2018年09月04日

ビアヘロ062 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (上)

ビアヘロ062 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 (上)

20180723

太宰府地名研究会 古川 清久


 ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の右のリンケージ・サイトに未知の駅 捄フサがあります。

 千葉県在住の女性によるものですが、非常に質の高いトップ・クラスの歴史、地名、神社研究…のブログです。当グループと提携してまだ一年にもならないのですが、我々が最も重視している、千葉、茨城の東関東から福島(阿武隈山系)をカバーして頂ける素晴らしい研究者と期待しています。

私の予備知識は多摩地区、埼玉(元は前玉)の東としての玉前(前は崎、先でもあり東の意味もあるのです 豊後の国東と同様)程度です。

 このエリアでは、無題.png

のお二人が百嶋神社考古学の立場を理解された上で研究を進められていますが、新たに強力なスタッフが加わられたと考えています。
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さて、ひぼろぎ逍遥(跡宮)の ビアヘロ060 天照大御神の母神は播磨の佐用町で祀られている “百嶋神社考古学概論入門編 A”を掲載しました。

 天照と神武が同時代などと言えば通説派の方々は笑い飛ばされるでしょうが、百嶋神社考古学では、呉の太伯の後裔列島大率無題.pngの子である神武の腹違いの姉大日孁貴(オオヒルメノムチ)が後に対外的にも卑弥呼と呼ばれ、最後に天照大御神と祀上げられたと知っているのです。

 このため、天照大御神の母神を祀る播磨の佐用都比売神社の境内摂社を取り上げたことから、無理を承知で、神武天皇の母神(我々は神玉依姫と呼びますが)を祀る玉前神社のリポートをお願いしたところ、一週間程度で素晴らしいい報告を書いて頂きました。

 既に、オンエアされていますので、皆さんも彼女による 上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 を他稿と併せお読み頂きたいと思います。


悠久の昔、山の神である鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)が海の神である玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を見初め、契りを結ばれました。そしてお生まれになった神武天皇をはじめとする神々は、海までつながっていると伝えられる井戸から水路を通って、九十九里浜まで流れていかれました。

(同社HPによる)

 では、お読み頂きましょう。


上総国の龍宮 一宮町 玉前神社 2018-07-16 Mon 00:14


しばらく御無沙汰しておりました。弟橘姫シリーズまだ途中なのですが、HP「ひぼろぎ逍遥」の古川さんからの御依頼でコチラを先にお届けします。


上総国 一宮 玉前神社 千葉県長生郡一宮町一宮3048 一宮町の町名は上総国の一宮である玉前神社が鎮座していることに由来しています。

以下Wikipediaより。

式内社(名神大社)、上総国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。永禄年間(1558-1570年)の戦火により社殿および古記録等が焼失したため、創建年代は不明。他の文献等により、少なくとも鎮座以来1,200年以上経過していることは間違いないとされる。

延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳』では、上総国埴生郡に「玉前神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。

また、上総国一宮として崇敬を受けたとされる。江戸時代、貞享4年(1687年)に現在の社殿が造営される。1871年(明治4年)近代社格制度において国幣中社に列した。1900年(明治33年)と1923年(大正12年)には社殿等の改修が行われた。取材の一回目が雨だったのでリベンジで晴れの日にも行きました。そのため二種類の写真でお届けします。

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一の鳥居 リベンジの日は丁度夏越しの祓の日でした。

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拝殿 黒塗です。拝殿と本殿を横から

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内陣、神紋は菊だけ

左甚五郎が彫ったという「高砂」の御夫婦、近くで撮りたかった〜!さて、御祭神についてですが、古来より諸説ありまして列記すると、「大日本一宮記」高皇産靈弟生産靈一男・前玉命「神名帳頭註」高皇産靈孫前玉命「神社覈録」前玉命「舊事記」振魂尊子前玉命「国華萬葉記」高皇産靈尊の弟生産靈尊の一男(又、系図に振魂命とあり)前玉命などなど。記録では玉前神社の御祭神は「前玉命」で「男神」だと記されています。ですが玉前神社では御祭神を「玉依姫」としています。地元でも昔から玉依姫だと伝えられていたといいます。では玉依姫は玉依姫でも、どの玉依姫なのでしょうか。

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神社の御祭神でよくお名前を拝見する「玉依姫」ですが、実は三人いらっしゃるのはご存知ですか?

1人目は神日本磐余彦(初代神武天皇)を産んだ「」玉依姫。

2人目は天太玉命と雷古要姫イカコヤヒメ(櫛稲田姫)の娘の「」玉依姫。

3人目は鴨玉依姫と大山咋の娘の「活ハエ」玉依姫。

玉依姫たちは3人いるにも関わらず頭文字が抜けているために、どの玉依姫なのかわからなくなり、

御祭神に関して混乱が生じているようです。何故こんな状況になっているのか。

理由は「活」玉依姫の兄弟・賀茂別雷が子孫に崇神天皇と格付けされハツクニシラススメラミコトになっている事に起因しています。

古事記と日本書紀の中では初代神武天皇の功績が崇神天皇の手柄へとすり替えられています。

この捏造を押し通すには崇神の出自が判ってはまずかったのでしょう。

母が「鴨」玉依姫で妹に「活」玉依姫がいることを伏せておきたかった。

そこで奉斎する神社に頭文字を外すように指示したのが真相だと思います。

ちなみに玉前神社のパンフレットでは「玉依姫」は豊玉姫の妹で鵜茅葺不合の嫁としているので「鴨」玉依姫と考えているようです。


 しかし百嶋先生は生前、玉前神社の御祭神は「神」玉依姫であるとおっしゃっておられました。

今回の取材で何か証拠を得られるかと期待していたのですが・・・ひよっこの私にはわかりませんでした・・・(ガクリ)そこで玉前神社の歴史、近隣の神社との関係、周辺の地理も含めて調査を行いました。その上で判明した事実から検証したいと思います。まず神玉依姫とは一体何者なのかから。彼女は奴国王家・白川伯王の娘で大幡主の姉にあたります。そして姫氏の血を引く「呉の太伯君」の嫁となり神日本磐余彦=神武天皇を産んでいます。玉前神社の神紋に「八咫鏡に御統の内に前の字」があります。御統ミスマルとは古代の装飾品で現代でいえばネックレスの事です。

この神紋はもしかしたら八尺瓊勾玉を現わしているのかもしれません。御神体も玉だといわれており、赤い玉説、黒い玉説があります。また海から発見した玉を納めたという伝承もあるのですが、その数は8個だったり12個だったり様々です。共通して無題.pngいるのは「御靈代が玉」という点なので、これは間違いないと思います。玉前神社と近隣神社で行われる「上総十二社祭」は、海中から8個の玉を発見した際、平城天皇が霊夢を見て玉を奉斎する六社を創建したことに由来しています。

