2018年12月20日

ビアヘロ071 北海道は江差の姥神大神宮と宮地嶽神社 “九州王朝の神紋は蝦夷まで及んでいた”@

ビアヘロ071 北海道は江差の姥神大神宮と宮地嶽神社 “九州王朝の神紋は蝦夷まで及んでいた”@

20180730

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 粗いながらも二週間かけて福井から青森までの神社調査を行ったのは6月のことでしたが、北海道にも足を延ばしたいという思いは今も燻っています。

 勿論、真実の古代史の基礎調査として神社調査を行っているものとしては、どう見てもそれほど古い歴史を持たない蝦夷地のこと、普通は北海道を対象外とするところなのですが、どうしても行かなければならない神社があるのです。それが、今回取り上げる江差追分で有名な姥岳大神宮です。

 いずれこのためだけに北海道を踏むこともあろうことから、当面は下調べを行いそれをそのままブログとして公開しようなどと狡猾な考えから作業をすることにしたものです。

 従って、現地も踏まない神社リポートになる事を承知でお読み頂きたいと思います。

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創立年代は不詳ですが、言い伝えでは約570年前の文安4年(1447年)に折居姥の草創とされています。津花町より現在地に移転したのが正保元年(1644年)。文化14年(1817年)には正一位姥神大神社宮号を勅許された北海道最古の神社です。

江差町HPによる

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姥神大神宮 カーナビ検索 北海道檜山郡江差町姥神町9910139-52-1900


ソーラン節 鰊来たかと かもめに問えば 私ゃ 立つ鳥 波に聞け チョイ ヤサ エ〜エン ヤーサーノドッコイショ ハ〜、ドッコイショ ...


江差追分 <本唄>○鴎の(アーソイ)鳴く音に(アーソイ)ふと目を(アーソイ)覚まし(アーソイ ソイソイ)あれが(アーソイ)蝦夷地の(アーソイ)山かいな(アーソイ

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姥神大神宮(うばがみだいじんぐう)は、北海道檜山郡江差町にある神社である。旧社格は県社。社伝では鎌倉時代の創建と伝える、北海道最古の神社とされる。渡島国の一宮と称されており、姥神大神宮渡御祭にて配られる名刺にその記載がある事からもそれがうかがえる。

天照皇大御神・天児屋根神・住吉大神を祀る。

社伝によれば、建保4年(1216年)、江差の海辺・津花町に創建されたと伝える。

そのころ、津花の浜に「折居様」と呼ばれる老姥が庵を結んでいた。彼女には予知能力があり、天気や病気の流行を予言しては周囲に伝えるので、村の衆から何かと大事にされていた。さて、ある年の春先のこと。折居は神島(かむいしり)から光が発せられているのを見て驚き、光の源を訪ねて島に渡った。島には老翁がおり、「この中の水を海に撒くと、鰊という魚が群れになってやって来る」と、彼女に瓶子を授けた。その瓶子を持ち帰り、中の水を海に撒いたところ、話にたがわず鰊の大群が押し寄せ、村は豊漁に沸き立った。

ところが、村人が礼をしようと折居を訪ねたところ、彼女はいつのまにか姿を消していた。そこで、庵に残されていた神像を「姥神」として祀ったのが当社の始まりという。

正保元年(1644年)に現在地に遷座した。当地を治めた松前藩主松前氏からも崇敬を受け、9代藩主の道広は「降福孔夷」(福を降ろすことは孔だ夷なり)の扁額を奉納した。

やがて江戸時代中期になると、北海道近海にロシア船が姿を現すようになった。寛政11年(1799年)、幕府の命で蝦夷地を巡視していた最上徳内は、扁額の「孔夷」を「紅夷」(ロシア人のこと)と読み誤り、その報告を受けた幕府は、ロシア人と密通していたのではないかとの疑いをかけ、松前藩は取り潰しの危機となった。後の調査で、崩し文字のため「孔」が「紅」に見えてしまったということが判明し、藩の取り潰しは回避された。しかし、道広は扁額を現在の「降民殿」に取り替えた。文化14年、朝廷から正一位の神階が授けられた。

毎年、89日、10日、11日に姥神大神宮渡御祭が開催され、全国から観光客が集まる。

ウィキペディア(20180730 1538による


では 無題.png HPを見ましょう


姥神大神宮の由来

姥神大神宮の創立は不詳ながら昔から伝わる一つの伝説に始まります。

ある日、どこからともなく一人の姥(うば=おばあさん)が江差へやって来て、津花の地に草庵を結びました。当時、蝦夷地は冷涼で作物もあまりとれず、餓死する者も出る状況だったと云われています。そんな中で姥は、天変地異を事前に知らせることで人々から神様のように敬われ、折居様と呼ばれるようになりました。とある夜、神島(カムイシリ=今の鴎島)から虹のような光に草庵が照らされました。不思議に思い、尋ねてみると、白髪の翁(おきな=おじいさん)が岩の上に座り「汝の来たれるを待てり。機、正に熟せリ」と言って、小瓶を与え「この瓶中に水あり、之(これ)を海中に点ずれば鯡(ニシン)といふ小魚群来するに至るべし、之を以(もっ)て島人の衣食住の資(たすけ)とすべし。吾汝と共に島人を永く護らん」と告げて焚火と共に消えました。

