2018年10月18日

507 あまりにも銀杏が美しい神社 “熊本県氷川町の三神宮”

507 あまりにも銀杏が美しい神社 “熊本県氷川町の三神宮”

20171209

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 メンバーの宮原誠一氏と熊本県氷川町一帯の20社あまりの神社調査を行なった事は申し上げましたが、最初に訪ねたのが三神宮でした。

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 祭神はともあれ、あまりにも美しい銀杏に心を奪われしばし思考が中断してしまいました。

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 天候に恵まれたこともありますが、神社の値打の半分ぐらいは美しさに有るのかも知れません。

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宮原三神宮(みやのはらさんじんぐう、みやはらさんじんぐう)は、熊本県八代郡氷川町にある神社である。旧社格は郷社。八代北部全域の守護神として尊崇されている。

1159年(平治元年)、二条天皇の勅命により、平重盛が越中前司平盛俊に命じて社殿の造営がはじまる。

1161年(応保元年)、社殿が竣工。平盛俊の弟である平盛房を社司に任じ、勅使平重盛らと共に神輿を報じて神霊を勧請し創建された。伊勢神宮内宮(天照大神)、日吉大社(国常立命)、下鴨神社(神武天皇)の3神を祀ったので三宮社と称した。

1588年(天正16年)、キリシタン大名小西行長の焼討ちにより社殿が焼失した。1602年(慶長6年)、加藤清正公により復旧し、後の細川氏より手厚い保護を受ける。

1661年(寛文元年)、神蔵寺をはじめ六坊が建立され、八代の妙見宮にならい宮原妙見社となる。

明治維新以降、神仏分離令により、神蔵寺を廃し、社号を宮原三神宮と改称し、郷社に列した。

ウィキペディア(20171209 17:13による

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祭神 天照大神 国常立尊 神武天皇


山門の表には九宝星が打たれ裏には丸に二両引きが打たれ、足利尊氏の支配下にある事を表現しています。

これは南北朝争乱期の末期、菊池氏、阿蘇氏が屈服した後も、五条家は闘い続け、名和の水軍も球磨川以南に拠点を維持し抵抗していたことから、最終的に制圧された南朝方拠点には丸に二両引の足利の家紋が打たれているのでしょう。

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山門の表には九宝星が打たれ裏には丸に二両引きが打たれ足利尊氏の支配下にある事を表現しています

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この地の人々にとっては屈辱なのかも知れませんが、神代とは異なる歴史の痕跡が見えて来ます。

 さて、境内には二つの摂社があります。左は金毘羅宮で、右が分かりません。

 神額にはどうも三神宮と書かれているようですが、消されているようで、判別できません。

 もしそれが正しければ、ある時期、三神宮が隠され、他の祭神が入れ替えられていた可能性もあるのかも知れません。

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無題.png以下「熊本県神社誌」239pの同社に関する記述をご覧ください。

始めは国常立尊が祀られている事から古い八代の妙見の反映かとも考えたのですが、神社誌を見る限り、近世の勧請に過ぎないと思うに至りました。

司馬遼太郎を持ち出す必要もなく、それほど肥後では清正公様は崇敬を集めているのです。

 結局、肥後が加藤領、小西領になって以来、天照大神 国常立尊(大幡主命) 神武天皇を祀る神社となっているようですが、それは加藤が近江から持ち込んだものでしかなく、

それ以前はと考えれば、境内社の八幡宮、金毘羅宮、天満宮

を祀る神社でしかなかった事が分かるのでした。

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神額が掻き消された摂社にこそ本来の奉斎される神々が納められていたと思うのですが、今のところ分かるのはここまでです。

研究目的で百嶋神社考古学の資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年10月19日

ビアヘロ065 謎の「風呂地名」の解明へ “それは行水への思考回帰から始まった”(下)

ビアヘロ065 謎の「風呂地名」の解明へ “それは行水への思考回帰から始まった”(下)

