2018年10月24日

509 関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない? @ ”氷川以南の香取神社”

509 関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない? @ ”氷川以南の香取神社”

20171211

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


現在、宮原誠一氏と共に肥後は氷川流域の神社調査を進めていますが、最も関心を持っていたのは、氷川町の西隣の八代市鏡(旧鏡町)に鎮座する二つの香取神社でした。

香取神社については、既に、ひぼろぎ逍遥 370 キッコーマン醤油と博多の櫛田神社の大幡主 という奇妙なタイトルで妙な話を公開しています。

百嶋神社考古学では、千葉県から茨城県に掛けて展開する鹿島神社と香取神社とは、各々、海幸彦(阿蘇高森の草部吉見神=ヒコヤイミミ…)、山幸彦(ニギハヤヒ=猿田彦=五十猛…)と考えています。

当然にも、塚原卜伝が信奉した鹿島大神=武甕槌こそ阿蘇の草部吉見神と理解していましたが、香取神社の経津主がニギハヤヒなら彼らも九州のどこからか移動したのだろうと考えていました。

ところが、11月に熊本県上天草市の大矢野島に二つの香取神社を発見したに留まらず、相次いで、宮原誠一氏から熊本県氷川町の南の旧鏡町に香取神社が二社ある事を告げられたのでした。


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写真の香取社は円中の神社です 


 この天草の二つの香取神社(香取社)は千葉県からの勧請と考える事はできるのですが、九州では香取社を見ない上に、醤油の醸造でも絡んでいれば別ですが、何故、この地へ香取社が勧請されたかが不明なのです。

 ただ、醤油の醸造には塩が欠かせない事から、最大の生産地であった天草との関係はあるかも知れません。

 これについても ひぼろぎ逍遥(跡宮) 塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! E 鹽土老翁神から猿田彦=ZALT彦説 外を併せてお読み頂きたいと思います。


310

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! E 鹽土老翁神から猿田彦=ZALT彦説

309

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! D 水俣市塩浜運動公園の塩釜神社

308

塩土老翁と猿田彦の祭祀圏を天草灘に探る! C 天草市五和町塩屋大明神正面の塩田跡


 そこで、今回の氷川左岸の香取神社の発見です。

 それほど大きな神社でない事は始めから見当が着いていました。

それなりの大社であればこれまでのフィールド・ワークで気づかないはずはないからです。

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が下有佐の香取神宮(八代市鏡町下有佐)で、が上有佐(氷川町上有佐)の香取神社です。

町村合併の折、有佐は分かれたのでしょうか良く分かりません。

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香取神宮の御神体で経津主=山幸彦と豊受大神となるのですが…


一方、旧宮原町の香取神社はピカピカの真新しい社殿でした。

「熊本県神社誌」によれば上有佐の香取神社の祭神は「経津主神」(宮原町有佐303)とされています。

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終戦直後のそれこそ安直な千葉県佐倉市からの勧請神社説においそれと乗るつもりはありませんが、ここでは、不知火海を中心に香取神社が4社ほど確認できる事をお知らせして、以前から気にしている事が幾つかあるため、ここではそれをお話しする事にしましょう。

 まず、常陸国〜上総(カヅサ)国の「上総」はいかにも読めない地名であり、カヅサと呼ばれている土地を無理やり、上総、下総との文字を充て、そのまま読ませたようにしか思えません。

一方、房総半島は上総の国、下総の国と呼ばれています。

さて、上総(カズサ)で思い描くのは長崎県南島原市の南の加津佐です。


上総国

上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。

常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。


下総国

現在の千葉県北部と茨城県西部を主たる領域とする旧国名。北で常陸国と下野国、西で上野国と武蔵国、南で上総国、内海を挟んで相模国と接する。

『古語拾遺』によると、よき麻の生いたる土地というところより捄国(ふさのくに・総国)(ふさのくに)と称したとされる総国の北部にあたり、総国の分割によって建てられたとも言われている。古くは「之毛豆不佐(しもつふさ)」と呼び、これが(しもふさ)(しもうさ)に転じたという。

