2018年08月21日

488 賀茂族の立葵が眩しい神社 “島根県安来市加茂の賀茂神社”

488 賀茂族の立葵が眩しい神社 “島根県安来市加茂の賀茂神社”

20171010

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 頻繁に入っている山陰地方ですが、これはドジョウ掬いの安来節で有名な安来市の幾つかある賀茂神社の一社です。

 当日も幾つかの神社を見たついでの通りすがりでしたが、賀茂神社ですから安来との関係を考えていたところから見聞させて頂くことにしました。

 市街地の一部と言っても良いような場所でしたが、それなりに大きな境内地を持つ立派な神社でした。

 そもそもドジョウ掬いとは砂鉄を採っていたのではないかと言われていますし思ってもいますが、ヒョットコ風の男とオカメ顔風の女で面白おかしく仕立てられているものの、ヒョットコとは火吹き男の鍛冶職人を意味しており、火吹きのため口は麻生○○風に曲がっていますし、「メッカチ」という差別語扱いされている言葉も、片目が潰れた鍛冶=「メッカチ」こそ鍛冶職の名人と讃えられていたのでした。

 だからこそ宍道湖を挟んで一畑薬師の目の神様が信奉され続けているのです。

 長年の製鉄で火の子などで片目が見えなくなった職人は鍛冶の名人として神ともなるのです。

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「安来市誌」によれば、祭神は別雷神、神日本磐余彦命とされています。

京都より上賀茂神社を勧請し当初は一社として祀られていたものの約五百年前より二か所に分けて祀られるようになっているとのことです。

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社門                参拝殿正面

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境内社の木野山神社が祀られた経緯は不明ですが鷺神社は見当が着きます 


木野山神社は瀬戸内海沿岸と言うか岡山県を中心に分布する木野山神社の事でしょう。

これこそが本来の賀茂族の様な気もしますが、今のところ確証を得ません。

 鷺神社は間違いなくニギハヤヒ=山幸彦=五十猛命…でしょう。

これについては、ひぼろぎ逍遥(跡宮)108 伊勢天照御祖神社 “久留米の佐岐神社は誰を祀るのか?”

をお読み頂く方が良いかも知れません。

 興味深いのは木野山神社の方ですが、これは別に取り上げるべき大きなテーマですのでここまでとします。

 この神社の祭神は、別雷神と神日本磐余彦命とされています。

 そのまま受け入れて良いかの問題はあるのですが、初代神武天皇と別雷神とが別記されている事に信憑性を求めるか、それとも逆に別雷神(=藤原により第10代とされた贈崇神)が初代神武天皇に同一視させようとしているかによって結論が分かれそうです。

 そう考えるのは、鷺神社があるためですが、ニギハヤヒがこの神社の基層にあったという事はある程度言えそうで、後に上賀茂神社が持ち込まれたという印象が強いのです。

 それは、やはり製鉄の中心地であった安来を支配する意味があったはずで、いわば明治期に八幡製鉄所を誰が制えるかと同等の意味があったはずなのです。

 ここでは、改めてこの神社の性格を表面的には上賀茂系の神社であると押さえた上で、山幸系が排除された形跡を留めている事が見えるため、非常に興味深い一社ではあるのです。

 上賀茂系の崇神の神紋は二つ葵である事も改めて考える必要があるようです。

 全ては、クラオカミ、タカオカミ、素盞鳴命、大山積命を祀る木野山神社の解明に有ると思います。

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百嶋由一郎ヤタガラス神代系譜


 解読は容易ではありません。一つの事を調べるために岡山の木野山神社をある程度見て廻る必要がありますし、安来の現地周辺をもう少し調べる必要があるからです。鍵は右別れ立葵の神紋の氏族です。

 ここでは、このような興味深い神社があるという事をお知らせし、さらに表面だけを理解するのではなく、その幾つかの基層を探る事を考えるべきであろうと思うものです。


研究目的で百嶋由一郎神社考古学の神代系譜、音声データ、手書きデータ等を必要とされる方は09062983254までご連絡ください。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年08月24日

489 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた! “宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”

489 神功皇后は佐賀県の脊振山中で産まれた! “宮原誠一の「神社見聞諜」からの転載”

20171010

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)には百嶋神社考古学の影響を受けた多くの研究者によるblogがリンクされています。


その中でも、宮原誠一氏の無題.png「宮原誠一氏の神社見聞諜」の最新号に重要な論稿が掲載されましたのでご紹介を兼ねて全文を掲載したいと思います。同サイトを是非お読み下さい。

