2018年10月06日

503 鹿児島県南九州市頴娃町石垣の石神神社は月読命ではなく金山彦だった!

503 鹿児島県南九州市頴娃町石垣の石神神社は月読命ではなく金山彦だった!

20171206

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


羽生善治の永世7冠が掛かった将棋龍王戦第五局の大盤解説会があるため400キロ近く走り指宿市に向かいました。結果的には150席しか準備されておらず、とんぼ返りする事にはなったのですが、ついでに南九州市の頴娃町に廻り、幾つかの神社を見て来ました。

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30年も前になりますが、この白水館には子供二人と愚妻を連れて一度泊まったこともあるのですが、このような高級旅館よりも気ままな車中泊の方が余程楽しいと思うこの頃です。

 ただ、永世7冠が掛かったビック・イベントに150席しか準備していないというのは考えられない暴挙であって、私達以外にもとんぼ返りされた方が多々あったものと思います。

 宿泊者を当て込んだ客寄せパンダとしか理解していない(つまり接客業でありながら一般の将棋ファンの事は何も考えて頂いていない)事は残念な限りですが、所詮、大盤解説会を見たいだけのわがままな将棋ファンの事など眼中に無い事だけは明らかなのです。

 この間のテーマが“大山祗=月読命説を探る”であったことから、鹿児島市南九州市頴娃町石垣の石神神社は確認しておく必要があるため、帰路でもある事から訪問させて頂きました。

 従って、開聞岳も指宿市からではなく、頴娃町からのものであり、左は矢筈岳(矢を番える矢筈)、右遠方が開聞岳になります。

 さて、頴娃町の頴娃とはスティングレイのエイの意味であるという事はこれまで何度も書いてきましたし、この頴娃町が「続日本記」に登場する近畿大和朝廷に抵抗した頴娃の評督の反乱(九州王朝の抵抗派)と関係がある場所である事もふれて来ました。詳しくは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)「高良」を検索下さい。

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「頴娃」がスティングレイのエイである事についてはひぼろぎ逍遥から以下をお読み下さい。


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石神神社 カーナビ検索 鹿児島県南九州市頴娃町牧之内5446


「石垣」地名が、「石城」(石の城)「石貫」(石ヌ城)…同様の地名である可能性を考えている事から、多くのファクトを把握する必要からもこの石垣の石神神社は無視できなかったのです。

 ただ、結論から言えば大山祗命を祀るものではありませんでした。

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ご覧の通りの小さな神社ではあるのですが、向かって左には氏神が置かれています。

 鹿児島県には「県神社誌」に相当する「ふるさとのお社」があります。

 これによると、主神は「賀具刺智」境内社としてウガタマ(不明)とイナリ(普通は豊受大神)とされ、賀具刺智とはカグツチ=火之迦具土神、加具土命、軻遇突智…と表記される金山彦の事で予想に反し大山祗ではありませんでした。

この一帯は製鉄地帯であり、これも一つのファクトなのです。

 ただ、灯篭には○と三日月が描かれ、かつては月読命の祭祀が存在した痕跡がある事に気付きました。

無題.pngアイラールはトルコ語の月なのです

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2018年10月09日

504 古代九州王朝の貿易港か? 熊本県八代市徳淵港の古春日神社

504 古代九州王朝の貿易港か? 熊本県八代市徳淵港の古春日神社

20171206

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 八代の徳淵港への河童渡来伝説があることは比較的知られています。ただし、河童の話となると眉に唾して語られる事が多い事から、オーレーオーレー・デ・ライタオ 呉の国から頭領がやってきた(タオライ=到来、ライタオ=来到)と言った話も実際には真面目に考えられているとは言えないでしょう。

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八代の伝承によると、揚子江の流域から河童がやって来たという。彼らは球磨川流域に住み着き、9000匹の河童、九千坊(クセンボウ)は後に筑後川流域に移動したと言われているのです。

 今回、この問題には立ち入りませんが疑っていません。実はこの傍に古い春日神社があるのです。

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積み込み 積み出しが交差しない様に二本造られているのが今なおリアルで面白いですね


大陸から河童がやって来るほどだったのですから、昔から(八代の「河童共和国」は三国志の呉としていますが、それは全くの誤りで呉越同舟の呉なのですが…)貿易(交易)が行われていた事は間違いがなく、この春日神社には、その物流から税を徴収する場所であったと思えるのです。

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春日神社が藤原の私的な神社である事から考えれば私的な関銭でしかなく正式には税ではないのですが、彼らは自らの支配下にある港から財力を養っていた事が分かる痕跡に思えるのです。

 これは、宇佐神宮に近い駅館川でも見られるのですが(上図)、福岡市にしても、下関市(木屋川)にしても、春日神社は藤原の財政基盤を支えた拠点の痕跡に思えるのです。

 ただ、これらも元々は九州王朝の重要港湾であった場所のはずであって、それらを占拠したのが、阿蘇氏をルーツとする藤原氏だったはずなのです。

 では、何故、そう考えたかをご紹介したいと思います。

 八代市の北に旧鏡町があり、印鑰(インニャク)神社もあるのです。

そこの掲示板に何故か八代の正倉院に関する記述があるのです。

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これは八代市教育委員会のある女性の学芸員によって書かれたものなのです。