この下総国のほかにも、国の名前に「上」「下」や「前」「後」と付くものがいくつかあるが、いずれも都(近代以前の概念では畿内)に近いほうが「上」「前」と考えられている。上総国と下総国の場合、西国からの移住や開拓が黒潮にのって外房側からはじまり、そのため房総半島の南東側が都に近い上総となり、北西側が下総となった。また、毛野から分かれた上野・下野と同じく、「上」「下」を冠する形式をとることから、上総・下総の分割を6世紀中葉とみる説もある。

ウィキペディア(20171121 18:59

『古語拾遺』の調子はともかくとして、この鹿島、香取に関しては九州からの進出である事は確信しています。

何故そう考えるかと言うと、上総(カヅサ)とはどう考えても読めない表記の地名であり、元々「カヅサ」と呼ばれていたところに無理やり漢字表記が振られたとしか思えないからでした。

この鹿島、香取のルーツが有明海沿岸であったとすると思い当たる事があるのです。

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有明海の西への出口 加津佐(上)口之津(下)をご紹介しましたが、海幸彦、山幸彦の震源地である有明海沿岸から瀬戸内海、勝浦、東海、房総へと進出するとした場合、口之津、加津佐に集結し、有明海からの海流を利用し自然に吸い出され対馬海流に乗るのが最上策であり、恐らく、玄海灘、関門、瀬戸内海、南紀、東海、房総へと進出したと考えています。

無題.png思えば口之津とは海員学校が置かれ、明治期から始まる初期の上海への石炭の積出し港として税関が置かれた国際貿易港でもあった場所であり、現在でも口之津港の湾奥には高良山神社が置かれているのです。

つまり、九州王朝の軍港であった可能性さえも考えられる場所なのであって、この西隣の加津佐が房総の地名として振られたのではないかと思うのです。

太宰府地名研究会のHPには「苧扱川(オコンゴウ)」を掲載していますが、これこそが九州王朝の最重要港湾であったと考えています。詳しくは「苧扱川」を読まれるとして、上の地図には野田浜という地名がある事にお気付き頂けると思います。そうです。キッコーマンは香取神社の氏子の一族であり、だからこそ大幡主の神紋である亀甲を使い、共に「主」(大幡主、経津主)という称号を使っているのです。経津は島原市に編入された旧布津町ですし、千葉と言えば野田の醤油ですね!上総=加津佐も、野田という地名も持ち出されたのです。


資料) 口之津は九州王朝の最重要港湾か? (2011年夏に久留米大学で講演した「苧扱川」の一部分)

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口之津港湾奥の小丘に鎮座まします高良山神社


皆さんは、口之津湾の湾奥に高良山神社があることをご存知でしょうか?

国道筋から数百メートルも入った目立たない所にあることから、地元でもこの界隈に住む方しかご存じの方がおられないようですが、今も高良山という小字が残る小丘に、立派な鳥居を持つ社が鎮座しているのです。もちろんご存じないのが道理ですが、大牟田市の西南部、有明海に鋭く突出した黒崎岬の先端や、私の住む武雄市花島地区のこれまた高良大社に向かって東に突出した小丘にも高良玉垂が祀られていることから、この口之津高良神社もそれらの一つであると考えられます。

京都や青森の五戸にもあることから、直ちに何かが分かるというものではありませんが、古来、有明海一帯を支配したはずの高良玉垂の威光を感じさせるものであることは言わずもがなのことであるはずなのです。

この場所は、現在、公園化されているポルトガル船の接岸泊地跡からさらに百メートル近く奥に入ったところに位置しています。さらに言えば、埋め立てが進んだ口之津湾の相当に古い時代の港湾跡の上にあたるようなのです。


無題.png遠い古代に於いて、外洋航海も含めた出船泊地であったとしか思えない場所なのです。

そして、そのことを証明するかのように、この岬の直下には「西潮入」という小字が残っています。

もはや疑う余地はありません。朝鮮半島から中国大陸への最後の安全な寄港地、停泊地である口之津から、帆をいっぱいに張った外洋船が、遠く、中国、朝鮮に向けて出て行く姿が目に浮かんでくるようです。きっと彼らは、高良玉垂に航海の安全を願い外海に出て行ったと思うのです