20180717

太宰府地名研究会 古川 清久


2018年の西日本豪雨災害から一転、猛烈な暑さに襲われています。

阿蘇外輪山から連続する日田の高原地帯に天然温泉付きの当会の研修所もあるのですが、温泉は涼しくなって入るとしても、夕方までは冷たい地下水を掛け流しにながら広い岩風呂で水浴してブログを書き続けているのです。

 つまり、エアコンのテスト運転さえも行わずに何度も水風呂に入って扇風機だけで、ただ、ひたすら耐えている訳です。

 標高400メートルといった高原とは言ってもこれまでのブログで書いてきた様に、夕立が消えたために地表の蓄熱が解消されず、3035度といった高温が連続していますので、いつしか濡れた皮膚を濡れたタオルで覆い、扇風機で人工的な気化熱で冷を取るという伝統的な方法を取っている事に気付いたのでした。

無題.png恐らく、ギリギリ50代の方には理解して頂けるのではないかと思いますが、昔は街角でさえも良く見かけた風景でした。    

暑くてシミズ(シュミーズと言ってももはや死語ですかね)一枚着て、背中に日本タオルだか洋タオルだかを載せて団扇で涼を取っていた事を思い出すのです。今になって分かるのですが、皮膚が濡れているから気化熱で涼しくなるのですから、濡れタオルとは実に合理的な方法だった事が良く分かるのです。

 無題.pngその後、扇風機からエアコンが普及するに至ると状況は一変します。昔の暑さは現在のような気違いじみたものではなく、その程度でも結構凌げていたのかも知れません。

驚かれるかもしれませんが、実際そうなのです。毎日夕方になると決まって黒い雲が現れ何やらゴロゴロと雷が鳴り始め夕立が降ってきた事から、地面は一気に温度が下がり、萱の中で母親が煽ぐ団扇で快く眠りにつくことができたのでした。

この熱循環を実現していた夕立を消してしまったのが国土交通省であり下っ端の農水省でした(「打ち水大作戦の大間抜け」…外をお読み下さい)。

地方(佐賀県)の小都市に住んでいた私も、昔は温泉の共同浴場に家族で行っていましたが、節約のために週に二、三度であって、夏場はもっぱら行水と濡れたタオルで体を拭いていたのでした。始めは木で作られたタライ(これも死語になりましたが)でしたが、何時しか金盥(カナダライ)に変わり、とうとうプラスティックス製の盥(タライ)に置き換わるのです。その頃には、行水の風習は消えて行ったのでした。実は、エアコンどころか扇風機も一家に一台しかないこの時代の方が、まだ涼しかったという記憶を持っています。

 昭和40年代の始めの頃の記憶ですが、小学校の「夏の友」といった教材の日記欄に「今日は29.5度ですごく暑かった…」と書いているのを今でも良く覚えています。

 実際、その時代、30℃を超える日というものは一夏でも二日か三日、多くても五日を超える事はなかったのでした。この穏やかな国土を徹底的に破壊尽くした結果、上水は遠くのダムから地下管路で送られてきますし、地表の水は全てを下水道として地下に流し込み、小規模河川は三面張りの雨樋としてたちどころに乾燥化させるとんでもない国土を造りだしたのが国土交通省と下っ端の農水省だった事は書いた通りです。山の人工林化や圃場整備によって、列島が乾燥化させられ一気に気温が上がる国土となったのです。

皮膚に水分がなくなれば気化熱の発生が消え一方的に体温が上がる事になります。

これと同じですが、地表に水分がなくなると夕立が消えヒート・アイランドとなるのです。

この勢いで、史上経験した事もない数十年に一度の豪雨災害が毎年発生するようになった事によって新たな災害復旧工事を抱え込みながら東京オリンピックが熱波に襲われで破綻するのを心待ちにするこの頃です。オリンピックなどやめて国民を救済せよ!と思うと言うより夢見るのですが、東京五輪の御臨終を見届けたいと考えています。くだらないヨーロッパ不良貴族の生き残り共が始めたオリンピックなど止めて国民の救済のために資金は回すべきなのです。