(現在は12社が参加しています)の六社は玉前神社の外、鵜羽神社(睦沢町岩井鎮座)南宮神社(一宮町宮原鎮座 元は宮原神社)二宮神社(茂原市山崎鎮座)三宮神社(睦沢町北山田鎮座)玉垣神社(睦沢町下之郷鎮座 元は若宮神社)です。この中で別格なのは鵜羽神社玉垣神社で、鵜羽神社の御祭神は彦火々出見(長髄彦)・豊玉姫・鵜茅葺不合の御一家です。例祭では他より早く祭礼が始まり、当神社のみ行う特殊神事があります。「一宮町史」によると鵜羽神社迎祭(九月十日)鵜羽神社の神輿、この日に玉前神社へ渡御する。

これには鵜羽神社より神職一名が立会い神輿・諸祭具をきよめ祭儀に列するのが古くからの慣例である。鵜羽神社旧神職毛に伝わる文書によると、鵜羽神社は彦火火出見命・豊玉媛を主神とし大同年間に大山祇尊を伊予国越知郡より分霊奉祀する由が記載され、玉前神社を御祖大明神と称し、渡御は竜宮臨幸の儀式を伝えるもので大同元年丙戌八月といわれる。とあります。

またこの日の直会の為に特殊なし神饌を用意します。

一つ目は「オホリ」または「牛の舌」といわれる9センチ×4、5センチぐらいの大きさの扁平状にした餅で12枚作ったもの。二つ目は「かすかみ」という一宮川で獲った鯔ボラを三枚に下ろし酢で鱠ナマスにし、それを濁酒の粕につけたもので一社伝来の神饌と伝えられているそうです。

また「房総志料続編」には「竜形餅」という平形の大小二枚の餅も記載されており、これは化して鰻に変ずると伝えられています。

これらの神饌は古来より矢前の役を継いできた河野姓の家の者が奉献する品を入れてきた俵状の藁つつみに入れて持ち帰り、後で鵜羽神社境内の小池に投じます。

神使の鰐にあげているのだそうです。

現在鵜羽神社の神輿が玉前神社にくる神事は鵜羽神社のウガヤが玉前神社の鴨玉依姫に会いに来るというストーリーになっています。ですが本来は神玉依姫ですから、解釈としては彦火火出見=懿徳がおばあちゃんに会いにきていることになりますね。ではダンナさんである「呉の太伯」はどこへ行ってしまわれたのか?コチラをご覧ください。


白子神社 白子町関5364 無題.png


すごい彫刻と男千木以下Wikipediaより永承3年(1048年)八斗村太夫野に大国主大神を勧請し奉祭したことが当社の創祀という。その後、大治元年(1126年)里人が海岸で潮を汲んでいると南方沖より白亀が漂着し、その甲羅の上に白蛇がわだかまっていた。

霊感を感じた里人が「神様ならお登り下さい」と潮汲みの柄杓を差し出すと柄を登ってきたので、これを神と崇め八斗村太夫野の社へ合祀したと伝えられている。

久安3(1147年)に現鎮座地の関へ遷祀し、治承元年(1177年)千葉氏の祈願所と定められ、宝永5(1708年)には正一位の極位を授けられ白子大明神の社号を賜った。

近世南白亀郷12ヶ村の総鎮守であり社号は白子町の町名の起こりである。

宝暦12(1762年)再建の現本殿と、矢大神(随神像)は、白子町の有形文化財に指定されている。

また境内の樹木群は白子町の天然記念物に指定されている。

甲羅の上に白蛇がわだかまっている白亀なんて、まんま玄武ですね。白子神社の側を流れる川の名前も伝説にちなみ、「南白亀川ナバキガワ」といいます。

玄武は北斗星信仰の妙見神と関わりが深いです。

千葉神社の妙見神は童子の姿で玄武に乗った姿で顕現したといいます。

白子神社の北辰大帝は北極星を神格化した神様で星空で唯一動かない星であることから、大陸では皇帝を表す「天皇大帝」と呼ばれました。

他にも「太一」や「妙見菩薩」とも同一視されています。白子神社では「北辰大帝」と称しています。



「白」の字の点が龍の顔に見えます無題.png


この「北辰大帝」こそ神玉依姫のダンナさんである「呉の太伯君」ではないかと考えています。


県内にたくさん星信仰の神社がありますが北辰大帝を奉斎する神社はいまのところ白子神社しか知りません。

そして「白子町」という町名の由来にもなった「白子」です。白族出身である神玉依姫に縁があるとしか思えないネーミング。族の孫の住む地、という意味でしょうか。

そして白子町を中心に広がる、ある小字の存在に驚きました。一宮の玉前神社から九十九里町まで、海岸線から内陸約1キロ付近に同じぐらいの間隔をあけて八大龍王が祀られています。

八大龍王は天太玉命(豊玉彦)の別名で、神玉依姫は彼から見ると父の姉です。

注目したいのが、その鎮座地の地名なのです。

無題.pngなんと「龍宮」という言葉が使われているのです。

地籍までは調べられなかったので正確な小字名が不明な鎮座地が多いのですが列記すると、一宮町新地甲字龍宮下  諏訪神社がある一宮町一宮字龍宮・下龍宮  八雲神社がある一宮町東浪見字龍宮台  八坂神社がある長生村一松丙字龍宮台に鎮座、ほか上龍宮・中龍宮  海神社長生村一松戊  龍宮神社白子町古所字龍宮下・龍宮後・龍宮台  龍玉神社白子町八斗字北龍宮台・南龍宮台・龍宮台・龍宮下  八龍神社白子町幸治字龍宮  八大龍神社白子町驚字龍宮下  面足神社がある白子町剃金字龍宮台  八龍神社白子町五井字龍宮台  八大龍神白子町浜宿  龍宮神社白子町南今泉  竜神神社白子町牛込字竜神下  龍野神社大網白里市北今泉字北龍輪・北龍輪下・南龍輪・南龍輪下・竜神後・竜神前  八大龍王九十九里町真亀  龍宮神社九十九里町細屋敷  龍神社九十九里町粟生  龍神神社・龍神社以上19カ所。龍に関係のない神名の神社は、もしかしたら境内社に龍神が祀られているかもしれません。

地図の青いマークをご覧ください。

これは古代の海岸警備地の跡なのではと感じました。

玉前神社が創建された頃ではなく、もっと後の時代の事だと思いますが、厳重な警備をしなければならない理由が白子神社にあったのかもしれません。

等間隔で警備員を置いた「龍宮台」、そこには守るべき「龍王」がいた、なんて想像するとワクワクしますね!!でも神社の創建より北辰大帝が祀られたのは後じゃない?という声が聞こえましたよ!私もそう思っていたのですが、とある事実を知り納得がいったのです。

