2018年12月01日

521 菅原道真公の御両親

521 菅原道真公の御両親

20180120

太宰府地名研究会 古川 清久


最近、「宮原誠一の神社見聞牒」の宮原誠一氏から同氏が作成された「重松家祖先之碑」という資料を頂きました。勿論、当方も含め、宮原氏自身は橘一族の後裔の末流と考えています。

今般、ご家族の方が重松家と関係ができたことから、菅原道真の本流の後裔と考えられる重松家についてまとめられたようです。

資料には道真公の流れが良く分かる系図が入っていましたのでご紹介しておきたいと思います。

 故)百嶋由一郎氏からは「道真公は大幡主〜豊玉彦直系の御本家と長脛彦後裔の御本家同志の婚姻によってお生まれになっておられます…」「神武天皇に逆らった長脛彦では都合が悪い事から豊玉彦を先祖としているとされておられ、それが当たりました…」と言ったお話をお聴きしていました。

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百嶋由一郎鳥子系譜(部分)


この系譜自体は博多の櫛田神社の主神である大幡主の子の豊玉彦(ヤタガラス)の流れを汲む鳥子の一流の武夷鳥系の本家を示しているのですが、道真公の母方に当たる長脛彦後裔の本家の子女との間に産まれた一族である事を示唆しているのです。

ただ、その母君が誰なのかを知らなかったところ、この資料にその名(結果的には「姓」だけだったのですが)が出ていましたのでご紹介したいと思います。

その家系図自体は宮原氏がネット上から拾われたものでしかありません。

道真公からの系図は良く出ているのですが、それ以前の流れが書かれたものが無い為、今回、無断借用ながら利用させて頂いたのでした(以下)。

まず、当麻蹴速と相撲で争った野見宿禰こと天穂日命(ヤタガラス)の後裔から道真公の父方が産まれている事が分かります。母上は大伴とか伴とか言われてはいたのですが、系図としては初見でした。

また、菅原古人も比較的知られていますが、菅原を名乗った最初の人なのです。

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菅原 古人(すがわら の ふるひと、生年不詳 - 延暦4年(785年)?)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。氏姓は土師宿禰のち菅原宿禰、菅原朝臣。阿波守・土師宇庭の子。官位は従五位下・遠江介。

光仁朝末の宝亀10年(779年)外従五位下に叙せられる。

天応元年(781年)桓武天皇の即位後に従五位下・遠江介に叙任される。まもなく、古人や道長ら一族15名が以下の通り、居住地である大和国添下郡菅原邑にちなんで菅原姓(菅原宿祢)への改姓を願い出て、これを許される。

祖業を顧みると、吉凶相半ばして、天皇の葬礼においては葬儀を掌り、祭の日には祭儀を預かり、このように奉仕することはまことに世間の習慣にも合っていた。しかし、現在はそうではなく専ら葬儀のみ預かっていて、祖業を深く考慮すると本意ではない。そこで居住地にちなんで土師から菅原姓へ改姓したい。

死後の延暦4年(785年)侍読としての功労により、4人の子息に対して学業に努めさせるため衣服と食糧が支給されている。

儒学者として高名で、余人で並ぶ者はなかった。一方で、家に財産の余裕がなく、子息は窮乏に苦しんだという。

ウィキペディア(20180120 12:11による

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さて、系図には道真公の御両親に当たる是善=コレヨシ(父) 伴氏女(母)が書かれています。

是善(父)は後述するとして、伴氏女(母)伴氏の女(メ=ムスメ)と読むべきで、まさか、バンノウジメと読むことはないでしょう。これについては知識を持ちません。

そこで、「日本史人物列伝」を参考にさせて頂きました。

ところが、残念なことに(注)当サイト内にある記事・画像等の無断複写及び転載は固くお断りいたしますと書かれています。

諦めようかとも考えましたが、非常に重要な内容ですので、お叱りが来れば削除するとして公開することに致した次第です。

この中から、母君が金山彦の後裔たる長脛彦の末流にあるという要素が多少とも見出せるならばと考えているところです。

既に、九州島内にも十社ほどの長脛彦系祭祀を確認していますので(全て実踏していますが、まだあるはずです)、繋がりが見いだせるのではないかと考えます。


平安時代
菅原道真の母

菅原是善の室

伴氏(大伴氏

伴氏(菅原道真の母)の出自に関しては、正確な記録が残されておらず伴氏(大伴氏)出身以外は不明であり、伴氏が菅原是善の室となった時期も一切未詳である。

承和12845)年、伴氏は道真を出産。

幼少時の道真は、体が弱く、伴氏も苦労したが、道真が学問の道に進むように献身的に導き育てた。

貞観4(862)年には、道真は文章生となる。

やがて文章得業生となった道真は、貞観12870)年に、方略試を及第。道真の未来が、これから拓けようとする矢先の貞観14872)年正月に、伴氏は、その生涯を終える。

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菅原道真の母は、ただ「伴氏」と伝えられるだけで、はっきりとした系譜や経歴はおろか、名前さえ伝わっていない。菅原是善との婚姻時期も判明しない。また、道真は是善の三男であるが、道真の上の二人の兄の生母が、伴氏であったのか、どうかも、一切不明である。

