2018年09月01日

ビアヘロ 077 読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…

ビアヘロ 077 読者の皆さんに…真実の神社研究へのご支援を…

20180829

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥の読者の皆様、また、グループのブログをお読みの皆様、暑い中、丹念無題.pngにお読み頂き有難いと思っています。

 古田武彦が亡くなり、また、百嶋由一郎氏が亡くなり数年が流れました。

 当初、貴重極まりない百嶋研究の一部でも残せないだろうかと考え、手書きデータや神代系譜文書のDVD化、音声データの保存、複製、宣伝という作業を続けて来ました。しかし、単にデータの保管、配布の体制を確立するだけでは継承ができないと考え、blogで百嶋研究の説明、現場実調を徐々に進め公開してきました。この結果、全国にも理解者が増え始め、神社研究ではなんとか特異な勢力を形成できる所まで漕ぎ着けました。

 既に、百嶋研究の一部でも接点を持った全国の二十五人を超えるブロガーが独自の側面から研究を進めておられますし、ブログは書かないまでも、神社調査を行い記録を残している方もおられます。

 勿論、統一性は取れてはいませんし、なかなか難解な内容だけに、解明できない問題についてはメンバーの若い世代に託すことになるでしょうが、なお不明なものは後世の研究者に期待する事に成るでしょう。

 百嶋先生と知り合いになったのは七年ほど前だったと思いますが、もしも後数年生きておられたならばもう少し古代、神代の謎を継承できたかも知れません。しかし、未熟な者だけで作業を行わざるを得なかった事から今尚皆さんにご迷惑をお掛けしているものと理解しております。

しかし、私達の能力を考えれば、むしろ上出来といったものかも知れません。

さて、メンバーの背骨を形成している中心的思想とは、当然にも九州王朝論です。

 百嶋先生も“私も九州王朝論が分かっていない人に神代史を教えても意味がないし、教えたくないですね…”と言われていた事が今でも耳に残っています(吾は百嶋由一郎の面受の弟子なり!)

さて、四月の近江〜但馬、五月の糸魚川〜諏訪〜山梨、六月の青森と15日間づつ三度に亘って長躯の神社調査を行いました。

ぶっ続けで調査すれば良さそうですが、落ち着いてリポートも書かなければならず、研究会のスケジュールもあってそういう訳にも行かず、各々3,0004500キロの往復の調査とならざるを得なかったのです。

今後も、三重、和歌山、岐阜、福井…と、よりきめ細かい調査に入るつもりですが、もはや資金が底を尽きつつあります。

元々、福島の原子力災害辺りから、これ以上行政機関に留まりたくないとの思いが募り、後先き考えずに58歳で早期退職した事から(当時上の娘は大学に在学中だったのですが)年金と言ってもギリギリ暮らせる程度の物で、なんとかここまで働かずに神社調査を行ってきましたが、既に限界点を越え始めたようです。事実、当会は研究を優先するためメンバーから会費を取る事なく僅かな参加費で運営しています。

人手不足の時代、まだ、働こうと思えば職はあるはずですが、拘束時間が長くなれば、研究を進める事ができないまま人生の終末期を迎える事にもなりかねず、できるだけ体力がある間に遠距離の調査に入りたいと思っています。このため、出来る事ならばこのまま神社研究に専念したいものと考えています。

基本的には年金生活で何とかやっていますので、月額であと二〜三万増やせれば、車の維持、車検、保険、介護保険料、研修所の維持、研究会の組織化、ネット規制に対応するためにもう一つ別の発信のためのサイトの準備……と増加する負担にも対応できるのではないかと考えています。

今後、研究内容を保全するためにも、外付けハード・ディスクをタイム・カプセル化して鍾乳洞に保管する(太陽フレアによる磁気データの消失への対策)とか、研修所の維持、後世に残すためにユーチューブ化してオンエアするなど新たな作業に入る必要も生じており、もし可能であれば、通説とは全く異なる百嶋神社考古学の保護と継承のためのご支援をお願いできないかと考えています。

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年間一口2000円以上の任意の百嶋神社考古学研究会の支援会員となって頂ければ、九州においでになった際に会員待遇として温泉付き研修所に一泊お泊めできます。九州での神社調査の拠点として活用下さい。

