたと考えられています。…中略…平成17年、宗像大社氏子青年会の結成による地域の協力体制も整ったことを期に「八女神事」を神奈備山・神奈備の杜と崇められて来た高宮で行われることから、神奈備祭とし、高宮祭場での祭祀を復活させました。」


と、あります。

出雲の佐田神社の神等去出(からさで)神事同様、神社にとってよほど大切な神事だったのです。

宗像大社の本来の祭神は大国主命ではないか?としましたが、もしそれが本当であれば、多少、符合することがあります。

それは、大国主を祭る出雲大社の沖に隠岐の島があり、宗像大社の沖にも表記はことなるものの、同じく沖ノ島があることです。

それはあたかも、この地に祭られているのは沖からやってきた渡来神であることを告げているかのようです。

さらに言えば兵庫県の但馬地方にも多くの大国主命を祀る神社が大量に存在します。

とすると、但馬の国も、大国主を祀る宗像大社が鎮座する田島から付された国名であることが見えて来るのですが、ここに、「但馬に集中する兵主神」というサイトがあります。


但馬国には、ヤマト政権が但馬を平定する以前から古い神社が存在していて、延喜式神名帳ではそれを否定はせず、あるいは政権側の祭神を配祀しているのでしょうか。但馬五社のうち、大国主以外の神社は天日槍(日矛)の出石神社のみですし、出石神社も古くは別の祭神であったとする説あるそうです。養父神社対岸にある水谷神社は、かつて大社であったとされるのにもかかわらず、どういう訳か但馬五社からはずされています。兵主神社(ひょうずじんじゃ)は、関西以西のしかも但馬国に集中しています。しかし、かつては同じ丹波國だった丹波・丹後には不思議と1社のみで、近江国と但馬国に集中して多いのです


[兵主神社一覧]兵主神社一覧 平成祭礼CDから


青森県むつ市大湊上町337 兵主神社「伊弉諾命」

千葉県東葛飾郡沼南町手賀1418 兵主八幡両神社「經津主命、譽田別命」  

福井県丹生郡清水町山内 兵主神

滋賀県野洲郡中主町下提 下提神社

京都市伏見区中島鳥羽離宮町 城南宮摂社兵主神社「大國主命」

奈良市春日野町 春日大社摂社若宮社末社兵主社

兵庫県姫路市辻井4-4-3  行矢射楯兵主神社「射楯大神、兵主大神

兵庫県姫路市飾磨区阿成 早川神社「兵主神

兵庫県姫路市夢前町山之内戊549 兵主神社「大國主命

兵庫県西脇市黒田庄町岡字二ノ門 兵主神社「大穴貴命

兵庫県豊岡市竹野町芦谷小字芦谷155 兵主神社「須佐之男命、建御雷神、伊波比主命」

兵庫県美方郡香美町隼人字宮前195-1 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」

兵庫県美方郡香美町九斗字九斗152-2 兵主神社「須佐之男命、建御雷命、經津主命」

兵庫県美方郡浜坂町田井字村中448 兵主神社「?」

兵庫県美方郡浜坂町指杭字御城338 兵主神社「?」

兵庫県美方郡温泉町上岡 八幡神社摂社兵主神社「大己貴尊

兵庫県美方郡浜坂町久谷字宮谷 八幡神社摂社兵主神社「須佐ノ男命」

兵庫県佐用郡佐用町奧海 奧海神社摂社兵主神社「大名持命

兵庫県姫路市安富町三森平谷 安志姫神社「安志姫命」

島根県簸川郡斐川町大字学頭2830 兵主神社「大國玉命

岡山県岡山市阿津2783 兵主神社「素盞嗚命」

鹿児島県揖宿郡頴娃町別府6827 射楯兵主神社「素盞嗚命、宇氣母知命」

鹿児島県姶良郡姶良町脇元1818 兵主神社「素戔嗚尊」

兵庫県佐用郡佐用町奥海1281 奥海神社の兵主神社「大名持命

奈良市春日野町160 春日大社の兵主神社「大己貴命、奇稻田姫命」

香川県大川郡大川町富田中114 富田神社の兵主神社「大己貴命

福岡県筑後市大字津島1117 村上社の兵主神社「毘沙門天」

福岡県大川市大字北古賀字神前28 天満宮の兵主社「大己貴命


兵主(ひょうず)神社とは?


兵主とは、「つわものぬし」と解釈され、八千矛神(ヤチホコノカミ=大国主神)を主祭神の神としています。古事記・日本書紀では八千矛神とは大国主の別名です。スサノオの別名が八千矛神(多くの矛を持った神の意)である。葦原色許男神(あしはらしこのを)も大国主の別名で、「しこのを」は強い男の意で、武神としての性格を表す。矛(ほこ)は武力の象徴で、武神としての性格を表しています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。但馬で別名のそれぞれの祭神を祀る神社を合わせると、最も多い神社です。田道間守や天日槍関係の神社を数える方が圧倒的に少ないのです。

大国主は多くの別名を持っています。

雲の大国主神でも触れましたが、大国主(オオクニヌシ・オオナムヂ)は日本神話の中で、出雲神話に登場する神です。天の象徴である天照大神に対し、大地を象徴する地神格です。また、大国主は多くの別名を持っています。これは神徳の高さを現すと説明されますが、元々別の神であった神々を統合したためともされます。

   大国主神(オオクニヌシノカミ)=大國主 - 大国を治める帝王の意、あるいは、意宇国主。

すなわち意宇(オウ=旧出雲国東部の地名)の国の主という説もあります。

  大穴牟遅神・大穴持命・大己貴命(オオナムチノミコト)−大国主の若い頃の名前

   大汝命(オオナムチノミコト)-『播磨国風土記』での呼称

   大名持神(オオナムチノミコト)

   八千矛神(ヤチホコノカミ) - 矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す

   葦原醜男・葦原色許男神(アシハラシコノヲ) - 「シコノヲ」は強い男の意で、武神としての性格を表す

   大物主神(オオモノヌシ)

   大國魂大神(オホクニタマ)

   顕国玉神・宇都志国玉神(ウツシクニタマノカミ)

   国作大己貴命(クニツクリオオナムチノミコト)・伊和大神(イワオホカミ)伊和神社主神-『播播磨国風土記』での呼称

   所造天下大神(アメノシタツクラシシオホカミ) − 出雲国風土記における尊称

   国造りの神、農業神、商業神、医療神などとして信仰され、また「大国」はダイコクとも読めることから、同じ音である大黒天(大黒様)と習合して民間信仰に浸透しています。子の事代主がえびすに習合していることから、大黒様とえびすは親子と言われるようになりました。

