2018年11月20日

ビアヘロ069 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu 

ビアヘロ069 続)タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu 

20180728

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


現在は中国領ですが、アフガニスタン、パキスタンとの国境地帯、言いかえれば、アフガニスタンのカブール回廊入口の要衝にTa Shi Ku Er Gan Luタシクルガン(中国表記:石頭城、石城山)があります。

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他にも幾つかありますが、ユーチューブで【新疆】タシュクルガンの石頭城、【中国】タシュクルガンの石頭城へやってきた。などと検索すればかなりの記事が出てきて鮮明な画像が確認できます。

さて、話をさらに進めます。故)百嶋由一郎氏によれば、 “この一帯の人々(トルコ系匈奴)が、列島に侵入し「石頭城」「石城山」と言った地名を持ち込んでいる…。”それは、”熊本県玉名市と宮崎県西都市に同じ地名がある”とまで言われていました(これらについては後述します)。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋神代系譜の緑枠で囲った部分の金越智=ウマシアシカビヒコヂ〜大山祗〜大己貴(+神大市=罔象女神ミヅハノメ木花咲耶姫)の系統こそが列島に入って来たトルコ系匈奴と考えられていたようです。

ちなみに、本物の神武天皇の本物のお妃であったアイラツヒメも金山彦と大山祗トルコ系の神大市=罔象女神の間に産れたプリンセスであるためトルコ語の月=アイラールからアイラツ姫と呼ばれたのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


無題.png中国領 塔什庫爾干=タシクルガン(石頭城、石城山)は、現在、ウイグル人(トルコ系とされる)が住み着いていますが、キルギス人もいるようです。このキルギスも、ギリシャに「キルキス」と言う都市名があり、元々はギリシャ系ではないかとも思うのですが、どうせこの辺りはトルコ系、ペルシャ系、ギリシャ系、ユダヤ系…の混血が進んでおり議論しても意味はないのでしょう。

写真は現代のウイグル人美女(良過ぎますかね)。

 いずれにせよ、かつてこの地はシルクロードの東西交易の要衝であり、塔什庫爾干の石城山は誇り高いこの地のシンボルだった時代があったのです。

 どうも、この中国表記の=石頭城、石城山が熊襲=トルコ系匈奴と共に列島に入っているようなのです。

以前から気にしていたのが長崎県川棚町石木(イシキ)、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町石動(イシナリ)、鹿島市の石木津(イシキヅ)…でした。当時は奇妙な地名だなあ…程度だったのですが、故)百嶋由一郎氏がはっきり言われたのが、熊本県玉名市の石貫(石貫穴観音横穴や石貫ナギノ横穴群外多数の横穴式石室を持つ古墳群)、宮崎県西都市の石貫神社(オオヤマツミとコノハナノサクヤを祀る神社)であり、正面の西都原第 二古墳群に伝大山祗の墓=柄鏡型前方後円墳があるのです。

また、大分県にもあります。旧石城川村(湯布院と高崎山の間の山中の村)です。この由布市から大分市に向かう谷間の一帯も山神宮外大山祗〜大己貴祭祀が濃厚なエリアです。

この外にも、山口県光市の石城山神籠石、愛媛県越智郡上島町岩城(イワギ)は平安時代に「石城」の表記で記録のある地名で、そもそも大山祗を祀る瀬戸内海の大三島は愛媛県にあるのです。

さらに、東北の福島県の石城郡、いわき市・南相馬市の相馬の馬追を思い出して下さい。

いわき市のいわきは石木、岩木、磐城=タシクルガンなのです。

そして、出羽三山の湯殿山、羽黒山にも岩木山がありますね、ここも大山祗祭祀が非常に濃厚なところなのです。

 無題.png当然にも甲州騎馬軍団が跋扈した山梨県にも無いはずはありません。石和温泉の石和(今は笛吹市ですか)です。

ここからコノハナノサクヤを祀る富士山の河口湖一帯に掛けて、石尊神社が数多く拾えますが、これも、まず、大山祗=月読命なのです。まだまだありますが、このように実際にトルコ系の民族が入っているようなのです。

