2018年11月06日

513 2018年山陰落ち穂拾い三社詣りの旅 @ “島根県浜田市国分町の大歳神社”

513 2018年山陰落ち穂拾い三社詣りの旅 @ “島根県浜田市国分町の大歳神社”

20180107

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


年末の30日にスケジュールが入ったり、暗闇で神社の境内で足を踏み外して捻挫したりと、通常は年末年始に掛けて神社調査の大遠征に向かうのが普通でしたが、今回は静かな元旦を迎え、人混みが解消したと思う16日から山陰は但馬辺りまで行く事にしました。

 一つは、せっかくスタッドレス・タイヤを装着しておきながら雪がないのはバカバカしいと、雪国に行って神社の雪景色でもアップしたいと思ったからでもありました。

 山陰も無料区間以外の高速は利用しませんし、のんびりと神社を見ながらの旅になります。

 何度となく足を運んでいる山陰ですが、それでも未踏の神社はあるもので、今回はいつでも行けると思いながらも訪問していない神社を落ち穂拾い風に見て廻る事にして(神社を落ち穂に表現するのは正月早々神罰を受けそうですが…今さら何をか言わんかも知れません)目的地は決めていませんでした。

 この浜田市の国分町は以前から注目しているエリアでした。


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大年神社 カーナビ検索 島根県浜田市国分町1812


 ここには下府=下国府(シモコウ)と呼ばれる地名が残っており、九州王朝時代に成立していた国府が存在していたと考えていた山陰でも重要な経営拠点と考えていました。

 特に下府廃寺塔跡は何度も足を運んでいます。

 日本海側には数多くの礎石などが残され廃寺跡とされていますが、奈良飛鳥で仏教が勃興する時期に何故廃寺が激増しているかは通説では理解できないのです。

勿論、これが近畿大和朝廷のものではないからなのですが、ここではこれ以上触れません。


しもこうはいじとうあと【下府廃寺塔跡】島根県浜田市下府町にある寺院跡。浜田市の東にあたる国分や下府一帯は、国府が置かれた古代石見(いわみ)地方の中心地の一つである。下府廃寺の付近から出土する瓦は奈良時代の様式を備えており、7世紀末〜8世紀初めに創建され、10世紀初めまでには廃絶したと考えられている。寺域は1町(約109m)四方といわれ、巨大な石でつくられた塔の心礎がある。1989年(平成1)〜1992年(平成4)の発掘調査で、下府平野を望む標高14mの微高地を造成したところ、伽藍(がらん)配置は西に金堂、東に塔を配した法起寺(ほっきじ)式であることが確認された。金堂は東西15.2m、南北13mの基壇を、塔は13.2m四方の基壇をもち、その規模から五重塔が想定されている。壇状に削られた土壇上に、心礎と四天柱、側柱の礎石が各1個残されている。花崗岩製の心礎中央には直径86cm、深さ6cmの円柱の孔があり、さらにその中央に直径21cm、深さ12cmの舎利を置く孔がある。石見地方の中核的な寺院跡と考えられ、塔の心楚部分が1937年(昭和12)に国の史跡に指定された。JR山陰本線下府駅から徒歩約20分。

コトバンクによる

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山陰の漁港としてもかなりの密集度を見せるのがこの下府(シモコウ)ですが、この大集落を見下ろすかのように鎮座しているのが大歳神を祀る大年神社です。

 最も気にしていた神社ですが、今回訪問できて頭の中の蜘蛛の巣が少し取れた思いがしました。

 では、この大歳神とは誰でしょうか?勿論、出雲系の神様などではありません。

 もっとも、百嶋神社考古学では出雲神話の舞台は九州と考えますので、所謂、出雲神話などと言ったものは所詮藤原が創り出したテーマ・パークでしかない事はこれまで何度も申し上げてきた通りです。

 大歳神=大年神は申し上げるまでもなく、阿蘇の草部吉見=ヒコヤイミミその人であり、その後裔が大山咋=佐田大神(断じて佐田彦ではない!ので神社庁などに騙されない様に)=日吉神社=日枝神社=松尾神社となるのです。

 では、何故、この地に阿蘇の神が祀られているのでしょうか?