記紀神話をみると、天孫降臨と東遷という神話を持つ氏族が二つあります。大王家と物部氏である。大王家の神話では、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向に降臨し、それから四代後(その間に1,792,470余年が経過したという)磐余彦(いわれひこ)が大和へ東遷した。「神武紀」に明記されている物部氏の祖先伝承では、「祖先神の饒速日命(にぎはやひのみこと)が河内の河上の哮峯(いかるがのたけ)に降臨し、その後まもなく大和の鳥見の白庭山へ移った。」と記しています。哮は音読みで「コウ(カウ)」、訓読みで「たける、ほえる」、韓国語では「hyo」と発音します。


兵主は哮神


  国作大己貴命(くにつくりおほなむち)ですが、『播磨国風土記』では、その子が饒速日命(にぎはやひのみこと)


と、あります。兵主神は、もとは日本の神様ではなく、中国大陸の山東省の神様だそうです。延喜式神名帳で認められた式内社のみに現れる古社で、兵主神については色々と説があるそうですが、八千矛神(ヤチホコノカミ)だという説が有力です。延喜式神名帳には「兵主」と名の付く式内神社が18社記載されており、但馬各地に祀られた重要な神であったようです。

 

と、すると、出雲は言うまでもなく大国主の本拠地であったとされていることから(「出雲神話」大国主の国譲り)、玄界灘から日本海岸にかけて存在する田島地名は、宗像の「田島」と関係があるのではないかと考えることができるようです。

このことに付随するかのように、宗像三女神を祀る神社は鳥取県米子市宗像(事代主命を祀る美保神社の真北)を除き、日本海沿岸にはほぼ見つからなくなるのです。

 さすがに、隠岐の島には海士村大字布施に出雲の日御碕神社があり、天照大御神に合祭され、天忍穂耳命、天津日子根命、玉穂日命 活津日子根命、速須佐男命、熊野久須毘命 多紀理毘売命、市杵島比女命、多岐都比女命が祀られていますが、それも、隠岐の島が宗像大社の沖津宮が鎮座する国宝の島沖の島が置き換えられた地名だからなのです。では、他にも移動した地名があるのでしょうか。


 宗像一帯の海岸部には、西から、草崎、神湊、釣川、「鐘崎」(鐘ノ岬)、地島(チ、ヂノシマ)、「黒崎」(鼻)、波津、黒山、糠塚、芦屋、「遠賀」(古代の岡ノ湊)と言った地名が並んでいます。

北九州市八幡区の黒崎はこの黒崎(鼻)が最初に移動したものでしょう。

 一般的にこのような地名の移動を考えるときに、例えば、志賀島の「志賀」(鹿)が移動した地名として、佐世保市鹿町、石川県羽咋郡志賀町などが取り上げられますが、海洋民はあまり記録を残さないことから、宮地嶽神社に近い「手光」(てぴか)や「在自」(あらじ)「上八」(ジョウハチではなく何故かコウジョウと読むようです)といった滅多にない特殊地名ならば別ですが、単に同じ地名があるだけでは判断が難しい(事実上できない)のです。

 ただ、奉祭する神社が互に符合するとか、住民の姓氏名や地名が複数や順番に対応するとなると、やはり地名が持ち込まれたと考えていいのではないかと思います。

 こう考えてくると、はっきり言えそうな例として、敦賀があります。

福井県敦賀市の敦賀湾の湾奥、敦賀港の泊地に金ヶ崎町があります。戦国期、越前に侵攻した織田徳川連合軍が攻撃した金ヶ崎城(郡司朝倉景恒は織田信長に対し開城するも浅井長政が離反し近江海津に進出し挟撃戦となり信長は木下藤吉郎らを殿とし近江越えで京に撤退した)の「金ヶ崎」ですね。

ついでに言えば手前の若狭湾の入口にある巨大な半島の先端にも金ケ崎があります

また、角鹿(つぬが)町もあります。これは実は志賀島のことですが、ここでは、ふれません。その四〜五キロほど北の敦賀街道8号線沿いに「黒崎」という岬があり、さらに二キロ北上すれば「岡崎」があるのです。 つまり、宗像海岸の西から東に向かって並ぶ「鐘崎」「黒崎」「遠賀」(古代の岡ノ湊)と同じ地名が敦賀にも順番に並んでいるのです。

 さらに、その「岡崎」から北に十キロ進むと海岸沿いに「糠」があります。これも恐らく、岡垣町の「糠塚」に対応するのでしょう。もはや、宗像の海士族が拡大するか、移動するか、一部が避退するかして持ち込んだ地名としか考えられません。

上の図を御覧下さい。金ケ崎城があり、順番に「鐘ケ崎」「黒崎」「岡崎」があるのがお判りいただけるでしょう。

 冒頭の宗像大社の地図にも、「鐘崎」「黒崎」「岡垣」「岡の湊」(後の「遠賀」)があり、完全な対応が認められます。

 右の図は、有名な敦賀の「気比の松原」が城崎温泉正面の「気比」からの移動であり、朝倉氏が運んだ地名であることが判ると思います。

そして、久留米の高良大社の初代宮司家の稲員が元は日下部を称していたと言われていますので、朝倉氏がもとは日下部氏と言われているとすると、九州王朝の一族である可能性が高いのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2019年01月04日

532 但 馬 (中)

532 但 馬 (中)

20171014改訂稿(20120211

太宰府地名研究会 古川 清久


もう一つの例を考えましょう。佐用都姫の話です。

これも但馬の養父市の調査を終えた帰りの新幹線に乗る前の時間に見に行ったところです。


佐用都比賣神社


但馬ではありませんが、播磨の国に佐用町(たつの市の西)があり、佐用都比売神社があります。

神社縁起には、祭神を狭依毘売命(サヨツヒメ)として、ご祭神 狭依毘売命、又の御名市杵嶋姫命。相殿 素盞鳴大神・大国主大神・春日大神・八幡大神を合わせ祀。

創立は太古にて、続日本後記に『第五十四代仁明天皇嘉祥二年(紀元一五〇七年西紀八四七年)七月官社に預かる』と記されている。

更に延喜式内神明帳に『醍醐天皇の御世縁起式内社に預かる』と記されている。播磨風土記に讃容の郡と言う所以は大神妹背二柱、各競いて国を占めたまう時、妹、玉津日女命臥せる生鹿を捕えて其の腹を割きて、其の血を種とまく。

 忽ち一夜の間に苗生いぬ。即ち取り殖えしめきここに大神、汝妹は五月夜殖るかもと勅りたまい、他処に去りましき。故に、五月夜郷と号ふ。神の賛用都比売命、今讃容の町田に有り。と記されている。古来当地方の開祖佐用姫大明神といい、昔は御神領地が七町七反もあり、宮祭されていたものであるが、豊臣の兵火にてことごとく焼失し、衰微したが、農業・商業・武術・安産・縁結・鎮火の神として広く信仰されて来た。(以下略載古川)兵庫県佐用郡佐用町本位田甲261