折居様が教えられたように、瓶子の水を海中に注ぐと、海水が白色に変わりニシンが群来して人々を飢えと寒さから救ったと云われています。やがてこの折居様も草庵に五柱の御神像(天照大御神、天児屋根大神、住吉三柱大神)を残したまま姿を消しますが、人々は姥にちなみ「姥が神」として祠を建てて祀り、後に初代藤原永武がこれに奉仕しました。その後、本道にはニシンが群来するようになり、「白金寄する」地として年々本州より人々が渡って江差は経済の中心となり、姥神大神宮は北海開祖神とも陸奥国松前一の宮とも云われるようになりました。正保元年(1644年)には津花の地から現在地に遷宮し、渡御祭はこの頃から行われたと考えられています。文化14年(1817年)には朝廷にて119代光格天皇御下、上卿唐橋大納言列座の下、10代相模守従五位下大神主藤枝政光が召されて、正一位の位記と大神宮号をすすめられました。また神職は代々豊後守、相模守に任ぜられ従五位下に叙せられています。

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もう一度無題.pngHPを見ましょう


江差を彩る祭のあゆみ 姥神大神宮祭

8月9日宵宮・10日〜11日神輿渡御、町内13台の山車(ヤマ)が供奉巡行する姥神大神宮の例祭が、絢爛豪華に繰りひろげられる。
姥神大神宮は陸奥国松前一の宮と云われ、その創立は古く、一説には文安4年(1447年)と伝説に語られているが、詳らかでない。姥神町南端、津花岬の一角に「折居の御井戸」と称する遺跡がある。
折居姥(於隣)の屋敷跡・姥神社の古社地と云われ、神域として信仰されている。
姥神大神宮の現社地は、正保元年(1644年)岩崎の麓に遷座、安永三年(1774年)拝殿が造営されて今日に至っている。この史実から地域が姥神町と名付けられた。
姥神大神宮の祭礼は、神輿の渡御に町内の山車(ヤマ)が供奉し、豊作・豊漁・無病息災を祈念して巡行する渡御祭である。この例祭の形態は何時からであるか。文化13年(1816年)の『社地伝記控』(藤枝家文書)に「当地姥神弁天両社祭礼、8月14日神輿洗・15日領主代参・15〜16日神輿渡御」とあるが、その創始は古く詳らかでない。
神輿の渡御に供奉する現在の山車(ヤマ)の中で一番古いのは、愛宕町の道指定有形民俗文化財の神功山で、その人形は宝暦4年(1754年)、水引幕は宝暦11年京都の松尾七郎兵衛が納めたもので、宝暦年代には渡御祭の形態が出来ていたことが窺える。渡御行列の模様は元治元年(1864年)8月『両社御祭礼行列並宿割控』(関川家文書)に克明ではあるが、千人を超える大仰な人数の行装、荘厳・厳粛なさまが偲ばれる。

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山車(ヤマ)は依代

江差で神輿に供奉する曳き山車を「ヤマ」と云うのは、京都祇園祭の系統をひいているからで、祇園祭の山鉾と同じように、青木や帆柱を依代として神が降臨する神域という意をこめてヤマと呼ぶ。それは江戸系統の祭りで、絡繰や歌舞伎、踊りなどを演じて移動する屋台を「ダシ」と呼ぶのと区別している。
江差では屋体の上に一本の青木(トドマツ)を立て、神の依代とする。この青木を立てることを「ヤマを立てる」(船山では帆柱)と云う。三頭立ての鹿子舞で青木を立てるが、ヤマと呼び、神の依代を表徴するのと同じである。明治30年代に撮影された聖武山(現橋本町)の写真を見ると、ヤマのシンボルである青木が高く聳え、土蔵2階建ての店舗を凌駕している。これが本来ヤマの様相なのである。ところが大正4年(1915年)電気会社が創業し、道路に電柱が立ち、電線が張りめぐらされて、高い山車(ヤマ)が通れなくなり、山車(ヤマ)が低く変貌せざるを余儀なくされた。さらに昨今信仰面での変革もあり、ヤマの守護神として添えられた人形が、ヤマの主体と主客転倒、形式化され「伝統だからヤマを立てる」と云うようになった。
さて祭礼行事のなかで宵宮は、ヤマが入魂する大切な神事で、神が降臨し移動神座となるのである。

