2018年12月09日

524 姶良町山中で遭遇した若宮神社 “鹿児島姶良市北山の若宮神社初見”

524 姶良町山中で遭遇した若宮神社 “鹿児島姶良市北山の若宮神社初見”

20180203

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 鹿児島県内にも若宮神社祭祀がかなり存在する事については以前から承知していました。

 事実、薩摩川内市の新田神社にしても境内参道脇には高良神社=何故か祭神を天鈿女命?とするもの が鎮座(高良社、猴等神社とも呼ばれる)しています。

百嶋神社考古学では高良玉垂命(第9代開化天皇)と神功皇后との長子が仁徳天皇こと若宮神社であるとすることから、薩摩にも高良神社+若宮神社祭祀が存在する事を認識するのです。


無題.png

若宮神社 カーナビ検索 鹿児島姶良市北山837-13


姶良市においても姶良市三拾町1896に若宮神社が存在します。

 さて、この北山若宮神社は姶良市からさつま町や薩摩川内市へと山中を抜けるかなりハードなルートの途中で遭遇したものです。

 今回のリポートは、この鹿児島の山中にも高良神社と関係が深い若宮神社が存在した事を報告するだけのものでありそれほどの意味はありません。

無題.png
無題.png

神社正面にはこのような掲示板が置かれていました。

このような山中でそれなりの解説がされている事には頭が下がります。

無題.png

記述からこの地には石清水八幡宮系の橘一族が入っている事が分かります。

 この橘一族(ヤタガラスの後裔)こそ九州王朝を支えた最重要氏族なのです。

また、鎌倉政権に馳せ参じた武士(モノノフ)にも多くの物部系氏族が入っており、その一派が仁徳=高良の若宮祭祀を持ち込んでいる事が見えたのでした。

如何なる情念、如何なる執念を以てこの地に住み着かれたのでしょうか?

今となっては知るすべもありません。

 この神社を奉斎したのは平山氏であり、恐らく、北からの備えとしてその後裔が住み着いたのがこの北山の地でもあったのでしょう。

 同時に鹿児島県に正八幡宮が散見されることの理由が見えて来ました。

元々、正八幡宮とは八幡宮以前の本物の八幡宮の意味であり、応神を正面に立てた後追いの八幡が蔓延る中、本物の八幡=正八幡宮とは大幡主を中心とする白族の神社である事を再確認するものだったのです。

無題.png

平山氏 鹿児島県 1282年(弘安5年)頃、京都の石清水八幡宮から下向した善法寺法印了清が築城したといわれている。

善法寺了清は、石清水八幡宮の祠官の一族であったが、当時、石清水八幡宮と関係が深かった大隅正八幡宮(鹿児島神宮)領の帖佐郷平山村の領家職として、石清水八幡宮の神璽を奉じ、一家眷族、僧侶、医者、大工、染師、土器師等873人を率い、船で帖佐松原八幡江湖に到着した。更に別府川 を遡り、清泉が湧き出している折橋山山上を社地に定め、鍋倉八幡神社(帖佐八幡神社)を創建した。大隅正八幡宮に対して、新たに勧請した八幡ということで、「新正八幡宮」と称した。了清は、八幡の脇に、平安山八流寺増長院を別当寺として建立した。更に神社の西に平山城を築き、地名から平山氏を名乗った。…

大隅国の守護であった島津氏と平山氏は養子縁組を行っており、当初は行動を共にしていたが、次第に対立するようになり、享徳年間(1452 - 1454年)に島津氏第9代島津忠国の弟、島津季久が、平山氏第9代平山武豊を討って帖佐郷を領有した。敗れた平山氏は指宿へ、一族は鹿児島の武村へ移された。季久は、別府川の対岸に瓜生野城(建昌城)を築いて居城とし、平山城には次男の忠康を配し、平山氏の名跡を継承させた。また、季久の三男の満久は隣郷の加治木氏の養子とし、季久の威勢は近隣に及んだ。

ウィッキペディア(20180204 0754による

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記