2018年12月24日

ビアヘロ072 北海道は江差の姥神大神宮と宮地嶽神社 “九州王朝の神紋は蝦夷まで及んでいた”A

ビアヘロ072 北海道は江差の姥神大神宮と宮地嶽神社 “九州王朝の神紋は蝦夷まで及んでいた”A

20180730

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 この話は、故)百嶋由一郎の面受の者として、今でも耳に残っているのですが、実際に“宮地嶽神社(福岡県福津市)の三階松が江差まで行っている…“”開化天皇(高良玉垂命)と神功皇后との神霊が江差まで運ばれている…“と言われていました。

 当然、手書き資料にもそれが残されていますが、この姥神大神宮の渡御祭の山車にも三階松と抱き柏に菊の紋が打たれた幟が飾られているのです。

無題.png

確かに抱き柏に菊の紋が打たれた幟の山車には神功山との棟札が置かれており、もう一方の三階松が打たれた山車は開化天皇こと高良玉垂命のそれであると分かるのです。

勿論、現在の宮地嶽神社は主神を神功皇后とはしているものの、夫神である高良玉垂命は消えており、そのまま真に受ける方には理解できないと思います。

反対に、久留米の高良大社では高良玉垂命は残されているものの神功皇后が消されているのです。

このように、各々を消す事によって九州王朝の天皇制を掻き消しているのです。

無題.png

左が三階松(孝霊、孝元、開化の三代の九州王朝系天皇を表す)右は抱き柏に菊の神功皇后の神紋


 無題.png右は高良大社に奇跡的にも残された高良玉垂宮神秘書(コウラタマタレグウジンヒショ)の一節ですが、仲哀死後の神功皇后と孝元天皇の子ワカヤマトネコヒコとは夫婦となりと書かれ、仁徳天皇ことシレカシノミコト以下五人の皇子ももうけているのです。

 これらについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)7968などを丹念に読んで頂くしかないのでしょう。


79

宮地嶽神社と安曇磯羅 K “未来の宮地嶽神社参拝者のために”

68

宮地嶽神社と安曇磯羅 @ “五人寄れば文殊の知恵”


「記」「紀」の九州王朝隠しはその本拠地であった九州の現場にとどまらず、全国に及んでおり、この姥神神社の祭神とされる五柱(天照大御神、天児屋根大神、住吉三柱大神)の神(江差町HP)も、天照皇大御神・天児屋根神・住吉大神を祀る…(ウィキペディア)もそのまま真に受けるわけには行かないのです。

 まず、天児屋根神(藤原の祖)が祭神とされていることから、本来の祭神は高良玉垂命と神功皇后であったと考えられます(天児屋根の孫が崇神であるからです)。

 それが藤原の時代以降に祭神が替えられ、高良玉垂命(底筒男)、崇神(中筒男)、アヅミイソラ(表筒男)=住吉三神として、神功皇后の夫神である開化が住吉として薄められている上に、開化天皇と神功皇后(皇宮皇后命)は消されたと考えられるのです。

 ただ、天草〜博多…〜糸魚川〜十三湊〜江差と海路を通じて伝えられた山車の名称と神紋だけは消せなかったのです。

何故、そこまで断言できるかと思われるかも知れませんが、百嶋先生もメモに残されなかった証拠の一部を新たに発見しました。それが以下の画像です。

無題.png


無題.pngこの賽銭箱と幔幕に打たれた神紋こそ高良玉垂命=開化天皇の門光なのです。

 高良玉垂命と神功皇后の神紋:唐花(門光)と抱き柏に菊紋

 現在の高良大社の神紋は左三つ巴と木瓜紋とされていますが、木瓜は初期の臣下であった金山彦の神紋であり、ここにも偽装が施されているのです。

これについては高良大社の内部に祭りの時だけ現れる神輿に打たれた門光が本当の神紋なのです。

 このように謎解きには多くの関門があるのです。

ここでもう一つの問題に触れることにします。

江差町のHPには大神宮(こう呼ばれているのは天照が祀られているからですが、多分、これは神社の昇格のために明治期に持ち込まれたものと考えられそうです)について以下のように書かれています。

そんな中で姥は、天変地異を事前に知らせることで人々から神様のように敬われ、折居様と呼ばれるようになりました。とある夜、神島(カムイシリ=今の鴎島)から虹のような光に草庵が照らされました。