是善の子供の内、ただ、伴氏が道真を出産したことがわかるのみである。

その出産場所は、一般に勘解由小路南にあった是善の屋敷とされるが、むしろ、平安京内の伴氏邸と考える方が自然である。誕生後から幼い頃の道真は、とても体が弱く、道真に死が目前まで迫ったこともあった。
けれども、伴氏は必死に観音を信心し、観音像造立の発願によって、道真の命が救われたと伝えられている。道真が元服した際に、伴氏が、ひさかたの 月の桂も 折るばかり 家の風をも 吹かせてしがな」
と詠んだ歌が『拾遺集』に残されている。「国家試験に合格し菅原家の学問の気風を立派に受け継ぐように」という母心である。この歌からは、単に優しいだけでなく、時には厳しく叱咤激励しながら、道真に対して、持てる全ての愛情を注ぎ込んだ伴氏の姿が窺える。なお、伴氏が、この歌の中で詠んだ「家の風」は、今日では「家風」という熟語として親しまれているもので、日本における「家風」の慣用は、この伴氏によって、始められたと言われる所以である。道真は、母の期待によく応え、文章生となる。

が、伴氏の幸せは、長く続かなかった。貞観8(866)年に『応天門の変』が起こり、事件の首謀者として、伴氏の一族の伴善男が、伊豆へ流罪となるのである。伴氏の実家は、ここに没落の一途を辿る。

また、『応天門の変』に連座し、伴氏の兄が八丈島へ流罪に処されたとする説もある等、この事件によって、伴氏が受けた心労は、計り知れないものがあったと思われる。

(注)当サイト内にある記事・画像等の無断複写及び転載は固くお断りいたします

悲しみに打ちひしがれる母を励ますかのように、道真は、文章得業生に進むと、やがて妻を迎え、遂には、
文武天皇朝以来、僅か60数人ほどしか合格者を出していない超難関の方略試に合格し、学者としての面目躍如を果たすのである。それは、伴氏にとって、人生最大の喜びの瞬間でもあった。
しかし、伴氏は、貞観14872)年に亡くなる。
『応天門の変』後、道真の立身出世が叶うことだけをひたすらに信じ、気力だけで生きて来た伴氏が、点し続けて来た命の灯火の静かに燃え尽きた瞬間だった。
伴氏が亡くなった当時、存問勃海客使の任にあった道真は、喪に服するため一年間、全ての官職を解かれるという当時の慣例に従い職を解任される。

しかし、僅か数ヵ月後の5月には、勅命によって、再び職に復帰し、貞観16874)年には、道真は遂に従五位下へ昇進を果たす。
朝廷において、道真の学識が、いかに高く評価されていたかを物語るものであり、伴氏の母として、ひたすらに道真を支え続けた努力が、花開いた結果でもあった。
現在、
北野天満宮の参道脇に伴氏社、そして、同じく北野天満宮隣の東向観音寺に伴氏廟が建てられているが、それこそは、あたかも没後に怨霊として誰からも畏怖された道真の荒ぶる魂を、ただひとり優しく包み込み静かに寄り添う絶対無二の母、伴氏の姿、そのものであろう。
時に厳しく、時に優しく、愛する我が子に持てる全てを注ぎ育んだ伴氏の姿は、「日本の母親」像の原点とも言える。

無題.pngによる


一般的に伴氏が長脛彦の後裔であるという話は直接的には知らないのですが、愛知県の豊橋などに集中する氏族であり、木瓜を家紋とする名族であることから、金山彦の後裔である事が見えて来ます。

では、是善(父)はどうなのでしょうか?

これについては、九州でもかなり頻繁に見かけます。

九州に於いて最も有名なのが、大伴部博麻(ハカマ)顕彰碑の傍らに置かれた是善王社(善神王社)です。


ざっと1,300年前の出来事です。身を捨ててまで愛国の精神を実行した一兵士の物語です。

わが国で最古の史書「日本書紀」には古い時代の八女地方に関係する事件や事績が幾篇か記述されています。「八女」の地名の起こりは景行紀18年(神話の時代)に、「磐井の乱」は継体紀21年(527年)に、そして持統紀4年(690年)のくだりには憂国の一兵士の帰国と、その兵士の行動を天皇さまが一般に知らせた公文書が記されています。

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一兵士というのは大伴部(おおともべ)(はか)()のことで彼の事績は後述しますが、博麻は筑紫(ちくしの)国上陽(くにかみつやめの)(こおり)(旧八女郡の大半)の出身と記されています。因みに八女市上陽町の町名のおこりは上陽に由来しています。そして博麻の顕彰碑は上陽町北川内公園内に在ります。