どうせオリンピックなど個人と国家の不正合戦であって国の名を外した小さな運動会に徐々に貶め、頭が空っぽなスポーツ選手などの活躍の場など無くしてしまえと思うこの頃です。

 さて、前置きが長くなりましたが、今回は「行水」とは何かを考えることにします。


行水と風呂


 行水とお湯に入る事にはかなり違う点がある事がようやく少し分かるようになってきました。

 まず、熱いお湯を湯船に張ってその中に首までつかって湯あみをするという風習を持つ民族と言うのはそれほどいないという事に気付きました。

 まず、温泉に毎日入るような民族は日本人と台湾人とヨーロッパ(バーデン・バーデンやアイスランド…)人の一部、それに南米のペルーの温泉地帯など極僅かしかいないのです。


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ペルーの観光スポット!クスコの温泉!日帰りできアンデス山脈を見ながら浸かれる露天風呂 La Raya


 火山が事実上存在しない中国も首まで浸かる様な浴場はない上に、浴槽も無く、シャワー(冬は熱い湯が出はするのですが)が普通で、農民工などは週に一度体を洗うか拭く程度でしかないのです。

 そこでインドです。結構首まで浸かる様な浴場があるとも聴くのですが、元々は沐浴、水浴の国なのです。水浴と言ってもお湯と変わらないような太陽で熱せられた水であってそれでも良いのでしょう。

インドネシアも火山の島ジャワには堂々たる温泉がありますが、スコールに合わせた水浴が基本で、シャワーだけで事足りているようです。

ベスビオ火山で知られる火山国のイタリアですが、トロヤ戦争〜ローマの軍船それに水道橋やコロッセオなどコンクリート構造物も含め森を切ってしまったために実に水に乏しい国となり果て、チョロチョロの水でシャワーを浴びる事しかできないのです(潜水艦の乗組員並みの水しか使えないのです)。

では、ロシアはどうでしょう。王侯貴族だけの話かも知れませんが、お湯を沸かしバス・タブに入る文化が一応は存在していました。

北欧のサウナは良く知られています。シャワーは使うのでしょうが、冬場は凍結し、なかなかお湯を沸かすとしても相当の燃料が必要で、サウナが簡単である事は容易に想像が着きます。

当然、モンゴル高原のトルコ系、ツングース系、モンゴル系の遊牧民もパオ(ゲル)の中で蒸し風呂に入っていた事は知られています。

シベリアからアラスカのイヌイット(エスキモー)も周りに薪などなく水さえもないことから風呂など全くかと思ったのですが、氷室の中の蒸し風呂が普通で、中には尿風呂にも入ると言われていますが、実感がわかずに良く分かりません。

 お隣の韓国ですが、ソウルにも温泉が幾つかあります。

ただし、それほど古いものではないようで、韓国にはバスタブで首まで浸るという風習はないようです。

無題.pngこのため、韓国勤務を命じられた邦人社員はシャワーだけの半島生活に耐えられず、なんとかバス・タブを浴室に入れて湯船として利用すると言う話を聴きました。

同じような話ですが、「中国戦線よもやま話」か、何かだったと記憶していますが、中支戦線で大きな甕を見つけると大喜びでお湯を沸かして、お湯を入れ湯に浸かったという話がありました。

勿論、中国には風呂屋などはなかったのです。

こんな話こそ日本人を考える上でよほど参考になる話ですが、現在の大陸に住む支那人なるものがどのような人々であるかが垣間見られるのです。

中東とアフリカを除く大雑把な傾向はお読み頂いた通りですが、日本人が如何に首まで浸かる風呂をいかに好むと言うより渇望しているかは十分にお分かり頂けたのではないでしょうか?

