2018年09月10日

ビアヘロ063 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (下)

ビアヘロ063 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (下)

20180723

太宰府地名研究会 古川 清久


 ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の右のリンケージ・サイトに未知の駅 捄フサがあります。

 千葉県在住の女性によるものですが、非常に質の高いトップ・クラスの歴史、地名、神社研究…のブログです。当グループと提携してまだ一年にもならないのですが、我々が最も重視している、千葉、茨城の東関東から福島(阿武隈山系)をカバーして頂ける素晴らしい研究者と期待しています。

私の予備知識は多摩地区、埼玉(元は前玉)の東としての玉前(前は崎、先でもあり東の意味もあるのです 豊後の国東と同様)程度です。

 このエリアでは、無題.pngのお二人が百嶋神社考古学の立場を理解された上で研究を進められていますが、新たに強力なスタッフが加わられたと考えています。

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さて、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の ビアヘロ060 天照大御神の母神は播磨の佐用町で祀られている “百嶋神社考古学概論入門編 A”を掲載しました。

 無題.png天照と神武が同時代などと言えば通説派の方々は笑い飛ばされるでしょうが、百嶋神社考古学では、呉の太伯の後裔列島大率の子である神武の腹違いの姉大日孁貴(オオヒルメノムチ)が後に対外的にも卑弥呼と呼ばれ、最後に天照大御神と祀上げられた事を知っているのです。

 このため、天照大御神の母神を祀る播磨の佐用都比売神社の境内摂社を取り上げたことから、無理を承知で、神武天皇の母神(我々は神玉依姫と呼びますが)を祀る玉前神社のリポートをお願いしたところ、一週間程度で素晴らしいい報告をして頂きました。

 既に、オンエアされていますので、皆さんも彼女による 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 を他稿と併せお読み頂きたいと思います。


悠久の昔、山の神である鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)が海の神である玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を見初め、契りを結ばれました。そしてお生まれになった神武天皇をはじめとする神々は、海までつながっていると伝えられる井戸から水路を通って、九十九里浜まで流れていかれました。

(同社HPによる)

 では、部分的に重複しますが後篇をお読み頂きましょう。


白子神社 白子町関5364 無題.png



すごい彫刻と男千木以下Wikipediaより永承3年(1048年)八斗村太夫野に大国主大神を勧請し奉祭したことが当社の創祀という。その後、大治元年(1126年)里人が海岸で潮を汲んでいると南方沖より白亀が漂着し、その甲羅の上に白蛇がわだかまっていた。

霊感を感じた里人が「神様ならお登り下さい」と潮汲みの柄杓を差し出すと柄を登ってきたので、これを神と崇め八斗村太夫野の社へ合祀したと伝えられている。

久安3(1147年)に現鎮座地の関へ遷祀し、治承元年(1177年)千葉氏の祈願所と定められ、宝永5(1708年)には正一位の極位を授けられ白子大明神の社号を賜った。

近世南白亀郷12ヶ村の総鎮守であり社号は白子町の町名の起こりである。

宝暦12(1762年)再建の現本殿と、矢大神(随神像)は、白子町の有形文化財に指定されている。

また境内の樹木群は白子町の天然記念物に指定されている。

甲羅の上に白蛇がわだかまっている白亀なんて、まんま玄武ですね。白子神社の側を流れる川の名前も伝説にちなみ、「南白亀川ナバキガワ」といいます。

玄武は北斗星信仰の妙見神と関わりが深いです。

千葉神社の妙見神は童子の姿で玄武に乗った姿で顕現したといいます。

白子神社の北辰大帝は北極星を神格化した神様で星空で唯一動かない星であることから、大陸では皇帝を表す「天皇大帝」と呼ばれました。

他にも「太一」や「妙見菩薩」とも同一視されています。白子神社では「北辰大帝」と称しています。

「白」の字の点が龍の顔に見えます無題.png

この「北辰大帝」こそ神玉依姫のダンナさんである「呉の太伯君」ではないかと考えています。


無題.png県内にたくさん星信仰の神社がありますが北辰大帝を奉斎する神社はいまのところ白子神社しか知りません。

そして白子町という町名の由来にもなった白子です。白族出身である神玉依姫に縁があるとしか思えないネーミング。族の孫の住む地、という意味でしょうか。

そして白子町を中心に広がる、ある小字の存在に驚きました。一宮の玉前神社から九十九里町まで、海岸線から内陸約1キロ付近に同じぐらいの間隔をあけて八大龍王が祀られています。