以下、日本書紀など幾つかの歴史書を参考にして博麻の行動と当時の功績をまとめてみます。

37代斉明天皇7年(661年)韓半島の百済(くだら)(当時、我が国の友好国)が唐、新羅(しらぎ)連合軍の侵攻をうけ滅亡しました。天皇は百済王などからの救援要請をうけ日本軍を出兵させました。博麻も一兵卒として従軍しました。日本軍は韓半島南部の各地で唐、新羅連合軍と連戦しましたが連敗しました。博麻は661年、唐軍の捕虜となり、唐の都、長安(現在の西安)へ連行されました。そこにはすでに捕虜となっていた日本軍兵士4名がいました。数年後に彼らは唐人の計画(唐の日本侵攻計画か?)があることを知りました。5名はこの情報を一日も早く本朝(日本政府)へ報()らせねばと、じりじりしましたが肝心の帰国旅費がありません。そのとき博麻が言いました。『わしの体を唐人の奴隷として売る。その金(かね)で君らは帰国せよ』と。4名は博麻の計らいに従って帰国し本朝に急を告げたのでした。そのご博麻はひとり唐にとどまること30年、やっと前述のように690年に新羅の外交官に連れられて帰国したのでした。

持統天皇は公文書を発して博麻の行動を讃えられました。「博麻よ。お前は母国を思い、己を売ってまで忠誠を示してくれた。感謝する。それ故にお前を従7位下の位(役人の課長級か?)に就ける外(1)ふとぎぬ(絹織物)十反(2)真綿十屯(168キログラムか?)(3)布三十反(4)稲千束(ぞく)(一束は十にぎり)(5)水田四町は曾孫まで引き継げ(6)課税は父族、母族、妻族まで免じる」と褒美(ほうび)を贈ってその行動を顕彰されたのでした。写真は大伴部博麻の碑

八女市HPによる


無題.png実は、この顕彰碑は福岡県八女市上陽町北川内の公園内の小高い山の上に置かれているのですが、この顕彰碑に隣接して善神王社=是善王社が置かれているのです。

大伴部博麻が部の民であって直接的には大伴氏ではなかったとしても、この配置を考える時、大伴氏が付近にいたことは間違いないのであり、そこに善神王社=是善王社が置かれているとすれば、これらの背景を十分に知った人々によって祀られている事が見えて来るのです。

実は、この上陽町から筑後川方面に直接抜ける耳納山越えのルートにも是善王社が置かれています。

してみると、この八女市の黒木、上陽の一帯に、金山彦系、大幡主系の人々が集中して住んでいた事が見えて来るのです。

しかし、情けない事に学会通説に尾を振る学芸員が書くと、この唐新羅連合軍と激突した白村江の戦いの結果捕虜となったのが、筑紫君=倭国王(決して背後で裏切った近畿大和朝廷の前身の奈良の日和見派ではない)薩野馬(サチヤマ)だったとは書いていないのです。

つまり、郷土史家以下の水準でしか無い事が分かるのです。

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なお、大分県下には数十社に上る善神王社=是善王社があるのですが、地元の郷土史家を含めほとんど理解しておられない様なのです。

ただ、大分県下にこの系統の神社が集中する理由は、道真公の母君の系統が大伴宗麟とどのような関係になっているかを考えて見る価値も出て来たようです。

大分県下の善神王社=是善王社についてもご紹介しておきましょう。


国東市国見町赤根で 1年ごと畑地区・一円坊地区の山神社で行う祭礼で、社はないが、旗がよりしろとなっている。

善神王祭り

赤根地区で行われるぜんじょう祭りは、ちょっと変わった祭りである。赤根地区の二つのお宮で隔年ごとに祭礼が行われるが祭神の善神王はこの社の中には祀られていない。畑の古幡社・一円坊の赤根社のなかの赤根社に石祠はあるがその前での神事は行われない。

神の依代は当場の家の前に立てられている幟である。当場は年々交替するので、当場の神事が終了すると、幟は神社に移転する。

無題.png祭典当日の夕方、当場に当たった家の中で神事を行い神楽を舞う、それより行列を組んでお宮に至り、大松明を建てる。この松明建てが勇壮で、地区の男衆だけでは手が足りず、元気な見物客に加勢を頼む。音頭取りの指図に合わせて徐々に立ちあげていく。長い竹悼で力一杯に突き上げていく、巧みにバランスを取りながら立てる様は壮観である゛竹樟に支えられ、立ち上がった大松明はお宮の森を明々と照らしながら炎は幟の旗とともに揺れ動く。善神王は武内宿禰のことだそうだが、武内宿禰は四世紀頃の人物で伝承によると300年も生きていたそうだが多分、宿禰とは当時の階位で親子何代ものひとが宿禰の地位にあったことから長生きしたように伝えられたものだろう。

武内宿禰を祀った社は久留米の高良大社で、神功皇后が朝鮮に出兵したとき、高良の神の威力で新羅を降伏させたので、この神を祀ったと言われている。

八幡宮では脇官として祀られているが、別宮社でも、本殿に向かって右の社に祀られている。神功皇后を助け応神天皇の臣下として補弼の任に当たり、その功績により全国の八幡宮に祀られているようだ。

赤根の善神王は江戸時代にこの地区の人達が大分の賀来神社から勧請したものだが、その賀来神社は古代豊後の一宮で大分の由原宮(杵原宮)とか賀来宮とか呼ばれて賀来荘の中心になっていた。近世になって杵原八幡と賀来社とにわかれたが、いずれも八幡社として地域の人々に厚く信仰されている。その八幡宮のなかの善神王だけが赤根地区に勧請したものかよく分からない。町内に善神王を祀ったところは、龍神社、伊美崎社、城山社、小高島の山神社、伊美金久の観音堂などがある。


