2018年11月01日

511 氷川は龍王の国でもあった  ”氷川町の龍神宮”

511 氷川は龍王の国でもあった  ”氷川町の龍神宮”

20171212

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


氷川町は旧竜北町と宮原町が合併してできたものですが、この竜北町にあるのが竜神宮です。

 真新しい鳥居は平成28年と彫られていました。

 時期からして、熊本地震との関係が考えられますが、境内には古いながらもほれぼれするような神額が残されていました。

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氷川と言えば、勝海舟の随筆が「氷川清話」が頭を過ります。

赤坂の氷川神社は、素盞嗚尊、櫛稲田姫命、大己貴命を祀るのですが、この祭神から考えると、この氷川は箸が流れてきた「古事記」の出雲の簸の川(ヒノカワ)の川上の話を考えざるを得ません。

この事も何れ考えなければならないでしょう。

何故なら、これまで何度も書いてきた様に、藤原が創った歴史のテーマ・パークの現出雲のことではなく、多くの大幡主(白族)の領域=出雲(瀛、忌、伊美、因、陰…インと読むべし)であるからです。

この出雲の簸の川(ヒノカワ)を菊池川と考えて来たのですが、この氷川流域も大幡主=白族の領域であり、実際に「ヒカワ」との名が残っているからです。

これについては、以下のひぼろぎ逍遥(跡宮)284 を中心に読んで頂く必要があるでしょう。


300

大宮神社と猿田彦大神 S“総括:百嶋由一郎神代系譜と猿田彦”

299

大宮神社と猿田彦大神 R“広島県庄原市の蘇羅比古神社にも山幸と豊玉姫が…”

298

大宮神社と猿田彦大神 Q“岡山県津山市の大美禰神社も天宇受賣命を祀る古社”

297

大宮神社と猿田彦大神 P“『儺の国の星 拾遺』の真鍋大覚は猿田の意味を知っていた”

296

大宮神社と猿田彦大神 O“猿田彦は何故猿田彦と呼ばれたのか?”

295

大宮神社と猿田彦大神 N“ひぼろぎ逍遥051 出雲の佐田神社と安心院の佐田神社 再掲”

294

大宮神社と猿田彦大神 M“鹿島、香取でご存じの香取神社の経津主も猿田彦大神なのです”

293

大宮神社と猿田彦大神 L“福岡県豊前市の四公神社“

292

大宮神社と猿田彦大神 K“全国展開された猿田彦大神“

291

大宮神社と猿田彦大神 J“古代日向のヤゴローどん も猿田彦なのです“

290

大宮神社と猿田彦大神 I“山幸彦=猿田彦のもう一つのルーツについて”

289

大宮神社と猿田彦大神 H“猿田彦専門のサイトから”

288

大宮神社と猿田彦大神 G“猿田彦がニギハヤヒで山幸彦であることについて”

287

大宮神社と猿田彦大神 F“山幸彦=ニギハヤヒは博多の櫛田神社の主神の

大幡主の子であった”

286

大宮神社と猿田彦大神 E“佐野経夫(神理教教団)と菊鹿町「吾平」の

ウガヤフキアエズ陵”

285

大宮神社と猿田彦大神 D“佐野経夫(神理教教団)と猿田彦大神”

284

大宮神社と猿田彦大神 C転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は

熊本県山鹿市で産まれた! ”

283

大宮神社と猿田彦大神 B“大宮神社の地主神が大宮神社の主祭神か?” 

282

大宮神社と猿田彦大神 A“大宮神社の猿田彦大神石塔と摂社群” 

281

大宮神社と猿田彦大神 @“山鹿市の大宮神社とは何か?


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竜神宮 カーナビ検索 八代郡氷川町(詳細地番未確認)


