2018年10月01日

501 大山祗とは月読命が貶められたもの!? @

501 大山祗とは月読命が貶められたもの!? @

20171128

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 四国在住のブロガーでもあり、非常に熱心なメンバーのお一人から、「月読命」と「大山祗」を同一神とする百嶋神社考古学の立場について今一つ分からない…との疑問が呈せられました。

 優れた研究者の言ですので無視できない事から、今までに掴んだ限られた情報を繋ぎ可能な限り証明を試みて見たいと思います。

 個人的には百嶋由一郎という稀代の研究者を盲信するものでしかなく、単に百嶋研究を後世に継承したいと言う思いだけで作業している事からすれば、この問題には多少は気づいてはいたのですが、徐々に解決できるものと考え後回しにしていました。

 ところが、前述の事情から、多少急ぐ必要性があると判断し、これまで当方で把握しているジグソー・パズルの数少ないピースを繋ぎ合わせ証明せざるを得なくなった次第です。

 無論、「記」「紀」とは藤原が自らの権勢を強め維持するために都合良く仕立てたものでしかなく、隠したいものは隠し、貶めたいものは貶め、薄めたいものは薄め、無視したいものは無視している事は間違いがなく、このようなものを聖典視しそれ以外にはありえないとか?「紀」にはこのようにしか書かれていないのだからそんな話はお笑い草だ…といった議論を持ち込まれる方はそれで良いだけの事で、では「記」「紀」が絶対で、それ以外の説は全て誤りであるとされる根拠は何であるかとお尋ねすれば良いだけの事です。こいつらとは呼ばないものの、彼らとて「記」「紀」以外に依って立つ柱はないのです。漫画です。

 さて、元より隠されたものの裏を暴き、隠された真実に迫るには困難を要しますし、仮にこうではないかとしても、現場を見ておられない方の目からすれば、“その程度の事でしかないなら何の信憑性もない”などと否定される方が大半かも知れません。

 何分、「記」「紀」では遠い神代(神世の話)とする話ですから、決定的な証拠など望むべくもなく、民俗学的な帰納演繹的手法以外には取りようがありません。

 また、神代は主として九州島を舞台として起こっており(決して現「出雲」でもない)、利権塗れの畿内説論者などが一度も訪れていない場所で起こっているのですから、増々、非難を受けることは覚悟しておかなければなりません。

 では、嫌がらせの意味もありますが、学者、学会通説が無視し馬鹿にするウィキペディアから月読命と大山祗を考えて見ましょう。

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大山祗神社(大三島)          月読神社(桜島)


ツクヨミ

月読命(ツクヨミ、ツキヨミ)は、日本神話の神である。後世では一般に男神と考えられているが、記紀では性別の記述はない。

一般的にツクヨミと言われるが、伊勢神宮・月読神社ではツキヨミと表記される。 

神話での記述

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記紀(古事記と日本書紀)において、ツクヨミは伊弉諾尊(伊邪那岐命・いざなぎ)によって生み出されたとされる。月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある(後述)。

天照大神(天照大御神・あまてらす)の弟神にあたり、須佐之男(建速須佐之男命・たけはやすさのお)の兄神にあたる[注釈 1]

ツクヨミは、月の神とされている。しかしその神格については文献によって相違がある。古事記ではイザナギが黄泉国から逃げ帰って禊ぎをした時に右目から生まれたとされ、もう片方の目から生まれた天照大神、鼻から生まれた須佐之男とともに重大な三神(三柱の貴子)を成す。一方、日本書紀ではイザナギと伊弉冉尊(伊耶那美・イザナミ)の間に生まれたという話、右手に持った白銅鏡から成り出でたとする話もある。また、彼らの支配領域も天や海など一定しない。

この、太陽、月とその弟ないし妹という組み合わせは比較神話学の分野では、他国の神話にも見られると指摘されている。

日本神話において、ツクヨミは古事記・日本書紀の神話にはあまり登場せず、全般的に活躍に乏しい。わずかに日本書紀・第五段第十一の一書で、穀物の起源として語られるぐらいである。これはアマテラスとスサノオという対照的な性格を持った神の間に静かなる存在を置くことでバランスをとっているとする説がある。同様の構造は、高皇産霊尊(高御産巣日神・たかみむすび)と神皇産霊神(神産巣日神・かみむすび)に対する天之御中主神(あめのみなかぬし)、火折尊(火遠理命(ほおり)・山幸彦)と火照命(ほでり・海幸彦)に対する火酢芹命(火須勢理命・ほすせり)などにも見られる。

ツクヨミの管掌は、古事記や日本書紀の神話において、日神たるアマテラスは「天」あるいは「高天原」を支配することでほぼ「天上」に統一されているのに対し、古事記では「夜の食国」、日本書紀では「日に配べて天上」を支配する話がある一方で、「夜の食国」や「滄海原の潮の八百重」の支配を命じられている箇所もある。この支配領域の不安定ぶりはアマテラスとツクヨミの神話に後からスサノオが挿入されたためではないかと考えられている。

ツクヨミはスサノオとエピソードが重なることから、一部では同一神説を唱える者がいる。


オオヤマツミ

オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)は、日本神話に登場する。別名 和多志大神、酒解神。日本書紀は『大山祇神』、古事記では『大山津見神』と表記する。

神話での記述[編集]

『古事記』では、神産みにおいて伊弉諾尊と伊弉冉尊との間に生まれた。その後、草と野の神である鹿屋野比売神(野椎神)との間に以下の四対八柱の神を生んでいる。

天之狭土神・国之狭土神 天之狭霧神・国之狭霧神 天之闇戸神・国之闇戸神 大戸惑子神・大戸惑女神

『日本書紀』では、イザナギが軻遇突智を斬った際に生まれたとしている。

天之狭霧神の娘の遠津待根神は、大国主大神の8世孫の天日腹大科度美神との間に遠津山岬多良斯神を産んでいる。

オオヤマツミ自身についての記述はあまりなく、オオヤマツミの子と名乗る神が何度か登場する。 八岐大蛇退治において、素戔嗚尊(すさのを)の妻となる奇稲田姫(くしなだひめ)の父母、足名椎命・手名椎命(あしなづち・てなづち)はオオヤマツミの子と名乗っている。

その後、スサノオの系譜において、オホヤマツミ神の娘である神大市比売神(かむおほいちひめ)との間に大年神と倉稲魂尊(うかのみたま)をもうけていると記している。また、クシナダヒメとの間の子、八島士奴美神(やしまじぬみ)は、オオヤマツミの娘の木花知流比売(このはなちるひめ)と結婚し、布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬ)を生んでいる。フハノモヂクヌスヌの子孫が大国主大神である。