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山車(ヤマ)の起源


姥神大神宮の祭りは「姥神宮祭礼之議是迄弁天宮両社ニ付隔年8月15日・16日両日祭礼修行仕」(藤枝家文書『元治元年七月姥神宮夜宮例祭日記』)とあるように、文久2年(1862年)まで、姥神弁天両社祭りとして隔年修行して来た。明年から姥神神社は8月15日・16日、弁天社は5月26、27日に分離して修行することになったが、前同『例祭日記』によると、姥神神社の例祭が修行されなかったので、本年(元治元年)から修行するように、氏子一同の相談がまとまり江差奉行の許可を得て、分離後最初の姥神祭りを修行した。この年の渡御行列は(元治元年八月関川家文書)千人を超える大行列であった。この年姥神祭の神輿渡御に供奉した山車(ヤマ)は、7台で現在は13台と増加しているが、変わりないのは神功山・蛭子山・松寶丸の三台だけである。
各町内の山車(ヤマ)が今日の形態になるまでには、紆余曲折はあるが、その創始は町の開発の推移と期を一にするようである。
元治元年『姥神宮例祭』日記を見ると、この年までの祭礼は、江差市中大手商人の無尽「常盤講」仲間の醵金で修行されて来たが、慶応元年から各町内の供物によって修行する様になった。これまでの山車(ヤマ)は、町内居住の大手商人が寄進し、祭礼に供奉する経費・直会までも大手商人(親方)出費で、町内の人々は親方の揃いの印入半纏でヤマに奉賛した。この状態から慶応元年ヤマは実質的に町内の所有となり、その保存運営は各町内の住民の手に委ねられることになった。山車(ヤマ)の起源には幾つかのパターンがある。今日各町内が保存伝承する絢爛豪華な山車(ヤマ)には、それぞれ変遷があり、はじめは鯡取り舟(ホッチ)に車を付け急造の舟山としたり、張りぼて人形を台にのせたりして、臨時急造のヤマから始まるのが多い。人形や付属品を入手した年代はそのヤマの創始ではなく、それに至るには臨時急造の時代があるのであり、結局創始年代は詳らかに出来ないのである。

山車かざり


屋体の上に青木(トドマツ)を立て森・深山をイメージして神座を設え、その前面に人形を飾る。ヤマに人形を配するのは、ヤマの守護・警固・化身ということで、ヤマの本質からは青木が主であり、人形は従である。各町内の象徴で、住民に神格化されている。

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山車(ヤマ)飾りの伝統として、ヤマの背後に「綿の御旗」と称して、女の丸帯を幟に仕立てて掲げる。これは多産信仰に発する豊作豊漁の願いをこめての信仰で、素朴な土俗信仰の名残である。神功山の綿の御旗は、年代物(伝蜀江綿)の逸品(道指定文化財)である。
ヤマ・御幣・人形・錦の御旗・山額は、山飾りの主体であるが、さらに特注の紋章を染めぬいた色とりどりの縮緬の幟・五色の吹き流しを掲げ、外廻りは提灯で飾り、更に正面をのぞく三面は豪華な水引幕で飾られる。この13台のヤマが神輿に供奉して巡行するさまは、吹き流し、錦の御旗が翻り、朱塗りの屋体、金色に輝く金具。祇園囃子をくむ祭囃子に乗って町並を行く、まさに一幅の絵巻物である。
各町内の山人形の一番ポピュラーなのは武者人形で、武田信玄・楠正成・大石良雄・水戸光國・加藤清正・伊達正宗、神話系の瓊瓊杵尊・神武天皇・蛭子、能面系の神功皇后、文楽系の日本武尊、歌舞伎系の武蔵坊弁慶の十二体に弁財型御座船松寶丸と、多岐である。
今日では見られなくなったが、大正の末年まで、山車(ヤマ)行列のあとに、町内の子供が演出するねり児が供奉した。一般に古い商家では家伝来の憧れの武将の子供用甲冑武具を所持保存しており、5才から10才位までの男児、主として嫡子が、家伝の武具に身をかため、介添として家印の半纏を着て床几持等、二人の供が付き添って、行列に供奉したものである。

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長々と引用させて頂き大変恐縮していますが、九州から北海道の事を書くと言うとんでもない事をやっているためお許し頂くとして、何故、この神社が重要であるかを今からお話ししたいと思います。

 大阪を起点とする北前船は江戸期に整備されますが、それ以前に物流が無い訳ではなく、我々が考える九州王朝の時代から博多を起点として日本海航路が開拓されていた事は間違いないと考えています。

 これは、以前ご紹介した「神武巡行伝承」と甲府の「天津司神社」に神武時代の有力な神々が揃い踏みしている事からも十分に推察されるのです。

 何を馬鹿な事を…と思われる方は、真実を知らないままお花畑で死ねば良いだけですからご自由に…としか申し上げられません。

95%が藤原が造った罠と嘘でしかない「古事記」と「日本書記」をそのまま信じるのは宜しいでしょうが、我々、百嶋神社考古学のものから見れば殆ど漫画の世界でしかないのです。