八大龍王は天太玉命(豊玉彦)の別名で、神玉依姫は彼から見ると父の姉です。

注目したいのが、その鎮座地の地名なのです。

なんと「龍宮」という言葉が使われているのです。

地籍までは調べられなかったので正確な小字名が不明な鎮座地が多いのですが列記すると、一宮町新地甲字龍宮下  諏訪神社がある一宮町一宮字龍宮・下龍宮  八雲神社がある一宮町東浪見字龍宮台  八坂神社がある長生村一松丙字龍宮台に鎮座、ほか上龍宮・中龍宮  海神社長生村一松戊  龍宮神社白子町古所字龍宮下・龍宮後・龍宮台  龍玉神社白子町八斗字北龍宮台・南龍宮台・龍宮台・龍宮下  八龍神社白子町幸治字龍宮  八大龍神社白子町驚字龍宮下  面足神社がある白子町剃金字龍宮台  八龍神社白子町五井字龍宮台  八大龍神白子町浜宿  龍宮神社白子町南今泉  竜神神社白子町牛込字竜神下  龍野神社大網白里市北今泉字北龍輪・北龍輪下・南龍輪・南龍輪下・竜神後・竜神前  八大龍王九十九里町真亀  龍宮神社九十九里町細屋敷  龍神社九十九里町粟生  龍神神社・龍神社以上19カ所。龍に関係のない神名の神社は、もしかしたら境内社に龍神が祀られているかもしれません。

地図の青いマークをご覧ください。

これは古代の海岸警備地の跡なのではと感じました。

玉前神社が創建された頃ではなく、もっと後の時代の事だと思いますが、厳重な警備をしなければならない理由が白子神社にあったのかもしれません。

等間隔で警備員を置いた「龍宮台」、そこには守るべき「龍王」がいた、なんて想像するとワクワクしますね!!でも神社の創建より北辰大帝が祀られたのは後じゃない?という声が聞こえましたよ!私もそう思っていたのですが、とある事実を知り納得がいったのです。

それが私幣禁断に類似する禁令です。

以下Wikipedia。私幣禁断とは、一般には天皇家の祖霊を祀る伊勢神宮を天皇・皇后・皇太子以外が祀ることを禁じたことを言う。これに似た内容の禁令が以下のように出されている。

796年日本の天皇は北斗七星を祀ることを禁じた。罰則として 「法師は名を綱所に送り、俗人は違勅の罪に処せ」 と規定した(『類聚国史』 「延暦十五年」)。

799年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「京畿の百姓」 に 「北辰に灯火を奉る」 ことを禁じた(『日本後紀』 「延暦十八年九月」)。811年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「北辰を祭り、挙哀改葬等の事」 を禁じた(『日本後紀』 「弘仁二年九月一日」)。

835年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「京畿」 での 「北辰に火を供えること」 を禁じた(『続日本後紀』 「承和二年八月二日」)。967年施行の 『延喜式』 は斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「九月一日より三十日まで、京畿内、伊勢、近江、等の国、北辰に奉灯し、哀を挙げ、葬を改むる」 ことを禁じた。なお、1811年伊勢神宮の私幣禁断は解かれたが、北極星および北斗七星の祭祀解禁の時期は不明である。このことからわかるのは@北辰信仰は一定の時期、禁止されていたA北斗七星への星信仰は長く禁止されていたB北斗信仰は天皇家の祖霊に繋がる?です。これを知って、あ〜だから妙見信仰の粟飯原氏は千葉氏と手を組んだのか〜とか、白子神社ももしかしたら隠して奉祀していた御祭神を完全にOKになってからやっと表に出したのかな〜とか、表に出すために白亀と白蛇の話が生まれたのかな〜とか、でも「白」に拘るところがやっぱり白族だな〜とか、いろいろ考えてしまいました。白子神社本殿の神紋は忌部を現わす三光紋。それなのに祀られているのは大宜都姫ではなく男神。やはり神玉依姫のダンナさんの太伯君じゃないかなーと思うのです。そしてトドメの証拠なコチラ。玉垣神社睦沢町下之郷371現地取材に行けていないので画像がありません、スミマセン。