天孫降臨の後、瓊瓊杵尊はオオヤマツミの娘である木花之開耶姫と出逢い、オオヤマツミはコノハナノサクヤビメとその姉の磐長姫を差し出した。ニニギが容姿が醜いイワナガヒメだけを送り返すと、オオヤマツミはそれを怒り、「イワナガヒメを添えたのは、天孫が岩のように永遠でいられるようにと誓約を立てたからで、イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命は短くなるだろう」と告げた。

いずれも ウィキペディア(20171128 0917による


 概略はお分かりになったと思います。

言うまでもなく通説上は大山祗=月読命という方程式は成立せず、片鱗も見えません。

 ただ、予感程度ですが、「記」も「紀」でも影が薄く、存在性を疑わせるような印象を与えようとしている所が共通性を持っているのではないか…?とまでは言えそうです。

 ここで、通説から離脱されていると思われる方の説を見ておきましょう。


大山祇命の正体

 大山祗神(駿河国一宮三島神社他

 大山祗神は素盞嗚尊の妻の稲田姫の祖父として神話に登場する神である。伊予大三島の大山祗神社では天照大神の兄として、最古と言われている薩摩の大山祗神社ではニニギ命の妻吾多津姫の父として祀られている。これらは同一人物とは考えられない側面があり、その土地の有力者(縄文人?)を大山祗神と呼んでいることがうかがわれる。しかしながら、三島神社で祀られている大山祗命は行動実績を伴っている。東日本地域の一宮級の神社の祭祀の原点を探ってみると大山祗神であることが多い。地域の土着神である可能性もあるが、これは一人の同一人物と考えてみる。
 @ 大阪府高槻市の三島鴨神社は、淀川沿いに有り、大山祇命の最初の降臨地と言われている。事代主神が三島溝杙姫(玉櫛姫)に生ました姫が姫鞴五十鈴姫で、神武天皇の妃となった。 また三島溝杙姫の父神が三島溝咋耳命、その父神が大山祇神となっている。また、この神は九州からやってきたとも伝えられている。饒速日尊は大和に侵入する時の伝説地をたどると、まさにこの周辺に上陸したと考えられる。また、伝承上他の人物で、大山祗神に該当するのはいない。このことより大山祗神と饒速日尊がつながる。
 A 伊予国大三島の大山祗神社には「わが国建国の大神で、地神・海神兼備の霊神で日本民族の総氏神として、日本総鎮守と申し上げた。大三島の御鎮座せられたのは、神武天皇御東征のみぎり、祭神の孫小千命が伊予二名島に(四国)に渡り神地御島(大三島)に祖神大山積命を祀った。」とある。「建国の大神」とくれば、素盞嗚尊・饒速日尊が該当する。日本の総氏神・総鎮守と言うのは素盞嗚尊の活躍が西日本限定であるので饒速日尊が該当する。また、小千命の祖神は「新撰姓氏碌」によれば、「饒速日尊」である。
 饒速日尊は各地を訪れた時、周辺の地勢を探るために、その周辺で最も高い山に登ったものと推察される。そのために、各地方の山に大山祇神が祀られ、「山の神」として崇拝されることになったのであろう。 

 大山祇命とは

 大山祇命は東日本を中心に祀られている神である。山の神と考えられている。饒速日尊と同一人物と考えられる節があるが、瓊々杵尊の妻となった木花咲耶姫の父や、素盞嗚尊の妻の神大市姫の父など明らかに別人の要素もある。複数の人物が重なったものと考えられる。

大山祇命の正体(古代史の復元)による


では、我が百嶋神社考古学の大山祗=月読命説も再確認しておきましょう。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


ご覧の様に、大山祗=月読命、ウマシアシカビヒコヂと白山姫=天御中主との子とします。


研究目的で百嶋神社考古学に関する音声CD、神代系譜、手書き資料…を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。

 さて、この話を深く掘り下げるにあたって知っておいて頂きたい事があります。

 それは、宮崎県西都市の西都原第2古墳群に伝大山祗命の古墳と言われる柄鏡型前方後円墳が、その正面には古墳への参道階段を持つ石貫神社があり、付近には大山祗命の娘とされるコノハナノサクヤを主神として祀る都萬神社があり、正面には桜川が流れているのです(関東ではコノハナノサクヤヒメは「桜」姫と呼ばれているのですが、このことから元は九州だと考えられるのです)。

 まず、ひぼろぎ逍遥 535536の省略版をご覧ください。


535コノハナノサクヤヒメはサクラヒメだったのではないか @

20171125


 20171122日も、宮崎県椎葉村の栂尾神楽に来ている最中に、どうしても西都原第二古墳群の伝大山祗古墳正面の石貫神社を見たいので案内して欲しいとの乱暴な話が舞い込んだ事から、急遽(と言っても夜通し神楽は参加するのですが)対応する事になり、翌朝10時まで続くはずの栂尾神楽を朝6時で切り上げ、早朝7時から集合場所の草部吉見神社正面の奥阿蘇物産館に向かい、9時から宮崎県西都市に向かいました。

 最初に向かったのは伝大山祗古墳でした。

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 この古墳の正面にある石貫神社が大山祗を祀る神社である事は以前にもお伝えしました。

 事実、石貫神社は大山祗を祀る神社としていますし、付近にはコノハナノサクヤを祀る都萬神社もあるのです。このためここでは別の側面にふれてお話ししたいと思います。

ひぼろぎ逍遥(跡宮) 340 旧石和町に物部神社があった “山梨県笛吹市春日居”の石尊神社 

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この石貫神社からは160数段の階段が伝大山祗古墳に向けて造られており、これほどの石段が寄進によって造られている事を考えれば、かつては整列して神社からこの陵に向けて参詣が行われていたものと思います。

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前方後円墳でも初期のものとされる柄鏡式型の伝大山祗古墳


 さて、この石貫神社からもそう遠くはないところにあるのがコノハナノサクヤヒメを祀る都萬(ツマ)神社です。

つまり、父は娘にあたる大山祗を祀る石貫神社とコノハナノサクヤを祀る都萬神社が揃っているのです。

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都萬神社 カーナビ検索 宮崎県西都市妻1  0983-43-1238