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この宝珠の功徳により、佐用姫は不老不死となり、後に、竹生島へ赴き、弁天様(市杵島姫の別名でもあります)として祀られたのです。松浦にも「佐用姫伝説」がありますが、まず「万葉集」巻第五に五首


       松浦県佐用姫の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつ居らむ

       遠つ人松浦佐用姫夫恋ひに領巾振りしより負へる山の名

       山の名と言ひ継げとかも佐用姫がこの山の上に領巾を振りけむ

       万代に語り継げしこの岳に領巾振りけらし松浦佐用姫

       海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫


恋人が船で去っていくのを、袖を振って見つめる姫が、そのうち石と化してしまった…。

肥前松浦で袖を振るといえば、「肥前国風土記」にこんな話しがあります。


褶振の峰 郡役所の東にある、とぶひのある場所の名を褶振の峰という。大伴狭手彦連が船出して任那に渡ったとき、弟日姫子はここに登って褶をもって振りながら別れを惜しんだ。そのことによって名付けて褶振の峰という。さて弟日姫子が狭手彦連と別れて五日たった後、ひとりの人があって、夜ごとに来て女とともに寝、暁になると早く帰った。顔かたちが狭手彦に似ていた。女はそれを不思議に思ってじっとしていることができず、ひそかにつむいだ麻の糸をもってその人の衣服の裾につなぎ、麻のまにまに尋ねて行くと、この峰の沼のほとりに来て寝ている蛇があった。身は人で沼の底に沈み、頭は蛇で沼の岸に臥していた。たちまちに人と化為って歌っていった。


これは佐用姫伝説です。播磨の佐用町、佐用津比売神社が、松浦佐用(代)姫と同一であり、佐用姫伝説を持ち込んだ氏族が、九州北岸をルーツとしていることは明瞭に思えます。なによりも、呼子の田島神社には佐用姫神社まであるのですから。ただ、現在の肥前の唐津の佐用姫伝説は後代のものです。

詳しく調べていないので良く分からないのですが、なぜか、宗像大社はもとより、田島神社に於いても、佐用姫を市杵島姫とは別扱いにしているようです。

ここにはなんらかの古代史の暗闘を感じるのですが、この点、播磨の佐用都媛神社では「佐用都媛の又の名を市杵島姫命」として表面に出しています。

播磨はともかくも、少なくとも但馬においては、その一国の名さえも左右するほどの規模で九州北岸の海人族が入り、他の地名から見ても北部九州の人々が大規模に入っているように見えるのです。ここで、本題の但馬に話を戻します。


養 父


「養父」と書き「ヤブ」と読みますが、養父と言えば、佐賀県鳥栖市の中心部に「養父」町があります。

「但馬に行きなさい。あそこには北部九州の地名がたくさんありますよ、それに、九州弁を話す人もいっぱいいますよ・・・」というアドバイスをしてくれたのは、前述の百嶋先生でした。

ただ、その一言だけに唆され、但馬に入ったのはちょうど一年前の暮れでした(2011年)。

この百嶋先生からの指示である但馬の調査と併せ、養父市の「天子」(宮)地名の調査に入ったのでした(養父の場合はアマコ、ゴと呼ばれていますが)。

新幹線を姫路で降り、たつの市在住の元古田史学の会メンバーのN氏の車に拾ってもらい一路但馬に向かいました。


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今回、調査の対象とした養父市の天子地名       熊本県旧田浦町の天子宮

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熊本県芦北町乙千屋の天子宮         佐賀県江北町上小田の天子社

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福岡県糸島市の十六天子宮         岡山県の武苔(ムトウ)天子宮


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熊本県玉名市の田崎天子宮        鹿児島県霧島市の田口天子神社


京都にも天使神社(天子の名を憚るとして変えたものか)があったようです。

現地も踏みましたが、今は五條天満宮とされています。

名古屋、千葉県、茨城県・・・他にもあるようですが、現地を踏んでいませんのでここではこれ以上のことは言えません。

現在まで佐賀県の五社を始め百十を超える天子宮、天子社、天子神社を確認しています。ここに上げたものはほんの一部ということになります。その後も調査が進んだことから、現在まで250300ほどの天子宮、天子神社、天子社…を確認しています。

次は養父市で最も重要と考えている御井神社です。


養父市大屋町の御井神社


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最初の目的地は兵庫県の養父市でした。

これは今なお続けているフィールド・ワークの「天子宮」調査のために同市八鹿町の「天子」という大字名から付された交差点を確認し、その正面にある屋岡神社(これも恐らく天子宮の一つだったのでしょう)を見るためのものでしたが(この「天子」は室町戦国大名の尼子氏に因んでか「あまご」と呼ばれますが)、まずは、肥前国養父郡の「養父」と但馬国の「養父」市を実感した瞬間でした。

そもそも、平成の大合併以前の佐賀県三養基郡の郡域は、旧肥前國三根(みね)養父(やぶ)基肄郡(きい)郡を起源としたものであり、この三郡を合併して三養基郡としたものだったのですが、当時も郡役所は鳥栖町に置かれ、郡名は三郡の頭文字を取ったものでした。このため、当時の郡域は、現在の鳥栖市全域も含んでおり、養父町はその痕跡ということになるのです。

養父市八鹿町の屋岡神社の調査も早々に、次に向かったのは養父市大屋町でした。かなり内陸部に入った山間の小平野といった趣の土地ですが、この地に鎮座するのが、何と御井神社です。 

久留米の人々にとって「御井」とは、高良山の麓の「御井」町であり、朝妻の湧水池で有名な味水御井神社の「御井」であり、天台の古刹の御井寺の「御井」が直ぐに頭に浮かんでくることでしょう。

もちろん、近江八景に詠まれた三井寺の鐘の音も、恐らく、久留米の御井寺の移動と考えていますが、ここではふれないことにします。

この御井神社は大屋町の中心地と思しき集落の背後の小山の上に鎮座していました。


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田野も宗像に近い手野(テノ、タノ)の地名移動ですね

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兵庫県養父市大屋町宮本の御井神社 これは福岡県の旧御井郡の地名移動と言えるでしょう


小型の四駆でもなければとても上がれそうもない急坂でしたので、雪の残る中、凍えながらもゆっくり参道を登りましたが、深い森の中に多くの社殿を持つ大社が鎮座していたのです。

後で地元の方に話を聴くと、“養父市、豊岡市一帯にある御井神社の中心の社”とのこと、まさに、御井の神の中枢に足を踏み入れたことを知ったのです(その後も数回訪問しています)。