 一つは、お湯を沸かすための十分な燃料が安定して供給できる里山が直ぐ傍に有ったと言うことや、当然にも十分な水があったこと。さらに言えば、その温度がそれほど低くはなく、冬場でも地下水ならば最低でも15度程度で、温泉でもあればそのまま入れたことがあったようです。

 ところが、ところがですが、日本人には蒸し風呂にも入る風習も同時に存在していた事に気付くのです。

 決して水を沸かして湯船に入られるというだけの文化とは異なる所謂風呂文化が存在したようなのです。

 それは、江戸の浮世風呂が元は蒸し風呂だったという事実です。


江戸ガイド(江戸時代のさまざまなトリビアを紹介!)をお読み下さい。


江戸時代は、お家にお風呂がなかった

江戸には水道が引かれていました(これ、江戸っ子の自慢)。ただ、水は非常に貴重であり燃料の薪も高価。そのため内風呂を持っている家はほとんどありません。

武士だろうが大商店の主人だろうが貧乏長屋の家族だろうが、みんな公衆浴場=銭湯に通いました。銭湯は、江戸では「湯屋」と呼ばれていて「ゆや」「ゆうや」と読みます。ちなみに京や大坂など上方では「風呂屋」と呼ばれていました。江戸時代の銭湯の様子がこちら。

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浮世風呂が蒸し風呂だった事ですが、単に水と燃料の節約のためだけではなく、ここにステップ・ロードの残影(北方系騎馬民族)を見るのですが、これが今回の本当のテーマなのです。

 まず、現在の九州の温泉地にも蒸し風呂が存在していた事を知っています。

 もっとも集中しているのは大分県で鉄輪温泉の鉄輪むし湯が最も知られていますが、杖縦温泉にもありました。鹿児島県の栗野岳温泉、妙見温泉を始め杖立温泉まで多くの蒸し風呂が存在していましたし、福岡県の東峰村にも少し前まで釜風呂温泉(これは岩盤浴の様なものでした)があった事を記憶しています。

 不思議と海人族の領域には存在しないのです。これが蒸し風呂へのイメージを尚も強めています。

実は30年も前から気付いていたのですが、「風呂」と言う地名が何故か中国地方の山中などにかなりの数で拾えるのです。

今回、この問題にある程度の見当が着いたので書く気になりましたが、目立つのは愛媛県今治市の桜井石風呂で、これについては今も確認できます。今さら一から「風呂地名」を拾い出す気はないため、ネット上から探すと多分京都地名研究会辺りの方だと思うのですが、「晴徨雨読」と言うサイトがあり(以前から何度か読ませて頂いていますが…)、有難く一部をご紹介させて頂くことにしました。以下…。

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筒井功 文藝春秋, 2008 - 276 ページ


貧しい炭焼きが福分をもった女性と結婚して、それが縁で財宝を発見するという「炭焼き長者」伝説は、東北地方の北端から沖縄の島々にまで、同工異曲の類話 ... そうして、よく似た筋の話が朝鮮にも中国にもあることは、決して偶然ではあるまい。か: 3 韓室とは何か石風呂と無風呂日本式サウナのことを本書では、ずっと「石風呂」と総称してき た。

ページ

この想像は、御先風呂などの地名や、森をフロという方言が多く中国地方に分布していることとも符合するように思える。胡畔の石風呂の起源日本の石風呂が朝鮮に由来する可能性が高いことは、これまでに述べてきた事実によって、おおよそはうなずけると思う ...


風呂地名の謎(1) 10/20

2016.10.20(木)曇り 

 風呂地名について綾部市周辺を調べてみた。

風呂屋(鷹栖町)、風呂ノ谷(下原町)、風呂ノ本(上原町)、風呂谷(十倉志茂町)、中風呂(睦合町)、高風呂(五泉町)、風呂ノ奥(老富町)、本風呂(市茅野)そして井倉新町と味方町の石風呂である。グーグルの地図で掲載されているところを調べてみるが、山中あり川辺あり宅地ありで地形的にも山あり谷あり平地ありで千差万別である。ということは一つのある地形から来たものではなさそうだ。

気になるのは風呂ノ本、風呂ノ奥などと位置関係を示す地名が多いことだ。「風呂と日本人」の中には風呂ノ下、風呂ノ前、風呂ノ西など位置関係を示す地名が登場する。

ということは風呂という何かが存在して、その前であったり奥であったりするわけだ。その風呂とはいったい何なのだろう。

 筒井氏が言うような石風呂の遺跡や痕跡があれば問題ない、しかしその可能性は薄いだろう。だからといって無視するわけにもいかないし、とりあえず一つ一つ現地を当たってみることにする。