長崎の最南端、野母崎(長崎半島)を廻ります。すると、自然と対馬海流に乗り、全く労することなく一気に壱岐、対馬、そして朝鮮へと、また、五島列島を経由し江南へと向かったことが想い描けるのです。

さらに思考の冒険を進めてみましょう。

何故、この地に苧扱川があるかです。繊維を採り布を作るとしても、単純に、服の生産などと考えるべきではないでしょう。恐らく古代に於いても、最も大きな布(繊維)の利用は、服などではなく、船の帆ではなかったかと考えるのです。

一般的には、中央の目から、また、九州に於いても博多の目から、宗像、博多、唐津、呼子が強調され過ぎていますが、宗像はともかくも、博多から半島に向かうとしても、一旦は西航し、対馬海流に乗ったと言われるのですから、久留米、太宰府からも引き潮はもとより、有明海の左回りの海流を利用して口之津に出て、対馬海流を利用する方が遙かに安全で有利だったはずなのです。


苧扱川の苧麻布とは木綿以前の繊維


古代において、有明海の最奥部であったと考えられる久留米の市街地にオコンゴウと呼ばれる川、苧扱川(池町川)があり、西に開いた有明海のまさにその出口の一角に苧扱川と苧扱平という地名が三ケ所も残っています。

さて、この島原半島南端の良港、口之津にオコンゴ地名があることは象徴的ですらあります。始めはそれほどでもなかったのですが、今になって、このことの意味することが非常に重要であることに気づき、今さらながら戦慄をさえ覚えるほどです。

一つは、あまりにも強固な地名の遺存性についての感動であり、今ひとつは、有明海が西に開いていることと多くの伝承や物象が符合していることです。

まず、広辞苑を見ましょう。「【苧麻】ちょま〔植〕カラムシ(苧)の別称。」としています。カラムシ(苧)を見れば、かなり多くの記述あり、ここでは略載しますが「…木綿以前の代表的繊維(青苧(あおそ))…」などと書かれています。

重要なことは、もしも外回りの航路を採ったとすれば、口之津が大陸へ向けた本土最後の寄港地であることからして、この苧が衣服ばかりではなく、船の帆や綱として組織的に生産され、それが地名として今日まで痕跡をとどめたのではないかとも考えられるのです。

ここで、さらに視点を拡げます。実は、この苧、苧麻が皆さん誰もがご存知の、いわゆる『魏志倭人伝』(魏志東夷伝倭人条)に登場するのです。

もはや、写本のどれが正しいかといった議論は一切必要ありませんので、手っ取り早くネットから拾いますが、いきおい「苧」、「苧麻」が出ています。少なくとも有明海沿岸が倭人の国の候補地になることは間違いがないところでしょう。

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上総、下総の鹿島神社(海幸彦)、香取神社(山幸彦)、息栖神社(長脛彦=カガセオ)


 研究目的で百嶋神社考古学の音声CD、手書き資料(DVD)神代系譜等を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年10月28日

510 関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない? A ”氷川以北の鹿島神社”

510 関東の鹿島、香取の香取神社は有明海から移動したのかも知れない? A ”氷川以北の鹿島神社”

20171212

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


香取とくれば鹿島になります。

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確かに氷川の北の旧竜北町に鹿島地区があり鹿嶋宮があるのです(熊本市の南に嘉島町もありますが)。

 この神社は竜北西部小学校のすぐ北に隣接して鎮座しています。

入口には「鹿嶋宮」の額が掛かった鳥居が建立され、境内に入ると左には手水舎・土俵が配され、参道左右に社名が分からない境内社が二社祀られています。中央奥には唐破風付き入母屋造りの拝殿があります。

「熊本県神社誌」238pには武甕槌と経津主とされており、確かに鹿島、香取を意識した祭神配置になっています。

 武甕槌と経津主とは言うまでもなく海幸彦と山幸彦であり、阿蘇高森の草部吉見神社のヒコヤイミミと不知火海から天草にも広く奉斎されている猿田彦=ニギハヤヒのことなのです。


