2018年12月13日

525 白川の向こう側 “熊本県菊陽町の楠森天神社と井口天神社”

525 白川の向こう側 “熊本県菊陽町の楠森天神社と井口天神社”

20180211

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 一般的に熊本県には阿蘇神社しか存在しないと思われていますが、「熊本県神社誌」27pによれば、3237社(甲・乙社)中その三分の一近くの1012社が菅原系神社であって特に阿蘇郡、菊池郡の約半数が天満系の神社になるのです。つまり、阿蘇系神社はその後に続くのです。

その原型のようなものに気付いた事から今般取り上げることにしました。

場所は熊本市の東隣、大津町の西隣といったところなのですが、白川の両岸に広がり、近年、空港にも繋がる熊本市のベット・タウンとして人口が増加中のところでもあるのです。

まず、白川の左岸の馬場楠公民館の傍に社殿が無い鳥居と結界だけの神社があります。

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南には2017年の熊本地震(人工?)によって破壊しつくされた益城町が今も惨状を呈していますが、この菊陽周辺にもそれなりに破壊された場所を見掛けます。

 話が逸れましたが、社殿が存在しないまでも普通は石塔などが御神体として崇敬を集めるのですが、ここでは楠そのものが神体とされているのでしょうか、神社誌を見ても何も記述がないためここではこのような祭祀も存在する事だけをお伝えするに留めます。

 このような何の情報もない場合には、多くのファクトを押さえて帰納演繹する以外に手はないのですが、下流にもう一つの井口天神社が存在する事から見て頂きましょう。 こちらも社殿はありません。

度重なる白川の氾濫の結果絶対に流されない石塔と大楠といったものに信仰が託された可能性はあるのですが、定かではありません。

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井口の場合はその地名から明らかですが、加藤清正の農業土木による用水路の整備が反映されたもののようにも見えます。馬場楠も含めてエリア外の益城町の大社津守神社の境外摂社の意味合いも持っているようで、同社の甲斐宮司にそのうちお尋ねしたいと考えています。有難いことに立派な縁起が置かれています。そもそも津守神社がある益城町一帯は阿蘇系神社が全く存在しない所であり、阿蘇氏が列島に進出(侵入)するまでの神々も投影されているように思うのですが、それが的を得ているかは不明です。


【天神七代】

日本神話で、天地開闢(かいびゃく)の初めに現れた7代の天神。日本書紀では、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)、(以下は対偶神。二神で1代と数える)埿土煑尊(ういじにのみこと)・沙土煑尊(すいじにのみこと)、大戸之道尊(おおとのじのみこと)・大苫辺尊(おおとまべのみこと)、面足尊(おもだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)7代。古事記では、国之常立神(くにのとこたちのかみ)、豊雲野神(とよくもののかみ)、(以下は対偶神)宇比地邇神(ういじにのかみ)・須比智邇神(すいじにのかみ)、角杙神(つのぐいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)、意富斗能地神(おおとのじのかみ)・大斗乃弁神(おおとのべのかみ)、於母陀流神(おもだるのかみ)・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)7代。神代七代(かみよななよ)→地神五代(ちじんごだい)

デジタル大辞泉の解説

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神世七代 20140930

別天神(ことあまつかみ、別天津神とも)の五柱(造化の三神であるアメノミナカヌシノカミ、タカミムスヒノカミ、カミムスヒノカミのほか、ウマシアシカビヒコヂノカミとアメノトコタチノカミ)に次いで誕生した、古事記の最初に記されている神々の総称。全部で十二柱。一代目、二代目はそれぞれ一柱で、別天津神と同じく独神(ひとりがみ)。三代目以降七代目まで、それぞれ兄妹・夫婦神であり、十柱(男神五柱、女神五柱)いる。

神世七代

一代目:クニノトコタチノカミ - 独神 二代目:トヨクモノノカミ - 独神

三代目:ウヒヂニノカミ | スヒヂニノカミ - 大地が徐々に出来上がっていく

四代目:ツノグヒノカミ | イクグヒノカミ - 生物が発成し育つ

五代目:オオトノジノカミ | オオトノベノカミ - 大地が完全に凝固した

六代目:オモダルノカミ | アヤカシコネノカミ - 人体の完備

七代目:イザナギ | イザナミ - 国産み、島産み、神産み

イザナギとイザナミの子にあたるのがアマテラスで、地神五代に続いていくことになり、初代神武天皇および現在の皇統まで連なる。

敬愛する 無題.png による


まず、宇摩志阿斯訶備比古遲神の神が書かれています。通常の神社探訪ではまず出くわさない消された神様ですが、具体的には出雲大社の客人(マロウド)間以外では目にしないのです。