石造りの神殿の中は今回確認しませんでしたが、ネットには開いたものが拾えましたのでご紹介しておきます。

竜神宮ですから、当然ながら八大龍王神でもおかしくはありません。

白族の御曹司で大幡主の息子である豊玉彦=ヤタガラスであり、初期は氷川流域に拠点を置いていたと思われ、宇城市の豊崎、豊福、豊野…といった地名を残してくれています。

当然にも、旧竜北町や龍峰山という地名もこの竜王=対馬の海神神社、和多都美神社の主神でもあるのです。

 この神社は竜北西部小学校のすぐ北に隣接して鎮座しています。

入口には「鹿嶋宮」の額が掛かった鳥居が建立され、境内に入ると左には手水舎・土俵が配され、参道左右に社名が分からない境内社が二社祀られています。

中央奥には唐破風付き入母屋造りの拝殿があります。

興味深いのは、境内には龍神宮という神額が残されており、事実、真新しい鳥居にも龍神宮と書かれていたのです。

普通に考えれば、明治期に改変されたと考えられそうですが、明治期は○○宮という表記は宇佐神宮など天皇家と関係のある一部の神社のみ「宮」表記が許されていた訳で(戦後民主主義の時代となりその指示が崩れますが…)、それ以前は竜神宮と呼ばれていたのでしょう。

 ただ、元は竜神宮であったはずで、それは地名の「竜北」や「龍峰山」にも反映されています。

この竜神は豊玉彦=ヤタガラスのはずですが、今は伺い知るすべはありません。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年11月03日

512 別役さんからのコメントを頂いて

512 別役さんからのコメントを頂いて

20171226

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 既に、ひぼろぎ逍遥の読者にはお気付きの方もおられるでしょうが、別役という姓をお持ちの方からコメントと言うよりも、情報交換のご提案を頂きました。

 四国島には過去三〜四度ほど足を踏み入れていますが、山陰山陽に比べてどうしてもフィールド・ワークの絶対量が少なく、このようなご提案は有難い限りです。

 このような神社に精通された方が全国におられて、頻繁に情報を交換でき、尚且つ、互いにblogでも発表できるようになれば、お花畑とも思い込みとも言えないような暴論に近い地元賛美や、「記」「紀」だけを根拠に学会や決して公的機関でもない神社庁が推奨するような通説を強弁する方、村興し町興しから果ては世界遺産登録などと言った真実の古代史の探究からは遠く外れ、金儲けだけに狂奔するようなさもしい説はある程度排除できるのではないかと思うばかりです。

 さて、当然にも興味を持ったのは「別役」という奇妙かつ稀少な「姓」です。

 直ぐに感じるところがあり、例の如く「姓名分布&ランキング」という有難いサイトで分布状況を確認しました。


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全国でも200件程度の非常に少ない姓であることは予想していましたが、その分布に関しては、ほぼ高知県限定、しかも、香南市、高知市などに集中する「姓」であることが分かりました。

 このサイトを使ってもこれほど特徴的な分布を示す姓の方にはなかなかお目に掛かれないもので、それだけでも興味をそそられた事は言うまでもありません。

 しかし、このような事ばかりをやっているとそれなりの勘と言ったものが働く様になるもので、直ぐに、“もしかしたら大幡主系の白族ではないか”との考えが浮かんできました。

 と言うのも、別役には「役」という文字が使われていますが、この文字「役」がヤクと呼ばれるも、エン、イン、オン…と通底しており、忌部の「忌」(イン)、「伊美」(イミ)、「役小角」(エンノオズノ)の「役」、「疫」、後には「卜部」、「陰陽師」(オンミョウジ)の「陰」(オン)、それ以外にも、因幡の国の「因」、印旛沼の「印」、もしかしたら、出雲の国の「出雲」さえも(イズモ)ではなく(イン)と、忌部の、従って、大幡主〜ヤタガラス〜鴨玉依姫をシンボルとする白族を意味した文字である可能性を感じ取ったのでした。

 特に、土佐の高知となると、忌部の本拠地である讃岐、阿波、熊野(紀州)の放射が直ちに届く様な場所であり、どう考えてもこの橘一族に繋がる方ではないかと思ったのでした。

 すると、確かに高知県にお住いの方だったのです。

 結果、私達が関心を持っている天御中主〜白川伯王〜大幡主〜豊玉彦=ヤタガラス〜鴨玉依姫〜橘一族…石清水八幡…にどこかで繋がる分流であることは明らかでした。

 まず、ネット検索により別役一族を検索すると、別役神社(竃戸神社)が出て来ます。

 これが竃神社と呼ばれている事から別役氏の基本的な性格が見て取れました。

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それは、竃戸神社とは鴨玉依姫と大山咋(佐田大神=断じて猿田彦ではない!)を祀る神社だからです。

 この事から考えると、この別役城に拠った別役一族とは、どうやら白族系でも阿蘇氏の影響が強まった上賀茂系の人々であることが見えたのでした。

 ただ、全ての別役家がそうであるかは、まだ、分かりません。

香美市香北町西川とは四国の物部川流域の地であり、それだけでも別役一族の性格が見えますが、ネット上には「別役一族の皆さん三月三日に別役神社に集まりましょう。別役家専用の駐車場が待っています。場所は高知県香美郡香北町西川 別役です。詳しいことは第二駐車場にお出かけ下さい。」と出ています。

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別役三吉郎義重????)〜(????