 この石貫神社が熊本県玉名市の新幹線玉名駅正面の石貫と関係があり、実は、山口県光市の石城山神籠石の山上神社の祭神が大山祇神、雷神、高龗神である事とも通底しており、遠くシルクロードのタシクルガン(中国名「石城山」)を起源としている事にまで気付くのです。

 新疆ウイグルは勿論のことアフガニスタンにまで何度も入っておられたようで、このシルクロードの石頭城(タシコルガン、タシクルガン)石頭山が「石城」とされ列島まで持ち込まれていると考えておられたのです。

 無題.pngこれまでにも何度も申し上げていますが、百嶋神社考古学では大山祗命=月読命はトルコ系匈奴で金官伽耶の金越智(ウマシアイカビヒコヂ)と天御中主の間に産れた、トルコ系匈奴の血を引くものとします。

 ついでに言えば腹違いの伯母と姪の関係に当たる本当の神武天皇のお妃に当たるアイラツヒメも匈奴の血を曳いたトルコ系の女性だったのです。

 ちなみに、アイラールはトルコ語の「月」を意味し、アイラツヒメとは月子ちゃんであり、月姫だったのです。

 とすると、父の大山祗が月読命(百嶋由一郎説)と呼ばれている事の意味も多少は見えて来るのです。

無題.png

手書きデータ 百嶋神社考古学03 「014猿田彦から女木島」による


研究目的で百嶋由一郎氏の資料を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい


536 コノハナノサクヤヒメはサクラヒメだったのではないか A

20171125


 さて、コノハナノサクヤヒメを主神として祀る都萬神社の前にはきれいな川が流れています。

桜川と言いますが、桜川町まであります。

無題.png

都萬神社 カーナビ検索 宮崎県西都市妻1  0983-43-1238


コノハナノサクヤヒメが祀られている大山祗系神社には桜の紋章がふられていますし、ご覧の通り、本家本元の都萬神社の社務所にも桜が施されています。

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コノハナノサクヤヒメはコノハナノサクラヒメであったとさえ考えるのですが、列島人はR音(実際はL音)の発音さえ困難であったため、コノハナノサクヤと呼ばれたのではないかとさえ考えていますが、これについては確信が持てないため今のところ構想に留まっています。ただこの桜川と無関係でもないでしょう。と言うよりサクヤヒメが居たから桜川の名が残ったのではないかと思うのです。

無題.png

無題.png以下はネット上から拾った「樹木の文化誌」の一文ですが、サクヤヒメはサクラヒメだったのです。

 これは百嶋先生が言われていた事ですが、晩年“関東に移動したコノハナノサクヤヒメは関東ではサクラヒメになっている…”つまり、関東ではサクラヒメと呼ばれている事が分かるのです。

例えば江戸落語の古今亭志ん生師匠の小噺で、男女の恋について語ったもの 小噺の概略を申し上げておきましょう「どんな男でもご婦人には迷うものです。清水寺に清玄(せいげん)という立派なお坊さんがいたが、桜姫のために思い悩んだ。「どうか桜姫に会いたい、お姫に会いたいとお姫ばかりを恋しがっていた。けれど会えなかった。これは会えないわけですな、こっちが坊主で向こうが桜だから。坊主と桜がオチになっていますが、花札の坊主と桜の事で、志ん生の噺には方々に出て来ます。

勿論、コノハナノサクヤヒメの話としては語られてはいないのですが、関東のコノハナノサクヤヒメはサクラヒメと呼ばれていた事が反映されていた可能性が高いのです。

恐らく近畿大和朝廷に完全制圧された段階で本来のサクラヒメはサクヤヒメと呼ばれ書き留められ、晩年になって移動した結果、関東では原音が残ったのではないかと考えています。

 木花之佐久夜毘売、木花開耶姫と表記される以前の原音が「サクラヒメ」として残ったのではないでしょうか?

 今のところ仮説の仮説のような段階ですが、コノハナノサクヤヒメはサクラヒメと呼ばれていたからこそ桜をシンボルとしており、ニニギと別れたコノハナノサクヤは晩年に関東に移動し、富士山浅間神社に痕跡を残し関東の玉川=多摩川(ヤタガラス)の領域に移動したと考えています。

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無題.png

コノハナノサクヤヒメの兄に当たる大国主命を祀る武蔵大国魂神社

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年10月03日

502(前) 大山祗とは月読命が貶められたもの!? A

502(前) 大山祗とは月読命が貶められたもの!? A

20171128

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


501 大山祗とは月読命が貶められたもの!? @ によって石○地名、石○姓が大山祗、大国主と関係があるのではないかという提案を致しました。勿論、ご同意の方は少ないでしょうが。

さて、ネット上には面白いものが転がっています。

この方の意図は不明ですが、この石+α地名に関心をお持ちだったようです。私自身はそのレベルより下の意識しかないのですが、興味深いので使わせて頂きます。

もしかしたら、トルコ系匈奴の展開が反映されているかもしれないのです。


無題.png同じ様に感じるのですが・・・違うのでしょうか?



岩手県一関市   岩城(いわき)

   秋田県秋田市   下新城岩城(しもしんじょういわき)

   秋田県湯沢市   岩城(いわき)岩城橋(いわきばし)

   秋田県由利本荘市 岩城(いわき)道の駅岩城(みちのえきいわき)

   秋田県南秋田郡  五城目町 岩城町(いわきまち)

   群馬県高崎市   岩城(いわき)

   三重県津市    岩城(いわき)

   島根県江津市   岩城山(いわきやま)

   愛媛県越智郡   上島町 岩城島(いわぎじま)

   熊本県芦北郡   津奈木町 岩城(いわき)

   熊本県球磨郡   錦町 岩城(いわじょう)

福島県大沼郡   昭和村 石城山(いしじろやま)

   福井県坂井市   丸岡町 石城戸町(いしきどちょう)

   京都府八幡市   男山石城(おとこやまいししろ)

   鳥取県東伯郡   湯梨浜町 羽衣石城址(うえしじょうし)

   山口県光市    石城山(いわきさん)石城山神籠石(いわきさんこんごうせき)

            石城神社(いわきじんじゃ)

   愛媛県大洲市   石城峠(いししろとうげ)

   福岡県福岡市   博多区 石城町(せきじょうまち)

   長崎県対馬市   金石城跡(かねいしじょうあと)

   大分県別府市   石城川(せきじょうがわ)

   大分県由布市   石城川(せきじょうがわ)

   青森県弘前市   岩木川(いわきがわ)岩木高原(いわきこうげん)岩木山(いわきさん)