そもそも、大屋という地名も、分家に対する本家、一族の中心の意味を持たされたものであり、まさに、大屋町とは御井の神が住む中心との意味を持たされているようです。

権威ある神様サイト「玄松子」にも、「大屋谷十二ヶ村、建屋谷十四ヶ村の総社として崇敬された神社で、岩井牛頭天王社とも称していた。」…


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御祭神 御井神

配祀  脚摩乳命 天穂日命 素盞嗚命 手摩乳命 熊野橡日命 田心姫命奇稲田命 天津彦根命 天忍穂耳命 市杵島姫命 活津彦根命 湍津姫命

配祀  大屋彦命 大屋姫命 抓津姫命(神社明細帳) とあります。


脚摩乳命はアシナヅチ=金山彦、手摩乳命はお妃の埴安姫、熊野橡日命はイザナギと別れた後のイザナミ、田心姫命は宗像三女神のお一人、天津彦根命は日子坐命、天忍穂耳命は草部吉見=武甕槌=鹿島大神、宗像三女神のお二人ですが、活津彦根命は活玉依姫の息子か夫神ではないかと思います。

ここにも宗像神、櫛田神社の神をはじめとして、九州でなじみの深い神々が出てきます。

もはや疑うことはできません。この「御井」と「養父」は九州からのものであり、但馬國も養父郡も他の要地の地名もそっくり持ち出されたものであることが分かってきたのでした。

さて、養父市、豊岡市を流れる円山川を少し下ると、志賀直哉の「城崎にて」で著名な城崎温泉がありますが、こうなるとこの「城崎」さえも肥前國の「基肄」郡から付されたものに見えてきます。そう思うのは、城崎温泉のロープウェーが掛かる山の裏側の谷に城崎町「今津」という地名までがあるからです。

もはや、思い込みは押しとどめることが出来なくなりました。福岡市西区「今津」の人々が遠い古代に移り住んだとしか思えないのです(糸島半島には、今宿、今山、今津が並んでいます)。

もちろん、これだけでは納得されないでしょうが、そこから少し遡れば同じ円山川左岸に「二見」(糸島半島に「二見ケ浦」がありますね)があり、さらに豊岡市の中心に近づけば「二日市」「八社宮」(はさみと読みますが、有田の南に長崎県「波佐見」町がありますね)という地名まで拾えるのです。

そして、中心部には、「千代田町」(旧三養基郡)、「若松」町(北九州市若松区)…があるのです。

他にもありますが、豊岡市日高町に「浅倉」、「吉井」(吉井町)「佐野」(甘木市)「岩井」(これは九州では消されていますが)が、養父市にも八鹿町「朝倉」があります。

無題.png面白いのは、豊岡市でも京都に近い出石蕎麦で有名な出石方面には「荒木」(久留米に「荒木」がありますね)以外思い当たるところがありません。やはり、大国主の膝元ではないからなのでしょう。ここで、少し目先を変えます。

家紋サイトの一つ「武家家伝」によれば、「朝倉氏は開化天皇または孝徳天皇の後裔といわれている。はじめ日下部を姓としたが、平安時代末期に但馬国朝倉に居住し朝倉氏を称したことに始まるという。」とあります。また、九州王朝論の関東の拠点の一つ東京古田会の会報、NewsNo.84にも、


日本家紋総鑑は、物部氏には触れないが、ある興味深い記述がある。「木瓜紋を用いた代表的な氏族は日下部氏、伴氏、紀氏である。」高良大社のご神紋が木瓜紋で、水沼の皇都に君臨した天子の姓が紀氏とする福永仮説は、ここでも偶然とは言いがたい一致を見る。

さらに、「武家で?紋を最初に用いたのは越前国の朝倉氏で、『日下部系図』には朝倉太郎が白猪を退治して頼朝より木瓜紋を賜ったとある。…この使用氏を見ると当時、ほとんどが西国の諸豪であり、…織田氏が木瓜紋を用いたのも、朝倉氏から受け継いだものである。」(傍線は福永)


と、九州王朝論者の福永晋三氏(「神功皇后紀を読む会」主宰)を引用しています。

「朝倉」の地名を持ち込んだ九州の氏族から「浅井」、「朝倉」の戦国大名の一つが生まれたとすれば、相当に面白い話です。

ちなみに、朝倉氏の紋章は三つ盛木瓜であり、開化天皇の皇子彦坐命の子孫とする系図もあるようです。そして朝倉氏を滅ぼした織田家も木瓜紋でしたが、これは朝倉氏の家紋とは異なりますので付け加えておきます(後段の「武家家伝」朝倉氏を参照)。

延々と切がないですが、「小佐」川(福岡市に日佐がありますね)が流れる八鹿町の「米里」(めい)や「小城」も福岡市の「姪浜」や肥前の小城市の「小城」に思えます。後は自分で探されるとしても、前述の大屋町にも「城山」という山があるのです(この「城山」は「基山」の可能性もありますが、宗像市のJR赤間駅付近の「城山」かもしれません。)。但馬の内陸部も、播磨も、驚くほどの九州の地名が拾えますので、関心を持たれる方は試みてください。

播磨の地名を調べると異常に多い目立つ地名に「山田」があります。これも宗像市、唐津市、山田市の「山田」ではないかと思います。

また、「播磨」については、同じく九州王朝論の多元的古代研究会の福永信子氏(現在は退会)が“「播磨」には多くの地名対応があり、太宰府の南の「針摺」とその周辺の地名移動”との説を二十年前に書いておられます。

谷川健一はともかくも、安本美典の奈良の地名話などちゃちなものに見え影が薄くなってしまった方もおられるかも知れません。


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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


御井神社の祭神のほとんどがこの中にあります


百嶋由一郎氏の音声データ、手書きデータ、80枚近い神代系譜を必要とされる方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:01| Comment(0) | 日記

2019年01月06日

533 但 馬 (下)

533 但 馬 (下)

20171014改訂稿(20120211

太宰府地名研究会 古川 清久


 

皆さんは但馬國のすぐ隣の鳥取県岩美町に岩井温泉があることをご存知でしょうか。私も一度、三つの和風旅館が三層楼閣の軒を競い、湯かむりの奇習が伝わる名湯に入り花屋旅館だか岩井旅館だかに泊まったことがあるのですが、ここに御湯神社があります(写真は明石屋旅館)。

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その時は、山陰線の鈍行列車の旅だったためそれ以上は足を運びませんでしたが、この神社が実は御井神社だったことに気付いたのはつい先だってのことでした(古い原稿ですので実は6年も前の話です)。 

この御湯神社は弘仁二(八一一)年創建との縁起を持ち、温泉の神「御井神」などを祭る平安時代の「延喜式神名帳」にも記される温泉です。従って、「岩井」の地名が往古に遡ることは疑えません。頭にあるのは磐井の乱(実は継体の反乱)の磐井です。

まあ、御井の神が温泉の神というのは、この地に藤原が入っていることから、まず偽装ではないかと思うのですが、ここでは、祭神は御井神(大国主命の御子)、大己貴命(大国主命の別名)、八上姫命(御井神の母神)、猿田彦命とされています。