山間部における長曽我部氏の重臣で、長宗我部元親に仕えた。

香美郡香北町西川の豪族で東川・西川別役城主。東川、西川に五百二十石の土地を領有する。

長宗我部氏の時代に功を成し大忍最大の土豪となったが、 山内一豊の入国により知行所(領地)は召し上げられ農民になった。

別役神社

香美郡香北町西川別役に別役家ゆかりの「聖神社」がある。

境内に三吉郎が豊後戸次川への出陣のさいに武運を祈って植えたと伝えられる杉尾の巨木が今も残る。

一族は今でも年に一度三月三日に神社に集まり先祖の霊を慰めるといわれている。


ネット上にはもう一つ「別役一族の歴史」があります。

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また、無題.png氏は簡潔に以下のように書かれています。


現高知県である土佐国香美郡別役村が起源(ルーツ)である、古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏(あるいは在原氏)、香宗我部家に仕える臣下。 


まだ、継続して調べていますが、どうやら橘一族をルーツとしているかその臣下であった事だけは確認できる様です。

姓が別+役となっていることから、そのまま理解すれば、まずは、忌部の別れといった印象を受けます。

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ここには物部川が国道195号線とともに流れ下っています 別役一族はこの僻陬の地で生き延びたのです

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これまで高知県に入ったのは二度しかありませんが、最も入りたかったのがこの地域でした。

ただ、日程の都合とか同行者の都合もあり、果たせませんでした。

 しかし、別役一族が橘氏の一部である事が分かって来た以上、次回はこの地域に絞り込んで調査を行いたいと思います。

 地名を見る限りこの一帯には上鴨系、下鴨系の氏族がおられるようで、実に興味深い所です。

 土佐山田には「山田」が…これは大山咋系(松尾=日吉=山王=日枝…)の地名ですし(上鴨系)、香北町白川は熊本の白川同様、白川伯王の白川を意味しています。

同じく大根木は阿蘇の草部吉見=ヒコヤイミミを意味しています(その子が大山咋なのです)。

母神は勿論、宗像の瀛ツ島姫=市杵島姫です。

 物部氏の本隊を思わせる仁井田も香美市にあります。これはニギハヤヒ=山幸彦系ですし、調査は急務です。


なお、研究目的で百嶋由一郎氏が残した神代系譜、音声CD、手書き資料等を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年11月06日

ビアヘロ067 北海道は江差の姥神大神宮と宮地嶽神社 “九州王朝の神紋は蝦夷まで及んでいた”@

ビアヘロ067 北海道は江差の姥神大神宮と宮地嶽神社 “九州王朝の神紋は蝦夷まで及んでいた”@

20180730

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 粗いながらも二週間かけて福井から青森までの神社調査を行ったのは6月のことでしたが、北海道にも足を延ばしたいという思いは今も燻っています。

 勿論、真実の古代史の基礎調査として神社調査を行っているものとしては、どう見てもそれほど古い歴史を持たない蝦夷地のこと、普通は北海道を対象外とするところなのですが、どうしても行かなければならない神社があるのです。それが、今回取り上げる江差追分で有名な姥岳大神宮です。

 いずれこのためだけに北海道を踏むこともあろうことから、当面は下調べを行い、それをそのままブログとして公開しようなどと狡猾な考えから作業をすることにしたものです。

 従って、現地も踏まない神社リポートになる事を承知でお読み頂きたいと思います。

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創立年代は不詳ですが、言い伝えでは約570年前の文安4年(1447年)に折居姥の草創とされています。津花町より現在地に移転したのが正保元年(1644年)。文化14年(1817年)には正一位姥神大神社宮号を勅許された北海道最古の神社です。

江差町HPによる

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姥神大神宮 カーナビ検索 北海道檜山郡江差町姥神町9910139-52-1900


ソーラン節 鰊来たかと かもめに問えば 私ゃ 立つ鳥 波に聞け チョイ ヤサ エ〜エン ヤーサーノドッコイショ ハ〜、ドッコイショ ...