 御祭神:武甕槌大神、経津主大神

 祭礼日:歳旦祭・11日、鹿島神社春季大祭・415日、還暦祭・415日、立願祭・7月、鹿島神社秋季大祭・1015日、七五三子供大祭・1115日、大祓祭・1231日、水天宮大祭・215日、天満宮大祭・225日、海神社大祭・321

 境内社:水天宮、天満宮、海神社

 由緒:後白河天皇の御世、外敵の侵入を防ぐために、茨城県の鹿島から奈良県の春日に分霊が行われた。その後福岡県の志賀島、佐賀県の鹿島、そして熊本県のここ鹿島に御霊をお祀りすることとなった。その時肥後守平朝臣貞能、尾崎左近衛督藤原朝臣兼倶が天皇の命により鹿島村の海辺の地、一町田を選んで社を建立し、保元2年(11571115日に落成した。社田六百歩が寄付され、息左衛門尉兼雄に守護させたという。

 その後天正年間、小西行長によって社殿を焼失されたが、慶長の初めに加藤清正公に願い出て、慶長15年(161010月に再建することが出来た。文政元年(1818815日に社殿改修、天保14年(18431120日、弊殿と拝殿が再建された。

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さて、「後白河天皇の御世、外敵の侵入を防ぐために、茨城県の鹿島から奈良県の春日に分霊が行われた。その後福岡県の志賀島、佐賀県の鹿島、そして熊本県のここ鹿島に御霊をお祀りすることとなった。その時肥後守平朝臣貞能、尾崎左近衛督藤原朝臣兼倶が天皇の命により鹿島村の海辺の地、一町田を選んで社を建立し、保元2年(11571115日に落成した。社田六百歩が寄付され、息左衛門尉兼雄に守護させたという。」と書かれていますが、どうやら後白河天皇は常陸の鹿島=武甕槌=鹿島大神が春日大神であり、そのルーツが九州島の肥前の鹿島、肥後の鹿島にあった事を十分に知っていたはずなのです。

 だからこそ再勧請が行われたのであり、結果的には常陸や上総、下総からの勧請であったとしても、間違いなく有明海、不知火海一帯で活動していた海幸彦、山幸彦の領域だった事が分かって来るのです。

 恐らく、保元の乱の頃までは、まだ、この事は十分に認識されていたのでしょう。

 始めは熊本の鹿島は嘉島町の事だと考えていたのですが、火の君の中心地である氷川流域の鹿島だったのかも知れないのです。ただ、現地は古代には海の中の干拓地であって元宮も山手にあるはずなのです。

 最後に、山幸彦が香取の経津主であるとしましたが、その経津とは島原市の「布津」である事をお知らせしておきましょう。 

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ひぼろぎ逍遥(跡宮)には、

294

大宮神社と猿田彦大神 M “鹿島、香取でご存じの香取神社の経津主も猿田彦大神なのです”

を書いていますが、故)百嶋由一郎先生も、“島原市の猛島神社が山幸彦の本拠地でした”と言われていました。

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五十猛尊、大屋津姫命、抓津姫命を主祭神とする神社です

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もう皆さんも経津(フツヌシ)が山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒ=五十猛(イタケル)=石上(イソノカミ)…であることがお分かりになったと思います。

 草部吉見(海幸彦)、猿田彦(山幸彦)共々、神武東征ならぬ神武御巡幸の随行者として東日本に入っている可能性があるのです。

 その後、これらの神々を奉斎する氏族が東日本に入っている事は想像するに難くありません。

 では、何故経津主と呼ばれるのでしょうか?

 「主」は、天御中主を筆頭に、大幡主、豊国主(ヤタガラス)、大国主、経津主(山幸彦)、事代主(蛭子)、天之甕主…と大幡主(白族)系の神々の尊称であることは見当が着きます。

 これについては、百嶋由一郎氏は“現地(雲南省昆明)の青銅器にも「主」が刻まれている”と言われていました(滇(てん、簡体字: , 拼音: Diān)は、前漢時代の紀元前3世紀頃から、雲南省東部の滇池周辺にあった滇人による西南夷の国)。では、経津、布都…とは何でしょうか?