北部九州には神功皇后伝承が色濃く残されていますが、「日本書紀」に書かれた嘘話を真に受けていては古代の深層にはまったく辿りつく事などできません。宮原氏は抑制して書かれていますが、他の研究などと併せ考えれば正しいものと考えています。関連文書と併せて是非お読み下さい。

宮原誠一の神社見聞牒(025)
平成29(2017)1006

No.25 神功皇后生誕の地・佐賀背振の野波神社


1.王家の谷の野波神社と下ノ宮

佐賀県背振山南麓は古代の王家の子を養育するのに適した地であった。嘉瀬川上流の川上渓谷、城原川上流の背振渓谷があり、それらの渓谷の上流は北山ダム付近に集まる。その背振渓谷は、往古、素戔嗚(スサノヲ)系の支配領域と言われた。
かつて、北山ダム湖に沈む前の「野波(のなみ)の里」は神功皇后生誕の地という伝承がある。そこには、神功皇后を祭神とする野波神社があり、皇后(息長足媛おきながたらしひめ)の両親を祭神とする下ノ宮があり、この地域に息長足媛の伝承が残っている。
息長足媛の系図を百嶋神社考古学神代系譜からみると、父・息長宿祢(おきながすくね)と母・葛城高額媛(かつらぎたかぬかひめ)となっており、息長宿祢は父・建南方(たけみなかた)と母・奈留多姫(なるたひめ)であり、建南方は父・天忍穂耳命(あめのおしほのみみのみこと)と母・瀛津世襲足姫(おきつよそたらしひめ)であり、瀛津世襲足姫は素戔嗚尊の子であり、息長宿祢は素戔嗚直系の血筋である。葛城高額媛も素戔嗚尊四世の孫である。息長足媛の父母は共に素戔嗚系の流れとなっている。
伝承からして、息長足媛は父母が住む佐賀背振の野波の里で生まれ育ったと考えることができる。
しかし、神社由緒には神功皇后伝説特有の付会がみられ、野波の里は皇后生誕の地として可能性があるに留め置き、関連神社を紹介します。

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ここ十年程で、二、三度訪問した経験がありますが、当時は「神功皇后伝承」には関心がなく、野波神社、下ノ宮の事は承知していましたが、他の問題(米田良三氏が「長谷寺」で書かれた三瀬村に長谷寺があったという提起との関係も不明なまま)、棚上げ状態にしていました。

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神殿の千木は主祭神が女性神であることを示す。

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初瀬川が北山湖に注いでいます。長谷寺が存在した痕跡地名ですが、神功皇后の両親も知っていたのです
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場所が分かり難いと思いますので、お知らせしておきたいと思います。

福岡市から三瀬トンネルを抜け旧三瀬村に入ると、杉神社から大瀬の大桂に向かう一帯に、九州王朝倭国の長谷寺があり(杉神社正面の鏡神社に長谷寺への桟橋の橋脚が存在した)、現在の北山ダムに沿い東に進んだ辺りに野波神社があり、下ノ宮は北山湖の湖底に沈んだのでした(これは故米田良三説ですが…)。

 神功皇后は滋賀県米原辺りの息長氏の一族であろうとか、近江出身であろうなどと通説に沿ったデタラメがまかり通っていますが、北部九州の神功皇后伝承は「日本書紀」に合わない部分が多々ある事は知られていますし、どうやら、肥前の神功皇后伝承は唐津を除いて消されているようです。

 神功皇后を追い求められる方もこのような明瞭な伝承が残されている事を知るべきでしょう。

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米田氏は以下のように述べている。「『源氏物語』の舞台の中心は倭国の時代の九州であった。京は大宰府都城であり、京から出掛けた 初瀬の御寺 も奈良ではなく、九州北部にあったはずである。私は佐賀県神埼郡三瀬村にあったと考えている」

 この部分は私を大いに刺激し、生まれて始めて長谷寺を訪れるきっかけとなった。現在の長谷寺の本堂、観音様は517年に完成し、721年に現在地に移築されたという米田説を信じた上での訪問である。訪れた時の印象は 感動 の一語に尽きる。時のたつのも忘れ、1時間以上大悲閣前の舞台でボーっとしていた。もちろん、現地の解説ボードを信ずればこうはならない。観音像は今までに6回焼失し、現在のものは室町時代に作られた7代目であり、本堂は江戸時代のものであると記されている。巨大木造彫刻十一面観音像の制作年代の説明に約1000年の開きがあるのだ。