            岩木茜橋(いわきあかねばし)岩木橋(いわきばし)

            上岩木橋(かみいわきばし)岩木山神社(いわきさんじんじゃ)

            岩木川(いわきがわ)

   青森県黒石市   岩木町(いわきまち)

   青森県五所川原市 岩木川(いわきがわ)

   青森県つがる市  岩木川(いわきがわ)

   青森県中津軽郡  西目屋村 岩木川(いわきがわ)

   青森県北津軽郡  板柳町 岩木川(いわきがわ)

   青森県北津軽郡  中泊町 岩木川(いわきがわ)

   岩手県八幡平市  岩木(いわき)

   秋田県大仙市   岩木沢(いわきさわ)

   山形県西村山郡  河北町 岩木(いわき)

   山形県最上郡   鮭川村 岩木(いわき)

   群馬県多野郡   吉井町 岩木(いわき)

   新潟県糸魚川市  岩木(いわき)岩木トンネル(いわきとんねる)

   新潟県上越市   岩木(いわき)

   富山県富山市   岩木(いわき)岩木新(いわきしん)

   富山県南砺市   岩木(いわき)

   京都府京丹後市  岩木(いわき)

   兵庫県赤穂郡   上郡町 岩木(いわき)岩木川(いわきがわ)

            岩木トンネル(いわきとんねる)

   岡山県真庭市   岩木(いわき)

   愛媛県西予市   岩木(いわき)

   山形県米沢市   石木戸(いしきど)

   埼玉県本庄市   石木沢(いしきざわ)

   岐阜県加茂郡   白川町 石木(いしき)

   奈良県奈良市   石木町(いしきちょう)

   徳島県三好郡   東みよし町 石木(いしき)

   高知県高知市   小石木町(こいしぎちょう)

   佐賀県鹿島市   石木津川(いしきづがわ)

   佐賀県小城市   石木(いしき)

   長崎県東彼杵郡  川棚町 石木(いしき)石木郷(いしきごう)石木川(いしきがわ)

   長崎県北松浦郡  佐々町 石木場免(いしこばめん)

   熊本県芦北郡   津奈木町 石木田(いしきだ)


個人的には 佐賀県嬉野市塩田町の石垣、福岡県久留米市田主丸町の石垣の月読神社、熊本県の玉名市の石貫、宮崎県西都市の石貫、神埼市の石動(イシナリ)、山梨県の石和(イサワ)周辺の石尊神社…も加えたいのですが、それは後に回すとしても、上のリストの地名、地名等の周辺の神社、神社伝承、祭神…を少しずつ調べて行けば面白い事が分かって来るのではないかと思っています。

 簡単にはできませんが、今後も作業を進めるとして、まずは近い所から祭神や墓制といったものを考えて行く事にします。

この事に気付いたのは、勿論、百嶋由一郎氏による“石貫地名と大山祗=トルコ系匈奴との間には関係がある…”との示唆があったからですが、はっきり間違いがないと確信を持ったのは、山口県の石城山神籠神籠石の山頂にある石城神社を見た時からでした。

その後、宮原誠一氏による久留米市田主丸町の石垣神社の祭神が月読命(ここに至って大山祗=月読命という方程式への確信を持ったのですが)である事を知った事から、一層、確信を深め、物部氏と言われるものの中心が如何なる勢力なのかという事まで個人的には解決したとの思いを持っています。

まずは分かりやすい山口県光市の石城神社からご紹介しましょう(ここは明治天皇すり替え説=大室寅之祐の田布勢町でもあるのです)。この神籠石は光市と田布勢町に跨って存在しているのです。

この間、ムル、ムレ、ムロはトルコ系匈奴と関係があると言ってきましたが、すり替え説で言う(鹿島昇、鬼塚英明)大室(ムロ)姓=明治天皇にも反映されている事がお分かり頂けるのではないでしょうか?

また、九州王朝の本拠地である高良大社が鎮座する高良山は古くは高牟礼(タカムレ)と呼ばれていたのです。

いずれにせよ、室、群、牟礼…表記、石○表記、大山祗、大国主…が重なれば、かなりの蓋然性があるのではないかと考えます。


無題.png石城神社(いわきじんじゃ)は、山口県光市大字塩田にある神社。式内社で、旧社格は県社。

古代山城の石城山神籠石(国の史跡)で知られる石城山(標高362メートル)の山頂部に鎮座する。

現在の祭神は次の3柱。大山祇神(おおやまつみのかみ)-主神。雷神(いかづちのかみ)高龗神(たかおかみのかみ)かつては祭神の本地仏として、大山祇神には釈迦如来、雷神には普賢菩薩、高龗神には文殊菩薩があてられていた。

                           ウィキペディア(2017 1203 21:27による

 ここで面白いのは、「石城神社(いわきじんじゃ)は、山口県光市大字塩田にある神社」と書かれている事です。

 実は、佐賀県の現嬉野市となった旧塩田町にも石垣地区があるのですが(リストにある佐賀県鹿島市石木津川も数キロのところです)、私事ながら愚妻の出身地でもあるのです。

 してみると、彼女はトルコ系(父)と海人族と思える(母)との間に産まれたと言えるのかも知れません。

 さらに面白いのは、この神社の摂社には若宮神社も含まれており、九州王朝の痕跡もあるのです。

無題.png

今回のテーマは大山祇神=月読命(百嶋説)を検証する事ですが、まず、月山の月読が頭を過ります。

出羽三山の出羽神社には羽黒山大神(倉稲魂神)が、月山神社には月読神が、湯殿山には大山祇神が祀られています。

 この事をどう見るかです。だから別神と見るか関係があるとしか思えないと見るかはあるでしょう。

 九州では少ない月読命ですが、鹿児島県鹿児島市の桜島に月読神社があります。

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月読神社 カーナビ検索 鹿児島市桜島横山町1722



posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

502(後) 大山祗とは月読命が貶められたもの!? A

502(後) 大山祗とは月読命が貶められたもの!? A

20171128

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


桜島港に程近い月讀神社は、和銅年間(708〜715年)には創設されたと伝わる由緒ある神社です。

「桜島」の名前の由来とされる「コノハナサクヤヒメ」もあわせて祀られています(名前の由来には諸説ありますが、その中のひとつです)。 大正噴火で溶岩の下に埋没しましたが、昭和15年、現在の位置に移設されました。