弥生時代の始まりさえも都合が良いように500700年遡らせたのですから、少しは固定観念から解放されなければ古代史の世界も蜘蛛の巣に入ったままになると思い続けているところです。

 詳しくは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)562565として書いていますので関心をお持ちの方はお読み頂きたいと思います。神武一行が実際に糸魚川から甲府の山上楽園を踏んでいるとの伝承が確認できる上に、これに関与したと思われる、神武の次世代、次々の世代と言える若き市杵島姫、草部吉見=後の武甕槌…が浮かび上がってくるのです。その後、彼らの次世代は糸魚川の姫川を遡上し松本、諏訪、甲府へと開拓を進め、さらに日本海を北に上り国土開拓へと展開し、十三湊から北海道さえも見据えた人々もいたであろうことが想像できる所まで推定ができるのです。

 少なくとも新潟県の柏崎刈羽に近い二田物部神社の主神はニギハヤヒ(山幸彦)ですし、新潟市の南の弥彦神社も同様です。

 さらに言えば、秋田の男鹿半島の真山神社=赤神社も阿蘇高森の草部吉見神(海幸彦)なのです。


570

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 I “信濃〜甲斐は日本海側から入った人々が開発した”

565

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社にやって来た”

564

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 C “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(下)

563

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 B “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(上)

562

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 A “糸魚川市の奴奈川神社は市杵島姫を祀る”


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甲府の天津司神社の祭神


昇天の二神とは阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)=海幸彦であり、それをを婿神とした市杵島姫(奴奈川姫)であることが分かります。

百嶋メモに依れば、舞に登場する9人の神とは、大日孁貴(オオヒルメムチ)=天照大御神、経津主命とは山幸彦=ニギハヤヒ、黄幡神=博多の櫛田神社の大幡主=ヤタガラスの父神、月弓命は大山祗命、根裂神は金山彦、磐裂神は埴安姫=黄幡神の妹神、磐筒男命=八重(速)思兼(ヤタガラス)、磐筒女命=罔象女(大国主の姉)、豹尾神は本物の神武天皇になり、消えた一神とは神沼河耳(草部吉見の父神)、市杵島姫(奴奈川姫)とは神沼河耳の息子の草部吉見のお妃となったことから呼ばれたと分かります。

 話がかなり横道に逸れましたので、再度、戻しますが、この江差追分の江差までは、天草〜博多〜下関〜益田〜浜田〜出雲〜米子〜青谷〜鳥取〜…と日本海沿いの古代の潟湖と呼ばれる天然の港を利用した日本海航路と言うべきものが存在していた事が推定できそうです。

 天草ハイヤが日本海沿いに北前船で運ばれたといった話は良く言われますが、それは江戸時代に限ったものではなく、遠い古代からそれ以前の神世まで遡る神代にも展開されていたのです。そして、その延長が江差まで伝えられているのです。

 勿論、蝦夷地の開拓は後代のそれとしても、中央から遠く離れた僻陬の地には、明治期に隠されたはずのものも御咎めが届かずそのまま残っている可能性があるのです。 ここで、姥神に触れますが、姥神大神宮の「姥」とは、藤原が造りデカシタ「古事記」の創作である“産みの親の豊玉姫に引き継いで送り込まれた玉依姫”を乳母に見立て、「姥」(乳母)神とされたのでしょう。続編の百嶋手書きメモには大神一族についてもふれています。 この三つウロコ紋の一族こそ一時期は宇佐神宮を支配した大神一族に繋がるものであり、ひぼろき逍遥(跡宮)372 花本大神をご存知ですか? “博多の櫛田神社の花本大神と豊後大野の宇田姫神社についてなどをお読み頂きたいと思います。

る内容の一部はご理解頂けるかと考えています。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2018年12月21日

528 熊本県菊陽町にも若宮が祀られていた! “熊本県菊陽町若宮八幡宮”

528 熊本県菊陽町にも若宮が祀られていた! “熊本県菊陽町若宮八幡宮”

20180212

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

                                              

 福岡から熊本県に入ると高良神社とか若宮神社というものが劇的に少なくなります。

 このため肥後ではほとんど高良+若宮というコンプレックス(複合体)を忘れてしまっていました。

 ところが、今般、菊陽町という神社研究ではあまり廻らない地区を調べていると、若宮八幡神社なるものを見いだし急に色めき立ちました。


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若宮八幡宮 カーナビ検索 熊本県菊陽町大字津久礼429(上津久礼区)