 安栖里駅の南に風呂ノ元という地名がある(京丹波町安栖里)。由良川沿いに広がった河岸段丘で永正年間(1504〜1520)頃には十倉氏が居住したと言われるので、小字十倉はその地なのだろうか。風呂ノ元は駅の南側ののどかな住宅地で緩やかな斜面となりやがて山林となっている。風呂ノ元の上手、山側には竜心寺という寺院があり、堂ノ成という地名はそれに由来するものだろう。もしこの地に風呂があったとしたらこのお寺か十倉氏の居城に由来するものなのかと想像するが、それには何の根拠もない。地形的には上原町の風呂ノ本と一応は共通している。


無題.pngここで、仔猿の雑記帳というブログをご紹介します。

これに「泉福寺跡と石風呂」があります。

 既に二度ほど足を運んでいますが、一度は内倉武久氏と現地を踏んでいます。

 内倉先生は、“始めは製鉄遺構じゃないのか…”と言われましたが、風呂の遺構と受け入れられました。


「大左右」のバス停は「だいそう」と読むのだそうです。他所にも「・・左右・・」等と書いて「・・そう・・」等と読む地名もあるようです。その前にひとつお知らせです。大分県民の悲願であった、別大国道の拡幅工事が完成し、本日10時に全面運用が開始されました。車道6車線と海側には広い歩道が設置されています。かつては、なにかあると渋滞!渋滞!で酷道とさえいわれましたが、人にも、車にも、自転車にも快適な国道に生まれ変わりました。別府湾の綺麗な景色をゆっくり見ながらお散歩されては〜?さて今日は、杵築市山香町にある廃寺跡と石風呂をご紹介します。山浦地区に、周りを田圃に囲まれた小さな丘と森があります。

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泉福寺跡です。この小さな丘のすそに、国指定重要有形民俗文化財の「石風呂」が残されています。

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古墳の石室のようですが、今でいう「蒸気サウナ」でしょうか?内部の天井です。


私も始めて目にした時は古墳かとも思ったのですが、解説を見て氷解しました。

やはり、中国地方にある風呂地名の事が頭に浮かびましたが、やはり現物を見るのは全く別で、臨場感が迫ってきます。

この一帯にも三嶋神社があり、我々がトルコ系匈奴と考える大山祗であることから、シルクロードと石風呂によるサウナとの関係が見えて来るのです。

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内部の壁と床です。(左)

薬草を敷き下の焚口で火を焚き、熱くなると水をかけ、湿気で病気を治療したとあります。(右)


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廃寺跡には国東塔をはじめ多くの石塔も残されています。


人(仁)聞菩薩の話が冒頭から出てきますが、8世紀の国東半島〜宇佐の一帯では良く遭遇する僧侶の名です。

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大分県杵築市山香町大字山浦字長田


付近の神社が三嶋神社ですから大山祗系と考えられそうですね…。

 これまで、ひぼろぎ逍遥を丹念に読んでこられてきた方にも多分納得して頂けるのではないかと思うのですが、もはや疑いようは無いように思います。

 恐らく大山祗に象徴されるトルコ系匈奴の全国展開とこの風呂地名が対応しているはずなのです。

 ひぼろぎ逍遥のトップ画面には、


ただし、「ひもろぎ」も「ひぼろぎ」も同一の意味で、「かむりつく」「かぶりつく」、「ねむたい」「ねぶたい」、「つむる」「つぶる」・・・とM音とB音が入れ替わっても全く意味が変わらない言葉が日本語には沢山あるのです。

これは、基本的には呉音と漢音の対抗を意味しており、これ以外にも、N音とD音の入れ替わり現象、濁音の清音化現象なども認められます。


 と書いています。

 このM音とB音の入れ替わり現象によって、この室(ムロ)が風呂(フロ、ブロ)と読み替えられているのではないでしょうか。

 彼らは(恐らくトルコ系匈奴=熊襲=大山祗系)は呉音で室(ムロ)と読む傾向が崩れ、漢音で(フロ、ブロ)と読む傾向と対応している可能性があるのです。

 それが、以下にも反映されているように見えます。鹿児島県鹿屋市の事例です。


  鹿屋市     風呂段(ふろんだん)