振込用の銀行預金講座、郵便貯金番号は以下の通りです。

 大分銀行 若宮支店 0183−000093−7505802 フルカワ キヨヒサ

 ゆうちょ銀行 店番 778 預金種目 普通預金 口座番号 1165562 氏名上に同じ

また、もし差支えなければ、以下のメールにお名前と住所と電話番号を以下のメールに送信して頂き、カンパした旨の連絡を頂ければ、神代系譜のDVD(既にお持ちの場合はそれに代わる音声データなど)をお送りできるものと考えています。

 携帯のメール・アドレス ariakekai@ezweb.ne.jp携帯 09062983254 (常時対応)

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本当にようやくですが、青森〜東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件へ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件のアクセスはあるでしょう。ちなみに昨日のアクセスは両ブログで日量2000件を超えています。毎日続けば良いのですが。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

491 百嶋神社考古学が描く列島の古代 @ 全国の九州王朝論者の皆さんに! “はじめに”

491 百嶋神社考古学が描く列島の古代 @ 全国の九州王朝論者の皆さんに! “はじめに” 

20171030

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 この企画は以前「ひぼろぎ逍遥」で取り組みながらも中断していたものです。

 故)百嶋由一郎氏が追及したのは“日本人はいったいどこからやってきたのか?”というテーマでした。

 百嶋氏には相当に深い部分まで分かっておいでだったようです。

その復元の作業とまでは行きませんが、その概略を把握することによって列島の古代史にバトン・タッチしたいと考えてきました。

このため、学会通説派が描く“奈良周辺で自然に日本と言う国家が徐々に成立した”とか、九州王朝論系の人々が描く“倭人が対馬から博多湾岸に天孫降臨し倭国が造られた”といったものとはかなり違ったものになります。

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さて、一度に全てをお伝えする事はできませんが、一般にも分かり易い形で少しずつ展開して見たいと思います。その前に百嶋先生の手書き資料から通常公開しない半島系の神代系譜を見て頂きます。


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百嶋由一郎 010img004氏系譜


渡来系民族と言えば、百済、新羅、高句麗…が定番ですが、これらの人々が大挙入って来る前に大陸からかなりの人々が入っており、それらの人々が神々として描かれていたようなのです。

問題は「記」「紀」などに描かれている神々が、大陸と半島から中国から入って来た民族を描くことなくしては、日本人を描くことはできない訳で、これらを神々の動きから探ろうとするのが百嶋神社考古学だったのです。

以後、この点に焦点を当てて個々に見て行きたいと思います。少なくとも“奈良周辺で自然に日本と言う国家が徐々に成立した”は、ほぼ、大嘘で、九州王朝系の人々が描く“倭人が対馬から博多湾岸に天孫降臨し倭国が造られた”も、一部は正しいものの、そのままでは漫画に近いものである事がお分かり頂けるでしょう。

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百嶋由一郎 最終神代系譜


研究目的で百嶋神社考古学の音声CD、神代系譜、手書き資料を必要とされる方は09062983254まで


 百済は660年に高句麗は668年に滅びます。新羅もかなり後になりますがやはり滅びます。

 これらの国からも列島への亡命者、移住者、招聘者が入りますが、それは、倭国、日本国が成立して以降の話であり、それ以前にも列島には王権が存在していた事は言うまでもありません。

 上の百嶋由一郎 最終神代系譜には、それ以前に列島に移住していた民族=神々が描かれています。

 左から7民族が描かれていますが、辿れる範囲で紀元2世紀までには出揃っており、古い姫氏にしても紀元前5世紀には列島に入っていたものと考えておられたようです。

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 大率姫氏    三国志の呉ではなく呉越同舟の呉の太伯の一族が亡命後博多湾沿岸に移動していた。

 昔氏      イザナミの夫で新羅系のイザナギがいたのですが、イザナミはイザナギと別れます。

 瀛(イン)氏   秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ金山彦の一族が半島経由で渡海し列島に侵入していた。

 白族      大幡主の一族で雲南省から海南島、熊本市を経由し博多湾岸に移動した。ヤタガラスも。

 越智族     コノハナノサクヤヒメの父神大山祗の一族で大国主命もこの一族=トルコ系匈奴

 許氏      高皇産=高木大神の一族で、阿蘇氏が侵入したときには既に北部九州に展開していた。

 多氏(黎族)   雲南省から海南島、天草を経由し阿蘇に展開し高木大神の配下となり後に藤原氏となる。

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この外にも、3000年前からいた古々代ヘブライ系の民族(代表的なのは通説では大国主の長男とされる事代主命)、中国の土車(土舎)トゥチャー族、故)馬場紀美史が主張する彝族(Yízú)も入っている。