かく言う私も富士山浅間神社周辺と福岡市名島辺りで見ただけですのでめったに遭遇しないものです。

それが、書かれているのはびっくりしましたが、結局「古事記」を準えているだけと言う事でしょう。

この神が隠されたのは鎌倉期以降の半島系の神を排除する傾向からでもあるのですが(元寇の主力部隊はモンゴルではなく朝鮮、江南だった)、私はこの神がトルコ系匈奴=熊襲の主力部隊だった事から隠されたのではないかと思うのです。

 しかし、通常、天満宮、天神社、天神神社などと呼ばれるものの本質が見えた気がしています。

 つまり、天神様を菅原道真公を祀るものと考えるのは間違いで、立派な人物であったと思うものの、神様に祀り上げられる程の方ではない事は当然であって、藤原の指示で全国に道真を祀れとしてある種の神社群の本当の祭祀を消したのが本質ではないかと思うのです。

 この井口天神社もその一例なのかも知れないのです。

 また、宮崎、大分などで見掛ける天神社は天神神社、天満宮とは異なるものなのかも知れません。

 さて、つい数日前にも“百嶋説では「国常立神」は大幡主=神産巣日神だろう…としていますが、「天常立神」とは誰なのか…といった質問が持ち込まれました。

 メンバーの宮原誠一氏は天御中主命だろうとされているのですが、百嶋神代系譜との対応を考えると私の仮説は、神産巣日神の父神の白川伯王ではないかと思うようになりました。

 勿論、「天」は半島で、「国」は九州で、両方を行き来しているものの本拠地をどちらに於いているかの問題のような気がしています。

 ただ、井口天神社由緒でも神産巣日神と国常立神が別神扱いになっている事が気になりますが、この程度の混乱は良く遭遇するもので、混乱は列島全土に及んでいるのです。今後も悩みは続きます。

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上は「白川伯王神代系譜」 研究目的で百嶋神社考古学の資料を必要とされる方は09062983254に…

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2018年12月15日

526 熊本空港直下の二社を見る “熊本県大津町の窪田日吉神社と窪田阿蘇神社”(上)

526 熊本空港直下の二社を見る “熊本県大津町の窪田日吉神社と窪田阿蘇神社”(上)

20180212

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 白川右岸の古い住宅が集中する歴史ある集落の真中に鎮座するのが窪田日吉神社です。

 この神社は初見だったか以前(と言っても20年以上前ですが)ちょっとだけ見た記憶もあるのですが、定かではありません。

 まあ、実質的には初見の神社だと思います。

 驚いたのは正面ではないものの二方向が牛舎となっており、神様に参詣すると冬でも牛馬の糞尿の匂いが漂ってくる訳で、神社の「境内下馬」を持ち出すまでもなく、まずは一昔前まではこんなことは絶対になかったと思うものです。

 もっとも、東京の富○八幡宮のように、腐敗しきった勧進相撲とか暴力団とか境内での殺人事件が起こるのですから何でもアリなのかもしれません。

 少なくとも村の長老なり宮司なりお役人の数名が相談に行けば平伏し中止されたとは思うのですが、生きるためには仕方がない…とか私権の制限と基本的人権とは致し方ないもので、このような事が起こってしまうのです。

しかし、小○竹○政権による国富の米国への売り飛ばし政策の結果所得が半減した結果、高級な食材を供給する産業がそう永くは続かないことから、世代の交代も含め、経営的にも成り立たなくなり廃業へと進むことによって解消される事になるしかないでしょう。


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窪田日吉神社 カーナビ検索熊本県菊池郡大津町下町180


 話が逸れましたが、この神社の主神はオオナムチとなっているのです。

 しかし、日吉神社とは、通常、大山咋(オオヤマクイ)神を祀るものです。

これが、大津町大津の大津日吉神社(正保元年1644年勧請大山咋+級津彦+級津姫、後、明治44年大己貴命七柱合祀)の名だけを引いているのならばそれはそれで納得できるのですが、祭神と社名に齟齬が生じている事だけは間違いがないでしょう。

 このため、大津日吉は明治44年大己貴命七柱合祀、窪田日吉は貞和二年又は永久三年大己貴命六柱という奇妙な関係をどう解釈するかです。

 まず、七柱は窪田日吉の六柱に天照皇大神が加えられたものに見えます。

 では、この窪田日吉神社とは何なのでしょうか?