 簡単に言えば、下府廃寺が消された事と関係がありそうです。要は進駐軍というか占領軍なのです。

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境内には摂社として蛭子様が祀られていました。

 どうやらこちらが元々の祭神だったようですね。

この神社で面白いものを発見しました。

九本の尾を持つ狛犬です。宮地嶽神社と仁徳天皇(実は九州王朝の高良玉垂命と神功皇后との間に産まれた長子シレカシノミコト)を祀る難波高津宮でしか見たことがないのですが、今のところ何とも言えません。これで、類例が三つに増えました。何らかの意味があるはずなのです。

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島根県神社庁県内神社一覧による


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なお、研究目的で百嶋由一郎氏が残した神代系譜、音声CD、手書き資料等を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年11月08日

ビアヘロ068 北海道は江差の姥神大神宮と宮地嶽神社 “九州王朝の神紋は蝦夷まで及んでいた”A

ビアヘロ068 北海道は江差の姥神大神宮と宮地嶽神社 “九州王朝の神紋は蝦夷まで及んでいた”A

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太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 この話は、故)百嶋由一郎の面受の者として、今でも耳に残っているのですが、実際に“宮地嶽神社(福岡県福津市)の三階松が江差まで行っている…“”開化天皇(高良玉垂命)とお妃である(仲哀死後)神功皇后との神霊が江差まで運ばれている…“と言われていました。

 当然、手書き資料にもそれが残されていますが、この姥神大神宮の渡御祭の山車にも三階松と抱き柏に菊の紋が打たれた幟が飾られているのです。


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確かに抱き柏に菊の紋が打たれた幟の山車には神功山との棟札が置かれており、もう一方の三階松が打たれた山車は開化天皇こと高良玉垂命のそれであると分かるのです。

勿論、現在の宮地嶽神社は主神を神功皇后とはしているものの、夫神である高良玉垂命は消えており、そのまま真に受ける方には理解できないと思います。

反対に、久留米の高良大社では高良玉垂命は残されているものの神功皇后が消されているのです。

このように、各々を消す事によって九州王朝の天皇制を掻き消しているのです。

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左が三階松(孝霊、孝元、開化の三代の九州王朝系天皇を表す)右は抱き柏に菊の神功皇后の神紋


 無題.png右は高良大社に奇跡的にも残された高良玉垂宮神秘書(コウラタマタレグウジンヒショ)の一節ですが、仲哀死後の神功皇后と孝元天皇の子ワカヤマトネコヒコとは夫婦となりと書かれ、仁徳天皇ことシレカシノミコト以下五人の皇子ももうけているのです。

 これらについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)7968などを丹念に読んで頂くしかないのでしょう。


79

宮地嶽神社と安曇磯羅 K “未来の宮地嶽神社参拝者のために”

68

宮地嶽神社と安曇磯羅 @ “五人寄れば文殊の知恵”


「記」「紀」の九州王朝隠しはその本拠地であった九州の現場にとどまらず、全国に及んでおり、この姥神神社の祭神とされる五柱(天照大御神、天児屋根大神、住吉三柱大神)の神(江差町HP)も、天照皇大御神・天児屋根神・住吉大神を祀る…(ウィキペディア)もそのまま真に受けるわけには行かないのです。

 まず、天児屋根神(藤原の祖)が祭神とされていることから、本来の祭神は高良玉垂命と神功皇后であったと考えられます(天児屋根の孫が崇神であるからです)。

 それが藤原の時代以降に祭神が替えられ、高良玉垂命(底筒男)、崇神(中筒男)、アヅミイソラ(表筒男)=住吉三神として、神功皇后の夫神である開化が住吉として薄められている上に、開化天皇と神功皇后(皇宮皇后命)は消されたと考えられるのです。

 ただ、天草〜博多…〜糸魚川〜十三湊〜江差と海路を通じて伝えられた山車の名称と神紋だけは消せなかったのです。

何故、そこまで断言できるかと思われるかも知れませんが、百嶋先生もメモに残されなかった証拠の一部を新たに発見しました。それが以下の画像です。

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無題.pngこの賽銭箱と幔幕に打たれた神紋こそ高良玉垂命=開化天皇の門光なのです。

 高良玉垂命と神功皇后の神紋:唐花(門光)と抱き柏に菊紋

 現在の高良大社の神紋は左三つ巴と木瓜紋とされていますが、木瓜は初期の臣下であった金山彦の神紋であり、ここにも偽装が施されているのです。

これについては高良大社の表面に現れる神紋だけではなく内部に残され祭りの時だけ現れる神輿に打たれた門光を知らなければ分かりませんが、この紋章こそが開化の本当の神紋なのです。