通説派は皇室を配慮してか、民族の純血性、単民族起源説などといった政治的?思い込み?としか言いようのないお伽話を続けていますが、こんなものは全くの大嘘であることは言うまでもありません。

比較的利権に薄く清潔に思える照葉樹林文化論者に於いてさえも民族の進入についてはほとんど触れず、単なる文化の伝播のみを展開しています。これも、通説派と同様のある種の自己規制なのでしょう。

大分県の別府湾は(明治16年の海図制定前)はカンタン=菡萏湾と呼ばれていましたし、現在でも邯鄲(カンタン)地区が存在します。

これも、日中合作映画の「墨攻」にも部分的に登場する戦国期の趙の首都邯鄲から入って来た人々が住み着いた場所であり、その事からもシルクロードの終着点と言われた邯鄲にいた多くの西方の民が大分市周辺に入っている事を思わせるのです。

もういい加減に藤原が都合の良いように造った「古事記」(95%は嘘)「日本書紀」から独立し、共に真実の探求の作業に踏み込もうではありませんか!


(戦国)

趙(ちょう)は、戦国時代に存在した国(紀元前403 - 紀元前228年)で、戦国七雄の一つに数えられる。国姓は趙、または嬴(秦の王室と同祖とされる)。首府は邯鄲。もともとは、晋の臣下(卿)であった。紀元前228年に秦に滅ぼされた。

ウィキペディア(20180817 1553による

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一部が海南島を経由し天草の苓北に入ったと考える 黎族(リーツー)彼らが後の藤原氏になる

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年09月03日

492 百嶋神社考古学が描く列島の古代 A 全国の九州王朝論者の皆さんに! “出雲神話とは”

492 百嶋神社考古学が描く列島の古代 A 全国の九州王朝論者の皆さんに! “出雲神話とは” 

20171030

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


多くを説明しなければご理解頂けない事は十分に承知の上ですが、列島の古代史(実は神代史)を考える上で、あまり複雑な話をしても理解して頂くには時間が掛りますので、ここでは、簡略化したエッセンスのみをお伝えする事にします。

 まず、「出雲神話」をあたかも“近畿大和朝廷に先行する巨大王権である”とか“九州と畿内の中間に巨大な神殿を持った巨大王権が存在した”といった理解をされておられる方が大半ではないかと思います。

 間の抜けた邪馬台国畿内説論者などと言った方々は無視するとしても、「失われた九州王朝」「盗まれた神話」などが描き出したものは、“出雲の神様が一番偉い“”何故なら多くの神々を集める神様だから“…と、対馬は小船越の阿麻氐留神社の実踏などから九州王朝論者の大半も、”九州王朝に先行する出雲王権の存在“といったイメージをお持ちではないかと理解しています。

 ところが百嶋神社考古学はそう考えません。

 故)百嶋由一郎氏の話で最も鮮明な印象を与えた話に「皆さんが出雲を島根県の事だと思っておられる…(全くそうではない)」というものがあります。

 これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)024 大国主は九州で生まれた “オオナビコ(大国主命=オオナムチの幼名)を祀る春日市の伯玄社” を読んで頂きたいのですが、大山祗(トルコ系匈奴)の息子でありコノハナノサクヤヒメの兄でもある大国主命は福岡県春日市の須久岡本遺跡の周辺で産まれ、後に宗像大社にも祀られるのですが、幼名のオオナビコとして伯玄社には今もその痕跡を留めているのです。

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幼少期を春日市で過ごしていたならば、付近の須久岡本遺跡にいたはずの少彦名命も悪ガキ仲間だったことが分かるのです(推定年齢差からこれは誇張ですが…)。

 ここでも、故)百嶋由一郎氏の話を思い出しますが「少彦名命をスクナヒコナノミコトと読むから分からなくなります。スクノヒコとお読みなさい…」と言われていました。

 今でも、時代劇などで「ソコなオナゴ」と言えば「ソコのオナゴ」である事がギリギリ分かると思いますが、「ナ」も所有の意味を持った格助詞であり、スクナヒコナノミコトとは大字須久字岡本辺りに屯していた後に大国主命となる小さな神様である須久の彦の命だったと分かるのです。

 ちなみに、春日市の商工会議所は、福岡県春日市伯玄町2丁目24  092-581-1407 ですので、可能な限り現地を踏み確認して頂きたいと思います。

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読みづらくなっていますが、「大己彦」と書かれているようです