江差追分 <本唄>○鴎の(アーソイ)鳴く音に(アーソイ)ふと目を(アーソイ)覚まし(アーソイ ソイソイ)あれが(アーソイ)蝦夷地の(アーソイ)山かいな(アーソイ

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姥神大神宮(うばがみだいじんぐう)は、北海道檜山郡江差町にある神社である。旧社格は県社。社伝では鎌倉時代の創建と伝える、北海道最古の神社とされる。渡島国の一宮と称されており、姥神大神宮渡御祭にて配られる名刺にその記載がある事からもそれがうかがえる。

天照皇大御神・天児屋根神・住吉大神を祀る。

社伝によれば、建保4年(1216年)、江差の海辺・津花町に創建されたと伝える。

そのころ、津花の浜に「折居様」と呼ばれる老姥が庵を結んでいた。彼女には予知能力があり、天気や病気の流行を予言しては周囲に伝えるので、村の衆から何かと大事にされていた。さて、ある年の春先のこと。折居は神島(かむいしり)から光が発せられているのを見て驚き、光の源を訪ねて島に渡った。島には老翁がおり、「この中の水を海に撒くと、鰊という魚が群れになってやって来る」と、彼女に瓶子を授けた。その瓶子を持ち帰り、中の水を海に撒いたところ、話にたがわず鰊の大群が押し寄せ、村は豊漁に沸き立った。

ところが、村人が礼をしようと折居を訪ねたところ、彼女はいつのまにか姿を消していた。そこで、庵に残されていた神像を「姥神」として祀ったのが当社の始まりという。

正保元年(1644年)に現在地に遷座した。当地を治めた松前藩主松前氏からも崇敬を受け、9代藩主の道広は「降福孔夷」(福を降ろすことは孔だ夷なり)の扁額を奉納した。

やがて江戸時代中期になると、北海道近海にロシア船が姿を現すようになった。寛政11年(1799年)、幕府の命で蝦夷地を巡視していた最上徳内は、扁額の「孔夷」を「紅夷」(ロシア人のこと)と読み誤り、その報告を受けた幕府は、ロシア人と密通していたのではないかとの疑いをかけ、松前藩は取り潰しの危機となった。後の調査で、崩し文字のため「孔」が「紅」に見えてしまったということが判明し、藩の取り潰しは回避された。しかし、道広は扁額を現在の「降民殿」に取り替えた。文化14年、朝廷から正一位の神階が授けられた。

毎年、89日、10日、11日に姥神大神宮渡御祭が開催され、全国から観光客が集まる。

ウィキペディア(20180730 1538による


では無題.pngHPを見ましょう


姥神大神宮の由来

姥神大神宮の創立は不詳ながら昔から伝わる一つの伝説に始まります。

ある日、どこからともなく一人の姥(うば=おばあさん)が江差へやって来て、津花の地に草庵を結びました。当時、蝦夷地は冷涼で作物もあまりとれず、餓死する者も出る状況だったと云われています。そんな中で姥は、天変地異を事前に知らせることで人々から神様のように敬われ、折居様と呼ばれるようになりました。とある夜、神島(カムイシリ=今の鴎島)から虹のような光に草庵が照らされました。不思議に思い、尋ねてみると、白髪の翁(おきな=おじいさん)が岩の上に座り「汝の来たれるを待てり。機、正に熟せリ」と言って、小瓶を与え「この瓶中に水あり、之(これ)を海中に点ずれば鯡(ニシン)といふ小魚群来するに至るべし、之を以(もっ)て島人の衣食住の資(たすけ)とすべし。吾汝と共に島人を永く護らん」と告げて焚火と共に消えました。