この折居様についても触れておきたいと思います。島根県に折居神社があります。

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由緒書きの通り折居神が上賀茂神社の別雷神こと崇神天皇(神武僭称ハツクニシラススメラミコト)であることがお分かり頂けるでしょう。実はこの崇神も天皇ではなく九州王朝の開化の臣下だったのです。

無題.png
百嶋由一郎氏が残された音声CD、神代系譜、手書きデータを必要な方は09062983254まで…
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:31| Comment(0) | ビアヘロ

2018年12月28日

530 霊符神社の護符 “熊本県八代市霊符神社”

530 霊符神社の護符 “熊本県八代市霊符神社”

20180217

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 現在、ひぼろぎ逍遥 において、九州の古代史に横たわる「火ノ君」とは何なのか?の解析を進めています。

邪馬台国九州説論程度の他愛もない人々はともかくとして、卑しくも古田武彦九州王朝論を継承すると称して活動を続ける所謂九州王朝論者においても、現場に入ろうともせず、丹念に現場を見ない事によって、全く見当も付かないでいるようです。

しかし、百嶋神社考古学を新たなメスとして現場を切開すると新たな発見が連続して得られるのです。

まずは神社研究を疎かにする戦後の風潮とそれに連動した在野の研究者の時流に流される姿勢によって全く見えなくなっていたのでしょうが、私達にこの火ノ君の一族の本隊が如何なるものであるのかがおぼろげながらも理解できるようになってきたのです。


547

火の君とは歴代の橘一族だった B 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ!

 “橘氏とは白族だった!”

546

火の君とは歴代の橘一族だった A 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ!

 “雲南省〜海南島〜九州”

545

火の君とは歴代の橘一族だった @ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ!

 “九州王朝の白族”


簡単に言えば雲南省昆明から海南島を経由して八代の妙見宮、氷川流域、熊本市中心部から北部九州に展開した大幡主の一族こそが火ノ君であり、ヤタガラス=豊玉彦の一族(熊野、下賀茂)にもなるのです。

 その宗教的バック・ボーンの一部たる霊符神社の霊符とは何なのかを考えていましたが、結局、それぞれの問題に際して対応できる霊符を出せる神秘性を持った霊符神社こそがその中核であったことが分かるのです。まずは、吉田一氣氏の「熊本霊ライン」をご紹介しましょう。

無題.png

本日は妙見祭があったので、久しぶりにオートバイで出向いてきた。

昨日は天気が悪く心配していたが、さすが八大龍王神も関与する祭りで雲一つ無い快晴の日本晴れとなった。

妙見宮は参拝するだけでも長い列が出来ていて気が滅入ったので、まずすぐそばの山の裾野にある鎮宅霊符神社にまず参拝することにした。

それから横の鳥居から妙見宮に入り横から賽銭を投げ入れお祝いの言葉を祈りすぐに人ごみを離れた。

顕祭である神輿行列と飾り馬のお祭りは熱気があってそれはそれでいいのだが人にもまれるのは苦手だ。

祭りそのものは一度観ているので今回はパスして八王社とも言われる八大龍王神を祭る浅井神社に向かった。

妙見祭関連では11/15に獅子組と神馬のお祓いが この浅井神社で行なわれるそうである。

途中道に迷いながら走らせていると竹原神社という鳥居の前を通過した。

引き止められる感じがしたので引き返して参拝してきた。 妙見神は浅井神社に上陸したと思っていたのだが、この神社の由緒を見るとこの竹原神社がある竹原の津に上陸したと記載されている。