参考


「石貫神社」について ○創建:天平5(733)と伝えられています。○御祭神:コノハナサクヤヒメの父神のオオヤマツミノカミ。○オオヤマツミノカミ:山の神で、「天神」・「国神」・「海神」の三神の大神。○大祭日:1129日。石貫神社から169段の階段を上った西都原古墳群内の『大山祇塚(おおやまつみづか)』の前方部前で神事が挙行されます。                     西都市観光協会


先にひぼろぎ逍遥 641 タシクルガン(石頭城、石城山)Ta Shi Ku Er Gan Lu として石頭城、石城山を取り上げ、この地名が列島に大量に持ち込まれていると言う事を書きましたが、当然にもこの地名は中国本土にもかなり拾えるのです。

勿論、占領されているとは言えタシクルガン自体は今尚中国共産党の支配地ですが、ここではそれ以外のタシクルガンをご紹介したいと思います。

恐らく、列島の十倍以上はあるのではないかと考えていますが、なにぶんにも中国語に対応できていないネット上から分かる範囲で探して見る事にしました。

きっかけになったのは故)百嶋由一郎氏が残された手書きメモに石頭塞があることに気付いたからでした。勿論、支那(シナ)という地名が残る麗江の南の石頭塞です。


 その前に南京に石頭城がある事を思い出しました。


石頭城(せきとうじょう)は、中華人民共和国江蘇省南京市鼓楼区、清涼門の北に位置している城址。六朝の都である建康の西面を守る城塁であった。後漢末の212年(建安17年)に孫権により築城され、1988113日、国務院により全国重点文物保護単位に指定された。現在は城壁の一部が残り、その城壁の模様が鬼の顔に見えるということから、別称を鬼顔城とも称す。

清涼山の自然地形を利用して土と石で築城し、西と北の両面は長江に近接し、地勢はけわしかった。石頭城西南には烽火楼があり、長江上流と連絡を通じあった。またここには水軍の駐屯地で、長江最大の波止場であり、船舶1000艘を停泊させることができた。

石頭城から城壁に沿って北側は六朝の頃の城壁で、南に行けば清涼門である。石頭城の城壁の上を歩く場合は国防園に入る必要がある。

ウィキペディア(20180730 1515による


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戦国時代,周顕王三十六年(前333年)に楚が越を滅ぼした。この 時楚の威王が金陵邑を今の南京に建設した。同時に、今の 清凉山と呼ばれるところに城を築いた。秦始皇帝二十四年(前223年),楚を滅ぼし、金陵邑を秣陵?とした。三国時 代,孫権は、秣陵を建業と改称、清凉山 に石頭城を建設した。当時、長江は清凉山下流を流れていて、石頭城の軍事的重要性は突出していた。呉では、水軍もっ とも重要な水軍基地とし、以後数百年 間、軍事上の要衝となった。南北朝時代、何度も勝負の帰趨に大きな役割を果たした。

石 頭城は清凉山の 西の天然の障壁をなし、山の周囲に築城したもの。周囲7里(現在の6里)あり 北は大江に接し南は秦淮河に接している。南向きに二つ門があり、東に向かって一つ,南門の西に西門があった。内部に は石頭庫、石頭倉と呼ばれる倉庫があっ た。高所には烽火台があった。呉以降南朝でも重要性は変わらなかった。

ネット上の「旅行日記」による

「三国志」がお好きな孫権とか周瑜ファンの方には魅力的な所だと思うのですが、「旅行日記」にはこのように続けられています。


写真は、城壁の拡大写真。上端部分が、明代の磚築部分。六朝時代の城壁部分(真ん中の大きめの煉瓦部分)も、一応日干し 煉瓦を埋め込んだような構造となっている。磚築となったのは、東晋末と考えられる。東晋時代は、全土、主に城門だけが磚築となり、城壁は版築だった。南斉に至り、各城 で城壁が磚築となったと考えられている。それまでは土墻(版築城壁)と竹籬(竹を編んだ城門)だった。