それが「私幣禁断に類似する禁令」です。

以下Wikipedia。私幣禁断とは、一般には天皇家の祖霊を祀る伊勢神宮を天皇・皇后・皇太子以外が祀ることを禁じたことを言う。これに似た内容の禁令が以下のように出されている。

796年日本の天皇は北斗七星を祀ることを禁じた。罰則として 「法師は名を綱所に送り、俗人は違勅の罪に処せ」 と規定した(『類聚国史』 「延暦十五年」)。

799年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「京畿の百姓」 に 「北辰に灯火を奉る」 ことを禁じた(『日本後紀』 「延暦十八年九月」)。811年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「北辰を祭り、挙哀改葬等の事」 を禁じた(『日本後紀』 「弘仁二年九月一日」)。

835年斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「京畿」 での 「北辰に火を供えること」 を禁じた(『続日本後紀』 「承和二年八月二日」)。967年施行の 『延喜式』 は斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「九月一日より三十日まで、京畿内、伊勢、近江、等の国、北辰に奉灯し、哀を挙げ、葬を改むる」 ことを禁じた。なお、1811年伊勢神宮の私幣禁断は解かれたが、北極星および北斗七星の祭祀解禁の時期は不明である。このことからわかるのは@北辰信仰は一定の時期、禁止されていたA北斗七星への星信仰は長く禁止されていたB北斗信仰は天皇家の祖霊に繋がる?です。これを知って、あ〜だから妙見信仰の粟飯原氏は千葉氏と手を組んだのか〜とか、白子神社ももしかしたら隠して奉祀していた御祭神を完全にOKになってからやっと表に出したのかな〜とか、表に出すために白亀と白蛇の話が生まれたのかな〜とか、でも「白」に拘るところがやっぱり白族だな〜とか、いろいろ考えてしまいました。白子神社本殿の神紋は忌部を現わす三光紋。それなのに祀られているのは大宜都姫ではなく男神。やはり神玉依姫のダンナさんの太伯君じゃないかなーと思うのです。そしてトドメの証拠なコチラ。玉垣神社睦沢町下之郷371現地取材に行けていないので画像がありません、スミマセン。

グーグルマップで見ていただきたいです(土下座)平城天皇が創建した六社の一つで元は若宮神社でした。御祭神はなんと「神日本磐余彦」なのです!神玉依姫の御子=若宮だから若宮神社だったのです!何時から玉垣神社に社名が変更になってしまったのか不明ですが、これも正体を隠そうとしての事だと思います。これまでに県内で何度か「神武天皇」の板碑や石碑は見たのですが、大きな神社で、しかも「神日本磐余彦」での奉斎は初めてです。玉垣神社鵜羽神社は平城天皇が創建した六社及び現在上総十二社祭に参加している12社の中でも別格扱いです。この事実からも玉前神社と深く関係する神社であることが読み取れます。

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百嶋由一郎 極秘香良洲宮神代系譜


百嶋由一郎が残された音声CD、手書きスキャニング資料、神代系譜が必要な方は09062983254まで

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2018年09月06日

493 百嶋神社考古学が描く列島の古代 B 全国の九州王朝論者の皆さんに! “列島は多民族国家” 

493 百嶋神社考古学が描く列島の古代 B 全国の九州王朝論者の皆さんに! “列島は多民族国家” 

20171103

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 ここ十年あまり、今では全くのタブーとされている「日ユ同祖論」を含め、まだ、戦前など昔の方が余程自由な研究が(少なくとも自由な発想が許容されていた)許されていたのではないか…?という思いを深めていました。鳥居龍造を含め冒頭に触れようと思っていましたが、松岡正剛氏の「千夜千冊」に書かれていた一文が私の気持ちをそのまま表現していた事から冒頭から引用させて頂きます。

 その点、日本の古代史学会ほど閉鎖的で硬直化したものはないようで、このままでは、いずれ世間から相手にされなくなるのではないかとさえ思うものです。

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日本が単一民族の国だというふうになったのは、古いことではない。古いどころか、日中戦争や太平洋戦争以前は日本は多民族国家として位置づけられていた。大日本帝国の時代はむしろ日本は多民族国家・混合民族論を標榜したがった。日本が日本を単一民族国家と見るようになったのは、戦後のことだったのだ。

このような、ある意味では意外に思われそうな“結論”を指摘するために、著者が本書でしてみせたことはまことに重厚で詳細をきわめた作業であった。まだ40歳をこえたばかりの慶応大学の相関社会学の教授(東大農学部出身)。「日本人の自画像の系譜」が副題だ。

 この大著のあと、著者はさらに、台湾・朝鮮などの植民地における日本人意識を検証した『日本人の境界』、戦後ナショナリズム議論を追った『民主と愛国』(いずれも新曜社)を問うた。次々に大著になっている。やはり目を洗われた。

 ただし、本書の議論を短いスペースに要約するのはなかなか難儀である。近代日本の民族論そのものがあまりに紆余曲折していたからだ。それゆえここでは、ごくごく大雑把な紆余と曲折を示すにとどめる。このような大雑把な概括は著者の意図を正確に伝えないことになりかねないが、以下の記述に関心があるのなら、できれば本書そのものに当たってほしい。


 思えば、故)百嶋由一郎氏の研究も「日ユ同祖論」の要素が強く反映されており、多くのヘブライ系民族が大陸から半島へそして列島へと大量に雪崩れ込んでおり、その事を意識する事無く古代史を云々する事には、正統性もなければ科学性もなく、非常に視野の狭い独り善がりの暴論の誹りを免れないのです。

 現在、ヘブライ系民族の大量の流入という事実をせせら笑い、権威を振り翳す学会通説派や神○庁のような利権集団はどうでも良いとしても(ネット社会からAI=Artificial Intelligence; AI社会の深化からそのうち信用されなくなり相手にされなくなるだけですから)、それに対抗しようとするあまり自らも自己規制しているのが九州王朝論者の人々で、彼らの口からもそういった話が全く聞こえてこないのです。

 何やら、そういう話をすると、さも、学問的ではないと考え自ら控えておられるからではないかと思うのですが、元々、敵視され無視され続けた九州王朝論者が今さら自己規制しても仕方がないはずなのですが不思議です。

 列島には多くの古代民族が入っているのですが、全てのお話をするのは手間が掛かりますので、多くの話の中から、まずは、象徴的な一例である、支那人が列島人(日本人)になっているという話をしておこうと思います。これは、大陸から中国人が一部やって来ているという意味はなく、列島人の最も有力、優勢な大勢力を形成した人々とは日本人などでは無く本物の支那人だったという衝撃的な話なのです。

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これも故)百嶋由一郎氏から貰った資料ですが、石原某太郎が明らかに中国に敵対し、差別語としての「支那人」を使用していた事はご存じの通りですが、これは戦時中に一部で使用された「支那人」の概念を浅薄にも真に受けているだけのことで、列島人が「支那」と表現するとき、深層には親しみを込めた懐かしさ、郷愁のような響きを感じるのは私だけでしょうか?