八代妙見宮は、妙見神を祭る上宮中宮下宮の三社と鎮宅霊符神を祭る鎮宅霊符社に八大龍王神を祭る浅井神社で成り立っていると思っていたが、それだけではないようだ。

この竹原神社にも重要な役目があったのではないかと感じさせるものがあった。

※後日迷い込んだ道にあった植柳元町の植柳神社元地の公園も上陸候補地であると知った。

百済の聖明王の第三王子の琳聖太子が来朝したという伝承と妙見神伝承は重なっているが、

複数の伝承地は琳聖太子が社を構えたところなのかもしれないと感じた。

妙見神は北斗七星と北極星を神格化した神霊であるが琳聖太子はこの星の神霊に始まり玄武の神霊、霊符神、龍王神と広めている。

星の神霊は北辰太一神(泰一・太乙とも)であり紫微宮に住まう神と言われている。

この紫微宮は日本では天之御中主神の住まう社といわれている。

それゆえに妙見神=北辰太一神=天之御中主神となる訳だ。

ちなみに紫微宮の主催者は天之御中主神であるが管理者は少彦名神となっている。

霊符神は七福神でいうところの福禄寿と考えて良い。

つまり太一神が北極なら対極は南極と考えると南極老人星=福禄寿=霊符神となるのではなかろうか。

ちなみに福禄寿の眷属は鶴と亀と言われているが八代妙見宮のガメはそういう意味からは福禄寿の乗り物である。 実は霊符の神霊といえばまずは太上老君が挙げられる。

太上老君は老子のことと言われている。 老子は七福神でいえば寿老人ということになろう。

無題.png寿老人の眷属は鹿である。 鎮宅霊符神=太上老君=老子=寿老人であるが太上老君は天に昇り南極老人星になったともいわれている。

妙見信仰では道教の北極星と南極星の二つを合せた対極図(陰陽図)を妙見神と鎮宅霊符神で表しているのだと考えられる。

追記になるがガメについては別の考え方をすると亀と蛇の玄武とすると北方の神となる。

史記の天官誌に北方に玄武在りと記載されており後漢書には「玄武は北方の神の亀蛇の合体也、この神は水神也」ある。

また文選の註には「亀蛇と交わるを玄武という」とある。 朱子語類には、「玄は亀 武は蛇」とあり、

元は虚宿危宿星の形と同形で北方を名づけて玄武七星と云うとある。

つまり北辰太一神=玄武七星ともいえよう。 北極星は北だから玄武とする当たり前すぎる説となる。

またこの神を水神とするところから八大龍王神の信仰につながったのだと思われる。

もうひとつの霊符神を福禄寿とするところの龍王伝説については別途記述したい。


 吉田一氣氏の「熊本霊ライン」については以前から気にしていましたが、メールを送っても返信して頂けず、直接の接触には至っていません。

今般、宮原誠一の神社見聞牒無題.pngの宮原氏から、吉田一氣氏のblogから霊符を取り込みましたとの連絡を受けました。

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これに類するものは全国でも流布していますが、熊本の霊符については初見となりますのでお知らせしておきます。以下…。

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本稿は霊符なるものがどのようなものであるかをお知らせするだけのものですが、私達には霊符神社の関係者にお会いして、使用方法、妙見信仰との関係、白川王家との関係、その後の政府との関係、古代から現代までの妙見信仰の一族についてお聴きする作業が残っています。


以下に再掲載しておきます

545 火の君とは歴代の橘一族だった @ 緊急提言 全国の九州王朝論者に告ぐ! “九州王朝の白族”

20171224

太宰府地名研究会 古川 清久


 九州の古代史には火の君が横たわっています。

九州王朝を探索する者にとって、この火の国、火の君をどのように理解するかは極めて重要で、この解明無くしては全く前に進めないと言っても過言ではないものとさえされてきました。


545-1

ひのくに【肥の国(火の国)】古代の九州の地域名の一つ。のちの肥前国,肥後国,現在の熊本,佐賀,長崎の各県に当たる地域を指す。《古事記》国生みの段に筑紫島が身一つにして面(おも)四つありとするが,その一つに肥国が見える。《日本書紀》には,景行天皇の船が,夜暗くして着岸が困難であったとき,遥かに火の光を見て無事陸に着くことができたので,その地八代県(あがた)豊村を火の国と名づけたという地名由来伝承をのせる。また《肥前国風土記》には,肥君らの祖,健緒組が土蜘蛛(つちぐも)を討ったとき,不知火(しらぬい)が天から降ったため,火の国としたという伝承をのせている。

世界大百科事典 第2版の解説


 さて、太宰府地名研究会には色々な分野のエキスパートがおられますが、特に神社研究では熱心なメンバー集まっておられます。

 敗戦の結果からか、戦後は皇国神話でも荒唐無稽な(「記」「紀」の一部が偏重され「国史」でも何でもないのですが)を全否定する傾向が顕著となり、奇妙にも科学的と思い込まれた考古学的発掘調査と文献史学、特に海外史書への傾斜が高まり、神社研究(特に九州本土に於ける)が全くないがしろにされてきました。

 この全く見向きもされない神社研究(比較的まともな感性を残しておられる「九州王朝論」者の間でさえも、熊本、佐賀、大分などの神社研究など全く見向きもされていないのです)を愚直に継続してきた事から、ようやくこの「火の君」の正体が幾分かは理解できるようになってきました。