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次は 阿蘇氏の故郷、雲南省麗江から北へ延びる茶馬古道の石頭城です。

これは、雲南省麗江の北の石頭城で、百嶋メモに出てくる「石頭塞」ではないようですが、「〜茶馬古道をゆく〜 宝山石頭城」からご覧ください。


麗江市内からは車で約4時間、村の上方にある駐車場まで分乗車で向かいます。

その地形から、見下ろすことのできる景色にまず、息を呑みます。

長江の支流、金狭江の峡谷にある巨大な岩の上に築かれた集落は、3方向が断崖絶壁となっており、

城砦と呼ぶにふさわしい佇まいを見せてくれます。

宝山石頭城は元代の1277年から1294年の間に築城されたと言われています。

当時、宝山州と呼ばれたこの地は、自然により形成された難攻不落の砦で、

この地に居住していた少数民族・ナシ族はかつて戦乱を避けるため、山腹に沿うようにして村を築きました。


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次は百嶋メモに出てくる雲南省麗江からずっと南の石頭塞です。

百嶋由一郎先生は生前、中国で400回飛行機に乗って8,000万円遣ったと言っておられましたが、西のタシクルガンばかりではなく、南の石頭塞にも足を運ばれていた事が分かります。

 解放前の中国ですから苦労も多かったと思いますが、文字通り半島、北京からコーカサスへ、そして雲南省、四川省、貴州省まで調査に飛びまわれたようです。

以下は貴州省の「石頭塞」ですが、雲南省にも「石頭塞」があるようです。

非常に分かり難く、検索を続けて調べましたが、云南省河哈尼族彝族自治州と書かれており雲南省昆明辺りからベトナムのハノイ(ハロン湾)に注ぐ紅河の近くにもあるのでしょう。

パーモはインパール作戦に出てくるビルマのバーモでしょうし、木姐(ムセー)もビルマ領にあります。

 従って、ここが百嶋メモに出てくる石頭塞ではなく、雲南省昆明のそれであり、さらに、中国迷爺爺の日記 中国好き独居老人の折々の思い というブログに出てくるプイ(布依)族の住む石頭塞もべつになります。このように、少し調べるだけでもかなり多くの石頭塞が拾えるのですが、現在の住民とこの地名を残した民族が一致している訳でもないと思います。結局、多くの石頭城型地名が確認できただけでした。


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百嶋手書きメモから


中国迷爺爺の日記 中国好き独居老人の折々の思い というブログがあります。


プイ族の住居 2010-02-01 12:11:46 | 中国のこと

 2006年3月に貴州省の西南部を旅した時に、少数民族のプイ(布依)族の集落に立ち寄った。プイ族は人口300万人くらいで、主に貴州省の西南部(黔西南プイ族ミャオ族自治州)に居住しているが、貴州の各地にも散在し、ほかに雲南省や四川省の一部やベトナムにも住む。
 訪れた村は石頭寨と言ったが、家々はすべて石造りで、このあたりのプイ族の集落の特徴らしかった。
 入り口のゲート。いろいろな銘盤が嵌め込まれているが、中に「貴州省 文明風景名勝区」というのがあった。プイ族の集落の中でもよく保存されているものなのだろう。

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 事務室のような所に入ると、民族衣装姿の大柄な娘が出てきて、村の中の古い住居や住居跡を案内してくれた。ゲートから向かって左には小高い丘があり、そこに石造りの家が並んでいる。だいぶ古いものらしく頑丈な造りだが、住んでいない家もあった。

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倉庫らしい建物 土地廟。村の神を祭る。道教でも仏教でもない、産土(うぶすな)神のような原始的な信仰ではないか。

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石組み。鉄筋や漆喰は使っていないで見事に築かれている。
 途中で村を一望できる場所があった。現在の家屋の多くは平地に造られているようだ。

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上に行くほど古い住居があり、すべて廃墟になっている。どれもかなり大きなもので、このような高い場所にたくさんの石を運び建物を造ることは大変な労働だったのだろう。これらの多量の石材はどこから切り出されたものか。