この大松明も国東半島に顕著なものですが、久留米の大善寺玉垂宮の鬼夜と関係が深いものと理解しています。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 と、ここまで書いた後、故)百嶋先生の資料を見ていると、伴氏女が書かれた前掲系図とほぼ同じものにメモが残されていました。当然、十分にご存じだったのでしょう。伴氏は大伴氏を起源にしていますし、大伴宗麟に繋がるかどうかは知りませんが、大分県に是善王社、善神王社が異常に多い事から関係なしとはしないでしょう。恐らく、このメモが薩摩川内の藤川天神に逃げ都から妻と娘を呼び寄せたとか、大分県玖珠町菅原の二系統の子孫の存在といった話と関係があるのだろうと思っています。

この藤川天神の話としては、ひぼろぎ逍遥 019 で取り上げています。



19

道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った!




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百嶋由一郎手書き資料から(部分)上 武夷鳥系譜(部分)下 ナガスネヒコの後裔でも… 

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研究目的で百嶋神社考古学に関する資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年12月02日

ビアヘロ070 2019年年頭に那珂川市の神社を探索する “新春那珂川三社巡りトレッキングに参加を”

ビアヘロ070 2019年年頭に那珂川市の神社を探索する “新春那珂川三社巡りトレッキングに参加を”

20181109

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 思えば那珂川町でのトレッキングがそろそろ十年に近づく太宰府地名研究会での神社探訪の起点でした。その当時はまだまだチンプンカンプンのよちよち歩きでしたが、メンバーも年を重ね、少しは神社を見る目が成長しているでしょうから、那珂川市政(市制)スタートを機会に、再度、旧那珂川町でのトレッキング(オープン参加)を企画したいと思います。

 一応、2019年第3週、20日の日曜日を考えているのですが、あくまでも計画です。

 ここではこれらの神社探訪の基礎資料として、簡潔にその概略をお知らせしたいと考えています。


@     天御中主神社    カーナビ検索 福岡県筑紫郡那珂川町片縄東1丁目

A     地禄天神社     カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町中原6丁目7-8(地禄と十六は同じ)

B  十六神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町那珂川町片縄北1丁目14-16 

C  現人神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町仲3丁目7-8

D  安徳宮       カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町安徳36.

E  裂田神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町安徳11.

F  伏見神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町山田879

G  大山住神社     カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町別所687

H  日吉神社      カーナビ検索  福岡県筑紫郡那珂川町市ノ瀬441-1

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地図の外になりますがこの南、乙子神社から一キロほど上流に日吉神社があります


@   天御中主神社 

無題.png 通説派の学者に言わせると天御中主神社などというものは存在しない(そんなものが古代には片田舎の奈良の山の中などに有るはずがないのですが)と言われています。

 ところが、この那珂川(古代博多湾)の汀線にはどうも半島とも往来できる、正に最適と考えられる場所にこの神社が鎮座しているのです。

 何故そうなのかと言うと朝鮮半島伽耶の金海金氏(トルコ系匈奴)金越智のお妃となっておられたからで、容易に半島に移動できない近畿などにいたはずがないのです。

 この背後地も古墳と言われますが、この地には実際に妙見様が住んでおられたのではと思わせるのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)以下も同様 金山彦+大幡主+大山祗のスクラムが分かります


A  地禄天神社

 無題.png古博多湾岸には千社近い「ジロク様」があり、それらを結ぶと古代の博多湾の汀線が現れるとも言われますが、博多では十六神社、寿老神社、地禄神社と呼ばれ、全て同じものと考えられますが、大幡主(博多の櫛田神社の主神で真ん中に鎮座されている神様)=ヤタガラスの父神でもあるのです。 

こちらも上の神代系譜の黄枠の神様を意味しているのです。

 七福神の寿老神も相互に準えられている様でもあるのですが、そもそも七福神も大幡主を中心とする白族の神様を表したもので、例えば市杵島姫が水の神様弁天様準えられているのです。地禄に行った場合は十六神社はパスします。

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B  十六神社 

地禄の置換えが十六なのであり、地禄神社と同種の神社とお考えください。

つまりこの地も大幡主の領域である事を表しているのです。

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C  現人神社

無題.png現仁とも現人とも書かれますが、戦前、天皇陛下は現人神であらせられる…と言われたその意味の神を祀る神社との振れ込みになっています。

この神社が博多の住吉神社の元社であり、実体は神武僭称贈)崇神天皇=ハツクニシメススメラミコト(阿蘇氏を起源とする藤原が第10代天皇などと格上げした)とされる神ですが、仲哀死後の神功皇后をお妃とした第9代開化天皇(高良玉垂命)の臣下でしかなかった人物で、耳川河口から東征をしたのも、四道将軍を送ったのもこの人物で、それを真実とすればその意味では功績の大きい人物だった事にはなります。この人物は自らを(勿論後の藤原氏がそうしたのです)、初代神武カムヤマトイワレヒコが自分であったかのように装っているケースに良く遭遇します。ちなみに上筒男命はウガヤフキアエズ(前住吉神)代表的なものは下関の住吉神社、底筒男命は開化天皇(後住吉神)であり代表的なものは大阪の住吉神社…となります。Bの現人神社については上の系譜を参照してください。