 これは多くのメンバーの研究が集められた結果分かってきた事でした。

 まず、@橘一族の後裔にあたる宮原氏(blog「橘氏の末裔」)による自らのルーツ研究がまさにこの一帯(熊本県氷川町)にあった事、A考古学や文献史学に精通した知識を持つ伊藤女史(blog「地図で知る」)によるこの氷川流域の古墳(野津古墳群外)形式の北上仮説による推定、Bもう一人の宮原氏(blog「宮原誠一の神社見聞諜」)との氷川流域に於ける神社トレッキング共同作業、C当然にも65年に及ぶ故百嶋由一郎氏による神社考古学、D熊本県の女性メンバーF女史による氷川流域の重要性へのアドバイス、E古川による有明海を挟む対岸の佐賀県杵島山周辺の橘氏関連調査と火の君伝承、河童伝承への基礎的記憶…これらが総合的に結びつきようやく「火の君」の正体が見えて来たのでした。

 そして、今は、確信を持って言えます。博多の櫛田神社の主祭神である大幡主の子であるヤタガラスの後裔こそ橘一族であり「火の君」の後裔だったのです。

 まず、この問題で最も遠い位置にあることから結果的に重要に見える佐賀県側の資料をご覧ください。


545-2

佐賀県白石町稲佐神社県道傍の境内地に置かれた解説文


稲佐山累縁記により、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる


 お読みにもなれると思いますが、稲佐神社(佐賀県杵島郡白石町辺田2925)は直接的に百済の王族を祀る神社です。

 この神社の伝承として百済の聖明王の子である阿佐太子は“火ノ君を頼って”八隻の船で亡命しているのです。

 時代は有名な斯摩王こと武寧王(聖明王は武寧王の子)から聖明王の時代ですから6世紀に当たる訳で、まさに九州王朝の最盛期の時代に火ノ君は後の肥前、肥後を支配領域としていた事が分かるのでした。

 ところが、この孤立無縁と思われた伝承が、有明海を挟んで対岸の氷川流域〜八代市に掛けて存在していたのでした。

蛇足ながら斯摩王が列島と半島の中間の加唐島で産まれたとの話がありますが、それは両国の学者の説を折半(予算消化に折り合い)しただけのものであり、当然、糸島半島の志摩に決まっているのです。

学者、教委、学芸員は使命感も研究心もない馬鹿か嘘つきか!?

 一つは、氷川町の北、旧小川町(現宇城市)の南海東の正しく泉地区にある霊符神社であり、もう一つが、有名な八代市の妙見宮に隣接する同じく霊符神社でした。


466

杵 島 A 2/2

465

杵 島 @ 1/2

505

熊本県の興味深いエリア宇城市海東地区の霊符神社初見

508

八代市の妙見宮は列島に亡命した雲南省昆明の白族の中心的な神社だった


詳しくは、稲佐神社を ひぼろぎ逍遥の「杵島」を、二つの霊符神社については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の505508をお読み頂くとして(公開のタイムラグがあり、本稿オンエア時には、まだ、公開されていませんので必要な方は09062983254までご連絡下さい)、実に二つの霊符神社の由緒には、稲佐神社と非常に良く対応する内容が書かれていたのでした。


阿佐太子(あさたいし、アジャテジャ、6世紀末 - 7世紀前半頃)は、百済の王族出身画家で、威徳王の息子。日本に来て聖徳太子の肖像画を描いたと伝えられる。生涯[編集]

『日本書紀』によれば、推古天皇5年(597年)4月に日本に渡って聖徳太子の肖像を描いたと言われる。奈良の法隆寺に伝来し、明治以降は御物となっている『聖徳太子二王子像』と呼ばれる絵は、日本で一番古い肖像画とされている。その形式は中央に太子が立ち、その左右に2人の王子(伝えられるところによれば、右側が山背大兄王、左側が殖栗王)を小さく配置した構成である。この配置は、仏教の三尊仏形式の影響を受けたとも考えられ、あるいは閻立本の作とされる初唐の『歴代帝王図巻』に見られる人物配置に似ることから、その頃の構図法に起因したものと解釈されることがある。

日本学界でも論議が多いこの像は、製作時期においても太子の冠の様式や太子及び王子の服飾から見て、8世紀(奈良時代)の作品だと見る説と、平安時代以降の模本と見る説が概して多い。

このように現在伝えられる聖徳太子像の作者および制作時期は、様式上の問題点と同時に、阿佐太子に対する記録が韓国側資料にはないという事実によって、未解決の課題である。