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廃墟の道 石頭寨の傍にあった池。貴州でよく見られるカルスト地形の山が遠望される。

 石頭寨からの帰途の風景。この時期にはあちこちに菜の花畑がある。

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百嶋由一郎手書きスキャニング・データより

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:36| Comment(0) | 日記

2018年11月21日

518 2018年山陰落ち穂拾い三社詣りの旅 E “鳥取県若桜町の若桜神社”

518 2018年山陰落ち穂拾い三社詣りの旅 E “鳥取県若桜町の若桜神社”

20180111

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 鳥取市と言えば平成の大合併で出現した巨大市の代表のような行政単位ですが、その南に若桜(ワカサ)町があります。そして、その東にはスキーのメッカでもある但馬の巨峰「氷ノ山」が聳えています。

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若桜神社 カーナビ検索 鳥取県八頭郡若桜町若桜534 0858-82-2231


 若桜町で神社を云々するにも若桜神社をご紹介しなければ話になりません。

 それほど秀麗で大きな境内を持つ第一級の神社だからです。

 このような領主の肝いりで造られた神社というものをいくら見ても参考にならないケースが殆どなのですが、国常立神を祀る神社であるとすると、必ずしも一般的な神とは言えないため、もしかしたら領主は先祖神と考えている可能性があるのではないかと思います。

まず、国常立命は一般的に知られているほどのものではないのですが、博多の櫛田神社の大幡主(ヤタガラスの父神=カミムスビ)の伯母さんの天御中主命とお考えください。百嶋メモによると国常立命は誤りで天常立命が正しいとお考えだったようです。このため大幡主命ではないかとしましたが、正確に言えば天御中主命と考えられます。

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若桜神社と若桜町とに関係が無いはずはありませんが、イワカムツカリノミコトに関係のある神社であろうことは見当が着きます。

ここには古い時代の九州王朝の痕跡が残っている様に見えます。

また、新たなテーマが産まれました。

しかし、難敵です。

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秀麗かつ荘厳と言う事の無い神社ですが…

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「鳥取県神社誌」143p〜中略


 多くの神社が重なっておりこの神社を解読する事など到底不可能ですが、避けて通れない事から取り上げてしまいました。

 ただ、あまりにも荘厳かつ豪奢な上に神殿に辿り着くまでの道路が無い(二百段もの参道階段)事からどう考えても修築が困難と思われることです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 良くこれほどの神社が造れたと思うのですが、昔の方が余程経済力は豊かだったのだと思うばかりです。

 現状ではいずれ必要となる再建は不可能と言えるでしょう。実は奈良県桜井市にも若桜神社があります。高良玉垂命=開化天皇の腹違いの兄大彦と武内宿祢に関わる物部神社である事は分かります。


若桜神社
A:若桜神社−奈良県桜井市谷 祭神−伊波俄加利命・大彦命
B:稚桜神社(磐余稚桜神社)−奈良県桜井市池之内 祭神−出雲色男命・去来穂別命(履中天皇)・気息長足姫命(神功皇后)式内・高屋安倍神社を合祀  2014.07.28参詣

 延喜式神名帳に、『大和国城上郡 若桜神社』とある式内社で、論社として上記2社がある。
 なお、延喜式には城上郡に属しているが、若桜神社の辺りは平安中期以降は城上郡だったが、11世記初め頃に十市郡に編入されたといわれ(桜井市史・1979)、諸資料では十市郡の条に記されている。

書紀・履中天皇3年(430年頃か)冬11月6日条に、「天皇は両股船(フタマタノフネ)を磐余(イワレ)の市磯池(イチシノイケ、磐余池のことか)に浮かべられ、妃とそれぞれの船に分乗してともに遊ばれた。