 まず、香取神社が鎮座する千葉県には富津(フッツ)市がありますね。隣は君津市ですね。

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しかし、それは移住地であって、本来の震源地は九州島にあり、猛島神社(五十猛を祀る)が鎮座する長崎県島原市の布津(旧布津町)だろうと考えています。

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実は、五十猛命を祀る(ニニギ説もあり)荒穂神社(基山、太宰府、嘉麻…に数社)に近い、鳥栖市にも布津原町があります。

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遠い古代、猿田彦=五十猛…を奉祭する諫早から有明海を中心とする海人集団が、第二拠点とも言うべき山鹿の猿田彦軍団と共に、房総半島で上総(カズサ)に向かったと考えています。

 その根拠はと問われれば、同一神を奉祭神社が存在し、経津(フツヌシ)=フツの主と呼ばれている事、千葉県と有明海沿岸に「フツ」「フッツ」と呼ばれる地名が存在している事ですが、千葉県富津市、君津市が在る一帯を上総(カズサ)と呼びますね、「かずさ」と呼び習わしていたから、下の「カズサ」と併せて上総、下総(シモウサ)とされたのだろうと考えています。

 では、何故、カズサと呼ばれているのでしょうか?

 それは、有明海の出口である、口之津の隣町の南島原市の加津佐(カズサ)という地名が持ち込まれたからだろうと考えています。

 隣の口之津は明治から昭和初期に掛けて大貿易(上海向石炭積出港)であり、さながら海員学校が置かれた口之津は、ある時期、国際貿易港の様相を呈していました。

 一般的には、博多港、唐津港、呼子港が注目されていますが、海流を考えれば、直ぐわかるように、有明海を出れば、そこには対馬海流が流れており、半島、大陸、インドシナへの航路が開かれていたのです。

大幡主の配下にあった山幸彦=経津主は、島原半島の布津、加津佐を拠点に活動していたのです。

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猿田彦=経津主は口之津、加津佐から列島に展開した

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 18:32| Comment(0) | 日記

ビアヘロ066 ヒョウカリイライ(馮河黎来)補足

ビアヘロ066 ヒョウカリイライ(馮河黎来)補足

20180807

太宰府地名研究会 古川 清久


以前、ひぼろぎ逍遥152ヒョウカリイライ “福岡市西区 西浦(ニシノウラ)の白木神社”の「馮河黎来」を書きました。

本稿は余計な部分を削り、故)百嶋由一郎氏による手書き資料を加え再編集した改訂版とお考え下さい。

福岡市の西区、糸島半島の東側に唐泊という漁港があります。

これからの季節には近海で雑魚を取りイリコや鯛の干物を作るのでしょうが、玄界灘の懐奥の波静かな入江に白砂が延びる風景は、喧騒渦巻く博多や福岡とは全く異なる穏やかな面持ちを見せています。

この湾奥の小高い岬にも白木神社がありますが、半島の裏側にある神社が今回取り上げる白木神社です。


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そて、この神社の祭礼では「ヒョウカリイライ」という意味不明の掛け声が流れます。

なにやら八代の妙見宮の「オレーオレーティエライタオ」を彷彿とさせますが(ここも呉から頭領がやってきたと言っている…)、ここではこの「ヒョウカリイライ」についてお話しすることにします。


昔の名前は妙見さんだったようだ。 妙見社が鎮座していた所へ、金武地域が北2kmの飯盛神社の神領になったことことこと、五十猛尊がかぶさって祀られたものと推測できる。

尤も、妙見さんと五十猛は九州でつながっているように見える。妙見信仰は北斗七星を祀る信仰で仏教と結び妙見菩薩として祀られたが、これは新羅系渡来人がその信仰を持ち込んだとされる。そう言う意味では素盞嗚尊・五十猛尊も新羅に縁の深い神である。福岡市西区大字西浦妙見の白木神社はやはり五十猛尊を祭神としている。新羅神社が白木神社となったのだろう。熊本県八代市妙見町の八代神社(妙見宮)は白木山に鎮座している。