さて、ここには岩井寺があったとされています(岩井廃寺)。

九州も熊本県の浄水寺、陳内寺を始めとして、椿市廃寺など大分県に多く存在していますが、瀬戸内海沿岸の豊前、豊後から多くの寺院が解体され、米田良三氏が考えたように、筏に組まれて畿内に持ち去られたことでしょう。

ここに磐井の一族が入ったのではないかと思わせる岩井の地名があり、但馬に九州北部の地名が数多く存在することを考えると、山陰に数多く存在する白鳳寺院の中でも岩井寺は九州王朝にとって重要な拠点であったことを示しているように思えてきます。

ここでは予断を避け確認だけをしておくことにします。山陰山陽諸国の塔跡」というサイトには、


奈良時代前期の様式の方形柱座と2重式円孔をもつ心礎を残す。心礎は3.64m×2.36m×1mの凝灰岩で、一辺1.4mの方形柱座が造り出され、中央に径77.5cm深さ32,7cmの孔とその底に径20cm深さ14.2cmの孔を穿つ。土地の伝承では宇治長者が建立した弥勒寺跡と云う。基壇や礎石は残存しない。白鳳−平安初期の瓦を採取すると云う。心礎は岩井小学校校庭にあり。なお美濃岩井の岩井山延算寺本尊木造薬師如来立像(重文・平安初期)は平安期当寺から遷座したと伝えられる。薬師如来は、最澄が因幡国岩井郡の温泉(岩井温泉)の楠から彫り上げた三体の薬師如来像の一つであると伝える。つまりこの薬師は因幡岩井廃寺(弥勒寺)の薬師如来像であったと云う。「因幡岩井温泉誌」森永清畔編、岩井温泉組合事務所、明治45年より・・・」とあります。

話を戻します。少なくとも、伯耆國の東まで御井神社が広がっているとなると、まずは、宗像の海人族が入ったと思われる景勝地但馬海岸の地名を拾ってみる必要があります。

山陰と言えばベニズワイ蟹の水揚地が続きます。まず、新温泉町の居組港の沖には北九州の「白島」と同じ「白島」があります。その東の浜坂港と諸寄港との間には「城山」が、諸寄には「芦屋」が、山陰本線の余部鉄橋の余部には、「千畳敷」が、浜坂駅の東には「二日市」と「若松町」があります。

そもそも、兵庫県には「芦屋」が有りますよね。あの一帯は北部九州の海士族が大量に入っているようですが、人形浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑」の播磨の「芦屋」も元は遠賀川河口の「芦屋」が起源なのでしょう。

この浜坂は温泉地としても有名でいくつか入りましたが、「七釜」温泉、「二日市」温泉があり、泉源がこの地区からのものであることから、どう見てもこの地名は太宰府周辺から持ち込まれたように思えます。「七ツ釜」も東松浦半島の景勝地ですね。

その東の香住港も山陰屈指の蟹の水揚げ港ですが、ここにも、「若松」と「一日市」(ひとかいち)が、そして面白いのは香住港の東にある峠の名が「花見」(福岡県古賀市)なのです。きっと、この地の人は宮地嶽神社の氏子だったことでしょう。さらに東に進めば、「竹野」港です。久留米に「竹野」(竹野旧郡は丹後にも移動しています)がありますね。

もう、これくらいにしましょう。内陸部にもびっくりするほどの北部九州の地名が拾えますので、後はご自分で探してください。

「こんなことはどこでも有りうること」と言われる方が必ずおられるはずですから、まずは、試しに自分でやってみれば良いでしょう。まず、無理でしょう。

どうも但馬を中心に兵庫県に特別に見られる現象のようなのです。そして、このことが「風土記」が九州から播磨に跳んでいることと関係があるような気がするのです。

いずれにせよ、地名が形成される時期に、大規模な氏族(民族)移動が起こったようですが、そして、それは地名の表記から考えて、「好字令」以後の時期のように思えるのです。

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これは古代史のテーマになってくるので、軽々に結論を出すという訳には行きません。ただ、前述の百嶋先生は、以前から「九州王朝が滅んだ後、その一族が橘氏の庇護のもとに但馬に入っている。」と言われているのです。当面、これは神社考古学からの判断でしかありませんが、地名の側からも補足できれば面白いと考えています。

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箕谷2号墳戊辰年銘大刀


次に、象嵌太刀として著名な箕谷2号墳戊辰年銘大刀(「戊辰年五月(中)」の6文字)の「箕谷」が気になります。

 意味は久留米の高良大社直下の御井神社であり、養父市一帯に分布する御井神社との関係が無視できないのです。


考古学的知見からも面白い話をご紹介します。これは兵庫県からも銘文入りの太刀が出ているという話を覚えていたことから思いついたのですが、どうやらこれも九州王朝のものに思えるのです。

ここに、「東アジアの銘文入り太刀」というサイトがあります。大変長くなり恐縮しますが、学問研究のためとお許しを頂き、全体の雰囲気を掴むために全文を引用し掲載させて頂きます。


http://www.city.yabu.hyogo.jp/www/contents/1210210303920/html/common/4d25008d026.htm


古代史の空白地帯


 戊辰年銘大刀の発見が報道された昭和59年1月の当時、次のような新聞記事がありました。『但馬の鉄刀の最大のナゾは、目立った遺跡のない但馬地方で、ごく平凡な古墳から出土した何の変哲もない刀に、「千に一つもでない」といわれるほど、極めて珍しい銘文が刻まれていたことである』。『それほど貴重な鉄刀がなぜ但馬の小さな古墳から出土したのか。箕谷古墳の銘文刀が投げかけた最も大きなナゾである。隣り合わせた丹波、丹後、因幡に比べると但馬は書かれた文献も少なく「古代史の空白地帯」だ』というものです。
 しかし5世紀中頃に全長 128mもある但馬最大の前方後円墳である池田古墳が朝来市和田山町に造られて以後、7世紀前半までには大型横穴式石室をそなえた養父市大薮の禁裡塚古墳や塚山古墳があります。古墳時代中期から後期における但馬は、考古学的に決して古代史の空白地帯ではなく、丹後・丹波・因幡に比べても優れた一面もあります。
 それはそれとして、なぜ小さな古墳から銘文入り鉄刀が出土したのか。また西暦608年にどんな出来事があって銘文入り鉄刀が作られたのか。さらにどんな理由があって貴重な銘文入り鉄刀が但馬にもたらされたのか、未解決の問題としてナゾは続いています。