 膳臣(カシワデノオミ)余磯(アレシ)が酒を奉った。そのとき、桜の花びらが盃に散った。天皇は怪しまれて、物部長真胆連(モノノベノナガマイノムラジ)を召して、 『この花は咲くべきでないときに散ってきた。何処の花だろうか。お前が探してこい』といわれた。長真胆連はひとり花を尋ねて、掖上(ワキガミ)の室山で花を手に入れて奉った。天皇はその珍しいことを喜んで、宮の名とされた。磐余若桜宮(イワレノワキサクラノミヤ)というのがそのもとである。

 この日、長真胆連の本姓を改めて稚桜部造(ワカサクラベノミヤツコ)とし、膳臣余磯を名づけて稚桜部臣(ワカサクラベノオミ)とされた」との説話が記されている。若桜神社はこの説話に係わる神社で、磯城郡誌(1915・大正5)には、「邑の西丘にあり、式内村社にして今白山権現と称す。

 境内に長真胆連が献じたると云へる稚桜の子孫木あり。枝垂桜にして其の花殊に艶麗なり。・・・本社の祭神ならざるも倘くは稚桜部民の祖・物部長真胆連を祀りしならん」とある。

 これによれば、掖上の室山で長真胆連が桜花を得たとの説話を承けて、その後裔・稚(若)桜部造一族が、その祖神を祀ったのが谷の若桜神社という。

 谷の若桜神社の祭神・伊波俄加利命(イハカカリ、伊和我加利命とも記す)の出自は不明だが、奈良県史(1989)には伊波俄牟都加利命(イハカムツカリ)の後裔とあり、伊波俄牟都加利命は新撰姓氏録(815)に

 「右京皇別  若桜部朝臣  安倍朝臣同祖  大彦命孫伊波我牟都加利命之後也」とあるように、若桜部朝臣(臣)は孝元天皇の皇子・大彦命の後裔という。

 一方、池之内の稚桜神社の主祭神は出雲色男命(イズモシコオ)とあり、姓氏録には「右京神別(天神)  若桜部造  饒速日神三世孫出雲色男命之後也  四世孫物部長真胆連云々(以下、上記説話を略記)」

とあり、若桜部造の祖・物部長真胆連(若桜部造)は物部氏系氏族という(先代旧事本紀・天孫本紀−9世記前半には出雲醜大臣命−イズモシコオオミとある)。

 これによれば、若桜部氏には膳臣氏系(皇別氏族・膳臣余磯系)と物部氏系(神別氏族・物部長真胆連系)の2系列があったとなる。

 この2系列の若桜部氏を、説話に基づいて、谷の若桜神社と池之内の稚桜神社の祭神に当てはめると、前者は物部長真胆連(若桜部造)、後者は膳臣余磯(若桜部臣)に関係する神社と思われ、・掖上室山で桜を得た−−長真胆連−−若桜部造−−出雲色男命の後裔(物部氏系)−−谷の若桜神社のはず・磐余池で酒を奉る−−膳臣余磯−−若桜部臣(朝臣)−−大彦命の後裔(膳臣系)−−池之内の稚桜神社のはずとなる。

 しかし、今の祭神からみると、谷の若桜神社の祭神である大彦命の後裔・伊波俄加利命は、磐余池で天皇に酒を献上した若桜部臣(膳臣系)の先祖であり、説話とは整合せず、逆のことが池之内の稚桜神社でもいえる。

 これは、説話にいう掖上の室山及び磐余池を何処に比定するかに係わったもので、・掖上室山は、一般には現御所市室の地(大和国葛上郡)を指すが、古事記・用明天皇段に「御陵は石寸の掖上にありしを、後に科長中陵に遷しまつりき」とある改葬前の御陵の所在地について、大和志(1734・江戸中期)に、「石寸掖上荒墓 谷長門二邑の界に在り。用明天皇を殯葬せし事古事記に見ゆ」とあり、用明天皇の最初の御陵は谷邑と長門邑の境付近にあったという。             戸原のトップページ による

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「聖神社」神代系譜研究目的で百嶋由一郎氏の資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年11月27日

519 佐賀県に阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)を祀る神社がある ?“佐賀県小城市牛尾神社”