敬愛するHP「神奈備」より


毎年9月の第1土曜日に『ヒョウカリイライ』という漁祭りが執り行われます。
以前は11日まつりといって 毎年11日でしたが、このお祭りには子どもたちが活躍するので学校のお休みに合わせて第1土曜日になったそうです。

で、ヒョウカリイライっていう言葉はなぁに?と思いますよねー。
いろいろと尋ねてみたのですが、諸説あるようなので今回は北崎百年史で調べてみました。百年史には話言葉で書かれていて昔話みたいなので そのまま紹介しますね
……………………………………………………………………
「いわれは、江戸時代のことでっしょうな。西浦の鯛というたあ、そりゃあ有名じゃったらしいもんな。
ところが、鯛があんまりとれすぎて、今でいうたら豊漁貧乏ですたいなあ。
鯛の値がさがってしもうたげなもん。そこで困っとるとば聞かしゃった殿様が鯛の値段を決めてやらっしゃったげな。そこで殿様にお礼ばするとと、鯛がこれからもとれますごとお願いしたということじゃろうといわれとります。」
「ヒョウカリイライはどげな漢字ば書くとかようわかりませんばってん、『評価利鯛』ってかくとじゃなかろうかっていわれとります。」

 「北崎よかとこ隊 北崎校区自治協議会」 より


馮河黎来(ヒョウカリイライ、ヒョウガリイライ、ピンフォーリーライ)


その前に、現在は純粋な民俗学研究に移行された牛島稔大氏による「牛島稔太のHP」のサブ・サイトにこれに関連する事が書かれています。一部でをご紹介いたしますので、まずは、お読みになって下さい。


薦神社の神紋は、宇佐と違って三つ巴紋ではない。それは薦神社に置き土産をした人物がいる、この人は自称神武天皇(はつくにしらすすめらみこと)、後で贈祟神天皇となって記録された人物が薦神社に置き土産をしている。この人の紋章が『時計回り一つ巴』である。この祟神天皇の子供の一人、久留米の豊城入彦(元、田主丸の豊木におられた)、大分から移ってきた時にそこにいた。祟神が自分の息子のうちの一人を四道将軍として関東に派遣した茨城県の神住町、鹿島神宮(海幸彦)の武の神様があるところである。ところがこの系統は子孫が威張るという悪い癖がある。福岡地区でその威張るという例をみることができる、福岡市の海岸沿いの西の果て、西浦に白木神社があり、ご祭神は山幸彦であるが、山幸彦の奥様(伊勢の外宮様)の元の旦那である海幸彦が手離さないので、山幸彦は頭にきている。京都の伏見大社の構成は、本当は山幸彦のグループで本当の実力者は奥さんの伊勢の外宮様である。それを元のダンナが手離さない。ヒョウガリーライ、ピンホーリーライ(黎族のくそ野郎、来るなら来てみろ)、西浦の白木神社が一年に一回いまでもそのことを祭りでやっている。

海幸彦は中国大陸にいた頃は黎族といっていた5000年前、黎族の一部が通称、漢民族に追われて、3000年かかって追いこめられた場所が雲南省で、そこにシナ城(シナ族)を作った。そこも追われて、二つのグループにわかれ、一つは櫛田神社のグループの大半は紅河がながれベトナムのハノイに到着する。シナ城のグループはメコン河を利用して南ベトナムの方に流れ込んだ、そして、二つのグループとも海南島で態勢を整えて、日本に移住しようということを打ち合わせた。http://goo.gl/maps/2hr7p
日本にきて天草・苓北に上陸した。http://goo.gl/maps/Yxsyr

そこにしばらくとどまった。日本にきてからは黎族とはいわず耳族(彦山の天忍穂耳)とも称した、そして、阿蘇に移動した。そのころ日本には既に高木の大神系のたくは(た=古川による修正)ちじひめ、ヘブライ人が勢力をもっていた。高木の大神の一族は、日本の皇室と縁組をしていた。日本の怡土に住んで居られて中国の漢民族が派遣していた日本統治のための事務所が糸島にあった、そういう尊い方と縁組をしていたので高木の大神は威張るだけの力があった。その威張ったあとの面影がどこに残っているかというと、熊本荒尾の虚空蔵山、草部(かやべ:朝鮮半島の伽耶、糸島にもある伽耶)吉見神社、今は雲仙市になっているが、もとの地名は雲仙市ではなかった諫早にたいへんちかい有明海側のほう、ここに高木の一族の古い古い遺産が残っている。ここに高木の紋章と鍋島の紋章が合体した独特の紋章(つたの紋章)をみることができる。


「神社伝承から見る古代史」百嶋由一郎先生の世界 --- もう一つの神々の系譜 --- より


「馮河黎来」の意味はお分かりになったでしょうか?