若宮八幡宮は、安和2年(969年)山城国久世郡男山八幡宮から八幡大神を勧請し、応神天皇とその御子、仁徳天皇と神功皇后(息長足姫命)併せ祀っています。以後700年余り白川右岸の地にありましたが、度重なる水難や疫病のため、延宝67年(16781679年)頃、村直りとともに現在地に移転建立されました。本殿前の二の鳥居には、「若宮社」の額が掲げられ石柱には「延寶八年正月吉日」「氏神當所移徙」の文字が刻まれ、遷宮と村直りの歴史を物語っています。             菊陽町HPによる

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菅原神社(左上) 猿田彦大神(右上) 罔象女神(下)

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ご覧の通り白川右岸の河岸段丘に移されています


「古事記」「日本書紀」を真に受け金科玉条とされる方には全くお分かりにならないでしょう。

まず、仁徳が応神の子であるとか大嘘が天下で通用しているのですからほとんど漫画みたいな話であって、仲哀死後の神功皇后は開化天皇の妃となり仁徳を長子として朝日豊盛命、暮日豊盛命…と五人の子をもうけ死ぬまで添い遂げているのです。

斯礼賀志命(シレカシ)朝日豊盛命(アサヒトヨサカリ)暮日豊盛命(ユウヒトヨサカリ)渕志命(フチシ)谿上命(タニガミ)の五皇子。それ以外にも別腹か連子に四皇子が…。

恐らく、神功皇后の連子と考えられる 那男美命(ナオミ)坂本命(サカモト)安志奇命(アシキ)安楽應寳秘命(アラオホヒメ)の四皇子の合計九体皇子の筆頭長子が仁徳天皇なのです。

そして、全国に高良玉垂命と若宮こと仁徳天皇を祀る九州王朝の祭祀が隠され消されつつもかなり残されているのです。

未確認ですが青森県内にも高良神社があり、実踏したものとしては栃木県那須神社境内社が北限です(当時、今年6月に現地確認)。そこで、存在しないと考えていた若宮八幡宮が肥後に存在した事に気付き、千田聖母八幡宮に高良、仁徳の影を見出していた事から、肥後にこのコンプレックス存在の可能性を多少は考えていただけに実際に確認できて喜ばしい限りです。

 安和年間の勧請とはされてはいるものの、この祭祀コンプレックスが九州を本拠地とすると知る者には、本物の可能性を考えざるをえないのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年12月24日

529 臙脂色から大山祗 大市姫を考える “福岡県朝倉市大山祗神社のおしろい祭り”

529 臙脂色から大山祗 大市姫を考える “福岡県朝倉市大山祗神社のおしろい祭り”

20180215

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 皆さんは臙脂(エンジ)色と言うものを覚えておいでになるでしょうか?

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えんじ色 えんじ色(臙脂色、えんじいろ)とは濃い紅色のこと。

日本工業規格においては、JIS慣用色名の1つに「えんじ」として下のように色が定義されている。

えんじ色の由来 名前の由来は中国の紅花の一大産地である「燕支山」にちなみ、本来は紅花染めをこの名で呼んだ。

現在はカメムシ目カイガラムシ上科の一部の昆虫、特にアジア産のラックカイガラムシ、南ヨーロッパのケルメスカイガラムシ、メキシコのコチニールカイガラムシなどの体内色素を浸出させて得るコチニール色素で染めた色をさす。日本には奈良時代に「紫鉱」の名でラックカイガラムシの分泌物が渡来しており正倉院にも薬用として採集された「紫鉱」が保存されている。エンジムシとも呼ばれるこれらのカイガラムシから採集された色素は友禅紅型の染料として現在も利用される。

ウィキペディア(20180215 12:26による


 日本には 鴇(トキ)色、茜(アカネ)色、藤(フジ)色、山吹(ヤマブキ)色、小豆(アズキ)色、亜麻(アマ)色…と多くの色があり、日本文化の豊かさが反映されていました。

 勿論、ニューギニア高地人の様に“あの鳥の羽の色”“あの花の色”“あの木の葉の色”と言った形容詞が沢山ある(共通性普遍性がない)社会の表現と言えばそれまでですが、以下をご覧ください。


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俗に「ワイン・レッド」と言われる「バーガンディー」(フランスブルゴーニュの英語表現)にも近い色なのでしょうが、最近、我々の内部では「臙脂色」を気にしています。

何故かと思われるでしょうが、列島文化を守ろうとか復活させようなどと思っている訳ではありません。

 百嶋神社考古学では、金官伽耶(新羅金氏)の金越智=ウマシアシカビヒコヂと天御中主命=白山姫の間に産まれたのが、姉の大市姫と弟の大山祗=月読命となるのです(最終神代系譜)。

 そして、実はこの大市姫が別名として臙脂姫(エンジヒメ)と呼ばれているのです。

 この大市姫=臙脂姫と金山彦(金鎖大神)の間に産まれたのが神武高兄五瀬命であり、本物の(神武僭称贈る崇神などではないという意味での)神武天皇の本当のお妃であるアイラツヒメになるのです。