D  安徳宮

 無題.png言うまでもなく源平合戦の安徳帝の意味ですが、隣接する安徳台は実際に、本人かダミーかが避退し匿われていた可能性のある場所の一つです。最も可能性が高いのは久留米で、これについては「宮原誠一の神社見聞諜」などをお読み下さい。

 ただ、安徳帝については十人ほどの決死隊ダミーがいたと言われる上に、本物の安徳帝は奄美の喜界島に隠れ住んでいたとの話があります。実際に百嶋先生は二十年前までその後裔の○○代目安徳帝と文通をされており、また、奄美までの護衛にも八女の黒木の一族が関与していたとの話を音声で残されています。

 ちなみに、安徳姓が最も集中しているのも久留米市です。

 この中には、死を覚悟して安徳帝の身代わりを買って出た平氏の後裔もいたでしょうし、匿っていた組織の関係者もいた事でしょう。

久留米市に本社を置くブックランド安徳もその後裔の可能性があります。

 本物の安徳帝は始め対馬に逃げ、後に久留米から奄美に逃げたのです。

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E  裂田神社

裂田の溝(さくたのうなで)は、福岡県那珂川市にある灌漑用に作られた用水路である。日本最古の農業用水路としても知られており、疏水百選にも選ばれている。

『日本書紀』に、この用水路は神功皇后が三韓征伐の際当地にある現人神社の神田を灌漑するため造ったとの記述がある。

周囲の遺跡の発掘状況から、実際に造られたのは弥生時代との説もある。

江戸時代に貝原益軒が記した筑前国続風土記には取水堰の『一の井手』が「幅88間(約150m)。筑前国最大の堰である」との記述がある。

名前の由来については、『日本書紀』の記述によるとこの溝を掘っている時迩驚岡(とどろきのおか。現在の那珂川市安徳台)の辺りで大きな岩に突き当たり工事が一時中断した。そこで神功皇后が武内宿禰に命じて天神地祇を祀り祈りを捧げたところ雷が落ちて岩が裂けたため再び工事を行うことができた、との事から「裂田の溝」と呼ばれるようになったという。現在その場所には裂田神社という神社が祀られており、落雷によって裂けたという岩も現存する。

ウィキペディア(20181108 1330

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【裂田の溝ものがたり】
いまから二千五百年以上も前、むかしむかしの、そのむかし、おばあさんの、おばあさんの、そのまたずうっとおばあさんのころのおはなしです。
那珂川のゆたかな流れが博多の海に注ぎこみ、まわりには広い広い平野が見わたすかぎりにひろがって、その一番大切な中心となるところが、ふるさとの安徳村でした。
そして、安徳村にある大きな大地(安徳台)とそのまわりには、穴をほった上に木を組んで作った竪穴住居がたちならび、たくさんの人びとがにぎやかにくらしていました。
ところが、近くには那珂川のゆたかな流れがあるのに、川がひくくて、田んぼに入れる水を引くことができず、お米をたくさん作ることができませんでした。安徳村のたくさんの村人は、「こんな広い草原を田んぼにできたら、いいのになあ」「どげんかして那珂川の水をひきこむことができんやろうか?」「そしたら、おなかいっぱいお米がたべられるようになるのになあ」などど、口ぐちに話しあっていました。そんな日々が何年も何年もつづき、八百年の年月がすぎたあるとき、神功皇后が、新羅(いまの朝鮮半島)との戦いのために、安徳村にやってきました。皇后は、旅の無事と戦いの勝利を神々にいのり、那珂川から船出無題.pngしていきました。やがて、戦いに勝って無事帰ってきた皇后は、神々へのお礼のために、現人神社におまいりしました。そして、現人神にお米をささげるために、神田を開く、という知らせが村むらにつたわりました。「新しく神の田をつくるには、水を引かねばならん。そのためのみぞを作る大工事をおこなうぞ!」皇后の命令で、たくさんの兵士があつまりました。「みぞができれば、畑んなかに水がひけるばい!」「米ができるたい!」「おいしいお米がたべられるぞ〜!」喜び勇んだ村人たちも、あちらの村からこちらの村から、くわやすきを手にわれもわれもととびだしてきました。兵士も村びとも力をあわせて、川上の山田のあたりから、いっしょうけんめいほりすすみました。ちょうど、安徳台のあたりまでほりすすんだときでした。みんなの口から悲鳴があがりました。「わあ!こら、どげんしたらよかろうか〜」なんと、大きな大きな岩が行く手をふさいで、剣やすきやくわにもびくともしないのです。死にものぐるいでほってきたみぞを、ここであきらめるしかないのかと、人びとはがっくりとかたをおとして、すわりこんでしまいました。これを見た皇后は、武内宿禰という身分の高い家来に命令して、みぞをとおしてくれるよう、神がみにいのりをささげました。すると、どうでしょう!「ピカリ!バリバリバリ、ドッカーン!」いままで晴れわたっていた空が、とつぜんまっくらになったかと思うと、稲光が光って、耳をつんざくような音をとどろかせて、ものすごいかみなりが大岩に落ちたのです。あまりのすごさに、さすがの大岩も、とうとう裂けてしまいました。「ばんざ〜い!」「やったぞ〜!」人びとは手をとりあってよろこび、元気をとりもどし、またいっしょうけんめいほりはじめました。そして、今光村までほりすすんで、ついに平野に那珂川の水をひくことができるようになりました。こうして、まずしかった安徳の村むらは、ゆたかな水田に生まれかわり、何千人もの人がおいしいお米を食べられるようになりました。
人びとはお米つくりにはげみ、秋には、ゆたかにみのった稲穂で、村は黄金色にそまりました。この時から、このあたりを「とどろきの丘」とよび、このみぞを「裂田の溝」とよぶようになったということです。
この裂田の溝は、それから千六百年もの長い間、那珂川町の七つの村、山田・安徳・東隈・仲・五郎丸・松木・今光をうるおしつづけています。あなたが、いつもたべているごはんも、裂田の溝からひいた水でつくられたものなのです。あなたがざりがにをとったり、つりをしている小川も、裂田の溝から引かれたものなのです。このように、千数百年以上も前につくられたものが、いまもそのかたちのままはたらいて、わたしたちのくらしにやくだっているようなところは、日本中さがしてもほかにありません。わたしたちの祖先がのこしてくれた、すばらしい「裂田の溝」をたいせつにして、これからもずうっとまもりつたえていきましょう。