折居様が教えられたように、瓶子の水を海中に注ぐと、海水が白色に変わりニシンが群来して人々を飢えと寒さから救ったと云われています。やがてこの折居様も草庵に五柱の御神像(天照大御神、天児屋根大神、住吉三柱大神)を残したまま姿を消しますが、人々は姥にちなみ「姥が神」として祠を建てて祀り、後に初代藤原永武がこれに奉仕しました。その後、本道にはニシンが群来するようになり、「白金寄する」地として年々本州より人々が渡って江差は経済の中心となり、姥神大神宮は北海開祖神とも陸奥国松前一の宮とも云われるようになりました。正保元年(1644年)には津花の地から現在地に遷宮し、渡御祭はこの頃から行われたと考えられています。文化14年(1817年)には朝廷にて119代光格天皇御下、上卿唐橋大納言列座の下、10代相模守従五位下大神主藤枝政光が召されて、正一位の位記と大神宮号をすすめられました。また神職は代々豊後守、相模守に任ぜられ従五位下に叙せられています。

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もう一度HPを見ましょう


江差を彩る祭のあゆみ 姥神大神宮祭

8月9日宵宮・10日〜11日神輿渡御、町内13台の山車(ヤマ)が供奉巡行する姥神大神宮の例祭が、絢爛豪華に繰りひろげられる。
姥神大神宮は陸奥国松前一の宮と云われ、その創立は古く、一説には文安4年(1447年)と伝説に語られているが、詳らかでない。姥神町南端、津花岬の一角に「折居の御井戸」と称する遺跡がある。
折居姥(於隣)の屋敷跡・姥神社の古社地と云われ、神域として信仰されている。
姥神大神宮の現社地は、正保元年(1644年)岩崎の麓に遷座、安永三年(1774年)拝殿が造営されて今日に至っている。この史実から地域が姥神町と名付けられた。
姥神大神宮の祭礼は、神輿の渡御に町内の山車(ヤマ)が供奉し、豊作・豊漁・無病息災を祈念して巡行する渡御祭である。この例祭の形態は何時からであるか。文化13年(1816年)の『社地伝記控』(藤枝家文書)に「当地姥神弁天両社祭礼、8月14日神輿洗・15日領主代参・15〜16日神輿渡御」とあるが、その創始は古く詳らかでない。
神輿の渡御に供奉する現在の山車(ヤマ)の中で一番古いのは、愛宕町の道指定有形民俗文化財の神功山で、その人形は宝暦4年(1754年)、水引幕は宝暦11年京都の松尾七郎兵衛が納めたもので、宝暦年代には渡御祭の形態が出来ていたことが窺える。渡御行列の模様は元治元年(1864年)8月『両社御祭礼行列並宿割控』(関川家文書)に克明ではあるが、千人を超える大仰な人数の行装、荘厳・厳粛なさまが偲ばれる。

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山車(ヤマ)は依代

江差で神輿に供奉する曳き山車を「ヤマ」と云うのは、京都祇園祭の系統をひいているからで、祇園祭の山鉾と同じように、青木や帆柱を依代として神が降臨する神域という意をこめてヤマと呼ぶ。それは江戸系統の祭りで、絡繰や歌舞伎、踊りなどを演じて移動する屋台を「ダシ」と呼ぶのと区別している。
江差では屋体の上に一本の青木(トドマツ)を立て、神の依代とする。この青木を立てることを「ヤマを立てる」(船山では帆柱)と云う。三頭立ての鹿子舞で青木を立てるが、ヤマと呼び、神の依代を表徴するのと同じである。明治30年代に撮影された聖武山(現橋本町)の写真を見ると、ヤマのシンボルである青木が高く聳え、土蔵2階建ての店舗を凌駕している。これが本来ヤマの様相なのである。ところが大正4年(1915年)電気会社が創業し、道路に電柱が立ち、電線が張りめぐらされて、高い山車(ヤマ)が通れなくなり、山車(ヤマ)が低く変貌せざるを余儀なくされた。さらに昨今信仰面での変革もあり、ヤマの守護神として添えられた人形が、ヤマの主体と主客転倒、形式化され「伝統だからヤマを立てる」と云うようになった。
さて祭礼行事のなかで宵宮は、ヤマが入魂する大切な神事で、神が降臨し移動神座となるのである。