さらに、言えば今も鮮明に「出雲」という地名が残っています。

場所は、飯塚市となった福岡県飯塚市桂川町平塚の国道200号線の「出雲交差点」が分かり易いでしょう。

この「出雲」という地名についても、百嶋翁は“大幡主(博多の櫛田神社の主神)の領域は全て「出雲」だったのです”…と話されており、元々、全国の至る所に「出雲」が存在していたようなのです。

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これまで、宗像大社の本当の祭神は大国主命であるとの事は何度となく書いていますが、大山祗の息子である大国主は大幡主への入り婿として市杵島姫=瀛ツ島姫を妃にしています。

島根県の現出雲は古い時代から大幡主が支配した領域で、「出雲」と呼ばれた植民領域の一つだった訳で、国譲りの結果、その一つが「出雲」とされ残されたのです。

高知県に宿毛市があります。この地も道真逃亡の痕跡があるところですが、飯塚桂川の出雲も付近に「土師」地名が拾えます。

“宿毛“も古出雲の一つだったのではないかと考えていますが、九州から四国へと移動する要衝の地も、事実、出発の出(シュツ)+雲(クモ)と読めるという具合です。

これは、私が温めている仮説ですが、「出雲」は「イズモ、イヅモ」と呼ぶ(読む)のではなく、忌部(インベ)の「イン」と読むべきではないかと考えています。

 四国に展開した「忌部」「卜部」「殳」「瀛」…が「出雲」と関係があるのではないかと思っています。

 神代系譜をご覧になればお分かりの通り、瀛ツ島姫は大国主命のお妃であり、「瀛」の一族となっているのであり、その簡略化された好字が「出雲」なのではないでしょうか。

 しかし、「あれほど大きな三本巻の大柱の出土があるではないか…!」と大騒ぎされる方がおられます。

それも、百嶋最終神代系譜で考える時代は23世紀であり再建も含め後世のもののはずです(8世紀初頭までの九州王朝の時代とも考えられます)。いずれにせよ「古事記」神話を造ったのは藤原であり、彼らが造ったテーマ・パークと考えて間違いないのです。

下は 飯塚市桂川町の出雲交差点。表記は異なるものの、宿毛の様に元はイズモ、インと呼ばれたものがあるはずです。

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青木繁・画「大穴牟知命」明治38(1905)作/石橋財団ブリヂストン美術館所蔵


大怪我の上死んだ大国主命の介抱に来た 蚶貝比売 蛤貝比売 これも宗像大社の市杵島姫と豊玉姫

九州王朝の本拠地 高良大社 直下にいた青木繁は本当の伝承を知っていたかも知れません。

最後に、隠されたように見えるのですが、九州島にも大国主命を祀る多くの神社がある事をご紹介しましょう。これは代表的なものだけですので、そのつもりでご理解ください。

福岡県朝倉郡筑前町弥永697-3 に堂々たる大己貴神社があります。

「筑前国続風土記」にも大神大明神は弥永村があり、「延喜式神名帳」にも夜須郡於保奈牟智神社小一座とあります。

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一般にも殆ど知られていませんが、熊本県熊本市(現西区)の硯川町に非常に大きな境内地を持つ川東大己貴神社があります。

また、鹿児島県日置市吹上町(旧伊作庄)にも大きな大汝牟遅神社があります。

鹿児島市内の中心部にもあるのですが、特に印象的なのは、宮崎県の日向市の南の都農町に、日向国一宮の都濃神社があり、その主神が大国主命なのです。

単に小さな祠が存在するとかいった事でではなく、都濃神社の様にトップ・クラスの大社の主神が大国主命なのですから、出雲の神様と信じて疑わない通説に犯された大家の先生方に、九州の大国主命祭祀が何故存在しているのかを教えて頂きたいものです。

そして、いつも言うように、宗像大社の本当の神様は大国主命なのです。

大国主命もこの大幡主の配下として活動していた大山祗の子であり入り婿だったのです。

宗像大社の本当の祭神も大国主命であり(だから宗像の神殿には男千木が立っている)、本来、大国主命も少彦名命も北部九州で活動していたのです。

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この日向の意味は宮崎県に止まらず、古代日向=薩摩、大隅、日向を意味しているのです。

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鹿児島県の大汝牟遅神社についてもご覧頂きましょう。

鹿児島県日置市吹上町中原2263 TEL099-296-5950

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