 実はこの神功皇后を祀るとするこの神社の文書によって神功皇后の本当の年齢(生年)が分かります…と百嶋先生は言われていました。

 そして、愕くことに、ここで神功皇后と後の開化が共に生活していた…とも言われていたのです。

右は「高良玉垂宮神秘書」

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F  伏見神社

伏見神社 鎮座地 福岡県筑紫郡那珂川町大字山田

御祭神 淀姫命 須佐之男命 大山祇神 神功皇后 武内宿祢

御祭礼 一月一日 歳旦祭

二月十一日 建国記念祭 四月十五日 春祭 七月十四日 祇園祭 須佐之男命祭日 県無形文化岩戸神楽奉納 七月三十一日 夏越祭 かやの輪を潜り罪穢を祓い無病息災を祈る 十月十七日 秋祭 五穀豊穣を謝し新藁御注縄を捧げる  十一月十五日 御火焚祭淀姫命遷座を願夜火焚祭を行ふ

御由緒

淀姫命は神功皇后の姉姫で千珠満珠を求め給う神徳の姫で欽明天皇二十五年十一月朔日佐賀の県に川上大明神として鎮座されたが託宣によって此の地に遷座され後異国襲来にそなえ神功皇后武内宿祢と共に京都伏見御香宮を合祭して伏見大明神と称す 須佐之男命は天正年間秀吉島津征伐の時博多市街兵火に罹り櫛田祇園の社にも兵火及ばんとするや御神体を当社に遷じ奉り博多住民も避難移住してより祇園祭行はる

鯰渕

社前那珂川の一之堰より上流伏見の渕、鐙の渕、風拝の渕を総称して「鯰渕」と言い「鞍掛鯰」の居る処神功皇后三韓征伐の時背振山に登られ灘の川を渡らせ給ふ時馬の鞍に魚が飛び上り皇后「なまづめ」たいと言はれその魚を鯰と名付け給ふ皇后三韓征無題.png伐の舟出で給う時無数の鯰群をして船を抱き水先案内し戦勝されてより神の使とされた。鯰は平時姿を見せぬが天下変事にはらわれる。元和元年大阪夏の陣、寛永十四年島原の乱明治二十七年日清戦争、明治三十七年日露戦争、大東亜戦争終戦前皮膚病「なまず」は絵馬を捧げて祈願すれば治った人多し

岩戸神楽 昭和二十九年十二月十三日 福岡県無形文化財指定あり


 故)百嶋由一郎氏は「京都の伏見稲荷のルーツです…」と言われていましたが、肝心の豊受大神が祭神とされていないのが不思議です。今後の課題です。


G 大山住神社

無題.png村社 山神社 筑紫郡岩戸村大字別所字上別所

祭 神 大山祇神,伊弉册神,久延毘古神

由 緒

 不詳明治五年十一月三日村社に被定。祭神伊弉册神は字上別所無格社熊野神社として祭祀ありしを祭神久延毘古神は字松尾無格社花亂神社として祭祀ありしを明治四十四年六月十五日合併許可。

例祭日 十一月十四日 主なる建造物 本殿,拝殿,弊殿 境内坪数 四百十七坪 氏子区域及戸数

 岩戸村大字別所 五十五戸 福岡県神社誌 中巻 空 sora そら


那珂川上流域は大山祗だらけですね…。

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脊振山系を越え有明海側に入るルートを制圧していたのも、大山祗系の人々だった事が歴然とします。