 そうでもなければ、1940(昭和15)年に上映された映画「支那の夜」の主題歌「支那の夜」(渡辺浜子)は流行していないでしょうし、東宝の看板スターと言われた長谷川一夫と満洲で名を馳せた李香蘭による「支那の夜」も脚光を浴びてはいなかったはずなのです。

 そして、頼 山陽も「見ゆるは山か呉か越か?」とは謳わなかったはずなのです。

 この底流には、明らかに何らかの郷愁なり憧れなりがあり、決して差別意識としての支那ではなかった事が分かるのですが、石原とかネトウヨなど本物の民族派とは異なる異質な右翼(どうせ親米右翼)が「支那」を蔑称として多用しているのです。

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結論を急ぎますが、後に藤原氏と成長し、現在も権力の中枢部に蔓延っている阿蘇氏=多氏=宇治氏=耳族とは、大陸(雲南省麗江)から追われ海南島南西部(黎族自治県など)を経由し天草(苓州)の苓北町から阿蘇に進出した=黎族とは後の列島の主要氏族に成長しているからなのです。


支 那 “雲南省麗江に支那城がある”


ミートキーナ(ミッチーナ)と聞いて何のことか分かる人は、まず、消えたと思います。

もちろん、中印国境に近いビルマの都市の名なのですが、大東亜戦争でも最も悲しく惨めな戦いとなったインパール作戦でも激戦中の激戦の一つ「ミートキーナ攻防戦」の舞台となった土地です。

ビルマ戦線にはいわゆる満州からの南方転用組を含め、久留米を拠点にした福岡、佐賀、熊本の多くの兵が投入されていますので、皆さんの中にも近しい方が犠牲になった話を聞かれた方もおられるかも知れません。

中国、インド、ビルマの国境が集中する、この文字通りの辺境の地名を取り上げることが、後に驚くべき結論に繋がってゆくことになるのですが、まずは、インパール作戦を簡単に説明しておきましょう。

太平洋戦争の西部方面における陸軍の敗北分岐点となったのがインパール作戦でした。

日本軍によるラングーン占領以来、ビルマを追われたイギリス軍は緬印国境の西側まで後退していましたが、インド・マニプール州の州都であったインパールから雲南省を通じて中国蒋介石軍などに軍事物資を送り込んでいました。

これを阻止する目的で昭和十九年三月に開始されたのが同作戦でした。

アラカン山系の大山塊を超えビルマ方面軍の主力三個師団五万の兵力が三方面から進行しますが、満足な補給もないまま損耗率七四パーセントと言われる大敗北を喫して撤退することになったのです。

テーマからは外れますが、この無謀な作戦では第15軍司令官牟田口廉也(佐賀出身)と補給を巡って対立し、あえて命令に背いて独断撤退を行った第31師団長佐藤幸徳中将は「大本営、総軍(南方軍)、方面軍(ビルマ方面軍)、第15軍という馬鹿の四乗がインパールの悲劇を将来したのである」と批判しましたが、現在の福島原発の焦土を見る時、今日の大本営が何であり、南方軍が何であるかを改めて考えざるをえません。

無題.png累々たる白骨と化した多くの兵士たちと同様に、この事実上の国営企業であった東電の原発事故によって振り回された人々の人生も永遠に戻ってはこないのです。

本題に戻りますが、実はこの作戦の激戦地の一つミートキーナが中国(雲南省)発行の地図では「密支那」と表記されているのです。

只の珍しい地名として片付けられそうですが、実は、雲南省の景勝地麗江の周辺にも「支那」という地名が現在も二つ存在し、観光地で水の都と讃えられる麗江には支那城まであるのです。

中でも「密支那」とはそれだけで緊急時に備えて準備されていた「支那」の本拠地、最大拠点(科、品・・・)といった語感を持っています。


支那人

さて、全くの誤解と言うよりも、むしろ陰謀とさえ言うべきですが、“「支那」は「中国」の蔑称”であり、使うことが出来ないかのような話が一般化しています(伝統的な中国共産党による反日キャンペーンに迎合するものが大半ですが)。一方、それに対していたずらに逆らう石原のごとき反中キャンペーンが存在します。歴史の深層を冷静に探索すればそれらから独立した思考を得ることが出来るかもしれません。まずは、一般的伝統的な理解を掴むために、「大辞林」(三省堂)を見ますが、以下のように書いています。他も似たり寄ったりです。

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写真は 雲南省麗江古城


しな【支那】 外国人が中国を呼んだ称。「秦 しん」の転という。中国で仏典を漢訳する際、インドでの呼称を音訳したもの。日本では江戸中期以後、第二次世界大戦末まで称した。

これ自体も正しいかどうかという問題はありますが、それはひとまずおくとして、オリンピックを持ち出すまでもなくCHINA(チャイナ、チィーナ)という国号が「支那」という音の置き換えあり、なお、国際的に通用していることは言うまでもありません。

雲南省の支那

中国大陸の西南部の奥地、「雲南省に玉龍雪山からの水に恵まれた麗江という秀美な都市があり、そこには日本と日本人(阿蘇の民)の源流がある…」との話をしてくれたのは、六十年の永きにわたり研究してこられた孤高の神社考古学者故)百嶋由一郎氏でした。

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写真は雲南省麗江から望む玉龍雪山


この老研究者との縁は阿蘇草壁吉見神社夏の大祭において、一人の女性と知り合い、その女性が氏とのパイプ役になってくれたことから始まりました。

当時もメンバーを増やすために会の宣伝用チラシを持ち歩いていましたが、後日、その女性に熊本県西原村の「鳥子」という地名に関する小論を送ったところ、それを読まれた百嶋先生から、小論「鳥子」の“鳥子の方様”とは「ヤタガラスの末裔の事で彼らが住む土地が鳥子ですよ」との手紙と資料を送ってくれたのでした。

この手紙の中でも最も心を動かされたのは、阿蘇の草壁吉見神社に祀られている祭神(ヒコヤイミミ、カミヤイミミ)は、実は日本神話に登場する「海幸彦」であり彼らの先祖は雲南省の少数民族地帯からやってきたとの話でした。

以前から、倭人はある時代の中国江南の海岸部(福建省、浙江省…)を支那と呼んでいたのではないか(少なくともその地方にいた人々が実際に自らの国土を支那と呼んでいたのではないかと古田武彦氏を含め古田史学の会系の論者が考えている)との説があることを知っていました。