 その後も先の引用部分のことが心の隅に引っかかり、2002年8月、三瀬村の観光協会に「村で一番古いお寺は?」と問い合わせたところ、反田という集落に長谷山観音寺という寺があったが、昭和38年、子供の火遊びが原因で焼けてしまったということであった。

 ネーミングからすると、幻の長谷寺は昔ここに建っていたに違いないと思い、2007年11月、日帰り弾丸ツアーで現地を訪れ、地元のお年寄りに焼失前の寺の様子を聞いた。

 この長谷山観音寺の件と、その西にある「宿」という名の集落がじつは椿市ではないか、と米田氏に電話したのだが、当時、氏は幻の長谷寺発見については著作で述べている程には意欲的ではないようであった。これほどまでに著者にプッシュし続ける自分は日本のシュリーマンになったような気分であった。

 後でわかったことだが、この寺は1521年、神代大和守勝利と言う人が伝説の長谷寺に憧れ創ったものであるらしく、私の努力は空振りに終わった。

 しばらくして、米田氏から倭国長谷寺の所在地が同定できたと連絡が入った。国土地理院の地図を凝視しているうちに閃いたというのだ。そこは「源氏物語画帖」玉鬘の巻、『枕草子』、『住吉物語』の描写にぴったりマッチするというのだ。

 ここで混乱しないように言っておかねばならないのは、3作品ともオリジナルは倭国の時代のものであるということである。『源氏物語』は一昨年「千年紀」と大騒ぎしていたが、正確には、もう350年ほど遡り、現代の作家が江戸時代初期の物語をパクるようなことが平安時代に行われていたのだ。

倭国長谷寺跡の発見 - AB&JC PRESSによる

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2.野波神社の吉田藤雄氏の神社案内板について

吉田藤雄氏の神社案内板の最後の部分の1月7日の「ドンド焼き」の記述では、仲哀天皇は神功皇后と武内宿弥の間に生まれた子と思わせるような記述であり、仲哀天皇が野波の里で生まれたかのようなっている。
しかし、野波神社の由緒、下ノ宮の由緒からすると、皇后の両親、息長宿祢と葛城之高額媛が野波の里におられ、皇后が1月7日の「ドンド焼き」の日に生まれたと、捉える方が自然ではなかろうか。また、1月7日の「ドンド焼き」の朝、皇后が産気づかれて、仲哀天皇が生まれたとされるのは、ほかの皇子とも取れるが、誉田別皇子が筑前宇美の地で出産された以外に信頼できる伝承はない。
別の考え方として、この話が新羅征討後のものであれば、周囲に大雀命・菟道穉郎子が祀られており、開化天皇と皇后の皇子の出産ととれ、九体皇子の内の三名?の皇子が野波の里で出産されたと考えることもできる。
また、新羅征討のおり、筑肥を通過とは、朝倉市蜷城の美奈宜神社の由緒からすると、筑後川の大善寺の往来と考えられるが、「筑肥通過の折、この地に寄られて・・・」という伝承は神功皇后伝説特有の付会ではなかろうか。また、神功皇后の時代に「ドンド焼き」の行事があったであろうか。どうも、神功皇后特有の伝説が神社由緒に記載されると、由緒の信頼度が落ちるような気がしてならない。
ということで、神社案内板の最後の部分は認識の誤りとみるが、この由緒の全てを否定するものではありません。


3.神功皇后伝説

日本書記の神功紀で、荷持田村(のとりたのふれ)の羽白熊鷲(はしろのくまわし)討伐のおり、筑紫野を神功軍が通過時、「旋風がにわかに吹いて皇后の御笠が吹きとばされ、時の人はそこを名づけて御笠(みかさ)という」、「羽白熊鷲と層増岐野(そそきの)で戦闘となり、ついにこれを滅ぼした。皇后は近臣に'熊鷲を取ることを得て心安らかになった'と言ったので名づけて安という」の地名説話がある。
しかし、御笠地名の近くには御笠山(宝満山)があった。
戦闘勝利した「安」については、秋月の入口の旧安川村に「安川」が流れ、ここ一帯を「安野」といった。この時点では、熊鷲は討伐されていない。敗退して秋月盆地に陣を建て直している。旧安川村の中心付近にある老松神社の社伝では、ここを「御府の森」といい、この神社は大国主一人を祀る。この神社の近くの北の山裾の楢原に「奇志神社」という聞きなれない秘密めいた神社がある。大国主を主祭神とするが、社紋は神功皇后の紋があり、熊本県山鹿市の「志々岐阿蘇神社」と同じ神額の額縁を持っている。この志々岐阿蘇神社は大国主、建南方を主祭神とする。「奇志」の名は、この志々岐阿蘇神社の「志々岐」をもじったように見える。また、「志々岐」は「ししき」「そそき」と訛り転化しているようにも聞こえる。
この「岐」は「城、柵、木」と同意語で、志々の柵、そその柵、つまり、砦、陣所ではなかろうか。その「そそき野」で戦闘の激突があった。層増岐野は、ここ、旧安川村から続く旧甘木市一帯をいうのではなかろうか。
神功皇后伝説の「御笠」、「安」は語呂合わせで、後世の府会のように思えるのだが、ここでの私の話も語呂合わせと取られそうです。