無題.png

前ブログで、大山祗命の娘であるコノハナノサクヤが実は木の花の姫であり、都萬神社の前に桜川が流れ、関東では桜姫と呼ばれたとの話をしましたが、何故、桜島と呼ばれているかは大山祗=月読命と考えれば理解できるでしょう。

また、東北の月山神社では月読神が、湯殿山には大山祇神が祀られているのですが、これも同一神であることから、現場を確認しその尻手を掴みたいと思うばかりです。以下は宮原誠一氏の第7稿です。

                                                                         

平成29(2017)0509

宮原誠一の神社見聞牒(007)

田主丸町・月読神社 考

二田・月読神社 所在地 福岡県久留米市田主丸町益生田(二田) 祭神  月夜見命


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東町・月読神社 所在地 福岡県久留米市田主丸町田主丸546-1(東町) 祭神  月読命

無題.png

由緒と奉斎氏族

福岡県内で「月読神社」と名づく神社が公開されているのは、明治初期では、田主丸町二田(ふたた)の月読神社のみである。田主丸町東町の月読神社は、明治13(1880年)二田の月読神社から勧請されている。

その神社の由来記であるが、二田月読神社には存在しない。東町月読神社の由来記が転用され、知れ渡っているのが実情である。しかし、その由来記となると信憑性が怪しい。


東町月読神社の由来記は次の通り。


由緒(案内板)

天文3年正月(1534年)(御原郡高橋城主)三原三河守長種の弟・次郎三郎が城内の月読神社を、竹野郡二田村(現:久留米市田主丸町石垣)に創建す。明治136(1880年)篤志家により当地へ勧請す。開運眼病平癒の神様として崇敬者多く三夜様と敬稱す。


伝承

昔、竹野郡二田村(旧福岡県浮羽郡田主丸町石垣)に住む林次郎三郎の母親が目の病に罹り、いろいろな事をしても回復しませんでした。そこに村の長老から月読命を祀る祠があることを林次郎三郎は教わります。

それから毎日欠かさずお詣りしていると、ある日、大雨が降って祠が水没してしまいました。林次郎三郎は「また大水がきたら神さまも寒くて大変だろう」と祠ごと家に運び込んでお祀りし母親ともども拝んでいると、ある朝、突然母親の目が見えるようになったといいます。それは天文3(1534年)正月23日のこと。

古賀又左衛門という両目を患った者がある夜のこと、夢の中で月読尊から「両目の病を治したければ月読の神が鎮座する二田村を訪れよ」とお告げがあり、林次郎三郎宅を毎日訪れ「目の病が治りますように」と祈願すると、わずか17日で目の病が治ったのだとか。その後、眼病平癒で訪れる人々が絶えず参拝に訪れるようになったといいます。

寛延2(1749)年のこと。娘が目を患っていることを気の毒に思っていた柳川藩(現在の福岡県柳川市)藩主が月読神社が眼病平癒にご利益があることを知り、代参者を林次郎兵衛宅へ赴かせ娘の眼病平癒を祈願したところ、37日後に娘の目が良くなったとのこと。大変喜んだ藩主は、二田村の林次郎兵衛宅の祠を現在の地に移し、社を建てたのが、現在の二田「月読神社」といわれています。


二田村の月読神社を、田主丸の町中の人達が明治13(1880)6月東町に勧請して東町「月読神社」となる。毎年123日〜25日に「三夜さま」と呼ばれる祭りがあり参拝者で賑わっている。


由緒記も伝承も曖昧さが残る。

まず、由緒記であるが、「御原郡高橋城主 三原三河守長種」とあるが、「高橋三河守長種」が正しい。また「長種の弟・次郎三郎」とあるが、弟は存在しない。兄は「高橋高種」である。高橋高種(1470-1515)は筑後大蔵高橋氏の当主となるが、継母の讒言により父の不興を蒙り、その座を捨てて、文明16(1484年)母方の縁者畠山氏を頼っている。よって当主は「高橋長種」である。

「母親の目の病」を治す伝説であるが、これは古事記の「月読命は伊邪那伎命の右目を洗った際に生み成された」からきているのであろう。確かに二田村及び周辺には林家が多く存在する。

あながち否定とは行かない。

私も子供の頃、祖母から月読神社にお参りすると目が良くなると教わった。123日の「三夜さま」には寒さを押して参拝に出かけた。その人出は大宰府天満宮のように賑わっていた。東町月読神社の賑わいは本家の二田月読神社をはるかに超えていた。


これらの由緒伝承は、「古賀 勝」氏の「筑紫次郎の伝説紀行」の元となっている。


ある朝、目覚めた母親が甲高い声を更に張り上げた。母親は、座敷の神さまに手を合わせた後、裸足のままで家を飛び出し、南の山を見上げた。

「鷹取の山(802b)がはっきり見えちょるたい」

母親の興奮は収まりそうにない。

「月読の神さんが、わしにもう少し生きろと言ってくれよりなさる。今日この日は、死んでも忘れんばい。それで…、今日は何日かいの?」

「今日は天文3年の正月23日たい。忘れんごと、祠に彫り込んでおこうない」

それからである。話を聞いたあちこちの目を患った人々が、毎月「3」のつく日に、「お三夜さんにお詣りせにゃ」と、次郎兵衛の家を訪ねてくるようになった。

古賀 勝氏の「筑紫次郎の伝説紀行・眼病封じのお三夜さま」より抜粋


田主丸町二田は古代、二田郷と呼ばれた物部の地であった。

私は二田月読神社の由来を調べてみようと福岡県神社誌を見てみたが、記載されていなかった。また、「寛文十年(1670)久留米藩社方開基」を見てみたが、これにも記載されていなかった。あの「三夜さま」と呼ばれる田主丸町では有名な月読神社の開基由緒がどこにもないのである。

二田月読神社の社誌が昭和20年発行の福岡県神社誌にもない、久留米藩への書上げ状も提出されていない。不思議に思った。

神社の成り立ちは、二田の地に二田物部氏が奉斎する月読命の祠があり、近代に社殿を伴った神社が建立されたと見るのが自然であろう。


寛文十年(1670)久留米藩社方開基

  二田村

一、天神宮壱体木像 社九尺に二間萱葺

一、天神宮壱体木像 社壱間四面萱葺

 右両天神 毎年十一月十一日に祭礼仕候。於神前御供・御酒奉備、祓祝詞読執行仕候。

開元之時代知不申候。縁起・記録・宝物并末社無御座候


福岡県神社誌中巻

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1670年「久留米藩社方開基」の二田村では天満神社二社と書かれて、月読神社は存在しない。