ところが、「支那」という問題の地名が、現実の中国本土に二つあるうえに、近接する中緬国境を越えたビルマ領内にも「密支那」があることを教えられ、さらに、その「密支那」が実はあのインパール作戦の激戦地ミッチィーナ(ミートキーナ)であることにまで気付くに至り、一挙に百嶋神社考古学の凄まじさに恐れ慄いてしまったのでした。

氏も一応は九州王朝論者と自称されてはいますが、お話を詳しくお聴きすると、最早、その範疇は既存の九州王朝論を遙かに越えています。

さて、佐賀県の西域に生まれたこともあり、あのビルマ奥地での(断作戦=援蒋ルートの遮断)の中でもとりわけ悲惨だった雲南派遣軍による騰越(トウエツ)、拉孟(ラモウ)、龍陵(リュウリョウ)、平戞(ヘイカツ)などでの戦いや、ミートキーナ攻防戦などについての戦記戦史はかなり読んでいた事から、直ぐに「密支那」がかのミートキーナであることに気付き一気にその思い入れはチンドウィン川、サルウィン川の大渓谷の底に引き擦り込まれていったのです。

今になって思えば、すでに百嶋神社考古学への地均しができており、最早後戻りができないところまできていたのでしょう。

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写真は 麗江市街


では、その「支那」に入ることにしましょう。


地図には三つの支那地名が確認できます(縮尺の都合により「支那」は一つ表示しています)。


もちろん、普通の地図では無理で、通常は雲南省が発行している現地の地図でしか確認することはできません。


ネット上の「雲南省地図」という中国の日本向けサイトより、少しご紹介しましょう。


雲南省麗江の「支那」、ビルマ(ミャンマー)のミートキーナ、ミッチーナ(Myityina)他にも雲南省にもう一つの支那地名がある。


この一帯への基礎知識を得るために、幾つかのサイトを拾ってみます。




中国西南部の果て、南はラオス、東はミャンマーと国境を接する雲南省は、亜熱帯気候の恵まれた気候風土と、そこに住む少数民族の人々の明るく素直な人柄とによって、世の旅する人の心を刺激するだけでなく、日本人にとっては、人種的ルーツの発生地ではないかという学問的見地からも大きな興味が持たれている。事実、雲南の各地を旅行していると生活・風習・人相から言葉に至るまで、あまりに日本人と似ていることがあるのに少なからず驚かされる。


(…中略…) 


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雲南省は日本人のルーツ、少数民族の宝庫、「動物の王国」「植物の王国」「非鉄金属の王国」など、様々な観点から取り上げらる(ママ)事が多いいため、中国では比較的名の知られた省になっている。(…中略…)古くからの観光地としては奇怪な岩峰群のある石林、シーサンパンナ(西双版納)と呼ばれる南部、大理国で有名な大理、1997年に世界遺産になった麗江(…中略…)ラサに行かずとも標高3300mほどで体験できるチベット風情、シャクナゲを代表とする花雪山等の自然がみどころだ。その他、雲南省の最高峰としてもチベット族の聖山としても名高い梅里雪山(メイリー)を擁する徳欽、多くの火山を持ちミャンマーの国境沿いに位置する騰衝、棚田が織りなす牧歌的な風景が美しい元陽が注目されている。またベトナム・ラオス・ミャンマーへと陸路で国境越えをするのも面白い。日本にない陸の国境を体験することが出来る。ラオスへは長距離バスも走るようになり、アジアハイウエーの構想も進んでいる。またタイ・ラオスへはメコン河を船で下ることも可能になった。
 
アジアの大河長江(金沙江)、メコン(瀾滄江)、サルウイン(怒江)が流れ、25の少数民族を抱える雲南省。まだまだ隠れた観光地は多い。   
               


この麗江(れいこう)にはかつて少数民族ナシ族の王都があり、現在でもナシ族の人々が多く居住しています。またナシ族のほかにリス族プミ族ペー族イ族が居住し、漢族より少数民族人口の多い地域となっていますが、二〇〇六年には、黎族を題材とした映画「青檳榔之味」(シヨウジャウジアンフ)“漢民族の糞野郎・・・?”が作成されています。


黎 族


黎(レイ、リー)族は、中国55の少数民族の一つで、人口は125万人(2000年国勢人口調査より)、そのうちの117万人が海南省に住んでいます。歴史の記述によりますと、黎族の先祖は紀元前11世紀前からこの地に住むようになったようです。


   黎族は、自民族の言葉、黎語を使い、また、地元の漢民族と密接に交流してきたため、多くの黎族は漢民族の言葉にも精通しています。1957年、ローマ字の形の黎族の文字が作られました。

ところで、山の奥に暮らしている黎族には、古くから女性の体に「刺青」をいれる習慣があります。黎族の女の子は123歳の時、成人式を迎えます。その日、村の女性の長老の主宰による祭祀の儀式が行われ、女の子の顔、首、胴体、手足に自民族を代表する模様を特別な「水」で書いてから、竹や木の葉の茎で作られた針で「刺青」を完成させます。しかし、社会の発展に従って、この習慣はだんだん無くなっていきます。「刺青」をする若者は今ももういません。刺青をしているのは、ほとんど50代以上の女性で千人しかいないといわれ、これから先、この「刺青文化」は消えていく運命にあるでしょう。


無題.pnghttp://japanese.cri.cn/304/2006/12/05/1@80609.htm


なにやら、倭人の刺青を思い出しますが、実は関係があるのです。

黎族は主に中国の海南省に分布する少数民族で、遥かな歴史と自分の特徴ある民族文化を持っています。その中の一つは黥面です。黥面というのは顔や体に模様を描いて黒い色に染めることで、つまり入れ墨のことです。<黎族の黥面は三千年の歴史があり、世界民族の中でも珍しい文化です。


欠端 實 (麗澤大学教授「神話(説話)が運ばれた道」


   雲南省のハニ族は毎年「祭母」の祭祀をとりおこなっている。その祭りの由来を語る説話が「祭母物語」として残されている。この物語は紅河流域のハニ族の人々だけにとどまらず、東の方は貴州、広西、南海、福建をへて浙江に延び、さらに海を越えて沖縄、九州、関西にまで流布している。西はタイに、北は四川、陝西におよんでいる。民族もタイ族、ハニ族、プーイー族、ヤオ族、黎族、ナシ族、彛族、漢族、日本人と多岐にわたっている。

(比較文明学会のHPより)


この麗江にも黎族(リー族)が住んでいます。 もう少し他のサイトも探ってみましょう。

英語名称:Li 人 口:111万人超

言 語: リー族の言葉。居住地域によって方言に違いがある。漢語も通じる。
文 字: 1957年後、ローマ字形のリー族文字を作ったが、ほとんどの人が漢字を使用する。
信 仰: 原始宗教。キリスト教信者も少数いる。主な生活地域: 海南省 