正直申上げてあまり良い言葉ではなく罵声に近いもので、気を悪くされる方もおられるかも知れません。

ここには、雲南省から入ってきた阿蘇の一族(草部吉見)=鹿島=春日=海幸彦系と、半島から入ってきた「海幸山幸神話」の一方の雄、山幸彦系(新羅)=白木神社勢力の確執が反映されているのです。

その対立の理由は込み入った話になるため控えますが、その海幸側の神社がどこであるかを含め、「ひぼろぎ逍遥」と「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院で、説明しています(一例ですが以下などを…)。


42

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  I “肥後人は支那人だった!?”

33

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  支 那


ただ、概略だけを言うと、田川郡の香春神社の主神「辛国息長大姫大目命」(カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト=支那ツ姫)=伊勢神宮外宮の豊受大神=伏見稲荷の神霊=御霊を前夫である海幸彦側が返さないことをなじっているのです。

この「馮河黎来」の黎の意味は、「黎族」(レイ、リー)を意味し、黎族の連中やってこい!と罵声を浴びせているという事を紹介しておくに留めておきます。

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中国海南省の観光地図


さて、「黎族」は、今も雲南省、貴州省から海南省(海南島)の南、東に住んでいます(海南省には保亭黎苗族自治県外多くの黎族の自治県があり「加茂」地名まで存在します)。

 ついでに申上げておきますが、鹿児島県の「喜入」「嘉例川」、天草の「苓北」…といった地名や鹿児島市、枕崎市に集中する「今給黎」(イマキュウレイ)姓、鹿児島市から大隅半島に集中する「喜入」(キイレ)姓などはその痕跡と考えています。

きっと、この方々の二千年以上前のご先祖様達は、海南島、雲南省にいたのでしょう。

この黎族は雲南省を起点に海路、鹿児島県の吹上浜、薩摩川内から不知火海、有明海沿岸に入っているようなのです。

詳しくはふれませんが、肥後人は元々雲南省麗江にいた多氏の一族=ビルマ・タイ系の人々元で、博多の櫛田神社の主祭神である大幡主を奉祭する一族(民族的には白族)は雲南省昆明にいたと考えています。 

実は、両派とも追われた中国人(大陸に住んでいた黎族と白族)なのですが、この西浦の人々も、多分、越族だろうとは思っていますが、如何なる人々だったかは、まだ見当が付きません。

白木神社(山幸彦)を奉祭する一族としても、そもそも海人族なのでしょうし、山幸彦の素性がまだ詳しくは分からないからです。

百嶋神社考古学では山幸彦は彦火々出見であり、通称「魏志倭人伝」に登場する伊都の長官爾支(ニキ)=ニギハヤヒなのですが、中国の江南から入ってきた海人族を征服し、従えた支配者とすれば、西浦の人々とは民族的に異なる可能性が高いからです。


参考 憑は、〔説文〕の注に…


速く走る、頼みにする、乗る、登る、怒る、不満、という意味がある。憑と通じて、恃む、乗ずる、依る、盛んな、と通じて、徒歩でを渡る、という意味がある。 ネット上の「ニコニコ大百科」による

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両方ともに故)百嶋由一郎氏の手書きスキャニング・データです。百嶋神社考古学初期11230321

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋由一郎が残された音声CD、手書きスキャニング資料、神代系譜が必要な方は09062983254まで