  鹿屋市     輝北町上百引 風呂段(ふろだん)        *情報頂きました。

                 風呂段谷(ふろだんたに)     *情報頂きました。

                 風呂段村頭(ふろだんむろがしら) *情報頂きました。

                 風呂段村下(ふろだんむろした)  *情報頂きました。


ここでは、風呂(フロ)とも言う人々と、室(ムロ)とも言う人々が共存していた事を今に伝える痕跡地名のように思えるのです。

 日本語には、M音とB音とが入れ替わっても意味が変わらない言葉が非常に多く存在します。

室(ムロ)と風呂(フロ)もその一つの例だったのです。

 面白い事に、 無題.pngというサイトがあり、室(ムロ)地名を拾い出しておられます。

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…以下省略。

 ここの鹿児島から熊本を見ると、確かに頷けるものがあるようです。

 私の出身地の佐賀県唐津市にもこの石室がありますね。魏志倭人伝の上陸候補地の一つとして現地をおと訪れた事もありました。

 この「石室」は、臼状地の奥まった「室」=袋地と理解していましたが、今にして思えば、「石室」サウナだった可能性も捨てがたい思いがします。機会があれば再訪したいと思います。

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ただ、鹿児島県の事例は全て南の島嶼部で、本土は全て風呂に置き換わっているようです。

佐賀、長崎に風呂地名が存在しないと言う現象は気づいていましたが、恐らく海人族の色濃い地域には水浴文化はあっても蒸し風呂文化は異質で定着しなかったのかも知れません。

 結局、室地名はいつしか風呂地名に浸食されたか追い立てられ棲み分けが行われたのではないかと考えていますが、遠い列島の民族成立に関わる部分であって、あくまでも想像に頼る仮説でしかありません。

 このM音とB音の入れ替わり現象について体系的に論証を試みたのは永井正範氏でしたが、素晴らしい研究内容にも拘わらず、著書も出さずブログも書かない様では、ネットが主流の世界では存在していないと同義でしかなく、業績を残すことなく消されてしまうでしょう。この論文は太宰府地名研究会のHPを。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2018年10月21日

508 八代市の妙見宮は列島に亡命した雲南省昆明の白族の中心的な神社だった

508 八代市の妙見宮は列島に亡命した雲南省昆明の白族の中心的な神社だった

20171211

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ここでは一般的に知られた妙見宮を描くことをせずにこの神社の本質を描くことにしたいと思います。


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妙見宮 カーナビ検索 熊本県八代市妙見町405 0965-32-5350


まず、祭神ですが、天御中主神と國常立神とされています(境内、境外摂社は略載します)。

さて、良く知られた八代の妙見宮ですが、最近になって列島にとっても九州王朝にとっても最も重要な神社であった事がようやく分かってきました。ここでは、通常話されるありきたりの内容から離れ、最も重要な側面についてだけお話しさせて頂きます。言うまでもなく、祭神である天御中主神と國常立神とは、白山姫と博多の櫛田神社で祀られている大幡主の二神です(「熊本県神社誌」省略)。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

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この三つの縁起を全て見られた方は恐らくおられないでしょうが、有明海を挟む肥前肥後の両岸を支配していたのが火の君であり、九州王朝を根底で支えた重要氏族(熊本の白川の名=「白水」を付した白族)

でもあったのです。

 そのシンボルとなったのが白山姫、妙見宮、北辰神社であり、熊野三山、博多の櫛田神社の大幡主であり、その後継たる豊玉彦=ヤタガラスだったのです。

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この間、八代の妙見宮の重要性に関してはある程度理解していたつもりではあったのですが、大幡主〜豊玉彦=ヤタガラスの一族(白族)は、直接、熊本に入っていると考えていた事から、八代の妙見は河童渡来(揚子江流域からの越族の移動)による後付だろうと考えていました。