また、昭和20年の福岡県神社誌では天満神社があり、月読神社(祭神・月夜見命)は合併とあり、「天満神社」となっていて、氏子は大字増生田二田18戸となっている。

しかし、現実には田主丸町二田に天満神社は存在しなくて月読神社が存在するのである。

やはり、月読神社は表向き秘密にされたのであろう。

最新の社殿建築は建立上棟札に安永2年(1773)8月とあり、関係者26名の名前が記されている。月読神社の灯籠、鳥居、棟札に記された名前を拾うと、「岩佐家」が多く刻まれている。

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無題.png田主丸町二田区には、「岩佐家」が多く、「中島家」、「堤家」が続く。村の周りには「林家」、「中島家」、「中野家」がとり囲むように家々が存在する。


岩佐氏といえば、茨城県つくば市の筑波山神社の宮司・岩佐氏が出てくる。


筑波山神社

鎮座地  茨城県つくば市筑波1-1


宮司名  岩佐

御祭神  筑波男大神(伊弉諾尊)筑波女大神(伊弉冊尊)

摂 社  稲村神社(天照大御神)・安座常神社(素盞鳴尊)

小原木神社(月読尊)・渡神社(蛭子命)

由 緒  (抜粋) 崇神天皇の御代、筑波山を中心として、筑波、新治、茨城の三国が建置されて、物部氏の一族筑波命が筑波国造に命じられ、以来、筑波一族が祭政一致で筑波山神社に奉仕した。


無題.png筑波山神社の由緒から岩佐家が物部氏と係わっていることが見てとれる。


ひぼろぎ逍遥(管理人・古川清久) 20170205

スポット069 月読命(大山祗)の祭祀圏とは何か? から抜粋


月読命=大山祗の祭祀圏が何であるのか?

「古事記」「日本書紀」でも影が薄く、実体が見えないのが月読命=大山祗命ですが、これが隠されてきた理由が多少は見えて来ました。それは、その実体が狗奴国であり、物部氏であり(主力が二田物部=鞍手郡小竹町新多だった事を想起して下さい)、後に朝敵=熊襲とされたトルコ系匈奴を主力とする騎馬軍団だったからのようなのです。(中略)


二田の月読神社が鎮座する場所は田主丸町石垣ですが(実際には増生田から石垣にかけて)、この地名が遠くアフガニスタンまで通底していると考えています。

そして、「石」(イシ)には思い当たる事があるのです。

それは、大山祗命を追い求めていると不思議と「石」の付された地名、神社名に出くわすことを何度も経験しているからです。


179 天高く青空に誘われ日向の神社探訪 C“西都原に大山祗命の痕跡がある!”

ご紹介するのは西都市の石貫神社です。

西都原古墳群に近接(東側)して石貫神社があります。(中略)

由緒

当社は古くは日能若宮又は石貫大明神と称し、創建は天平五年(733)と伝える。

社地は創建時の記録『日能若宮元元由来記』によれば、「大山祇命(中略)阿佐久良山[木患]木原五百世山元筑波山云留彼所事、歳月遠座也」の地にして、筑波御殿の遺跡と伝える。

(中略)

石貫神社の名は、大山祇命の娘の木花咲耶媛を嫁にほしいと云って来た鬼に、一夜で石造の館を造ればと命じた。鬼は夜明けまでに造ったが、大山祇命は窟の石一個を抜き取り、東の谷に投げ、未完成とした。これで鬼の要求をはねつけたと云うことによると伝わる。


やはり、大山祗命を追求すると不思議と「石・岩」の付された地名、神社名に出くわす。

古代、筑後耳納山麓一体に展開した民族こそトルコ系匈奴を主とする物部氏族だったのです。

田主丸町二田、石垣に展開する二田物部は優れた技術を西アジアから持ってきている。石垣組等の土木技術、現代建築に採用されている軸組み木造家屋、製鉄、そして農業面では瓜等の野菜、ぶどうの持ち込みを行なっている。製鉄は浮羽町の山奥の新川地区、妹川地区で密かに製鉄と武器の製造が行なわれた。そして、奉斎する氏神が月読命=大山祇命または妙見宮だった。

筑紫弦田物部等祖・天津赤星を久留米市宗崎の鶴田村に祀る赤星神社は表向きで、神社そのものは妙見宮となっている。後に弦田物部は筑豊の若宮市鶴田に移動展開する。その妙見宮の祭神は天御中主神であり、月読命の母にあたる。この民族一団を私は「大山祇ご一行」と呼んでいる。

田主丸町二田の周辺には岩佐家、中島家、堤家、林家、中野家の家々が展開するが、ここで、久留米を中心に北筑後地方に数多く展開する「石」「岩」のつく名前の氏族を拾ってみた。


石井、岩井、石橋、大石、黒岩、石崎、石田、石貫、岩永、岩佐、石松、石丸

立石、岩下、岩村、岩下、岩田、岩崎


結構な数が拾えました。石井、岩井、石橋、大石、岩田、岩崎という姓がくれば、各界の有名人がそろって出てきます。また、地名もそろって出てくる。

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二田月読神社の破風のぶどうの彫刻 七老神社のぶどう・野菜の彫刻

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朝倉市・杷木神社の境内社・七老神社

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天津赤星を久留米市宗崎の鶴田村に祀る赤星神社(妙見宮)


古代、九州には中国大陸、朝鮮半島から多くの民族が移住してくる。なかでも、中国南部の白族の大幡主系、トルコ系匈奴の大山祇系の民族集団は熊本から九州を北上し、久留米耳納山麓にやってくる。そして流れを二手に分け、一方は東の耳納山麓に進み、奥浮羽地区から分かれて、大山祇系は朝倉地方に、大幡主系は日田地方へと展開する。

また、一方は久留米をさらに北上し佐賀背振、筑紫野さらに福岡市へと移動していく。

耳納山麓に展開した大幡主系民族は橘集落を形成し、トルコ系匈奴の大山祇系民族は物部集落を形成する。

こうしてトルコ系匈奴の大山祇系民族集団は筑後一帯に筑後物部を形成していくのである。


旧竹野郡二田郷

二田月読神社がある旧竹野郡二田郷の地は、筑後物部氏の領域であり、田主丸町石垣の二田郷は二田物部の地として和名抄に出てくる。二田物部の発祥の地である。二田物部は物部二十五部族の筆頭でもある。