民族発展歴史:リー族は中国のながい歴史をもつ民族の一つで、昔越族から発展してきたので、チワン族、プイ族、トン族、スイ族、タイ族などの民族とルーツの面で密接なつながりがあり、特に古代の百越の一分支駱越とはさらに密接な関係がある。

早くも秦・漢以前に、駱越の一分支が中国の広東省、広西チワン族自治区などの地域から続々と海南島に移住してきた。

リー族は自称がたくさんある。例えば「孝」「岐」「美孚」「本地」などがそれである。リー(黎)は民族名として唐の末期に始り、11世紀の宋の時代以後正式に史籍に記載されるようになった。リー族の女性は紡織に精通していて、宋の時代の末期、元の時代の初めに、紡織の工匠の黄道婆がかつて海南島でリー族の女性に紡織技術を学んだことがある、先進的な紡織道具と技術を作り出し、中国古代科学技術の発展のために貢献した。リー族が居住している海南島は亜熱帯に位置し、気候が温暖で湿潤である。景色が美しく、四季は常緑で、物産が豊富である。農業が発達しているとともに、ゴム、サトウキビ、果物、植物油などの熱帯経済作物もわりに高い発展水準を示している。           中国「旅行情報」


肥後人のルーツは雲南省麗江


まず、中国大陸は太古より漢族の土地だったという訳ではありません。

中国本土、いわゆる中原が絶えず北から遊牧民族の南下に晒されてきた事は知られていますが、一つの説として、現在の雲南省、貴州省、四川省、浙江省、福建省、広東省・・・などの辺境部を中心に分布するビルマ、タイ系の少数民族は漢族に追われ、現在のような山岳地帯に住むようになったのであり、それ以前は江南の海岸部は元より、長江全域から山東省の付け根辺りまで住み着いていたのではないかと言われているのです。

つまり、中国の古い時代の先住民はこれらの人々で、九黎、つまり九派の黎族だったというのです。

問題はその時期です。紀元前1000年辺りから始まり、日本でも良く知られた春秋戦国期の呉越の人々の移動、避難民もその中の一つだったのです。

「臥薪嘗胆」の故事は著名ですが、呉は越に越は楚に楚(楚もソウと発音)も秦に滅ぼされ、後の漢の武帝の時代に漢族は江南から最大版図を形成します。

呉も越も実際には越族と言われていますが、大雑把に言えば、この越の人々こそ広義の黎族であり、特に南に追われたのがベトナム(越南)であり、海に逃れたのが倭人であり、山岳地帯に逃れたのが、現在、苗族に象徴される三苗だったのです(後に苗は漢化する)。
 この黎族はさらに広く展開し、インドの東北部にも、ビルマからの独立運動を続けるカレン族もその一つなのです。ここで、日本にも呉、越の民が入っているのではないか?ということが言えそうです。

それは、越の人々は海との関わりが深いからです。広島には呉がありますし、越前、越中、越後があるではないですか、そして、呉(春秋戦国の呉)の後期の首都、姑蘇地名(菊池市にあったことが文献上残っています)や姫姑蘇神社(小郡市・・・他)なども。

彼らが肥後人のルーツであると言えばお叱りを買うでしょうか?極端に表現すれば、中国に支那地名を残した黎族こそ鹿児島、熊本に入ってきた人々であり、日本人こそ支那人なの(だった)です。

だから現在の中国人は異人種の異民族の漢族であり、支那人ではないのです。

この戦慄をさえ覚える説を唱えられているのが前述の故百嶋先生です。

百嶋先生によると、何世紀にも亘って漢族に追われ続けた黎族は、最終的に雲南省の最奥部に逃れ、そこさえも安住の地とはならず、起源前後のある時期に、一派は省都昆明の辺りから紅河(フォンガ)を下り、ハノイ沖に、また、一派は密支那から瀾滄江(メコン川)を下りサイゴン沖に出、黒潮に乗り海南島の南西岸に逃れたと言うのです(下図は海南島南西部)。

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紅河ハニ族イ族自治州は雲南省東南部に位置します。 昆明市の真南に位置する州で、 南部をベトナムと接しています。

2763.とてつもない日本の歴史2

日本古代史は中国古代史と繋がっている。中国史は複数民族がいたために民族興亡史でもある。今の中国領土の大きさはEU(欧州連合)と大体同じ大きさであり、そこには複数民族がいたし、今も複数民族で構成されている。中国古代史もこの民族の戦いだった。この民族戦争で負けた方の民族が日本に逃れてきたことが、近年の考古学の調査で分かってきた。

1973年・1978年の発掘調査で発見された浙江省余姚市の河姆渡遺跡(かぼといせき)は紀元前6000年〜紀元前5000年頃のものと推定され、大量の稲モミなどの稲作の痕跡が発見された。稲作を行っていた事からその住居は高床式であった。またそこの稲はジャポニカ米であり、その原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られる。日本の稲作もここが源流と見られる。今までは稲の原産地は雲南地域を思われていた。

中流域の屈家嶺文化(くつかれいぶんか、紀元前3000 - 紀元前2500年)・下流域の良渚文化(りょうしょぶんか、紀元前3300 - 紀元前2200年)の時代を最盛期として、後は衰退し、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されている。黄河流域の人々により征服された結果と考えられる。ここに住んでいた民族は苗族で、台湾の先住民であり、弥生時代に海を渡って日本に来ることになる。

その証拠に、長江の民・苗族の一方は、雲南省などの奥地に追いつめられ、その子孫は今では中国の少数民族となっているが、その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたようだ。

苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されている。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われている。

日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生する文明を持っていたし、そこにやってきた長江の民も、稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であったことで、両者ともに自然との共生し、戦いを望まない人たちであった。このため、生活環境が違うのと戦いを嫌い民族であったことで、共生と平和が確保されたのでしょうね。

河姆渡遺跡が滅亡した時期に日本へ苗族が最初に渡り、日本の岡山県・朝寝鼻貝塚(紀元前4000年)に水田を作り、そこから米の化石が出たことに通じ、長江中流領の馬橋文化は約4千年前から2千7百年前であり、その後、苗族が日本に渡ってきた二陣目が、日本の菜畑遺跡、紀元前700年の水田跡に繋がる。その間の文化も侵略を受けて、徐々に日本に移民したように感じる。ここまでの文明は文字を持たないために、記録がない。

そして、その後に呉(紀元前585年頃 - 紀元前473年)が、この地域にあったが、越に負けて滅亡し、この民族も日本に来た事が分かる。

日本の漢字の読みは呉音である。逃げるなら海しかない。そして、中国では日本人を「呉の太伯の子孫」とする説がある。

このように、中国で負けた民族や王朝は、次々に日本へ来ることになる。古代の船に数家族で来るので、少数であるが重層的な帰化人が日本文明を形作ることになるが、どちらにしても、中国史を見ていないと、日本の古代史は語れない。