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山車(ヤマ)の起源


姥神大神宮の祭りは「姥神宮祭礼之議是迄弁天宮両社ニ付隔年8月15日・16日両日祭礼修行仕」(藤枝家文書『元治元年七月姥神宮夜宮例祭日記』)とあるように、文久2年(1862年)まで、姥神弁天両社祭りとして隔年修行して来た。明年から姥神神社は8月15日・16日、弁天社は5月26、27日に分離して修行することになったが、前同『例祭日記』によると、姥神神社の例祭が修行されなかったので、本年(元治元年)から修行するように、氏子一同の相談がまとまり江差奉行の許可を得て、分離後最初の姥神祭りを修行した。この年の渡御行列は(元治元年八月関川家文書)千人を超える大行列であった。この年姥神祭の神輿渡御に供奉した山車(ヤマ)は、7台で現在は13台と増加しているが、変わりないのは神功山・蛭子山・松寶丸の三台だけである。
各町内の山車(ヤマ)が今日の形態になるまでには、紆余曲折はあるが、その創始は町の開発の推移と期を一にするようである。
元治元年『姥神宮例祭』日記を見ると、この年までの祭礼は、江差市中大手商人の無尽「常盤講」仲間の醵金で修行されて来たが、慶応元年から各町内の供物によって修行する様になった。これまでの山車(ヤマ)は、町内居住の大手商人が寄進し、祭礼に供奉する経費・直会までも大手商人(親方)出費で、町内の人々は親方の揃いの印入半纏でヤマに奉賛した。この状態から慶応元年ヤマは実質的に町内の所有となり、その保存運営は各町内の住民の手に委ねられることになった。山車(ヤマ)の起源には幾つかのパターンがある。今日各町内が保存伝承する絢爛豪華な山車(ヤマ)には、それぞれ変遷があり、はじめは鯡取り舟(ホッチ)に車を付け急造の舟山としたり、張りぼて人形を台にのせたりして、臨時急造のヤマから始まるのが多い。人形や付属品を入手した年代はそのヤマの創始ではなく、それに至るには臨時急造の時代があるのであり、結局創始年代は詳らかに出来ないのである。

山車かざり


屋体の上に青木(トドマツ)を立て森・深山をイメージして神座を設え、その前面に人形を飾る。ヤマに人形を配するのは、ヤマの守護・警固・化身ということで、ヤマの本質からは青木が主であり、人形は従である。各町内の象徴で、住民に神格化されている。

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山車(ヤマ)飾りの伝統として、ヤマの背後に「綿の御旗」と称して、女の丸帯を幟に仕立てて掲げる。これは多産信仰に発する豊作豊漁の願いをこめての信仰で、素朴な土俗信仰の名残である。神功山の綿の御旗は、年代物(伝蜀江綿)の逸品(道指定文化財)である。
ヤマ・御幣・人形・錦の御旗・山額は、山飾りの主体であるが、さらに特注の紋章を染めぬいた色とりどりの縮緬の幟・五色の吹き流しを掲げ、外廻りは提灯で飾り、更に正面をのぞく三面は豪華な水引幕で飾られる。この13台のヤマが神輿に供奉して巡行するさまは、吹き流し、錦の御旗が翻り、朱塗りの屋体、金色に輝く金具。祇園囃子をくむ祭囃子に乗って町並を行く、まさに一幅の絵巻物である。
各町内の山人形の一番ポピュラーなのは武者人形で、武田信玄・楠正成・大石良雄・水戸光國・加藤清正・伊達正宗、神話系の瓊瓊杵尊・神武天皇・蛭子、能面系の神功皇后、文楽系の日本武尊、歌舞伎系の武蔵坊弁慶の十二体に弁財型御座船松寶丸と、多岐である。
今日では見られなくなったが、大正の末年まで、山車(ヤマ)行列のあとに、町内の子供が演出するねり児が供奉した。一般に古い商家では家伝来の憧れの武将の子供用甲冑武具を所持保存しており、5才から10才位までの男児、主として嫡子が、家伝の武具に身をかため、介添として家印の半纏を着て床几持等、二人の供が付き添って、行列に供奉したものである。

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長々と引用させて頂き大変恐縮していますが、九州から北海道の事を書くと言うとんでもない事をやっているためお許し頂くとして、何故、この神社が重要であるかを今からお話ししたいと思います。

 大阪を起点とする北前船は江戸期に整備されますが、それ以前に物流が無い訳ではなく、我々が考える九州王朝の時代から博多を起点として日本海航路が開拓されていた事は間違いないと考えています。