また、生葉郡吉井町は町名が示すように物部の地である。特に、吉井町耳納山北麓の小家郷、物部郷はその色彩が強く、「物部」姓を持つ家々が存在する。

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生葉郡の「和名抄」では、大石・山北・姫冶・物部・椿子・小家・高西の7郷があり、うち大石郷は旧大石村、山北郷は山北村に、椿子(つばこ)郷は旧千足駅中心に朝田・東隈・西隈その一帯、小家郷は小江、橘田、溝口一帯(旧小江村付近、原鶴の南西)、物部郷は浮羽町小塩、吉井町福益・富永・屋部の耳納山北麓一帯、姫冶郷は新川一帯、高西(こせ)郷は妹川一帯に想定される。


物部氏に関する『先代旧事本紀』の天神本紀には、ニギハヤヒの降臨に同行した面々の記載がある。その出自地と推定される地名をみると


五部人を副へ、従となして天降り供奉らしむ

 物部造祖     天津麻良

 笠縫部等祖    天曾蘇

 為奈部等祖    天津赤占

 十市部首等祖   富々侶  筑前鞍手郡十市郷、筑後三毛郡十市郷

 筑紫弦田物部等祖 天津赤星 筑前鞍手郡粥田郷鶴田、筑後御井郡鶴田


五部造を伴領となし、天物部を率ゐて、天降り供奉らしむ

 二田造 筑前鞍手郡二田郷、筑後竹野郡二田郷

 大庭造 筑前朝倉郡大庭村

 舎人造

 勇蘇造 筑前・糸島郡深江村磯崎

 坂戸造 


天物部ら二十五部人、おなじく兵伏を帯びて、天降り供奉らしむ

01二田物部 筑前鞍手郡二田郷、筑後竹野郡二田郷

02当麻物部 肥後益城郡当麻郷

03芹田物部

04馬見物部 筑前嘉穂郡馬見郷

05横田物部

(以下省略)


福岡県三井郡大刀洗町本郷に郷社の高良玉垂神社がある。この神社の社殿の基礎は玉石組である。

また本郷に接する春日・平田区には坂本神社(祭神・坂本命、社紋・木瓜)があり、社殿の基礎は玉石組であり、この地区の方は多くが平田姓で物部氏である。

これら神社と社殿の基礎の玉石組をみることにより物部氏の係わりが見てとれる。

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本郷・高良玉垂神社社殿の玉石組基礎

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福岡県太刀洗町春日・平田区の坂本神社


次に、妙見神社・月読神社と物部氏の関連がみられる地域と神社を久留米、耳納山麓、浮羽郡、三井郡に限定して拾ってみた。


1.物部胆咋(八世当主)と高良山妙見神社、高良下宮社

2.弦田物部(天津赤星)と高良内坂口・赤星神社・妙見宮

3.久米物部と久留米市小頭・小頭神社(天手力男命、天鈿女命)境内社月読神社

  久留米市京町・日吉神社・境内社月読神社

4.山本郡草野物部と須佐能袁神社・境内社月弓神社

5.田主丸町二田物部郷と月読神社

6.御原郡本郷物部と本郷甲條神社(天照大神宮)・合祀・倉稲魂命・天御中主神

7.生葉郡物部郷と吉井町横町・高御魂神社(妙見社)、若宮月の丘古墳内・月読宮

8.浮羽姫冶物部と新川妙見宮(高御魂神社)・小塩妙見宮


饒速日命と天鈿女命が共に祀られている神社

1.久留米市大石町・伊勢天照御祖神社 饒速日命と佐岐神社・伊勢下宮豊受神

2.久留米市京町・日吉神社 猿田彦神と天鈿女命

3.久留米市大橋町蜷川・箱崎八幡神社 矢五郎と保食神

4.久留米市北野町仁王丸・天満神社境内社 幸神社(猿田彦神)と地神社(倉稲魂命)

         仁王丸区には香月姓(物部一族)が多い

5.うきは市吉井町若宮・八幡神社境内社 伊勢宮と猿田彦神


久留米一帯、三井郡、浮羽郡の耳納山麓に結構な数を拾うことができました。


私は考古学には詳しくないので想像の程度になるが、古代の墓制で甕棺墓制は大幡主系民族で主に用いられ、その後、大山祇系民族の九州北上と共に石組技術がもたらされ、石室(石組)の円墳が造られるようになったのではなかろうか。耳納山北麓におびただしい石室の古墳が散在する。特に、二田地区北麓、二田、石垣、平原の三角地帯に石室古墳が130以上密集する。これも二田物部と石組技術が関連していると思う。また、現代でも耳納山北麓の田主丸町では石組を用いた造園業者が多数存在する。二田物部の石組技術が古代より継承されてきたのではないかと思うのである。


田主丸町誌からの抜粋紹介

以前、田主丸町誌編纂室が設置されて、編集員は田主丸町二田が物部郷と確定し調査をおこなっている。しかし、結果的に日本書記以上のことを見出すことはできなかったようである。

この町誌に二田物部と二田月読神社が紹介されてから、東町月読神社と共に広く知れるようになった。


福岡県()浮羽郡田主丸町二田の二田物部について

竹野郡の二田郷の名義は、二田物部という物部一族が住んでいて、二田郷の名が残ったという。平安初期に作られた『新撰姓氏録』をみると、ニギハヤヒ(物部の祖)が天降りするとき、従者の二田物部が同行してその子孫が二田物部になったとしている。

竹野郡の西の郡境に近い山本郡(現 久留米市)に、矢作部(やはぎべ草野町)という所がある。矢を遣る集団として、矢作部(矢部)が置かれたところで、さらに筑後川に面した御井郡の弓削郷(現 久留米市合川町・三井郡北野町)には、弓を作ることを職とする弓削部がいた。ここで作られた弓・矢などが生葉郡の物部や竹野郡の二田物部の手に渡ったり、あるいは百済に送りこまれたりしていたのではないだろうか。筑後川の右岸に位置する肥前国三根郡(現 佐賀県三養基郡北茂安町)にも物部郷があった。これに壱岐島石田郡の物部郷を加えると、生葉郡物部郷-竹野郡二田郷-三根郡物部郷と筑後川を下り、海を渡れば壱岐島につながる。物部大連が朝鮮半島に出兵するときに、真っ先に兵士として動員される村人たちであった。二田物部の人たちも筑後川を有明海に向けて下り、朝鮮半島遠征に駆り出されたものと考えられる。