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中国の紅花の一大産地である「燕支山」、正確には臙脂山と書くようですが、ここに大市姫=臙脂姫の名も端を発しているのです。ちなみに臙脂山は甘掖市山丹にあります。


色の説明 臙脂色(えんじいろ)とは、黒みをおびた深く艶やかな紅色のことです。臙脂とは古代に中国より伝わった化粧紅などの顔料の名前に由来しますが、『臙脂色 えんじいろ』として一般的に広く使われる様になったのは、化学染料が広まった明治中期頃からです。

古代の中国では、辰砂 しんしゃから作られる顔料の『朱 しゅ』にヤギの脂を加えて化粧紅を作っていたことから、「脂」の字が化粧紅を指していました。

また当時、「燕 えん」の国の紅が非常にすぐれていたため、燕産の化粧紅がブランド化し「燕脂 えんじ」と呼ばれました。それが後に『臙脂 えんじ』と呼ばれるようになったようです。

いまでいえば、海外で「KOBE」といえば、神戸牛を指すような感じでしょうか?

また別の説では、中国の紅花の一大産地「燕支山 えんじざん」に由来するともいわれています。

我が国では奈良時代の『正倉院文書 しょうそういんもんじょ』に『烟子 えんじ』『烟紫 えんじ』と、また平安時代の辞書『和名類聚抄 わみょうるいじゅしょう』には、『焉支』『烟支』『燕支』などと記されていますが、いずれも顔料の名前を指しており、色名ではありません。

色料の臙脂には。紅花を染料とする植物性の『正臙脂 しょうえんじ』と、臙脂虫 えんじむし(ラックカイガラ虫・紫鉱 しこう)やサボテンに寄生するコチニールの雌虫の赤い色素からとれた動物性の『生臙脂 しょうえんじ』の二種類に分けられます。ともに『深紅 しんく』のような濃い紅色ですが、『生臙脂』のほうがわずかに紫色を帯びて濃厚です。

ちなみに、臙脂虫などから採集された天然の色素は、化学染料が広まった現在でも友禅や紅型の染料として広く利用されています。またコチニールといえば食品を赤く染める天然の着色料として有名ですが、コチニールでより濃く染めた色は『洋紅色 ようこうしょく』と呼ばれます。

臙脂色は、最近では「早稲田大学」のスクールカラーとして認知度が高い伝統色名といえるでしょう。

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百嶋極秘神代系譜(部分)スサノウのお妃となる神大市(ミヅハノメ)とは別神で伯母姪の関係です


 百嶋先生は福岡県久留米市田主丸町の月読神社とか朝倉市杷木町の大山祗神社を念頭に、“列島には多くの民族が入って来ています。

呉越は元より、百済、新羅、高句麗、秦、渤海…(後に近畿大和朝廷の本拠地となった奈良にはペルシャ人も入っている…などと吹聴しているのですが)、何故かトルコ系匈奴については隠されています。

どうもこれらの人々がごっそり入っているのですが全く隠されているのです。“と…。

 言外には、それこそが熊襲であり、その中核部隊がトルコ系匈奴だったと言う意味が含まれているのです。実はその背景に朝敵熊襲については明らかにしない、隠そうとする動きが見て取れるのです。

 良く考えて下さい。月読命=大山祗についてはほとんど事績が書かれていない事にもそういう背景があったのです(要は朝敵熊襲については直接の情報を持っていないし詳述できないのです)。

 ここまで申し上げた通り、白族とトルコ系匈奴をひいた越智族とのハイブリッドである大山祗の姉の大市姫が臙脂姫と呼ばれている事は、彼女が臙脂の紅差(口紅)の国=「燕」からやってきたお姫様という意味が込められており、百嶋先生も朝倉市杷木町の大山祗神社で「おしろい祭り」が行われている事の背景には、「おしろい」と「紅差」=大陸から伝わった「臙脂の紅差」が反映されており、旧杷木町の教育委員会に問い合わせをしたら、“祭神の名前は聴けなかったがここの神様は女性です…と聴いています”と言われていた事が今も耳に残っています。

 そうです。大市姫とはトルコ系匈奴の血をひき、甘粛省辺りを駆け巡っていたトルコ系匈奴の国からやってきたお姫様だったからこそ臙脂姫と呼ばれたのでした。以下連携blog「宮古の縁側日記」から。


58 龍族櫛稲田姫と八岐大蛇

櫛稲田姫(櫛名田比売)とはどう言う女性だったのでしょうか?