H 日吉神社

日吉神社  

那珂川町で蛍や川遊びが出来るスポットとしても親しまれている、中ノ島公園に隣接した日吉神社に行ってきました。那珂川町の水田を開拓する神とし古事記の天孫降臨の条に最初に登場し國津神として語られた猿田彦命(さるたひこのみこと)が祀られている神社としても親しまれています。家と家との間に真っすぐ続く参道の右手には広い水田が広がりカエルの鳴き声が聞こえてきそうな風景、何処となく故郷感あふれたそんな雰囲気に癒されてきました。敷地境内には木々が立ち並び、静かな涼みにも穴場!お勧めなスポットとなっています。また神社には、神前に供える栄木の一種とされる県指定天然記念物のオガタマの御神木が大きくたくましく立っています。拝殿の内部には立派な絵馬が奉納されており、とても古いものだろうと歴史を感じました。…                      福岡よかとこ より

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読めないでしょうが、最も注目しているのはこの神社の縁起です。故)百嶋由一郎氏が重要視していたのがこの由緒であり、同社の古文書だったのです。ちなみに市之瀬は百嶋先生の一族の以前の氏族名です。


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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2018年12月03日

522 鹿児島県姶良市寺師の大王神社初見

522 鹿児島県姶良市寺師の大王神社初見

20180201

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 現在、一泊二日のプランで薩摩川内の藤川天神へのトレッキングを企画しています。

 菅原の道真公は太宰府で病死した事になっていますが、実は海路南に逃れ鹿児島県阿久根市辺りで上陸し陸路で山を越えて薩摩川内の山奥で生き延び余生を送ったという伝承があり、それを裏付ける実物が藤川天満宮という訳です。


菅原神社 (薩摩川内市東郷町藤川) 菅原神社(すがわらじんじゃ)は鹿児島県薩摩川内市東郷町藤川にある神社。鎮座している地名から「藤川天神」(ふじかわてんじん)と称される。

境内には国の天然記念物である「藤川天神の臥龍梅」がある。

菅原道真を祀る。学問の神として、受験シーズンは祈願者が多い。

大宰府に左遷された菅原道真が隠棲した跡に創建されたという伝承がある。実際はこの地は太宰府天満宮の荘園「安楽寺領」で、そこに勧請された神社が発祥であるとされている。

しかし九州征伐で豊臣秀吉に焼き討ちされ、社殿・宝物など全てを失い、創建の正確な経緯は不明である。その後は薩摩藩主島津氏の庇護を受けて再興され、文化年中(19世紀初)には島津斉宣により社殿の修造が行われた。

1910年(明治43年)に藤川にある現王神社などを合祀し、菅原神社の摂末社となった。現在は菅原神社の本殿の北側に鎮座している。

ウィキペディア(20180203 09:15による


 当会にも熱心な道真ウォッチャーもいることから、最低でも藤川天神を見ておいて頂こうという思いから企画したものです。このため、単に藤川天神への参拝などと言ったどこかにあるような郷土史会や史談会の慰安旅行にはしたくない事から、藤川天神内の道真墓地と本物の墓地の確認と併せ、薩摩川内の新田神社や可愛山稜背後地の伝ニギハヤヒの墓の探訪を行なおうと考えているところです。

 それはともかくも、藤川天神については過去数回入っており、初期の ひぼろぎ逍遥 でも取り上げています。これについては、 019 道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った! をお読み下さい。

 そこで、下見も兼ねて、このニギハヤヒの墓と藤川天神の道真の本物の墓所に詳しい現地の神社ウォッチャーと会う約束をして薩摩川内を目指しました。

 どのような方がおいでになるかと思っていたのですが、私より多少若い年配のアン・ルイス風の知的な女性でした。

 朝8時には薩摩川内に入っていましたが、どっちみちご自宅までお迎えに上がろうと、さらに姶良市まで足を延ばし、9時から再度、薩摩川内の新田神社まで戻ることになったのですが、その話は別稿とするとして、ここでは調査を終えて翌朝帰る途中で訪問させて頂いた大王神社なる初見の神社をご紹介する事にします。まず、大王神社と言えば人吉盆地に数社同名の神社がある事を承知していますが、確か中近世の武家の支配者か何かを祀っていたもので恐らく無関係と考えています。

 これ以外にも鹿児島県内の伊佐市に同名の大王神社があります。

 しかし、単に社名が同じだけで、各々系統の異なる神社の様であり事実上参考にはなりません。

無題.png 今回の下見で最も印象深かったのが、旧姶良町の大王神社でした。姶良市の山中に大王神社なるものを見た以上、雨など無視せざるを得ません。

 早速、見せて頂きましたが、愕くことに、ミズハノメが祀られていたのでした。

 大王神社ですから普通は男神だろうと早合点していたのですが、やはり、現地は踏まねばなりません。


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では、ご紹介しましょう。

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その神社は寺師の農耕地の最奥部の山際といった所にありました。

 神社自体は至って古風で、それだけでも心が惹かれますが、境内には寺師氏の出身地との石標が建てられていました。

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御祭神は弥都波能売大神(ミヅハノメノオオカミ)