三夜様

田主丸町の月読神社は別名「三夜さま」と呼ばれる。

この「三夜さま」は月齢が三夜、十三夜、二十三夜の三の日がつく三夜を指していう。

月を愛でる風習は旧暦八月十五夜の満月の「中秋の名月」が有名である。その他に三夜の三日月、十三夜月がある。特に、月齢の二十三夜を「忌み籠りの日」と定め、人々が集まって月の出を待って供物を供え、無事息災を祈り飲食を共にする古い風習がある。月の出を待って月を拝む集りで、二十三夜のことを「さんやまち」といった。今では「さんやまち」は、単に仲間同士が定期的に集まり、飲食する親睦会的な機会と考えられる。旧暦の二十三夜は、満月ではなく下弦の月となり、真夜中に東の空に昇り始める。


十三夜(じゅうさんや)

十五夜(中秋の名月)の後に巡ってくる十三夜をさし、旧暦9月13日のお月見のことを云う。中秋の名月の後なので、「後(のち)の月」とも言われる。十三夜は、十五夜に次いで美しい月だといわれ、昔から大切にされてきた。また、十三夜には栗や枝豆を供えることから「栗名月(くりめいげつ)」「豆名月(まめめいげつ)」ともいわれる。


母親ともども拝んでいると、ある朝、突然母親の目が見えるようになったといいます。

それは天文3年(1534年)正月23日のこと。今日この日は、死んでも忘れんばい。

それで…、今日は何日かいの?

今日は天文3年の正月23日たい。忘れんごと、祠に彫り込んでおこうない

古賀 勝氏の「筑紫次郎の伝説紀行・眼病封じのお三夜さま」より抜粋


田主丸町の月読神社は正月23日が例祭で「三夜さま」と呼ばれる。

上記伝承の23日から「三夜さま」が採られたわけではない。

古代人にとって、月齢二十三夜は特別な夜であったのである。

月暦を採用する「こよみ」では、新月から満月、そして新月になる29.5日を1ケ月とした。暦の1ケ月は30日と29日が原則交互に組み込まれる。実際には30日が続く月もある。すると、1年間は254日となり、1年365.25日に満たない。11.25日足りない。それを補うために約3年に一度閏月を挿入する必要があり、1年13ヶ月となる年を設けた。これによって、暦と季節の関係を調整したわけで、旧暦では閏月の入る年を閏年といい、閏月の入らない普通の年(平年)は1年が353日〜355日、閏年は384385日になった。

閏月は、原則として二十四節気の「中」を含まない月とし、その前の月と同じ月名に「閏」をつけて呼び、例えば「閏五月」というように呼んでいる。


二十四節気

旧暦は、閏月を入れることによって暦と実際の季節の関係を調整するが、それにしても、閏年の前と後では、同じ月日でも30日近く季節が異なってしまう。これでは、暦を元にして農業などを行うわけには行かなくなってしまう。そのため、暦の中に季節を表すものを入れて、この不都合を防ごうとした。これを二十四節気という。

二十四節気は、立春、雨水、啓蟄、春分・・夏至・・秋分・・冬至・・大寒と、全部で24ある。二十四節気は、太陽が一年で一回りする道筋(黄道)を24等分(太陽黄経の15度毎)し、太陽がこの点を通過する日時によって決める(定気法)。このため、二十四節気が暦に記されていれば、そこから季節を知ることが出来る。


旧暦で閏月を入れる機械的法則はない。ただし、「冬至は11月、春分は2月、夏至は5月、秋分は8月にする」という一条を加えて、これに反しない範囲で適当な月に閏月を配置する。そのために、どの月に入れるかで季節感がずれ、特に農業のモミの種まきの時期が季節的にずれることは避ける必要があった。また、1年の時期を正確に知るために、星の位置の観測を行なった。


太陽暦では、春分日を正確に定め、それを起点に何日目に何の日とした。例えば八十八夜の若葉の茶摘、210日の台風襲来というように。よって、春分日を正確に観測する必要があった。春分点は地球の歳差運動により70年に1日ずれていく。また、1年365.25日による閏日の追加が必要であった。そのために古代では春分点を正確に捉えるための春分点観測所を設ける必要があった。


それに対し、月暦では1年の時期位置を星の位置の観測から求めた。その星の観測に適した夜が月齢の二十三夜である。

二十三夜の月は月齢が下弦の日で、真夜中、現地時間で午前零時に東の空から月出する。この時が星の観測の時刻であった。今みたいに時計のない時代は月時計で代用したのだ。そのため東の空から月が出るのを午前零時まで待つ必要があった。それが二十三夜の月出待ちとなり、二十三夜の月待信仰が生まれたのであろう。


上弦の月と下弦の月はどう見える

半月は別名、弓張り月あるいは、弓月と呼ばれる。月の形を弓に見立てた。

そして、弓に見立てた場合に、月が西に沈む頃、その「弦」にあたる「欠け際」が上を向く場合を上弦の月、下を向く場合を下弦の月と呼び区別した。

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http://koyomi8.com/reki_doc/doc_0215.htm


実際に、上弦の月は夕方に南中し、西の空に没する頃は真夜中であり、没する頃の上弦を見ることが出来る。下弦の月は朝方に南中し、西の空に没する頃は真昼であり、没する頃の下弦を見ることは出来ない。下弦の月は真夜中に東の空に月出し、上弦の状態で見ることになる。

よって、現実としては、上弦の月は夕方に南中し、右半分が明るい。下弦の月は朝方に南中し、左半分が明るい、とみた方が理解しやすい。


南中:天体を観測している所から見て、天体が真南に来た時。

日本標準時:太陽が春分日に東経135度にかかった時を正午とする。現在、使用されている時計の時間を言う。よって、九州では正午になっても太陽は南中せず、やや東寄りにある。

天体時(現地時間):太陽がその地点に南中した時を正午とする。


 長々と引用させて頂きましたが、要は、物部二十五部族でも筆頭に掲げられる二田物部の本拠地の一つであったと考えられる福岡県久留米市田主丸町の二田〜石垣〜田主丸町の中心部に掛けて月読神社があり、石○型地名と月読命との関連が見て取れ、石垣とは石貫同様に石城の置換えであり、遠くシルクロードのタシクルガン(中国表記「石城山」)が確認できる事であり、その「石城山」をそのまま表現した山口県光市の石城山に神籠石と石城神社(大山祗を主神とする)を確認できる事から、石○型地名を介して大山祗=月読命という方程式を多少とも読取る事ができ、物部氏の本隊がこの祭祀を持つ人々であった事までもが見て取る事ができるのです。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記