ウィキペディア(20171225 0114による

聖明王 朝鮮、百済 (くだら)の第26代の王(在位523554)。『三国史記』『三国遺事』には聖王とある。武寧王の子である。中国の梁(りょう)によく通交して文物を得、「持節都督百済諸軍事綏東将軍(じせつととくくだらしょぐんじすいとうしょうぐん)百済王」に封ぜられた(524)。また欽明(きんめい)天皇の日本にも通交して仏教などを伝え、任那(みまな)の復興を図った。王は都を熊津(ゆうしん)(いまの公州)から泗(しひ)(扶余(ふよ))に移し、国号を南扶余とした(538)が、新羅(しらぎ)と争って戦死した。[浜田耕策]武寧王(462 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502 - 523年)

日本大百科全書(ニッポニカ)による


545-3

545-4

霊符神社は八代の妙見宮に隣接する高い場所に置かれています。この只ならぬ関係は霊符神社と妙見宮と一体と言っても良いような同族性を感じさせますし、高い場所に祀られていること自体でも霊符神社の方の格式が上なのではないかとさえ思わせます。

 その霊符神社に火の君の記述(火の君こそがその時代その地域の支配者であったことを思わせる)があることから恐らく火の君と妙見宮それに九州王朝との濃厚な関係が存在したと考えられる百済系氏族(だからこそ九州王朝は白村江の闘いに突き進んだ)を受入れたのだろうと思われるのです。


545-5

兼川 晋       小松洋二

いずれも不知火書房092-781-6963の名著


そこで、故)百嶋由一郎氏の最終神代系譜をご覧頂きたいと思います。


545-7

545-6

百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


そこで、良く知られた八代の妙見宮ですが、最近になって列島にとっても九州王朝にとっても最も重要な神社であった事がようやく分かってきました。

ここでは、通常話されるありきたりの内容から離れ最も重要な側面についてだけお話しさせて頂きます。

言うまでもなく、祭神である天御中主神と國常立神とは、白山姫と博多の櫛田神社で祀られている大幡主の二神です(「熊本県神社誌」省略)。

 この間、八代の妙見宮の重要性に関しては十分に理解していたつもりではあったのですが、大幡主〜豊玉彦=ヤタガラスの一族(白族)は、直接、熊本に入っていると思っていた事から、八代の妙見は河童渡来(揚子江流域からの越族の移動)による後付だろうといった程度で考えていました。

 ところが、妙見宮に隣接する霊符神社の記述と、氷川の北宇城市小川町の霊符神社の記述が対応し、さらに佐賀県(肥前)の白石町(旧有明町)の稲佐神社(百済の王族を祀る神社)の境内地に百済の王族を火の君の世話で受入れたとの記述が相互に対応する事が判明し、肥前〜肥後に掛けての領域を支配領域としていたのが火の君であり、妙見宮=天御中主命=白山姫を奉斎する白族(雲南省昆明からの列島への亡命民族)であった事が分かって来たのでした。

 実は、最終神代系譜(上)の鴨玉依姫こそが、表向き玉依姫を祭神としている京都の下賀茂大社に繋がっているのであり、豊玉彦(ヤタガラス)とは賀茂建角身命も鴨玉依姫の父神になるのです。


545-8

下鴨神社公式HPによる


もう十分にお分かり頂いたと思います。妙見宮こそ下上鴨神社のルーツであり、九州の古代史に於いて重要な位置を占める火の君とはこの下鴨神社に繋がる一族だったのです。

そこで、氷川の北に「豊」地名がかなり拾えることをお考えいただきたいと思います。


545-9

熊本県宇城市豊野町(旧豊野町)地理院地図


氷川町から宇城市に掛けては「豊」地名が拾えます。代表的なのが旧豊野町であり、旧松橋町にも豊福(現宇城市豊福)、豊川、豊崎…が拾えるのです。

一般的には秦の一族と豊国(大分県)ばかりが取り上げられますが、それ以前からこの一帯には豊玉彦の一族の居留地を思わせる初期の豊の国が存在した事を思わせるのです。

ついでに言えば、宇城市には「東海東」「西海東」という奇妙な地名があるのです。

これも主として百済系の人々が住み着いた半島系の人々の亡命地だったのではないかと考えています。

「海東諸国紀」は、李氏朝鮮の日本国と琉球国について記述された歴史書ですね。

とにかく不知火海北部の東岸は白族(妙見宮に象徴されるヤタガラスの一族)の国だったのです。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記