 このように謎解きには多くの関門があるのです。

ここでもう一つの問題に触れることにします。

江差町のHPには大神宮(こう呼ばれているのは天照が祀られているからでしょう 恐らく神社の昇格のために明治期に持ち込まれたものと考えられそうです)について以下のように書かれています。

そんな中で姥は、天変地異を事前に知らせることで人々から神様のように敬われ、折居様と呼ばれるようになりました。とある夜、神島(カムイシリ=今の鴎島)から虹のような光に草庵が照らされました。

この折居様についても触れておきたいと思います。島根県に折居神社があります。

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由緒書きの通り折居神が上賀茂神社の別雷神こと崇神天皇(神武僭称ハツクニシラススメラミコト)であることがお分かり頂けるでしょう。実はこの崇神も天皇ではなく九州王朝の開化の臣下だったのです。

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百嶋由一郎氏が残された音声CD、神代系譜、手書きデータを必要な方は09062983254で…

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 10:21| Comment(0) | ビアヘロ

2018年11月09日

514 2018年山陰落ち穂拾い三社詣りの旅 A “島根県出雲市多伎町の小田神社”

514 2018年山陰落ち穂拾い三社詣りの旅 A “島根県出雲市多伎町の小田神社”

20180108

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 日本海に面した山陰の長い海岸線を殆ど渋滞する事もなく信号待ちもなく走り続け、ようやく出雲崎が見え始める辺りに、ついつい通り過ぎてしまう神社が左手に鎮座しています。小田神社です。

 越の国にも出雲崎町がありますが、非常に印象的な地名であり、個人的には出雲大社が鎮座している岬も出雲崎と呼んでいます。

新潟県の出雲崎町も実に良い響きです。

ただ、何故、出雲崎と呼ばれているのでしょうか?多分出雲の人が住み着いたからだろうと思っています。

出雲崎とは実に良く言ったもので、九州方面から北上して行くと平坦な砂海岸が続く先に日本海に突き出した大きな半島が見えて来るのです。

勿論、島根とは島が本土と陸繋島となった部分が大きな半島に見えている訳で、どう見ても近畿大和の側から付されたものではなく、九州の人々が付した地名であることは疑いようがありません。

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いつでも行けるとパスしてきた神社ですが、国道の傍に鎮座しておられ、安直に車を止め参道階段を20段程度登るだけで、良く手入れされた境内が見えました。

 正月だからと言えばそれまでですが、立派に清掃された境内はそれだけでも心が和みます。

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小田神社 カーナビ検索島根県 出雲市 多伎町小田541-2

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主神 火遠理命(=彦火火出見尊:山幸彦)豊玉毘売命(=豊玉姫)玉依毘売命(=玉依姫)


由緒記に依る


 「出雲国風土記」に小田の社として出て来るとの事からそれなりの神社なのですが、出雲の神社というよりもウマシマジを祀る太田市の物部神社の延長ではないかと思ってしまいます。

 それは、我々百嶋神社考古学の者は山幸彦がウマシマジの父神たるニギハヤヒであると知っているからですが、実際にも出雲大社よりは太田市の物部神社の方が距離的に近そうに思えます。

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 この神社にはもう一つ面白いものがあって、本殿芯楚に亀蛇が置かれているのです。

 この意味は、この神社を奉斎した人々が白山姫、白川伯王系の人々であるという事です。

 してみると、祭神の山幸彦は対応しており違和感はありません。

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無題.pngこれは江戸期以降ではないかと思いますが、三保社と金毘羅さんです。

 三保社は美保社であり、大国主の皇子との皇子の事代主で、建御名方の事でしょうが、この神社の底流には白族系の神々が奉斎されていたように思えるのです。

 最後に、由緒にもありますが、旧本殿の中央に神木が植えられていました。

 まさに神宿る(降臨すると同時に去っていく)「ひもろぎ」が神木として残されているのです。

無題.png 夕闇が迫っていましたので、これ以上の浅酌をやめて、近くの道の駅「キララ多伎」の休憩室で、数時間、blogを書くことにしました。

 ここでは広い休憩室で落ち着いてパソコンが使えます。

 今は、頻繁に利用させて頂いている兵庫県美方郡香美町小代区の「おじろん」ふれあい温泉おじろんの雪の露天風呂に入り(単純泉ながら鉄分の多い温泉らしい温泉です)休憩室でblogを書いています。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 20:28| Comment(0) | 日記