実際には白村江の戦いに負けたのも九州王朝なのですが、形式的には701年まで存続するのですから、大化の改新時代の正院も正倉院も九州王朝の事績でしかなく、その存在した場所(久留米市の某所も含め)も、この徳淵だったと考えられそうなのです。

 これは、この地域の歴史に明るいこの女性学芸員によって小早川文書等を解析された結果のでしょうから尊重するとして、この問題に関しては、この古き春日神社の事を頭に留めておいて頂きます。

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こちらは立派な方のもう一つの春日神社 カーナビ検索 熊本県八代市本町1丁目9-26


 実は春日神社は八代市内に数社あり、その事が気になっていました。

 まだ、この解明はできていないのですが、この時代、九州西岸の最重要港湾だった事は間違いないと思っています。

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この徳淵港の直ぐ傍にはキンカンと枇杷が植えられていました。

 遠い古代、中国は浙江省辺りから持ち込まれていたものの生き残りに思えたのですが、無論、思考の暴走に過ぎません。

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2018年10月12日

505 火の君の本体が見えた 熊本県八代市の霊符神社と小川町の霊符神社

505 火の君の本体が見えた 熊本県八代市の霊符神社と小川町の霊符神社

20171207

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


以前、ひぼろぎ逍遥(跡宮)465 熊本県の興味深いエリア宇城市海東地区の霊符神社初見 に於いて火の君の中心地がこの地であり、「泉」地名も確認できるとしました。以下、一部を引用。

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これもその一つですが、「霊符神社」という奇妙な名の神社があるのです。

結論から言えば八代の妙見神社の北上を考えれば符合するのですが、ここには百済の正統王族の避退を思わせる話があり、妙見と百済がそのまま繋がるとも思えない事から、尚、すっきりしないのです。

 まず、故)百嶋由一郎先生からは“八代の上に九州王朝の泉地区があります”という話を聴いていました。

 “八代の上“という表現から八代の妙見宮の上流の地区を探していたのですが、そうではなく、”八代の北“の意味で、当然、氷川流域の旧小川町、旧宮原町といった一帯で、元々、「火の君」の本拠地だったとの話もある場所なのです。

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ここで面白いと思ったのは百済の聖明王の一族の亡命の話です。これについては、過去何度かご紹介していますが、有明海の対岸、佐賀県の現白石町(旧有明町)に稲佐神社(百済の王族が祀られている)があり、この地へ火の君の世話で亡命したという話が残されているのです。それと同様の話をここでも拾ったのですからその裏を取ったような話なのです。


稲佐(イナサ)神社


杵島山の東麓、杵島郡白石町(旧有明町)に鎮座する神社です。        

稲佐神社は平安時代初期にはすでに祀られていました。『日本三大実録』の貞観3861)年824日の条に、「肥前国正六位上稲佐神・堤雄神・丹生神ならびに従五位下を授く」とあり、これが稲佐神社が正史に現われた最初の記録です。また、社記には「天神、女神、五十猛命をまつり、百済の聖明王とその子、阿佐太子を合祀す」と記されています。

 平安時代になり、神仏習合(日本古来の「神」と外来の「仏」が融合)の思想が広まると、稲佐大明神をまつる稲佐神社の参道両側に真言寺十六坊が建立され、この一帯を「稲佐山泰平寺」と呼ぶようになりました。

この泰平寺を開いたのは弘法大師(空海)であると伝えられていて、今も弘法大師の着岸した地点が「八艘帆崎」(現辺田)としてその名をとどめています。また、「真言寺十六坊」は、この地方の大小の神社の宮司の立場にあったと言われています。


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八艘帆が崎(ハスポガサキ)佐賀県白石町稲佐神社の境内地の端に残る掲示板


 ここには県道錦江〜大町線が通っているのですが、稲佐神社付近にこの地名が残っています。

県道沿いの境内地と思えるところには、この八艘帆ケ崎の謂れについて書かれた掲示板が建てられています(平成四年四月吉日 大嘗祭記念 稲佐文化財委員会)。
 これによると、杵島山はかつて島であった。欽明天皇の朝命に依より百済の聖明王の王子阿佐太子が従者と共に火ノ君を頼り八艘の船でこの岬に上陸したとの伝承があるとされています(稲佐山畧縁記)。                    

 百済の聖明王は仏教伝来にかかわる王であり、六世紀に朝鮮半島で高句麗、新羅などと闘ったとされていますが、五五四年に新羅との闘いの渦中に敵兵に討たれます。…以下省略。