 ところが、妙見宮に隣接する霊符神社の記述と氷川の北、宇城市小川町の霊符神社の記述が対応し、さらに佐賀県(肥前)の白石町(旧有明町)の稲佐神社(百済の王族を祀る神社)の境内地に百済の王族を火の君の世話で受入れたとの記述が相互に対応する事が判明し、肥前〜肥後に掛けての領域を支配領域としていたのが火の君(それを肥溜めの肥の国したのは当然にも近畿大和朝廷)であり、妙見宮=天御中主命=白山姫を奉斎する白族(雲南省昆明からの列島への亡命民族)であった事が分かって来たのでした。

 これについては、先行blogをお読み頂きたいのですが、この阿蘇の草部吉見の一族(黎族)と共に、海南島を経由して入って来た人々こそ天御中主=白山姫を奉斎する白族だった事が分かってきたのです。

 この阿蘇氏(黎族の一派)と大幡主の一族(白族)は、かつては中原にまで展開していたはずの主要民族だったはずなのですが(九黎族)、漢族、鮮卑族、清族、モンゴル…(今の中国人)に追われ、追われ辺境の少数民族地帯に逃れ、そこさえも失い列島に新天地を求めて進出してきた人々だったのです。

 阿蘇氏は雲南省麗江からメコン川(瀾滄江)を降り旧サイゴンから北上し海南島(南西部保亭リー族ミャオ族自治県・瓊中リー族ミャオ族自治県・白沙リー族自治県・陵水リー族自治県・昌江リー族自治県・楽東リー族自治県・東方リー族自治県…)へ、大幡主の一族は昆明からファン川(紅河)を降りベトナムのハノイ沖の海南島へ移動し、時期を見て列島へと進出した人々であったと考えられるのです。


ひぼろぎ逍遥 194 櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか?

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理由は不明ですが櫛田神社は一旦紀州に移動し熊野から戻ってきているはずです


どうやら、百嶋先生は、博多に雪崩れ込んだ、白族(ペイツー)のルーツは雲南省昆明に近い、謎の青銅器文明(漁労+水田稲作農耕)として知られる「滇国」を想定しておられたようです。

考えて見れば、昆明には白族がいましたし、「滇国」の本拠地である滇池もそこにあったのですから、「滇王」の印を貰った「滇国」の一部が博多の櫛田神社の主祭神の大幡主に繋がる事は理があることなのです。

ただ、それを結びつけられるところが、百嶋先生の凄いところだと改めて思うものです。


無題.png(てん、簡体字: , 拼音: Diān)は、前漢時代の紀元前3世紀頃から、雲南省東部の滇池周辺にあった滇人による西南夷の国。歴史[編集]の将軍荘蹻が遠征した時に、によって帰郷できなくなり、やむなく建国したとされる。紀元前109前漢武帝の攻撃で属国になり、益州郡の統治下に入った。滇王之印滇王之印晋寧県の石寨(せきさい)山の遺跡(石寨山滇国王族墓)からはこの時代のものと思われる青銅器や「滇王之印中国語版)」と書かれた印鑑などが発掘されている。西嶋定生はこの滇王之印と日本の福岡県で出土した漢委奴国王印とが形式的に同一であることを指摘している。古滇国の歴代君主[編集]以下は黄懿陸の著『滇国史』から整理した。文字史料が不足しているため、大部分の滇王墓の主はその本名と年代を確認することができない。                       ウィキペディア(20150331 12:00による)


白族は黎族(阿蘇氏)と併せ、日本人のかなり重要な部分を構成しているはずで、白族の起源の一部がが「滇国」にあったと考える事が可能であれば、多くの照葉樹林文化論者達が主張している話とも符合する訳で、単に白族の一派が南ルートで渡来していると抽象的に考えるよりは、より具体性を帯びており、視界が広がった思いがしています。