グーグルマップで見ていただきたいです(土下座)平城天皇が創建した六社の一つで元は若宮神社でした。御祭神はなんと神日本磐余彦なのです!神玉依姫の御子=若宮だから若宮神社だったのです!何時から玉垣神社に社名が変更になってしまったのか不明ですが、これも正体を隠そうとしての事だと思います。これまでに県内で何度か「神武天皇」の板碑や石碑は見たのですが、大きな神社で、しかも「神日本磐余彦」での奉斎は初めてです。玉垣神社鵜羽神社は平城天皇が創建した六社及び現在上総十二社祭に参加している12社の中でも別格扱いです。この事実からも玉前神社と深く関係する神社であることが読み取れます。

ただし一つ残念なのは、現在の玉前神社は元々の鎮座地ではないということです。

実はすでに安房国一宮安房神社、下総国一宮香取神宮も取材しているのですが、他の一宮に比較して規模が小さすぎる!!摂社末社も少ない!!おかしい!と思い玉前神社の歴史を調べたところ、永禄9年(1566)に里見氏と北条氏の対立による戦禍で一宮城が落城、玉前神社も焼失していることが判明。

この時社家を含む城兵300名余りが御神宝を奉じて海上郡守・海上刑部左衛門常忠を頼り飯岡に逃れます。なぜなら飯岡には玉之浦(現在の九十九里海岸)を挟んで一宮・玉前神社と対になる、もう一つの玉崎神社が鎮座していたからです。途中敵の襲撃を受け東金市田間にて草叢に隠れて一夜を明かしますが、闇の中御神宝が輝き里人に発見されました。

しかし事情を知った里人から情を受けて無事に飯岡へと向いました。

里人はこの出来事から当地に玉崎神社を勧請、村の名前も「玉村」となったといいます。(現在は「田間」になっています)その後、玉前神社の御神宝はしばらく飯岡の玉崎神社にありましたが天正5年(1577)に一宮町に戻ります。

しかしすでに宮地の所有権が変わっており困ったようですが、里見義頼が土地を寄進して復興できたといいます。(現宮地は義頼が寄進した地ではないそうです)では元はどこにあったかですが、私は城山公園付近に鎮座していたのではないかと考えています。

ということでFloodMapsで海の高さを+20mに設定した地図をごらんください。

見えますか?上総国一之宮玉前神社の文字。海の底ですね。海の高さを+20mにした根拠は、実はもう千葉県の一宮はすべて取材しているのですが、創建年代は古い順に書くと安房神社→玉前神社→香取神宮だと考えておりまして、安房神社で発見された古代海人の遺骨があった海蝕洞窟が海の側にあったとしてFloodMapsを調整すると+30mなのです。縄文海進は次第に海水が引いていったので、玉前神社では+20mとしました。


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ちなみに玉垣神社と鵜羽神社はこうなります。

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水際に鎮座する形になりますね。現・一宮町に神が上陸したのは釣ケ崎海岸であったと伝承は伝えます。

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東京オリンピックではここがサーフィン大会の会場になるそうです。伝承ではこの海の沖に豊玉姫の化身の鰐鮫がいるとのこと、サーファーの人達を見守っておられるのでしょう。

釣ケ崎の地名由来は山幸彦が釣りをしたから、という「海幸山幸」の物語の舞台が当地ということになっています。九州の伝承がそのまま伝わっているところからも黒潮に乗って船で遥々やってこられたんだな〜と感じます。「上総十二社祭」では当地に御神輿が集結します。千葉県では御神輿の御浜下りが普通なのですが、この神事も他の土地から船で渡ってきた祖霊を想っての儀式なんだろうなと思います。海を渡ってきた神々が水浴びをしたという地がこちら。


神洗神社一宮町綱田

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こちらは玉前神社の元宮であると言われています。玉前神社の宮司さんも認めておりました。