 これは、以前ご紹介した「神武巡行伝承」と甲府の「天津司神社」に神武時代の有力な神々が揃い踏みしている事からも十分に推察されるのです。

 何を馬鹿な事を…と思われる方は、真実を知らないままお花畑で死ねば良いだけですからご自由に…としか申し上げられません。

95%が藤原が造った罠と嘘でしかない「古事記」と「日本書記」をそのまま信じるのは宜しいでしょうが、我々、百嶋神社考古学のものから見ればこれらは殆ど漫画の世界でしかないのです。

弥生時代の始まりさえも都合が良いように500700年遡らせたのですから、少しは固定観念から解放されなければ古代史の世界も蜘蛛の巣に入ったままになると思い続けているところです。

 詳しくは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)562565として書いていますので関心をお持ちの方はお読み頂きたいと思います。神武一行が実際に糸魚川から甲府の山上楽園を踏んでいるとの伝承が確認できる上に、これに関与したと思われる、神武の次世代、次々の世代と言える若き市杵島姫、草部吉見=後の武甕槌…が浮かび上がってくるのです。その後、彼らの次世代は糸魚川の姫川を遡上し松本、諏訪、甲府へと開拓を進め、さらに日本海を北に上り国土開拓へと展開し、十三湊から北海道さえも見据えた人々もいたであろうことが想像できる所まで推定ができるのです。

 少なくとも新潟県の柏崎刈羽に近い二田物部神社の主神はニギハヤヒ(山幸彦)ですし、新潟市の南の弥彦神社も同様です。

 さらに言えば、秋田の男鹿半島の真山神社=赤神社も阿蘇高森の草部吉見神(海幸彦)なのです。


570

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 I “信濃〜甲斐は日本海側から入った人々が開発した”

565

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 D “天津司舞の天津司神社にやって来た”

564

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 C “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(下)

563

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 B “天津神社にも奴奈川神社が置かれていた”(上)

562

糸魚川〜甲斐〜南巨摩の旅 A “糸魚川市の奴奈川神社は市杵島姫を祀る”


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甲府の天津司神社の祭神


昇天の二神とは阿蘇高森の草部吉見(ヒコヤイミミ)=海幸彦であり、それを婿とした市杵島姫(奴奈川姫)であることが分かります。

百嶋メモに依れば、舞に登場する9人の神とは、大日孁貴(オオヒルメムチ)=天照大御神、経津主命とは山幸彦=ニギハヤヒ、黄幡神=博多の櫛田神社の大幡主=ヤタガラスの父神、月弓命は大山祗命、根裂神は金山彦、磐裂神は埴安姫=黄幡神の妹神、磐筒男命=八重(速)思兼(ヤタガラス)、磐筒女命=罔象女(大国主の姉)、豹尾神は本物の神武天皇になり、消えた一神とは神沼河耳(草部吉見の父神)、市杵島姫(奴奈川姫)とは神沼河耳の息子の草部吉見のお妃となったことから呼ばれたと分かります。

 話がかなり横道に逸れましたので、再度、戻しますが、この江差追分の江差までは、対馬海流を利用した 天草〜博多〜下関〜益田〜浜田〜出雲〜米子〜青谷〜鳥取〜…日本海沿いの古代の潟湖と呼ばれる天然の港を利用した日本海航路と言うべきものが存在していた事が推定できそうです。

 天草ハイヤが日本海沿いに北前船で運ばれたといった話は良く言われますが、それは江戸時代に限ったものではなく、遠い古代からそれ以前の神世まで遡る神代にも展開されていたのです。そして、その延長が江差まで伝えられているのです。

 勿論、蝦夷地の開拓は後代のそれとしても、中央から遠く離れた僻陬の地には、明治期に隠されたはずのものも御咎めが届かずそのまま残っている可能性があるのです。

ここで姥神に触れますが、姥神大神宮の「姥」とは、藤原が造りデカシタ「古事記」の創作である“産みの親の豊玉姫に引き継いで送り込まれた玉依姫”を乳母に見立て、「姥」(乳母)神とされたのでしょう。続編の百嶋手書きメモには大神一族についてもふれています。 この三つウロコ紋の一族こそ一時期は宇佐神宮を支配した大神一族に繋がるものであり、ひぼろき逍遥(跡宮)372 花本大神をご存知ですか? “博多の櫛田神社の花本大神と豊後大野の宇田姫神社についてなどをお読み頂きたいと思います。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