雲南の二大王国


 現在の中華人民共和国最西南部、ベトナム、ラオス、ミャンマーと国境を接する地域で、北隣に四川省(しせん)、北東隣に貴州省(きしゅう)、北西隣にチベット自治区と接する雲南省(うんなん)。省都は昆明市(こんめい)であり、雲南という名は四川省と接する雲嶺山地(うんれい)の南にあることに由来する。現在は約39万平方キロメートルで、中国の行政区分別では8番目の広さである。漢民族以外にはイー族、ペー族、ミャオ族、チワン族など少数民族も多く存在する。中国古代王朝では、雲南・貴州のこうした漢民族以外の少数民族を西南夷(せいなんい)と呼んだ。

 歴史の上での雲南地方では、中国史における戦国時代B.C.403-B.C.221)にその黎明期があったとされている。戦国・(そ。?-B.C.223)の頃襄王(けいじょうおう。B.C.298-B.C.263)の時代(あるいは威王の時代か。いおう。B.C.339-B.C.329)にいた武将で、春秋五覇1人と数えられる楚の名君・荘王(そうおう。B.C.614-B.C.591)の子孫と伝えられた荘蹻(そうきょう。荘豪とも。そうごう。生没年不明)が、現在の昆明市西南に、同省最大の湖である"滇池(てんち)"付近に遠征を行い、同地を楚の支配下に入れたが、その遠征路を占領した王朝(しん。?-B.C.206)によって帰路を断たれた。そこで荘蹻は滇池を拠点に初代王(在位不明)となって王国"滇(てん)"を建国したとされるが、伝説的要素が濃く、建国年はB.C.5世紀からB.C.3世紀頃と確定には至らず、滅亡年も紀元前2世紀から紀元後2世紀の間で諸説ある。この滇国が雲南を拠点にした初の王国であるとされる。これに関し、その後の歴史を語る上で、雲南の異称として""が用いられることも多い。

 一方で夜郎(やろう。B.C.523?-B.C.27)という国家があった。 夜郎は滇より建国が古いとされるが、拠点は現在の貴州省で、雲南寄りにある畢節(ひっせつ)市の赫章(かくしょう)県にあったとされ、また一時的に楚の荘蹻に占領されたとも言われている。司馬遷(しばせん。B.C.145?/135?-B.C.86?)著の紀伝体正史『史記(しき)』の『西南夷伝』によると、夜郎は西南夷国家の中で最も強勢であったとされた。さらに、前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の武帝(ぶてい。位B.C.141-B.C.87)時代、前漢からの遣使が滇王・嘗羌(しょうきょう。位B.C.123?-B.C.85)の会見機会があり、嘗羌が「自国と漢はどちらが強勢か」という、漢王朝からしてみれば愚問に値する内容を遣使に尋ねた。そして隣国の夜郎も王は同様の愚問に値する内容を尋ねた。こうした故事から、"夜郎自らを大なりとす"、すなわち"夜郎自大(やろうじだい。自身の力量や世間を知らず、自信過剰に威張ること)"の言葉が生まれたとされる。

無題.pngHP「世界史の目」より


白族(櫛田神社大幡主の一族)は雲南省昆明から紅(ファン)河を下りハロン湾から海南島を経由し肥後にやって来た


雲南省昆明(or大里?)

海南省(海南島)白砂黎族自治県(加茂村?)

隈本(熊本城のある千葉城町)

多くの隈地名の地(佐賀東部、博多、小郡、朝倉、日田)に北上し展開する。


 期を一にして入って来た阿蘇氏は天草下島の苓北町(この「苓」も黎族の「黎」と考えられます)を経由し阿蘇に進出します(そもそも天草は苓州ですね)。

 こうして、恐らく紀元前後に中国の辺境から亡命してきた黎族(後の宇治族=多氏=阿蘇氏)と白族(後の櫛田神社の大幡主、熊野三山、下賀茂、上賀茂)という列島の最重要氏族(民族)の二つが形成され列島人の主要な勢力となって行ったと考えられるのです。

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海南島南西部の黎族自治県には加茂という地区まであり、天御中主の後裔である下賀茂神社を思わせます

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記