神洗池長い船旅で塩でベトベトだったでしょうから、真水は嬉しかったでしょうね。

特に女性であれば猶の事。こちらは海の高さが+20mだと・・・

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ちゃんと地上ですね。神々は上陸して割とすぐに真水を発見できたのでしょう。最後に玉前神社・白子神社の境内社を記載します。玉前神社の境内社本殿からは遠い場所にそれぞれ鎮座してました。

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十二神社・・・一宮町内にあった12社を合祀した神社愛宕神社  軻愚突智命八幡神社  誉田別命三島神社  事代主命白山神社  白山比売命日枝神社  大山咋命山神社   大山祇命浅間神社  木花開耶姫塞神社   八衢比古命・八衢比売命・久那斗命蔵王神社  大物主命粟島神社  少彦名命熊野神社  櫛御毛野命水神社   罔象女命

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三峯神社 不明

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稲荷社  不明 白子神社の境内社 本殿の後方、左右に鎮座。

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八幡神社 誉田別尊(本殿からみて右に鎮座) 仮安置 子安神社 木花咲耶姫大神

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面足神社 面足尊(本殿からみて左に鎮座) 仮安置 須勢理姫大神・事代主大神

オマケ 今回の取材で一番のオドロキ↑イケメン様!!!これからは面足尊をイケメン様とお呼びいたします。


お分かり頂けないかもしれませんが、息を呑むばかりのほぼ完璧なリポートを頂きました。

 これで、この間頭の片隅に張っていた蜘蛛の巣が解消されました。一点、加えれば、「●三峯神社 不明」は北関東、埼玉は秩父市の三峰神社と考えます。浅田真央さんが御注進の神社で参拝客急増の神社で、三つ鳥居(殷の鳥居)から金山彦〜長髄彦系の神社と思います。これについても、スポット110 三峯神社の殷の鳥居 ”金山彦系神社(埼玉県秩父市)”としてひぼろぎ逍遥に掲載しています。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2018年09月13日

495 肥後、薩摩国境の温ノ谷に息づく神社を参拝して見た “水俣市湯ノ鶴温泉の湯出神社”

495 肥後、薩摩国境の温ノ谷に息づく神社を参拝して見た “水俣市湯ノ鶴温泉の湯出神社”

20171103

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 不知火海沿岸の人々の人生を水俣病と言う国家ぐるみの作為と不作為によって台無しにされたのが、旧厚生省とチッソの城下町であった水俣市ですが、水俣病が顕在化し始めた当時、市街地に住んでいる人々は薄々窒素の毒水が入った魚は危ないとして水俣湾で捕れた魚が売れなくなり、影響を深刻に理解していなかった山で売られていたことから、町から遠く離れた山でしか水俣湾の魚が売れず、こうして市街地から遠く離れた山間部にも水俣病が拡散されたのでした。

 丁度、福島の米とか魚などが深刻に意識されていない西日本で格安で売られている事と同じ現象がかつても起こっていたのでした。

 一般的には水俣湾に臨む湯ノ児温泉が知られていますが、アクセス道路の不備から今や人波が消えた忘れられた温泉の谷が湯ノ鶴温泉でした。

 数十年前、鹿児島県側の山側から、一度、訪れた事があったのですが、この地域に足を踏み入れていない事を思い出し、今般、熊本で集まりを持ったついでに足を延ばしたのでした。

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早速、「熊本県神社誌」の水俣市の部分を調べましたが、全く掲載されていないのです。

 相撲場、桟敷席もあり、それなりに古い神社である事は分かるのですが、全く掲載されていないと言う事は、この地が薩摩藩との国境の要衝の地であり、侵攻路の集落であった事が関係していたのかも知れません。

 これについては熊本県神社庁で調べて見るつもりですが、どうせ何も分からないのではないかと思うばかりです。

 後は自分で判断するしかありません。

 幸いにこの神社は顔の見える神社であり、とりあえず由緒書だけは残されていました。


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神社の由緒書きをそのまま信じるかどうかは絶えず意識していますが、ここには他に摂社、境内社の類が存在しない事から、この縁起は真実を伝えていると思われます。