八岐大蛇(古事記)【八俣遠呂智(日本書紀】

の物語から始めます。

櫛稲田姫は出雲と言う土地に住んでいました。

現在の島根県の出雲ではありません。

出雲地名は日本国中にわりとある地名です。

物語は高天原を追放されたスサノオが出雲国に降り立った所から始まります。

高天原で大暴れをして突然出雲に降り立つと言う理由は全然書いてない唐突なストーリーです。

スサノオはそこである夫婦に出会います。

聞けば八岐大蛇と言う怪物が毎年8人の娘を差し出せと言い最後に残った末娘を食べに来ると泣いています。

無題.pngスサノオは末娘との結婚を条件に八岐大蛇を退治することを請け負います。

大丸1老父婦の名前 大山祇の子    足名椎命(あしなづち) 手名椎命(てなづち) 大山祇とは越智族の事です。

越智族は中国の燕の国の王様の家系。燕は紀元前1100年頃-紀元前222年に渡って中国大陸に存在した強国です。

紀元前222年に終焉したのは秦の始皇帝が中国を初めて統一したから言われています。

しかし、燕は宝貝(子安貝)を貨幣としていた中国、インド、ギリシャなどに宝貝を輸出していた国です。

子安貝は沖縄が一番の産地でした。

その後に銅銭の朱露銭を鋳造し貨幣にした国なので、そう簡単に無くなるのはおかしいと考えています。

中国の新たな埋蔵物の発見を期待しています。

こちらも「大山祇の子」と簡単に書いてありますが足名椎命は燕国の日本王(九州、沖縄、台湾)です。

手名椎命は女王です。

燕は中央アジアのキルギスあたりにフェルガナ(大苑国)、中国の燕、日本の九州、沖縄、越国(富山)、台湾(大苑)領地を持っていました

インドのアーンドラ国のセントバーハナ王朝の王族でしたのでインドにも精通していました。

【セント バーハナ**神の乗り物クンピーラ(ワニ)

足≒草鞋、サンダル(パドゥカ)を神の履物として崇拝していました。

それと太陽の子ミトラ神を信じていました。足名椎命の知られている名前は、金山彦 事解男(ことさかお) 中山様 面足尊(おもたらし) 秋葉様 国狭槌(くにさづち)

金刀比羅宮に御祭神としては祀られていませんが金刀比羅がクンピーラ語源である事は間違いありません。

手名槌尊の知られている名前は 越智姫 臙脂姫(えんじひめ) 大市姫 埴安姫 草野姫(かやのひめ)

以上が櫛稲田姫の両親のプロフィールです。臙脂姫は紅花の染料を意味します。紅花の口紅  緑がかった黄金色。

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スサノオと櫛稲田姫は綿花と染色に関係しています。


ひぼろぎ逍遥のバックナンバーですが、337 朝倉市杷木町の大山祗神社とおしろい祭 20161212

をかきました。以下再掲載。この神社の本当の祭神も臙脂姫だと思うのです。


 無題.png大分自動車道の杷木ICから東に10分ほどのところにある山奥の小集落におしろい祭で知られる大山祗神社があります。


大山祗神社 カーナビ検索 朝倉市杷木大山527


しとぎを顔に塗り豊作を願うと言う風習、もっと言えば、奇習、奇祭といった面だけを町興し宜しく宣伝されてはいますが、これについてはそれだけでは済ませられない列島神(古)代史の重要な側面が表に出ているものと理解しています。

 この内容は、千数百年の長きに亘ってひた隠しにされていた可能性があり、一度に、説明したとしても凡そ理解して頂けないと考えています。

 ただ、後世にこの重要な側面を伝え残すためにもそろそろ重い腰を上げなければならないと考えているのですが、まずは、表層の解説からご覧いただきましょう。

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おしろい祭り                          日時:122日  1400

昔からの「伝説」によると、大山祗神社を「山の神」と呼び、山の神は元来「女の神様」といわれています。その「女の神様」がお化粧をする事を意味し、「おしろいをぬる」といわれています。

このおしろいは、新米(初穂)を粉にして水でといて(しとぎ)顔にぬるもので、昔の農家の人が、氏子の繁栄と新穀の豊作を神に感謝し、来年の五穀豊穣を祈願する、全国でも類のない奇習とされています。

おしろいの顔の付き具合で来年の「作柄」を占い、このおしろいは家に帰るまで顔を洗ったり落としてはならず、火の中に入れると火事になり、帰って牛馬の飼料に混ぜて飲ませると無病息災だといいます。

当日は午後2時頃から宮座が始まり、宮司のお払いがあり、祝詞が奏上されます。拝殿で氏子全部が宮座の膳につき、座元の人達は大きな鉢にしとぎを持ち出して宮司の顔から塗り始めます。

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無題.pngによる

 問い合わせ先:道の駅「原鶴」インフォメーションセンター

       電話:0946-62-0730

       住所:朝倉市杷木大山

       地図:http://goo.gl/maps/pb0kT


現在、百嶋神社考古学を追い求める当方の研究者たちにとって、最も関心を寄せているのが、故)百嶋由一郎氏の遺言と言っても良い証言で、それがこの神社に関係しているのです。