東アジアの銘文刀剣一覧

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無題.png東アジアにおける銘文刀剣を一覧表でまとめてみました。一覧表には15本ありますが、刀剣の製作地を大胆に仮定し、1〜4を中国大陸、5〜7を朝鮮半島、8〜15を日本列島の中の大和と推定しました。この中でみると1・2・3の大刀は後漢の年号をもつ鉄刀で、東アジアで最も古い一群を形成しています。大刀の刀背に金象嵌の文字を刻むことが特徴です。文字数は1527文字程度であり、2世紀代につくられた銘文鉄刀が漢の王朝文化として成立しているように見うけられます。奈良県東大寺山古墳から出土した漢中平年銘大刀も、後漢の基本的な銘文の象嵌方法にならっています。
 5世紀代になると日本各地で銘文刀剣の出土例が増加します。銘文刀に鉄剣の例(9・10) が表れ、文字数が増加(8・9) し、さらに銀象嵌(8・10)がみられるようになります。こうした変化は銘文刀剣の日本的な発展とみてもよいでしょう。また8・9・10の銘文には日本的な字句も使用されてきます。
 また東京国立博物館の有銘環頭大刀は銀象嵌であり、5世紀代の大陸でも銀象嵌が使われたことが確認できます。江田船山古墳例は銘文の象嵌が大刀の刀背に刻まれており、中国の伝統的な銘文大刀の象嵌の位置を守っています。
 6・7世紀になると直刀の表面に文字を刻む例が増加します。また7世紀になると文字数は6ないし4文字になり、極端に減少します。文字によって意味を示すと考えるよりも、特殊な記号のようになってきます。また箕谷2号墳のように銅象嵌が出現します。
 つまり2世紀代に中国で金象嵌が利用され、5世紀代に朝鮮半島と日本列島で金象嵌にくわえて銀象嵌も流行し、さらに7世紀代になって銅象嵌が出現します。つまり銘文刀剣にみられる金・銀・銅の区別は時代が下るにつれて増加しています。象嵌材料の金と銀と銅の区別が何による差なのか分かりませんが、象嵌文字の基本は金と銀です。
 5世紀・6世紀に作られた銘文をもつ刀剣類は、地域支配や政治的な権威をしめす威信財として利用されたものです。奈良時代のものだと推定される三寅剣(さんいんけん)銘小刀は護身剣とか個人的な宝剣という意味のものだと推定されています。しかし、江田船山古墳や稲荷山古墳の副葬品には朝鮮半島に系譜をもつ豪華な遺物が含まれています。銘文刀剣もこうした威信財群の一つとして、大和政権から各地の地方豪族に与えられた友好関係の証であり、地方豪族にとっては地域支配の正当性を示す一族の証となったと思われます。
 7世紀の銘文入り鉄刀
 7世紀代の銘文入り鉄刀は3本あります。箕谷2号墳と四天王寺と群馬県藤岡市の出土品です。箕谷2号墳の副葬品をみると金銅製の杏葉(ぎょうよう)や革金具などがみられますが、岡田山1号墳のように豪華な遺物が豊富にあるわけではありません。副葬品の点数をみると約50%が土器で、残りの約50%が鉄製品です。鏡や玉類はありません。馬具でも鞍や鐙・轡はみられません。副葬品にみられる畿内系の遺物は貧弱で、貴重な銘文入り鉄刀だけが副葬品群の中で単独で存在しています。また四天王寺の直刀は、柄(つか)よりの位置に、縦方向に丙子椒林(へいごしょうりん)の4文字の銘文をもちます。お寺の伝説では百済より貢進されたもので、聖徳太子の所持品だとしています。丙子椒林剣という名称で呼ばれていますが、切刃造の直刀です。さらに群馬県藤岡市出土品も丙子椒林剣と同じ位置に4文字を刻む切刃造の直刀です。銘文は金象嵌ですが、文字はよみとれません。これらの鉄刀の刀身の全長を並べてみると戊辰刀銘大刀(65cm) 、丙子椒林剣(65cm)、群馬県出土品(64cm)となっており、長さが同じです。また銘文の位置もほぼ同じ位置にあります。そして文字は6文字ないし4文字の限定した語句を入れています。5世紀代の江田船山古墳の74文字、稲荷山古墳の115文字はもちろん、6世紀代の岡田山1号墳の12文字のような多くの文字を刻むことはありません。こうしたことから7世紀代の銘文入り鉄刀は、刀身の柄よりの位置に4〜6字程度の語句をいれる儀杖用大刀として成立していると考えられます。

官位12階を前提として成立した銘文刀

貴重な銘文入り鉄刀がなぜ但馬の小さな古墳から出土したのでしょうか。7世紀代の銘文入り鉄刀は、5・6世紀代のように有力な古墳の豪華な副葬品の中の貴重な遺物として取り扱われるのではなく、古墳の規模や副葬品のセット関係にも関わりなく、銘文入り鉄刀だけが単独で意味をもっていたと思われます。
 西暦 603年には官位12階が定められ、服装の色分けによって身分を明示しました。    この時期、古墳時代を代表する豪華な金銅製鞘をもつ大形の装飾大刀から、奈良時代に続くような黒漆塗りの地味な小形の直刀へ嗜好が変化してきます。こうした時代の変化は、官位12階を前提とした初期律令社会の成立によるものと考えられます。  

7世紀の銘文入り鉄刀は律令社会の要請によって小形化し、そして定型化しました。当初、箕谷2号墳の銘文が6文字しかなくて、少ない文字数が不思議でした。しかし丙子椒林剣や群馬県藤岡市出土品はいずれも4文字であり、箕谷2号墳の6文字は、この時期としては決して少なくありません。7世紀の銘文入り鉄刀は初期律令社会の中で特定個人に与えられる儀丈用大刀で、正倉院に伝世するような奈良時代の直刀の祖型になるものと考えられます。
 したがって箕谷2号墳の埋葬者が、戊辰年(西暦 608年)に奈良県の古代飛鳥において特別な功績によって銘文入り鉄刀を与えられたという推理も可能なのです。いずれにしても戊辰年銘大刀は飛鳥の地で作られ、それが但馬に持ち運ばれて箕谷古墳に持ち込まれたものと思われます。


学会通説に沿ったものの立派な見解だと思うのですが、干支(かんし)年号で戊辰年の最古の銅象嵌太刀、推古天皇一六年(六〇八)とされ、全国の古墳の実年代を考える基準資料ともされているのですから柄(つか)に「戊辰年五月()」の六文字が刻まれた国宝級の太刀が、なぜ、この地で出土したのか?通説に頼ればどうしても「古墳の埋葬者が、まともな鉄製品など出ない古代飛鳥において作られたとする銘文入り鉄刀を何らかの功 績によって与えられ、それを但馬に持ち帰ったか、征服したかして運び、箕谷古墳に持ち込んだ」といった解釈しか仕様がないはずなのです。