519 佐賀県に阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)を祀る神社がある ?“佐賀県小城市牛尾神社”

20180103


太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


一般的に山幸彦=ニギハヤヒを祀る神社は腐るほどあるのですが、海幸彦=草部吉見=ヒコヤイミミを祀る神社が数えるほどしか無いという事実は、神社に関心をお持ちの方にはある程度ご理解頂けるのではないのでしょうか?勿論、茨城の鹿島神社とか春日神社と言ったものは別の議論になりますが…。

 その一つが宮崎県日南市の潮嶽神社であり、もう一つが、丁度、九州山地を挟んだ反対側とも言って良い佐賀県の小城市にあるようなのです。佐賀市の西隣り、古有明海の最奥部にある小城市の牛尾神社です。

 「潮」と「牛尾」と文字が通底している事にも心が動かされますが、地元に居ながら、日南市の潮嶽神社を優先し小城市の牛尾神社を後回しにした理由は同社正面が金毘羅神社であり、息子の大山咋神(=日吉神社=山王神社=日枝神社=松尾神社…)を祀るものであるとの認識を持っていたからでした。

 ところが、ひぼろぎ逍遥の前ブログでご紹介した鏡山神社を参拝したこともあって、良い機会とばかりに同社にも足を延ばし同社の下まで行ってみました。

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まず、若王子権現が気になります。通常、若王子とは熊野の若王子こと大幡主の王子たる豊玉彦=ヤタガラスを意味すると認識しており、どうも金毘羅宮が祀られる底流にはヤタガラスの祭祀が存在したようにも見えるのです。この問題は残すとして、まずは山頂の牛尾神社をご覧ください。

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佐賀県では自然陸化の延長上に成立した広大な干拓地が拡がっています。まさに列島のオランダです。

江戸期より前の干拓(肥前の籠コモリ干拓)と幕藩体制化の干拓(肥前の搦カラミ干拓)とによって産みだされたこの一帯の土地の形成過程を考えると、同地は有明海の最奥部に突き出した岬状地の管制高地だったと思わざるを得ないのです。

 小城市と言えば、まず、須賀神社、男女神社、八天神社、松尾神社、天山神社…とこの牛尾神社が頭を過ります。

 これらの特徴的な神社が確認できる中でも、小城市の全域には金毘羅神社を含め松尾神社=山王神社=日吉神社=日枝神社…といった大山咋系神社の数の多さを意識せざるを得ません。

これらの神社のかなりのものが江戸期以降のものとはしても、この地がその神社群の父神たる草部吉見=ヒコヤイミミ=牛尾神社の祭祀の流れを汲む事を理解するならば自ずと見えて来るものがあるように思うのです。

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牛尾神社の基層に如何なる神(金山彦orヤタガラス)が認められるかは今後の課題としても、「天之葺根命」が草部吉見(ヒコヤイミミ)=天児屋根命=表面的な春日大神=武甕槌の御子神であり、後の藤原氏の祖である事についてはこの間何度もお伝えしてきました。

この事が、後の貿易拠点、重要港湾の傍には必ず春日神社が置かれると言う法則性のようなものを感じさせられるのです。

九州では、宇佐の駅館川の春日神社、唐津は松浦川の春日神社、春日市の春日神社、博多は息子の崇神を祀る住吉神社、熊本市も春日神社、小郡市の大中臣神社、八代市の球磨川沿いにも春日神社二社が…と正しく藤原による古代国家の利権の独占を見てしまうのです。

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この神社は小城市の西外れに近く、多久市東多久町納所と川を挟んで東に鎮座しています。附近は牛尾梅林と呼ばれる景勝地で、梅の開花時期には、梅の香に誘われて大変な人が集まるそうです。

 「牛尾神社参道」の案内がある石柱から、北北東に延びた参道脇には「牛尾公民館」が建設され、40m程で「若王子大権現」の額が掛かる一の肥前鳥居に行き着きます。この後参道は石段となり、途中、左手に金毘羅神宮が祀られていたり、中程より上には右に中宮が祀られたりしています。更に石段を上がると、境内下に市指定重要文化財・慶長2年(1597)建立の肥前鳥居が立ち、すぐ左手には嘗て山伏の拠点だった別当坊が残されています。