(音声CDが必要な方は09062983254まで)。


神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界 --- もう一つの神々の系譜


源実朝以降に、朝鮮人である神様を日本の偉い神様にしておくのはまずいということで削ってしまった。削られたお宮さんは困りますね。田主丸のさんや様、おしろい祭りをやっているおおやまつみ神社、あそこは困って祭神すり替えをやっている。すなわち、政府が許すという範囲のことしか表に出してはいけないというお触れに従ってごまかしておられる。ところが、ナニクソ、こんなこと発表して構うもんかと、熊本城ががんばられた。熊本城の本丸の地下にゆくと王照君の間がある。古代中国の4大美人、西施、王照国、貂蝉、楊貴妃ですが、王照君は100%消された朝鮮人ですね。さて、その消された朝鮮人の神様のお子様が、田主丸のサンヤ様、そしてそのお子様が大国主です。

中国4大美人、西施(年齢は2500何十歳)、そして次の方、王昭君、熊本城の大広間に行くと王昭君の絵がでかでかと描いてあります。そしてこの人こそ大国主命の先祖とお考えください。秘密にされておりますけれど、間違いございません。その代表的な裏付けとなるひとつに、朝倉のおしろい祭りがあります。朝倉の大山祇神社、ここでははっきり書いてありますが、ご祭神を王昭和君と書くわけにはいけないから、遠慮して遠慮して、ご祭神はもとは女であった、そしてお化粧が云々と書いてあります。この人の年齢は紀元前33年に嫁がれたそれに20歳プラスなさったらよい。この人の血統も秘密になっていますが大体わかります。いずれ機会があったら、その時話します。次は、貂蝉(ぴゃおちゃん、ちょうぜん)、1800年前曹操が天下を取った時代にずるい賢い連中がこの人を使って、最後にこの人を使い切ったのは曹操です。最後の方は1300年前、楊貴妃(やんくいへ)以上の4人が古代中国4大美人です。 

肥後の翁のblogから一部切出し


まず、十五夜お月様を愛でる風習については、現代人にも良く知られています。

田主丸の「さんや様」とは「二十三夜月待ちの風習」(一部には「講」を作り、その仲間で御馳走を食しながら月の出を待ち、月が現れるとそれをめで拝んだ)の残る領域と重なるもので、月、“うさぎ”などがシンボルになっています。

一方、同系統のものかどうかは不明ですが、十三夜や二十六夜待ちの風習は非常に薄くなっているようです。

 無題.pngさて、「神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界」を読まれた方に誤解がないように先手を打っておきますが、ここで朝鮮人と言う場合、現在の朝鮮人をイメージすると全く訳が分からなくなってしまいますので、若干のコメントを加えておきます。

 古くは呉の太伯王(周王朝の長子)の子孫=“倭人は呉の太伯の裔”を筆頭に、列島には多くの渡来系民族、氏族が雪崩れ込んでいます。

 百済、新羅、高句麗はご承知の通りですし、秦の始皇帝の支配を嫌い半島に逃げて来ていた秦の臣民、後には漢帝国に滅ぼされる秦(秦氏=嬴…瀛氏)の王族、官僚、武人、技術者…、そして、漢王朝も同様に…(恐らく、綾氏、笠氏…)、鮮卑、恐らく、燕、趙、魏、晋、漢、斉、楚、五胡十六国時代の民族の一部も、繰り返し、繰り返し多くの人々が押し出されてきたのでした。

 従って、現在の半島には古代朝鮮人の中枢部(王族、学者、軍部、技術者)は残っておらず(百済、新羅、高句麗にしても同様)、残ったのは新権力に手のひらを返すように態度を豹変させ、直ぐに強い者、得な側に従う節操のない人々(これが毎日年から年中、嘘を付き続けている現代の中国、朝鮮の民族体質に繋がっていることは半島の大統領弾劾などにも認められる現象ですね)だけで、古代朝鮮は列島にそのまま移ってきていると考えるべきなのです。

 つまり、簡単に言えば古代の朝鮮人こそが列島人であり、現代の半島人とは古代朝鮮人などではなく、新たに生じた(生じ続けた)空白に北方から侵入し続けた濊(わい、拼音: Huì)、鮮卑などと入れ替わった人々のことなのです。つまり、玉突き状態で新世界としての列島に移動した優秀な人々によって形成されたのが列島人だったのです。

そこまでの事を理解して頂いたうえで、この月を愛でうさぎの狛犬を置く様な民族集団とは何であるのかを考える事が今回のテーマです。

 ただ、非常に多くの説明をする必要があり、今回はその骨格だけをお話しするだけになります。これについては、現在、500シートのパワー・ポイントとして朝来(アサクナ)を作成しています。

 あくまで途中経過ですが、この問題に近接する内容となっています。

必要とされる方は直接09062983254までご連絡ください。

 以降は随時続編で書くとして、ここでは、大山祇神社をご覧いただきます。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記