しかし、九州王朝の一族が辺鄙な但馬に安全を求めて避退したと考えれば、辻褄が合うのです。そうなのです。御井の神を祀るからこそ箕谷(御井)谷と呼ばれたのです。

そうでなければ、「東アジアの銘文入り太刀」氏も自問自答されているように、但馬の養父という僻陬の地の東西十二m、南北十四mの小さな円墳に、須恵器、金環三点、鉄鏃・馬具等の鉄製品、鉄刀など一〇三点の遺物が出土するはずはないのです。

ここまで、書いて、たつの市在住メンバーのN氏の意見を求めました。

それは、氏が二〇一一年夏の久留米大学の市民講座(九州王朝説)の講演において、この太刀についてふれておられたことを思い出したからでした。

穴掘考古学を関西系土建屋どもとの「考古学村」と決め付け、学者はもとより(邪馬台国畿内説論者の門脇貞二は退官後あんなものは九州に決まっているとした)、出世するために嘘をつき続けている全員が畿内説論者の考古学協会など全く信用していないものの、逆に彼らの矛盾した主張を事実をもって叩けるのではないかと思ったことが発端でした。

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してみると養父の冒頭において、「天子宮」調査のために養父市の八鹿町の「天子」という地名から付された交差点を確認し、その正面にある屋岡神社(これも天子宮の一つだったのでしょう)としたこととがつながってくるのです。

箕谷2号と粗末な名で呼ばれる小さな円墳こそ但馬に避退したとする我々が考える九州王朝の大王か滅び去ったラスト・エンペラーが眠る陵だったと思うのです。

さらに言えば、「き」「み」としか読まない字を付したことも、紀氏とも言われる“橘氏が但馬に九州王朝を匿った”とする百嶋神社考古学とも符合するのです。

やはり、これも「御井」の神を祀ったことを知っているからこそ、「御井」谷古墳の名を隠し、自らは「みいたに」(現地では多分「だに」とはしてないと思うのですが)と呼び習わしてきたのです。そうすると、消された九州王朝の大王だったからこそ手にすることができ、惜しげもなく古墳に納めることができたのであり、また、そうする必要があったのではないかと思うのです。

最後に面白いことに気付きました。

「天子」という凄まじい名を残す交差点のそばにある屋岡神社は、九州を中心に多くの痕跡を残す天子宮だったのではないかと考えていますが、まず、この古墳からは天子交差点を見透すことができるようです。

もちろん、実際には逆で、屋岡神社が天子宮とすると、古墳が見える場所にこの神社が創られたのでしょう。

このポイントと箕谷2号墳のために造られたであろう“つるぎが丘公園”の古墳のあるポイントとを線で繋ぐと、古墳に近いところに造られていることから菩提寺ではないかとにらんだ豊楽寺(養父市八鹿町一部一四二四)がこの線上にピタリと乗ってくるのです。

豊楽寺は、現在、曹洞禅の寺ですが、考えていた通り、祀られていたのは観世音菩薩でした。


安穏山天女峰豊楽寺(本尊如意輪観世音菩薩)は、西暦八三八年(承和五年)空慧上人が辨財天を祀って開基したことに始まる。九百年代の初め、小佐城主小佐三郎高重が伽藍を建て一大道場として有名になったが、戦乱による焼失や裏山の崩壊により、辨財天の小堂以外は全て無くなった。(同寺落慶法要資料より)


九州王朝、倭国と観世音菩薩がただならぬ関係にあることは、太宰府の観世音寺の存在からしても言うまでもないことですが、古田史学の会の古賀達也氏が「洛中洛外日記」二四六号「法隆寺の本尊と菩薩天子」として取り上げています。


釈迦三尊像が上宮法皇の「尺寸の王身」と光背銘に記されているように、そのモデルは倭国の菩薩天子、多利思北孤です。そして、釈迦像と顔がそっくりの夢殿の救世観音菩薩も、天平宝字五年(761)の『東院資財帳』に「上宮王等身観世音菩薩像」と記されているように、やはりモデルは多利思北孤と考えられるのです。これらのことから、法隆寺建立当初の本尊は、夢殿の救世観音像との考えに到達したのです。


もうひとつ思い当たることがあります。佐賀県の唐津市には玉島川が流れ、玉島神社があるのですが、豊楽寺の直ぐ隣りにも玉島神社があるのです。

これも玄界灘の民が玉島神社を持ち込んだように思えます。

なぜならば、玉島地名はこちらには見当たらないからです。

玉島川は神功皇后と鮎の川として知られていますが、山上憶良も「人皆の見らむ松浦の玉島を見ずてやわれはこひつゝをらむ」と詠っており、「記」「紀」でも神功皇后が戦運を占った場所とされているからです。

この、神功皇后が実際には九州王朝の大王の開化天皇の皇后であったとする百嶋説や、屋岡神社の縁起に開化が登場していることが多少腑に落ちる思いがします。
 ここで話を変えます。屋岡神社の前を流れる円山川を少し下ると「上小田」、「下小田」があります。これは天子宮調査をしていると頻繁に出くわす地名であり、例えば九州最大の天子宮である佐賀県江北町の天子社が鎮座するのも「上小田」なのです。

九百年代の初め、前述の豊楽寺を寄進した小佐の地頭小佐三郎高重も朝倉高清の弟小佐二郎大夫盛高の子、小佐新大夫頼重であったとされており、しかも、朝倉氏の別れであり、九州から避退した氏族の可能性が高いのです。

してみると、「小佐」は福岡市の「日佐」(おさ)が持ち込まれたものであることが推測できるのです。

「百嶋神社考古学」では“仲哀天皇と神功皇后との間は一年ほどで、開化天皇と神功皇后とは夫婦であったと”し、応神天皇は誉田別命の名にあるように別王でしかなく、本当の天皇ではないとするのです。

神功皇后はもちろん天皇ではないので、天子とは開化の子となるのですが?日子座王の曽孫船穂足尼命以下は・・・百嶋先生に聴くしか方法がありません。

今のところ電話での好い加減なやり取りでは、日子座王とは、開化よりはるかに歳上だが、長脛彦の事件で許しを請うために形式的な子となった一族の長との説明を頂いていますが、まだまだ分かりません。

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天子交差点の正面に鎮座する屋岡神社


ここで、消された九州王朝の大王の古墳がなぜ養父にあるのかについての推定をしておく必要があるかも知れません。

そもそも「考古学村」による戊辰年年号による六〇八年の評価が正しいのかと言う問題がある上に、畿内の古墳だから古いはずだという想定が良いかがあります。さらには、追葬や、太刀の場合は特に伝世の問題もあります。

百嶋神社考古学による想定は、“滅んだ九州王朝の王族が匿われた”としています。

また、移動した地名が好字令後のものであるように見えることがあります。

これが、六〇八年刀とそぐわないことの意味は、大和朝廷によって九州王朝の王族への圧力が高まった時期に但馬に逃げ込んだ際に九州から持ち込んだと考えれば一応の説明は付くのですが、そんな説明はこれまで「考古学村」がやってきたことでしかありません。