 日吉神社が流行したのは徳川時代です。家康の黒幕=フィクサーであった天海僧正が広げたのが山王一実神道(山王権現とは大日如来であり、天照大神であると説いた)だったからです。

 その時に大神宮が加えられた結果、社名は日吉宮、祭神は従来の貞和二年又は永久三年大己貴命六柱を引きずった変則的な神社というべき構造になっているのです。

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不十分ながら、大体の裏事情が見えて来ました。

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では、何故、出雲の神様が阿蘇の裾野の大津に祀られているのでしょうか?

これこそが最大の謎で、百嶋神社考古学が“大国主命を出雲の神様と考えるのが大間違い”と言う日本神話の大嘘が背後に横たわっているのです。

この問題はまた取り上げますので、ここまでにしますが、この神社には気になるものがまだまだあります。

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窪田日吉神社には古い水盤が置かれていました。

 その紋章が気になるのです。三ツ矢に鷹羽はあまり見ないのですが、一見すると一番近いのは土佐山内家のスリーダイヤ三菱のようです。

しかし蔦葉と鷹羽とは全く異なりますので、三枚鷹羽に丸い二枚鷹羽の五枚鷹羽を使う草部吉見神社の神紋が、この水盤の変形紋章に見えるのです。

従って18301844年の天保年間には阿蘇神社ではなく草部吉見系神社が反映されている様に見えるのです。もしかしたら寄贈者の灰塚家の家紋かも知れません。しかし一般には見掛けないものです。

 これも今後の課題です。何故なら、「熊本県神社誌」には全ての祭神が書かれていないため判別ができないのです。

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これは摂社の祭神です(こちらが本来の祭神かも知れません)

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋神社考古学に関係する資料を必要とされる方は090-6298-3254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年12月18日

527 熊本空港直下の二社を見る “熊本県大津町の窪田日吉神社と窪田阿蘇神社”(下)

527 熊本空港直下の二社を見る “熊本県大津町の窪田日吉神社と窪田阿蘇神社”(下)

20180212

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


窪田阿蘇神社には真新しい孟宗竹の鳥居が設えられていました。

当然、熊本人工(?!)地震によって鳥居や社殿に被害が出たからでしょうが、真新しいコンピュータ制御の完璧な鳥居より反って良いような気もします。

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祭神は以下の通りですが、草部吉見神社の配神ではなく阿蘇神社配神になっています。

 これを見る限り、そのまま阿蘇谷の阿蘇神社が大津に展開しているように見えます。

表面的には内牧の阿蘇神社そのものに見えます。

しかし、県神社誌の同社の摂社群を見る限り、菅原系神社しかなく、地神社にしても埴安姫と罔象女神であり、埴安姫と大山祗の子が罔象女神であることを考えれば、それらを奉斎する氏族を制圧して阿蘇系の支配が成立している事を見るのです。

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ご覧の通り参拝殿、本殿も地震の影響が出ているようです。

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重要なのはこの阿蘇神社の基層には別の神々が見える事です。神社誌に青枠を掛けていますが、これこそが、元々この地域の方々が奉斎していた先祖神のはずなのです。この「塞」は猿田彦かナガスネヒコか?

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波邇夜須命と美都波女命とはイメージが湧かない方が多いでしょうが、百嶋最終神代系譜をご覧ください。

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金山彦のお妃としての埴安姫(ヤタガラスの姉)、金山彦の後に大山祗の子としての美都波女命=神大市姫、同時にスサノウのお妃であり、金山彦と埴安姫の子である櫛稲田姫とスサノウの間に産まれた長脛彦こそ実は八衢比古であり、その妹の八衢比賣(ヤチマタヒメ)なのです。

一般的にはこの二神を猿田彦と天鈿女命に充てるのですが、それは神武天皇に逆らった逆賊を隠すためもあり、隠している間にそれが本物になってしまったものである…と考えるのです。

 その意味で塞神社を考えて頂ければ、この阿蘇系神社の底流には金山彦〜スサノウ〜大山祗そして岐神こと長脛彦が見えるのです。

 確かに表面だけを見れば阿蘇系神社です。そして、阿蘇系が覆い被さって以降はその通りでしょう。

 しかし、それでは古代の真実には全く迫れないのであり、この神社を祀る氏子の方々の遠い祖先の思いを裏切る事にもなるのです。


百嶋神社考古学に関係する資料を必要とされる方は090-6298-3254までご連絡ください

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