現代日本人の遺伝子構成は、弥生時代の始まりを契機に流入した遺伝子がほぼ65%を占めていることから、この苗族など帰化人の影響が大きいことは確かだ。しかし一方で、縄文の文化は後世に継承されている、つまり縄文人を駆逐するまでには至らなかった。例えば、帰化人によって営まれた水田をもつ環濠集落においても、水田稲作用の新しい農具や工具が持ち込まれている一方で、土器などその他多くの道具は縄文時代と基本的に変わらないのが実状で、何よりも縄文の婚姻制は戦後に至るまで継承されている。少数の弥生人と縄文人の婚姻もあったように思う。

 このことから、帰化人が大挙して押し寄せたのではなく、少数の帰化人がバラバラに各地で水稲耕作という安定した食糧供給を背景に、高い人口増加率(寿命の長期化)を保持し、人口増および人口比の逆転をもたらした、とする方が妥当性が高いと思われる。

そして、このようなことから日本の古事記や日本書紀を読んでも、日本の古代史は分からないと言うことである。しかし、古代の全体を知ると、なぜそう記述したかが分かるのである。古い神社にある書物には、ある真実が隠されている。これを調べたのが、原田常治である。

(参考)

大量渡来か少数渡来か(1)http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=24724

国際派日本人養成講座  日本のルーツ? 長江文明

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog304.html

ミャオ族  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ミャオ族(-ぞく、苗族, 英語: Miao)は中国などに住む少数民族である。モン族(英語: Hmong)ともいう。中国では貴州省に最も多く、他に湖南省、雲南省、四川省、広西チワン族自治区、湖北省、海南省などに住むほか、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどにも住む。歴史上移住を繰り返した流浪の民である。

伝説  中国の伝説によれば、紀元前26世紀ごろ華夏の民族(いわゆる「漢族」の原型)の君主・黄帝が蚩尤(しゆう)の民族の討伐作戦を行い、タク鹿(たくろく、河北省と遼寧省の省境付近)で破ったことがあったという。戦いは黄河の台地で行われた。華夏はその討伐地域の悪条件にも関わらずコンパスを用い正確に蚩尤の民族を破る事ができた。一方で敗れた蚩尤の民族はミャオ族と黎族(リー族)に分裂した。ミャオ族はこの後南東方向にむかって移動を続けたという。ミャオ族は漢民族からは「蛮」と見なされ差別を受けたが、一部は周王朝時代に華夏民族と同化したという。

揚子江定住  漢人がこの流浪の民を苗(ミャオ)と呼び始めたのはの先秦時代(戦国時代)であった。そのころ苗(ミャオ)族は、苗民(ミャオミン)、尤苗(ヨウミャオ)、三苗(サンミャオ)と呼ばれ、揚子江流域に住んでいたが、またもや中国の攻撃を受け南方へ移住を始めた。六朝時代に揚子江南部を支配していた南朝は北方民族の侵入に苦しめられており、あまりミャオ族を歓迎しなかったが、五胡による揚子江北部の破壊により、ミャオ族が大量に南朝の領域に入ってきた。中には漢民族と同化することもあったという。

西南中国へ移住唐王朝時代初頭、六朝時代に同化しなかったミャオ族は貴州・雲南など西南中国へ移動した。その後ミャオ族は雲南に南詔を建国したとする説もある。

同化政策と抵抗  ミャオ族が最も多く住む貴州・雲南一帯は13世紀の元王朝によって中国の版図に入った。明代になると、この地域への漢族の移住が多くなり、土着のミャオ族との摩擦が増加、大小100回を越えるミャオ族反乱が起こっている。

清軍の残酷な討伐や弾圧のため、19世紀には多くのミャオ族が東南アジアのタイ・ビルマ・ラオス・ベトナムに移住していった。

言語  苗(ミャオ)族は独自の言語をもち、ミャオ・ヤオ語族(別の表現ではモン・ミエン語族)に属している。この語族に属しているのはミャオ語、ヤオ語以外には中国東南沿海部(福建・浙江方面)に残存しているシェ族の言語だけである。

住む国によって中国語やタイ語などに通じている場合もある。

宗教  精霊信仰(アニミズム)である。

食文化  多くの場合、米を主食とし、野菜、肉類、魚などをトウガラシ、塩、酢などで味付けした副食と共に、13食食べる。漢族の料理に似た炒め物や蒸し物、魚の唐揚げなどの揚げ物もある。もち米で餠を作る習慣もあり、揚げ餅も作られる。豆類も重要な食品である。蕎麦も作り、トウガラシと醤油の味付けで食べる。漢族の習慣に合わせて春節を祝い、餅や豚料理などのハレの料理が用意される。北京など、中国の大都市にはミャオ族料理を出す専門店ができている。

人口データ  全体の人口の内約半数が貴州省に集中している(1990年)。その他以下の省が中国国内のミャオ族の98%が住む地域となっている。貴州省: 3,600,000人 湖南省: 1,550,000人 雲南省: 890,000人 四川省: 530,000人 広西省: 420,000人 湖北省: 200,000人 海南省: 50,000

ミャオ族の中で何千人単位で北京・広州に移住した者もいる。一方タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどには2000万人のミャオ族が住んでいる。


この文書では苗(ミャオ)族は漢族に同化する道を選んだいわば監視役なので、黎族と読み替える必要があるようです。

それはともかくも、内倉武久氏は、2012年久留米大学公開講座(古代史)において、熊襲の源流は中国大陸の少数民族の黎(レイ、リー)族、瑤(ヨウ)族、佘+田(シェ、シャー)族としました。

一方、百嶋研究では雲南省麗江に黎の音を残し海南島に移動した黎族こそが黎族の中心であり、それが天草の苓北火力の苓北町に黎の音を残し阿蘇に入ったとしています(草壁吉見=天皇系図に絡むヒコヤイ、カムヤイミミを奉祭する人々)。その後彼らは日本全土に展開します。支那人の大半は日本人になり、中国本土の支那人は、ほぼ、消えたのです。

詳しくは百嶋神社考古学夏季合宿音声CDで!