八代のそれは妙見=北極星、北斗七星が信仰の対照でしたが、これも同種のものなのでしょう。

一般的には旧八代郡の白木山神宮寺に鎮座した霊符神社が列島の最初のものとされていますので、これはその北への展開なのか、泉地名と火の君との関係からそれよりも遡るものなのかは今後の課題です。

私には「肥後国誌」以前が佐賀の久保泉に見えるのですが…。


 さてここから本稿を始めます。

 太宰府地名研究会のメンバーには二人の宮原さんがおられます(また、熊本のメンバーにもお一人)。

このお一人が橘一族の本流の後裔中の後裔であり、言わば橘一族の御本家の家系であることからその故地を探っていました。

 それが熊本県の現氷川町(旧宮原町)であったことから「宮原誠一の神社見聞諜」の管理者である宮原誠一氏と二日間を掛けてこの一帯の神社20社余りを調査する事にしました。

 氷川を挟む旧宮原町、旧小川町、旧竜北町のほぼ全ての神社を調査した事になりますが、泊地を八代市にした事から妙見神社と隣接する霊符神社にも足を延ばしました。

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かなり急な参道階段を上り詰めると霊符神社があります。

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百済の聖明王の第三王子琳聖太子が伝えたのが霊符神である…とされていますが、間違いなく旧小川町の霊符神社と同様の祭祀であり、聖明王の一族を受入れたとされる火の君が如何なる人々であったのかまでも一気に垣間見えた思いがします。

それは、肥前国、肥後国と間に筑紫国が貫入し言わば分断された二つの肥の国の支配者が、妙見宮に象徴される天御中主命=白山姫、白川伯王−豊玉彦=ヤタガラス−…遠く雲南省昆明から列島へと移動して来た白族(ペイツー)の後裔たる橘一族であった事、要するに火の君の一族とは熊本の白川という川の名までもを付した人々であり、恐らく阿蘇の熊野座神社の一族でもあること。彼等は南朝方(宮方)として戦った事。

さらに言えば、河童渡来伝承(キッパ族?)のある八代を考え、九千坊の筑後川の流域への移動(北上)が久留米の水天宮(本物の水天宮=天御中主命については宮原誠一研究が存在しますので、単に筑後川沿いの水天宮と考えない様に…)も無関係では無い事、奈良麻呂の変以降(島田丸が春日大社造営に際して何故河童を呼び寄せたのか…)の橘一族の没落と明治維新による復権など多くの事への解明の糸口が見えてきたのでした。

 してみると、この氷川流域の神社調査は重要過ぎるほど重要で、氷川流域一帯こそが九州王朝を支えた橘一族の元々の本願地であり、今後も絞り込んだ調査を進めたいと思うものです。

 最後に、いつも目を通している以下のサイトもご紹介し終える事にします。


無題.png今月貴重な資料を戴いたので紹介しておきたい。
『八代の鎮宅霊符神』これは『加藤清正公と鎮宅靈符神 No039で紹介した霊符よりも古いもののようにも思える。下方に記載の八代霊符の来歴が記載され貴重な資料となっている。
八代の霊符の版木は小西行長により灰燼に帰したが加藤右馬充により復刻されたという話が記載されている。この加藤右馬充とは加藤可重か子の加藤正方のどちらかであろうが霊符の効果を喧伝するとなると加藤右馬充正方と考えるほうが分かり易い。
加藤家の改易後に隠居したが、大坂で相場を張って巨利を博し、世間からはその出来事を隠居後の雅号である風庵をとって風庵相場と名づけられたという話がある。『八代城城主 加藤正方』
ただ自分にはこの霊符と一緒に挟まっていたものが気になる。

『水天八大龍王神霊符』版元が橘姓 渋江公俊となっている。渋江公俊とは知る人ぞ知る水難避け河童霊符の元締め無題.pngである。前回より河伯について記載していたがこの偶然にメッセージ性を感じている。
 渋江公俊は熊本の菊池市のとても分かりにくい原地区に天地元水神社を創立している。

『菊地市原の天地元水神社』

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 白川伯王こそが九州王朝の全期間を通じて支えた最大の実力者なのですが、初期だけを考えれば瀛氏の一族との強力なスクラムでイザナミ、オチノ姫、大幡主、天御中主…がこの一帯で活動していただろうことは否定できないのです。

 決して草深い奈良の山の中辺りの話ではないのです。

 これに加えて。メンバーの中島氏から情報を頂きました。

 勿論、「火の国」の話です。

 佐賀県には淀姫神社(佐賀市大和町の與止日女神社は、式内社であり肥前国一宮で旧社格は県社ですが、「河上神社」とも呼ばれる)がありますが、この神社の参拝殿には「火國鎮守」と書かれていたのです。

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淀姫神社参拝殿正面上部


この「火國鎮守」が肥前国が火ノ国であり火の君の支配下にあった事も伝えているのです。

なお、「淀姫」についてはネット上から「淀姫」を検索して下さい。

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 研究目的で百嶋由一郎氏の資料を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記