筑後川流域の古墳の多くが大和王朝によって暴かれているとの思いを持っていることから、それを恐れて改葬したとの想定に飛びつく前に、そもそも、干支年号の六〇八年想定、古墳の絶対年代、追葬の有無、九州王朝のどの大王なのかといった全てのことを洗い直すことが必要ではないかと思うものです。

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御井神社


では、御井神とは何なのでしょうか、「日本書紀」には記載がなく「古事記」によることになるのですが、HP「神奈備」には、「御井神は古事記によれば大穴牟遅神が八上比売に生ました子を木の俣にさしはさみ、木俣神亦の名を御井神と言うとある。延喜式注には御井、素盞嗚尊の子なり、母は稲葉八上姫とある」と書かれています。

一方、久留米の味水御井神社は祭神を水波能売命(スサノウのお妃となった大山祗の長女で豊受大神の母)としています。

言うまでもなく、大穴牟遅神とは大国主命であり、播磨の一の宮伊和神社の祭神も大穴牟遅神とされることから、当然にも伊和大神も大国主であり、その第一子が、木俣神となります。それで良いかは分かりませんが、延喜式注の御井、素盞嗚尊の子なりはどういうことなのでしょうか?意味が分かりません。

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屋岡神社縁起


もしも、大国主の子であるのならば、大国主命を九州王朝の親衛隊長とする百嶋説には符合するようです。

また、「少なくとも、伯耆國まで御井神社が広がっている。」と前述しました。

一つだけ、斐川の御井神社をご紹介しておきましょう。

鎮座地、島根県簸川郡斐川町直江町、祭神は木俣神(このまたのかみ)八上姫大神(やかみひめのおおかみ)とされています。木俣神は、大国主命の御子(八上姫との間にできた第一子)ですが、これは瀬高の釣殿神社などでも見かけます。大国主神の正妻「須勢理毘売(すせりびめ)」を畏れ、生まれた子を木の俣に押し込んで因幡国に帰ってしまった。と言うのですが。


地名と古代史


戦前までの文献史学は天皇制に奉仕する「皇国史観」と心中することをもって堕落の末破産しました。

そして、その反省の上から始まったとする戦後史学も、具体的な発掘物を系統だって分析する科学的知見と皇国史観から独立した文献史学が結びついたとしたものの、最終的には炭素14による年代測定めさえも受け入れることもできず、今や土器編年の破産直前のありさまで、大和朝廷と既存の支配構造に奉仕する御用学として確実に解体へと向かっているようです。

このような中、穴掘考古学に見切りをつけたのが早かったおかげで、たとえ、無自覚ではあったとしても、比較的自由な民俗学や地名研究、神社研究に漕ぎ出すことでき、どうやら古代の真実をも見透すことができるのではないかと思えるようになってきました。

そもそも、今回のテーマは、沖ノ島がなぜ二つあるのかという些細な疑問から始めたものでした。表記は異なるものの“日本海にも同じ名の島がかなり離れて存在するということは、同一の民族、氏族が、広がるか逃げるかした。”と、しか考えられないと思い至ったからでした。そして、その表記を考える時、隠岐の島よりも簡素な表記の沖ノ島が新しいはずはないと気付いたのでした。

あまり知られてはいませんが、出雲の北の海岸部には夥しい数の「青島」があります。これは、ほとんど漁港の浦々の沖に一つずつあるようなものです。

民俗学者の谷川健一は「青の会」を創ってまで、水葬から続く葬地としての青地名を表面に引き上げましたが、まさに出雲の北岸の青島の存在は、集落(浦)ごとの葬の島として定まっていたことの証左に思えましたが、このような場合、表記は同じになってしまいます。

と、すると、表記が異なることそのものに意味があると考え始めたのでした。

そして、宗像大社の社地が田島で、田島神社の表記はそれを移した物であることに気付いたとき、田島と但馬、沖と隠岐の関係が見えてきたのです。

 さらに、松浦佐用姫が播磨の佐用姫神社では堂々と市杵島姫とされているにもかかわらず、宗像大社では佐用姫など片鱗もなく、田島神社では祀られてはいるものの、別神扱いにされていることも分かってきました。

どうやら、宗像大社の本来の祭神が大国主命であるという「百嶋神社考古学」による示唆は、養父の御井神社の正体を解き明かしてくれそうな予感がしています。

田島にも出雲にも大国主命を祭る沖に沖ノ島、隠岐島があれば、但馬にも大国主命が祀られ、その上に御井神がいると見えてきたのでした。

播磨の佐用姫(市杵島姫)は但馬から内陸の播磨に引き、宗像大社では佐用姫など片鱗も出さず、市杵島姫他三女神を正面に据えることを持って大国主命を慎重にか、あるいは丁重にか、伏せおおしたように見えるのです。そして、その背後には御井神が高々と聳えているようなのです。

一方、梅原 猛に「神々の流竄」がありますが、“沖ノ島の祭祀に関わる人々(ウサギ)が、白江戦に敗れたことから列島に移る必要がでてきたが、そこで力を貸したのが九州の志賀ノ島を本拠とする阿曇族(ワニ)であった。「因幡の白兎」の物語はその移動を書き留めたものであり、その時に起こった部族間の衝突の記録だった“としている。この「白兎」の物語の舞台が、実はこの玄海灘だったと考えているのです。梅原氏によればこの話は「改竄された神々の物語」の一つであり、昔話としては白兎が、出雲の北の隠岐の島から、ワニの背中伝いに、因幡(鳥取県)の白兎海岸に渡る物語と理解されてはいるが、海を渡る時に兎がワニを騙していたため、それに気がついたワニがウサギを丸裸にしてしまうということになっているのです。
 そして、それは日本海の「隠岐の島」ではなく玄界灘の「沖ノ島」で起こったこととするのです。 

もしも、梅原説のようにこの玄界灘が「因幡の白兎」の話の舞台とすると、九州北岸に大国主がいなければなりません。宗像の本来の神を「大国主命」とする「百嶋神社考古学」の空恐ろしさを実感せざるを得なくなるのです。

今や「考古学村」「古代史村」と化した戦後歴史学を一切期待することなく、自らの目と足だけを頼りに古代を探らざるを得ない時代に入ったのかもしれません。

 買弁学者を一切信用することなく、嘲笑されようとも、頼りなくとも自ら頭で考えることだけが古代を解き明かしてくれるのではないかという気がしています。

 但馬の地名を見ると713年の好字令以降のもののように見えます。また、平安京成立(794年)により近畿大和朝廷が直ぐ隣に進出することになります。この期間、九州までの距離の倍に近い但馬は安全な場所であり、以前から開発が進んだ土地であった事から、この80年間に九州王朝の残存勢力が避退していたのではないかとの仮説を立てています。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記