最後に、鹿児島県枕崎市に「今給黎」姓をもつ人々が集中する地区があります。これも末裔(加茂)かも知れません。当然ながら、鹿児島市の喜入町も九黎の名を遺したもののようにも思えます。


posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年09月09日

494 高良大社と宮地嶽神社の謎を解くみやま市山川町の謎の神社

494 高良大社と宮地嶽神社の謎を解くみやま市山川町の謎の神社

20171103

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今回は、以前からの懸案であった山川町の山神宮の意味をようやく理解できる端緒無題.pngが掴めましたので、途中経過ながらその一端をご紹介することにしました。

 場所は、筑後、肥後(九州王朝時代の筑紫と肥前の…)の国境の山川町(現みやま市)の南関インターに近い一角です。

 対応が遅れたのは、高良神社が背後に存在する事に気付かなかったからでした。

何度か訪問していましたが、当時は、山神宮の境内地だけを探し、高良神社の片鱗も無い事からそこで思考をストップさせてしまっていました。しかし、メンバーの大石氏はその裏手の小丘の上にも高良神社が置かれている事を掴んでいたのでした。

その事を最近になって教えられ、やっとスタート・ラインに立てたのでした。

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この神社がどれほど重要かは語り尽くせませんが、捏造され塗り潰された列島古代史の一端を垣間見せる筑後でも最も重要な現場がこの二社の祭祀連合体だったのです。

実は、百嶋先生の話を聴いていても、最も理解できなかった部分が、久留米の高良大社と福津市の宮地嶽神社の関係でした。

現在把握できているだけの範囲でお話し致しますが、筑紫舞が継承され九州王朝系と呼んで間違いない宮地嶽神社は、現在、神功皇后と勝村大明神(藤勝村)、勝頼大明神(藤勝頼)を祀る神社とされています。

ネット上でも、この勝村、勝頼という近世風の氏名から古代(若しくは神代)のものではないとして、祭神を宗像徳善とその臣下ぐらい…などと好い加減な見当を付けた意見が提出されていますが、まさに表面だけを浚った通説風の浅い追従論でしかなく、それも、宮地嶽古墳の主を宗像徳善…云々(Nダニ…)といった話が小田富士雄説の修整により潰れた事によっていずれは自然消滅していく事でしょう。

まず、宮地嶽神社は、現在、同社の祭神を神功皇后とその臣下である藤勝村、藤勝頼とされています。

百嶋神社考古学では、高良玉垂命(実は開化天皇)と仲哀死後の神功皇后との間に産れた第二子、第三子(朝日豊盛命、夕日豊盛命=九躰皇子の二子、三子…長子は仁徳天皇)とします。

このため、宮地嶽神社では高良玉垂命を伏せざるを得ない圧力があり、祭神までも変えていると理解しています。

一方、列島最高の権威を持った神宮以上の存在の神社であった久留米の高良大社も、本来は高良玉垂命と神功皇后それに仁徳を祀る神社であったはずなのですが、こちらは神功皇后と仁徳とを隠し全く無関係を装う事を持って生延びたのでした。

何故、そのような事が言えるかというと、筑後の重要な高良宮、玉垂宮といったものには、この高良玉垂命と神功皇后を主神として祀った痕跡が複数あり、それ以外にも、高良神社と、若宮神社として仁徳を祀る祭祀が国東半島を始めとして山梨…全国にも数多く拾えるからです(これについては半端な数ではないので「ひぼろぎ逍遥」跡宮のバック・ナンバーをご覧くしかありません)。

要は、本来、同一の祭祀(宮地嶽神社での高良玉垂命は、まだ、天皇にはなっていない、四王子山から高良山に上り天皇となる)の神社であったものを、宮地嶽神社ではワカヤマトネコヒコを隠し、一方、高良大社ではオキナガタラシヒメを隠す事を持って九州王朝の背骨を押さえ九州を平定したと考えるのです。

これこそが列島の神代と言うよりも古代史の最大の謎の部分であり、全国の九州王朝論者の方々にあってもほとんど理解されていないのです。

それは、フィールド・ワークの欠如(勿論、東北北海道の方々には中々要求できませんが…)による文献偏重が齎したものです。

九州王朝論者でも、ほとんど、百嶋神社考古学の学徒だけが懸命に取り組んでいる状態なのです。

従って、如何に古田精神を継承しようされても、現場に入らない方々ばかりでは、「高良玉垂宮神秘書」に書かれた右の部分の一端さえも理解できずに、95パーセントが嘘(百嶋由一郎氏)と言われた「記」、少しは本当を書いている「紀」の藤原の罠に陥り、通説派にあしらわれてしまう構造にあるのです。

まさに、「記」「紀」をベースに古代の解明をされる方々の熱意と努力には敬意を表しますが、これ以外にも「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)には多くの謎が隠され閉じ込められており(例えば欠史八代と言われる天皇の中にも多くの九州王朝系の臣下が天皇として差し入れられている…)、これらの謎を解明する事無く九州王朝論云々する事は、ほとんど、素振りや空振りに近く、それ以下の「全国邪馬台国シンポジウム」などに取り組んでおられる方々、ましてや邪馬台国畿内説論者などという方々のお話に至っては、ほとんど漫画に近い構造になっているのです。

このような列島古代史の最大の謎であり同時に罠の部分を解明する鍵になるのが今回の山神宮であり、この地が山川町であることも、久留米市の高良大社直下の山川町(校区)に九躰皇子を祀る高良皇子神社、坂本宮が存在している事を意識せざるを得ないのです。

百嶋先生が話されていた事を再構成すると、あれほど重要な天皇と皇宮皇后のご夫婦でありながら、宮地嶽神社でも高良大社でも夫婦別れをさせられている。

それを、年に一度ぐらいは夫婦をご一緒になる様にお祀りをさせようではないか…と判断し、表(下)は、宮地嶽神社、裏、奥(上)は高良神社という形で祭祀を行った形が認められる事から、この神社(山神宮)を創ったのは、恐らく、菅原道真公であろうと思います…。横に道真公もちゃっかり祀られておられます…。と言われていました。

この分離された高良玉垂命と神功皇后を復元しようとした神社ではあったのですが、現在は山神宮(山神社)として大山祗を祀る神社とされています。

神社を見ると、三階松の神紋が打たれ、神功皇后と仁徳と考えられる神像、道真公と思われる人像が下宮と言える山神宮の神殿に納められているのです。

逆に言えば、偽装して本当の祭神を守っているとも言えそうですが、現地のヒアリングを行っていないためこれ以上の踏み込みは許されないでしょう。

では、その神社をご覧頂きましょう。

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参集殿は 左から左三つ巴、三階松、梅鉢の神紋

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では高良神社に参りましょう

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神殿の御簾の内側には高良玉垂命が鎮座されていました 御簾を揚げる事から打上(ターシャン)神社と呼ばれる高良神社もありますが(大阪府) 神殿には鍵も掛けられておらず 少し開いていましたので きちんと閉める必要もありその前に少し覗かせて頂きました 「高良玉垂宮神秘書」では底筒男は月神とされています 高良玉垂命は月神でもあることから右三つ巴とも対応します

神像は一体で 御幣では三神とされている意味は 下宮の山神宮の神功皇后+若宮+高良玉垂命と理解しています これもいつ隠されるか分からない貴重な神社であり 第一級の文化遺産ですが 歴史ファンと称する方々も、村興し町興し宜しく宗像の馬鹿騒ぎしか関心がないようです

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:15| Comment(0) | 日記