 まず、一般的に肥後に出雲の神様が祀られていると言うこと自体が不釣り合いである上に、無理して偽装するならば、肥後に出雲の神様を持ち込むはずはないからです。

 ただ、この事によって、通常、大国主命が肥後に祀られないと理解されるのは短絡になりますので敢て否定申し上げておきます。

 熊本市西区の西里付近の川東大名己貴神社は隠れた大国主命祭祀の痕跡ですし、山鹿市志々岐の志々岐阿蘇神社の最奥部に大国主命祭祀(大国主大明神)の巨大神額が残されており、江戸時代までは普通に大国主命が祀られていた事が分かるのです。

 これ以外にも大国主命祭祀の痕跡はあるはずなのですが、肥後はその痕跡潰しが著しかったという印象だけは深まっています。

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狭い谷間に五軒ほどの旅館が並ぶ湯ノ鶴温泉


 肥後の最辺境部だからでしょうが、ここにも大国主命祭祀を発見した事はそれなりの発見でした。

 神社庁関係者の方に逆にお尋ねしたいのですが、何故、この神社が神社誌に掲載されていないのか?また、何故、出雲の神様とされる(あくまでもされるですが…)大国主命がこの僻陬の地に存在しているのかを御説明頂きたいものです。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


この大国主命祭祀問題については ひぼろぎ逍遥 492 百嶋神社考古学が描く列島の古代 A 全国の九州王朝論者の皆さんに! “出雲神話とは” を読んで頂きたいのですが、今のところこの現象の解析については、幾つかの仮説を立てています。

百嶋由一郎最終神代系譜を見て頂ければお分かりの通り、大国主命は大山祗(トルコ系匈奴=熊襲)と埴安姫(雲南省昆明から海南島を経由して列島に進出した白族)の間に産まれた大幡主(博多の櫛田神社の主神でヤタガラスの父神)の配下の入ったプリンスなのです。

当然にもコノハナサクヤヒメとその父神である大山祗は、西都市の都萬神社や石貫神社で祀られており、石貫神社正面には大山祗命の墓とされる古墳(第2古墳群)までがあるのであって、宮崎県都農町に鎮座する日向国一の宮の主祭神が大国主命である事を考え合わせると、球磨川以南の南九州にはこのトルコ系匈奴と考える人々が大量に侵入し、北の卑弥呼の一族を圧倒していた時代が存在していたのではないかと考えています。

このため、球磨川流域でも大国主命、大山祗祭祀を確認しており、九州王朝の中期と考えていますが、この祭祀形態が筑後川流域にまで広く展開していた時代があったのではないかと考えています。

と、ここまでは言えるのですが、そのまま直線的に平面化して良いかどうかは、まだ疑問を持っています。

と、いうのは、大国主命、大山祗祭祀の基層に菅原神社系祭祀(勿論道真は象徴でその両親を意味する二つの流れ)を発見する事が多い事から、その痕跡がどこかに残されていないかを考えていました。

すると、観光用掲示板の隅でしたが、集落の下手にもう一つの神社を見出しました。

 一般的に肥後の神社は阿蘇系ばかりと考えられているようですが、肥後の3500社を考える時、1300社が菅原系であるという事実があります。

 そう考えて、その神社を見に行くと、案の定天満宮でした。

 つまり、この集落の下層には、道真に象徴される、両家(金山彦系と大幡主、ヤタガラス系)祭祀が存在していた可能性を思わせるのでした。

 そう思って街並みを散策していると、菅原系に見掛ける梅鉢紋が認められる事に気付きました。

 やはり、大国主命祭祀が覆い被さってくる前には、確実にスサノウ系、金山彦系祭祀が存在していた事が見て取れるのでした。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:15| Comment(0) | 日記

2018年09月15日

496 大分県豊後大野市への神社探訪 “朝地町梨小の神男嶽神社”

496 大分県豊後大野市への神社探訪 “朝地町梨小の神男嶽神社”

20171107

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この間大分県内の名社、大社を駆け巡ってきましたが、今後は目立たない神社もじっくり見て、豊後の神祭りの在り様を掴みたいと考えています。

 実際、豊後大野ほど面白いところはなく、多くの神々が封印されている様に思います。

 11月の三連休、喧噪と渋滞を避けじっくり勉強でもしようとも思ってはいたのですが、あまりにも天気が良い事から何時の間にか飛び出していました。

ただ、豊後の西部である日田市から豊後の東部である豊後大野へは二時間弱掛かるため、今回は湯布院温泉の手前から湯平温泉に抜け、広域林道だか広域農道だかで九重連山の東北側を抜け長湯温泉から朝地町周辺の神社を見ることにしたのでした。