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「志々岐」の名を持つ他の神社  志々岐神社 福岡市早良区内野


祭 神 神功皇后、十域別王命、稚武王命(二人は仲哀帝の弟でヤマトタケルの皇子)


百嶋神代系譜・素戔嗚尊・神功皇后 神代系図(8)

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4.野波神社、下ノ宮の概要

@ 野波神社

所在地 佐賀県佐賀市三瀬村大字杠(ゆずりは、中谷) 1358-41
祭 神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥 淀比淘蜷_(淀姫神)
由 緒(要約)
西暦268年に創立。
社伝によれば、往古、神功皇后が三韓征伐のため筑肥御通過の折、この地に寄られたと云う。明治43年村内の無格社が整理統合され、祭神10柱「手力雄命・久久能智命・武甕槌命・級長津彦命・素戔嗚命・大雀命・菟道穉郎子・菅原道真・源義経・十城別王」外合わせて15柱が別神として本神社に合祀された。
昭和27年北山ダム開発によって社地(明神原)が水没することになり、社地社殿を詰ノ瀬山に移転改築し、同年1213日に遷座式を執行した。昭和2848日未明、不審火によって炎上し、全焼してしまったが、ただちに同地に再建された。昭和48年には、詰ノ瀬山にゴルフ場北山カントリークラブが開設されることになり、再び遷座のやむなきにいたった。

A
下ノ宮
所在地 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口
祭 神 息長宿祢命・葛城之高額媛命
由 緒(要約)
創立不詳とされているが、野波神社の下宮であるところから、おそらく野波神社と同じ時期に勧請されたお宮であろう。祭神の息長宿祢命と葛城之高額媛命は神功皇后(息長足媛命)の御両親であるが、本宮よりも上流に祀られ「下ノ宮」というが、息長足媛命が皇后になられてより、立場違いにより、後に「下宮」となったのであろう。
野波神社の例祭時、当宮との間に皇后の御神輿の上り下りの行事が行なわれている。