 私は若いころ姪浜に十年程住んでいたこともあるのですが、故)百嶋由一郎氏は永らく唐人町にお住まいでしたので全ての事情がお分かりだったのだと思います。

 凡そ紀元前300年頃、八代もそうですが、支那(中国)大陸でも揚子江流域(上海はその頃存在しません。海の底です)から多くの呉越の人々が九州西岸に入って来ています。

 この江南の黎族、白族(櫛田神社の大幡主はその首領なのです)によって列島の開拓が始まったのです。

そして、馮河黎来とは、白族系の人々が黎族(後の阿蘇氏)にこっちに来やがれ…やってやるから…とばかりに気勢を上げているという訳なのです。

その「馮河黎来」と罵られている相手方こそ、後の藤原の祖神である阿蘇高森の草部吉見神社のヒコヤイミミ=海幸彦=表面的な春日大社主神であり、実は伊勢神宮外宮の豊受大神の神霊を巡る争いなのです。

百嶋先生は、伊勢の外宮様は、草部吉見(海幸彦)とは三年添っておられますが、大幡主の配下である山幸彦=猿田彦=伊都の長官爾支(ニキ)=ニギハヤヒ=五十猛…とは60年添い遂げられている。とも言われていました。

お祭りの事であり罪はありません。ただ、この言葉には、そういう背景があるという事だけは伝えて頂きたいのです。

博多から唐津からも、多くの海人族が頻繁に中国大陸と行き来していたのです。

だからこそ、大伯(博)道路もあり、大濠公園は蘇州の西湖(水の蘇州の…)を模して造られているのです。

何故なら、櫛田神社の主神である大幡主(造化三神の一神であり=神産巣日神 神皇産霊尊 神魂命とされる)は、神武天皇の流れ(呉の太伯の後裔=列島大卒)を支える陰の実力者であり、山幸彦=猿田彦=ニキ…を指揮する最高神だったからなのです。


参考

馮河

徒歩で黄河を渡ること。無謀なことを行うたとえ。→暴虎馮河(ぼうこひょうが)デジタル大辞泉)


〔歩いて黄河を渡る意〕むこうみずで危険な行動のたとえ。ひょうか。→ 暴虎ぼうこ馮河


馮河・憑河【ひょうが】とは中国の大きな川である黄河を徒歩で渡ること。黄河を歩いて渡ること。転じて、むこうみずで危険な行動、無謀な勇気のたとえ。「馮・憑」は訓読みで「かちわた(る)」と読める。「徒歩渡る(かちわたる)」は「徒歩で川を渡る」という意味。        


リー族 黎

黎族(リー族)は中国の少数民族のひとつ。その約90%以上が海南島に住む。

現在は人口124.8万。黎語を話し、1957年に黎語ラテン文字化方案が考案された。古くより漢族との交流があり、中国語に通ずる者も多い。

百越の分枝駱越(中国語版)が秦・漢以前の時代に移住したことに始まるという。同じく駱越に起源を持つ民族に水族がある。

無題.png民族としての自称は賽、孝、岐、美孚、本地など。11世紀宋の時代より史書にその名が見えるといい、紡織に秀でていたとされる。その技術は「黎錦」と呼ばれ、現在も伝えられているという。

数多ある少数民族の中でも政府から比較的厚遇を与えられているとされるが、それは国共内戦中に中国共産党に味方したためという。なお日中戦争時には日本軍の支配下に置かれた。

                                  20180725 1117による

この黎族は阿蘇氏のルーツであり、元々は中原に展開した古代の主要民族九黎族(多氏、支那氏、耳族、宇治氏…)の一派でしたが(ミャオ族も同様)、漢族他との戦いに敗れ雲南省から海南島を経由し列島に逃げてきた日本人のルーツの一つだったと考えるのです。

これで、「馮河黎来」の意味は大体お分かりではないでしょうか?

要は、“黎族(阿蘇氏)の野郎やってきやがれこの馬鹿野郎どもめ!…”程度の罵倒なのです。

博多に大陸から、半島から多くの民族が入って来ている事、そして、神社の神事に絡んでくるほどの大族になっていること、つまり、倭人、日本人の形成に関係している事がお分かり頂けるのではないでしょうか?

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 18:38| Comment(0) | ビアヘロ