この朝地町は荒城の月の竹田市の東隣にあるのですが、昨今、豊後大野市となった畑作中心のあまり知られない土地です。

当然ながら、なかなか足を踏み入れない土地だけに、その分、凍結された神々がそのまま確認できるのではないかと考えていました。

しかし、そう単純には上手くはいかないもので、豊後大野の神社には祭神が誰かが全く分からない神社ばかりで、原型が保たれている要素はそれなりに評価できるのですが、祭神を特定するのはなかなか容易ではないのです。

大分県には「神社神名帳」があるのですが、県立図書館クラスしか閲覧できないため、購入する方針ではあるのですが、物が出てこないため困っているところです。

まず、最初に見に行ったのは朝地町栗林の鳥嶽神社でしたが非常に分かり難い神社でした。

何度も行ったり来たりしてようやく見つけたのですが、おいそれと見つかるような場所ではなかったのでした。

そこで、夕方も近くなってきた事から、神男嶽神社は翌日に回し、まずは、名湯中の名湯の長湯温泉で疲れを取って(浴槽で一時間半ほど本を読んでいましたが)、その日は車中泊することにしました。

 翌日、早朝から動きだし、この神男嶽神社に向かいました。

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神男嶽神社 カーナビ検索 大分県豊後大野市朝地町梨小295番 


 昨日の栗林の鳥嶽神社に比べれば探し易かったのですが、この神社も普通に考えれば見つけやすい神社とは言い難く、見つけた時はそれなりに感激しました。

 とは言え神社の祭神名など書いて無い事は明らかで、始めから如何なる神社であるかは推定するしかありません。

 元より、ネット情報によっても何も得られるものはありません。それほどマイナーな神社なのです。

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では、何でこのような神社を取り上げたのかと訝しがられるかも知れません。

 その話は後回しにするとして、まずは、社殿を見て頂きましょう。広葉樹の落葉が非常に心地良いです。

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参拝殿と神殿


 神紋もなく、祭神が不明とは言え、この神社の社名と千木から判断するにここの神様はある程度見当が付きます。

ひぼろぎ逍遥(跡宮) 367 健男霜凝彦を祀る神社が久住町にもあった “大分県竹田市久住町久住神社” でも書いた健男霜凝彦を祀る神社ではないかと考えています。

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百嶋由一郎金神神代系譜(部分)


 この祭神問題はまだしばらく時間が掛りそうです。境内には摂社と思われる祠が一つ置かれていました。

お稲荷さんです(下左)。そこで、この神社新築記念碑(下右)の素晴らしさについてお話ししたいと思います。

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 このような神社新築記念碑はどこの神社でも見掛けるのですが、何故、この記念碑に心惹かれたかと言うと、その文章の明晰さとその美しさ、それに大正年間という百年にも近づくものながら未だに欠落のない石材と彫りの素晴らしさに驚いたからでした。

 大正4年に、秋岡、首藤…といった方が中心となって神社が再建されたのですが、残念ながら、この美文を書かれた方の名は掛かれていません。                   神官は和田熊彦氏。

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同社は直入村梨小字志屋の旧村社であり、明治6年に新築されたのですが、大正2年に失火により再建するに至った事が簡潔ながら滔々と書かれていたのです。


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百年を経て立派な文章が良く残っていると思うのですが、神社の再建に際して多くの方がそれぞれの役割を果たし、その任務を受け止める機能が存在していた事が手に取るように分かるものでした。

まずは、石材の良さが良く分かります。

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とても百年近くを経た石碑とは思えない立派な彫りですが、まさに「石に刻め」とは良く言ったもので、現在、これと同等のものが再建できるとは到底思えないものです。

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これも神殿基底部の石垣です。このような不規則な積み方こそが地震に対して最も強靭で、どちらの方向から力が加わっても決して崩れないもので、今のような規則的なコンクリートのブロック積みでは直ぐに壊れ、ボロボロに劣化するのは当たり前で、いずれが強いかは時間が説明する事になるのです。

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研究目的で百嶋由一郎氏の資料を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 22:19| Comment(0) | 日記