なんと御祭神は弥都波能売大神(ミヅハノメノオオカミ)の一神でした。単独での祭祀は初見です。

非常に古い女神様ですが、寺師一族と何らかの関係があるはずで、少なくとも自らはその後裔と言った理解をされているのだと思います。

 一般的に天御中主=白山姫(ミククルミタマノオオカミ)と弥都波能売(罔象女)の二神は共に水の神様とされる事が多いのですが(大半)、水波能売命と書かれている事もそれを象徴しています。勿論、逆に字面からかも知れませんが…。これも、農耕地の最上流に置かれている事も良く分かる気がします。

 さて、「記」「紀」の悪意に満ちた間の抜けた話よりも百嶋神代系譜を見ることにしましょう。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 百嶋神社考古学では、ミヅハノメこと神大市姫とは大山祗と大幡主の妹の埴安姫の間に産まれた娘で、大国主命とコノハナノサクヤの姉になる事がお分かり頂けると思います。

 あまり知られてはいませんが、大国主命、コノハナノサクヤヒメの実の姉に当たるスーパー・スター中のスーパー・スターなのです。

 まず、姶良市という名称からして大山祗と関係があるのではないかと思っていましたがその通りでした。

 また、本当の神武天皇(神武僭称贈崇神ではないという意味で)の本当のお妃だったアイラツヒメも、実はこの神大市姫と金山彦との間に産まれていたからアイラツヒメと呼ばれているのです。

 このことについては ひぼろぎ逍遥 スポット055 吾平津姫をご存知ですか? “アイラツヒメとはトルコの月姫だった”ほかでも書いています。


まず、百嶋神社考古学に於いて、アイラツヒメはヘブライ系瀛氏の金山彦とトルコ系匈奴(伽耶から侵入)である越智族の大山祗の妹である越智姫(神大市姫)との間の政略結婚で産れたハイブリッド中のハイブリッド・エリートとします。

ここで、百嶋由一郎説により母親がトルコ系匈奴の越智族であったとした場合、その娘の名がトルコ系言語だったのではないかと考えた事がありました。

ただ、昨年、少し「アイラ」がトルコ語ではないかと調べてはみたのですが、ayという語幹があることまでは見当が着いたもののそれ以上進めず踏みとどまっていたのです。

ところが、百嶋研究に関心を寄せる熊本の女性が、一週間ほど前に「アイラツ姫のアイラは月という意味ですよ…」と連絡してきたのでした。

急いで調べると、確かに彼女の言うとおりでした。


aylar- 名詞, トルコ語 | sprawk - ウェブ、あなたの道を翻訳 

https://www.sprawk.com/ja/term/トルコ語/aylar

aylar [Noun] 1. , つき (日本語) - one of the twelve divisions of the calendar year; 用語 "aylar"トルコ語翻訳、定義、例と一般的な関連語を持っています。

無題.pngによる


無題.png

そうです、トルコ国旗に描かれる通り、アイラツヒメとはアイラールaylar)姫の事だったのです。

してみると、父親である大山祗を百嶋神社考古学が月読命としている事とも対応するのです。

この辺りになると、通常の神社研究から逸れてくるようではあるのですが、百嶋先生の話には半島、中国から中近東にまで及ぶ膨大な情報が背後というか基層にあり、そのことによって神社を解説されている事から、どうしてもその基層の裏取りを行なう必要があったのです。

そこでお読み頂きたいと思うのが、ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)にリンクを張っている、百嶋神代史研究グループの一つ、「スピリチュアル・ヒーラー宮古の縁側日記」です。

当方には霊感などなくスピリィチュアルな世界は敬遠していたのですが、彼女の書く内容は、その感性の鋭さは言うまでもなく、愕くほどの幅広い知識、深い知識に裏付けられている事に気付き最近になって良く読んでいるのですが、実は、彼女もアイラツヒメの「アイラ」がトルコ語である事にとっくに気付いておられたのでした。

そのことを知り、逆に、「アイラツ姫のアイラは月という意味ですよ…」と連絡してきた某女性にこのblogを紹介したところ大喜びで感激したのでした。

では、縁側日記からお読み頂きましょう。

奇しくもあのくそ暑い夏の時期に、お二人は同じようなテーマに取り組んでおられたのでした。


 奇しくも、姶良市(現霧島市など旧姶良郡の一部)にトルコ系匈奴の大山祗の娘である神大市姫=ミヅハノメが祀られていること自体が、トルコ語のアイラール=「月」との関係を同時に示唆しているのです。

 してみると、鹿児島県、宮崎県に集中的に展開している寺師の一族も恐らくこの大山祗直系の氏族=つまりトルコ系匈奴の後裔ではないかと思えるのです。

 大山祗命は半島の金海金氏(ウマシアシカビヒコヂ)を父としと天御中主命を母として生まれたトルコ系匈奴の血を引く人物なのです。

 実際、旧姶良町には大山地区があり大山祗神社もあるのです。

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百嶋由一郎57年光武帝金印神代系譜


旧姶良郡の「姶良」という地名自体がトルコ語の「月」を意味するアイラールである事が分かると、大山祗系氏族の本拠地の一つががこの一帯であり、熊襲が褌を締めたような縄文人のような扱いで貶められていること自体が近畿大和朝廷による作為である事が見えて来るのです。


故)百嶋由一郎氏の資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記