 境内に上がるとすぐに文化4年生まれの岩狛さんがおり、正面に唐破風付き入母屋造りの拝殿、流造の本殿が建立されています。又、境内右手奥には龍~、生田宮、辨財天等の石祠が纏められています。

 創建から1200年余りの歴史を誇る古社で、源氏との関わりがある牛尾別当坊は、箱根・熊野山・鞍馬山と並ぶ日本四別当坊の一つとして、威勢を誇っていました。現在は梅林の奥に密やかに鎮座していますが、閑かな佇まいの、整備が整った気持ちの良い神社となっています。

 御祭神:天之葺根命

 祭礼日:春祭・415日、例祭・1015日、秋祭・1217

 境内社:金毘羅神宮、龍~、生田宮、辨財天、大日尊、石清水、天満尊、稲荷社等

 由緒:当神社は延暦十五年九月九日大和国吉野の里良厳上人、桓武天皇の勅宣を賜い肥前国堡郡実万ヶ里(今に小城郡西郷という。)に下向ありて、山の頂上に若王子大権現を祭り、併せて一院を建て護国神宮寺福長寿院別当坊という、勅に依り日本四別当一に列す、(第一箱根山別当坊、第二熊野山別当坊、第三牛尾山別当坊、第四鞍馬山別当坊)之れなり。

 当山は専ら西海道鎮護の御祈願所として九国安寧の御祈願を掌れり、その後この僻遠の一霊場が如何に朝野の信仰を博し得たかは延久元年八月欽名天皇の御後胤に当たらせられる大覚僧正、花山院第三の宮覚実僧正の御師弟が遥々熊野から降らせ給ふたことや、保元二年花山院家忠公が一時中絶していた別当坊を再興せられて、琳海親王を別当坊の院主に任ぜられたことによって伺はれる。寿永二年夏源頼朝公が神田二十余町を当山へ寄進せられ同日その臣北条、北畠二氏が各々願文を奉つたことは東鏡(鎌倉幕府日誌)に明記してある。文冶元年源平合戦の砌参河守範頼九州に渡り参州豊前の敵を征し筑前の敵を伐つに当たり琳海親王は当山衆徒兵三千余騎を以つて、熊野山湛僧坊と諜合して豊前日田まで出陣す。平家一族を壇の浦にて殲滅した後天下泰平の御祈願の為に源義経の使者亀井六郎重清を遣はして義経自筆の願文並に義経、弁慶の腰旗、砂金五百両を当山に奉納ありたり。元亀年中鍋島直茂公、大友宗麟の大軍を川上村今山に於いて夜襲の時別当坊琳信一山の衆徒兵を引具して公の軍に加はり名誉の御勝利ありしを以て、勝茂公代より神領十六石三斗七升御改付ありたり。

 古来国主領主の崇敬極めて厚く、徳川時代に於いては旧佐賀藩主より華表並に社殿の造当修築等奉納のことはすべて藩費により支弁せられたり。

 明治維新に際し神仏習合分離と共に若王子大権現を牛尾神社と改称す。

 明治六年村社に列し、昭和十六年郷社に昇格し現在に至る。


当方の写真が不鮮明のため敬愛する 無題.png による

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この山上には牛尾梅林があります。梅のほころぶ三月にもトレッキングを行ないたいと思うものです。
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 「佐賀県神社誌要」によると、家津御子大神とは草部吉見と市杵島姫との間に産まれた大山咋神=松尾大神、山王宮…であり、だからこそ宗像三女神も書かれているのです。

 ただ、社名、地名からは、その底流に草部吉見=ヒコヤイミミ祭祀が存在して様に見えるのです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋由一郎氏の資料(音声CD、神代系譜DVD、手書き資料)を必要とされる方は09062983254まで

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「佐賀県神社誌要」172173p

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