5.資料・佐賀市地域文化財データベースサイト「さがの歴史・文化お宝帳」HPから

@「三瀬村史」による野波神社
社号 野波大明神
祭神 仲哀天皇・神功皇后・武内宿弥 淀比淘蜷_(淀姫神)
應神天皇の御代、西暦268年に勧請された神社で当地では最も古く、棟木札銘(昭和28年焼失)には次のような記録が残されていた。
 文中2(1373)再興。
 長禄2(1458)再建。
 元亀2(1571)再々建。
 宝永元年(1704)再々々建。
 天保14(18433月、1575年祭施行。
今から1700余年前の古墳時代初期に勧請されたことになる。
社伝によれば、往古、神功皇后が三韓征伐のため筑肥御通過の折、この地にもおいでになって、宇土の大石に腰をおろして休息せられる時、一帯の風光を眺められて「最も能き野奈美哉」と仰せられたので、この一帯を野波の里とよぶようになった。また、大石の前の河で御裾を麗がれたので、その地を渡瀬の手洗松と言い伝えられた。その御遺跡に御社を営み、古くから神埼佐賀七山の宗廟として崇め、上下の信仰が厚かった。七山というのは、杠・関屋・小副川・菖蒲・畑瀬・松瀬・名尾の七山である。
室町時代、嘉吉2年(1442)の初春には、阿波の国の住人杠日向守が下向して当地の領主となり、神田五町歩を寄進して年々の祭祀を盛んにした。その後、天正年間(15731591)の頃には、神田等多数の領主から寄進があって、年中盛大な神祭りが行なわれたという。降って江戸時代の延宝2年(16742月には、杠権右衛門尉藤原吉満が、「七山宗社」の額と「宝物」数種を寄進して祭祀を行なった。
近代になって、明治61031日村社に指定され、同431013日に神饌弊帛料供進の指定を受けた。また、同年には村内の無格社が整理統合され、それらの祭神10柱「手力雄命・久久能智命・武甕槌命・級長津彦命・素戔嗚命・大雀命・菟道穉郎子・菅原道真・源義経・十城別王」外合わせて15柱が別神として本神社に合祀された。昭和27年北山ダム開発によって社地(明神原)が水没することになり、社地社殿を詰ノ瀬山に移転改築し、同年1213日に遷座式を執行した。
昭和2848日未明、不審火によって炎上し、全焼してしまったが、ただちに同地に再建された。このとき焼失したもの。
  「七山宗廟野波大明神」−拝殿入口の額
  「七山宗社」−弊殿入口の額「銚子」二、「瓶子」 三、何れも木製
  「表札」−神社の伝説口碑を記したもの
御神体は古来「グミの木」と言われていたが、陶器製のものだけが焼け残っていた。
昭和48年には、詰ノ瀬山にゴルフ場北山カントリークラブが開設されることになり、再び遷座のやむなきにいたった。海や河川にかかわりの深い祭神淀姫神の霊示が具現されたのであろうか、ダム湖水を眼下に見おろす中谷山の現地に社地社殿が構築され、同年12月遷座式が盛大に執行された。
淡島明神 野波神社の境内には、別に淡島明神を祭った小社殿がある。土地の人は「あわしまさん」とよんでいる。何時の頃勧請されたかは明らかでないが、淡島信仰は和歌山市の淡島明神を中心として広まったと言われ、江戸時代中期の元禄年間ごろから、淡島願人とよばれる一種の物もらいが、諸国を巡歴して婦人病に効験あらたかな神として信仰をすすめた結果、民間に広く普及し、とくに花柳界の女性の間に広く信仰されるようになった。
和歌山市加太町にある加太神社が淡島明神として著名で、祭神は少彦名命・大己貴命(大国主命)・息長足媛命(神功皇后)の3柱で、婦人病に霊験あらたかとされ、縁結び・医薬・海上鎮護の神として信仰される。
野波神社の淡島明神も、もちろん婦人病に効験あらたかとされ、安産・長寿・海上河川鎮護の神として、山内山外の人々に信仰されてきたのである。
出典:三瀬村史p710

A「三瀬村史」による「下ノ宮」
社号 下ノ宮 佐賀県佐賀市三瀬村宮ノ口
祭神 息長宿祢命・葛城之高額媛命
創立不詳とされているが、野波神社の下宮であるところから、おそらく野波神社と同じ時期に勧請されたお宮であろう。
下宮が本宮よりも上流に祀られているところに不可解な点もあるが、祭神の息長宿祢命と葛城之高額媛命は神功皇后(息長足媛命)の御両親であるので、上流に祀られていても不思議ではない。
野波神社の例祭のときには、現今でも当宮との間に御神輿の上り下りの行事が行なわれている。
出典:三瀬村史p712


青字の明朝体は宮原誠一氏の原文、黒字のゴシック体は古川による挿入文、赤字の明朝体AB&JC PRESSによる


研究目的で故)百嶋由一郎氏が残した神代系譜等を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい

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2018年08月27日

490 素晴らしい龍の手水石の神社 “国東市糸永の八坂神社”

490 素晴らしい龍の手水石の神社 “国東市糸永の八坂神社”

20171010

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


頻繁に九州島においでになっている内倉武久氏に書道家の井上悦文氏と三人で国東半島の探訪に入りました。と、言っても、何度も入っていますので、特別な思い入れがある訳でもありません。

 今回は、国東市でもかなり内陸部の朝来(ここも福岡県朝倉市や兵庫県朝来市と通底している事は言うまでもありません)の八坂神社を見に行こうと思って、隣の谷の糸永の八坂神社を踏んでしまったというお粗末な報告です。

 谷違いで同名の神社があるのですから間違っても仕方がないとは言えるのですが、この八坂神社が隣の谷にもあるというだけでも、この「朝来」という地名を持つ氏族(民族)が如何なる人々の後裔であるかを考えさせられるところです。

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国東半島とはその形状を見ただけでも火山性の土地である事が分かります。

 このような火山性の土壌の土地ではその地質から雨水は地下に浸透しやすく、少しでも低い溝を流れ下る事からいくつもの舌状台地を削り込みさらに複雑な地形を形成します。

 このため水田稲作のための農耕地は細長い谷に堆積した耕土に求める事になります。

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お分かりでしょう。一目瞭然ですね、国東とは谷に住む人々が造った国なのです。

 そして、山上には六郷満山の修験の山岳パルチザン勢力がいたのです。

だからこそ、近畿大和朝廷の復活でもある明治政府は、この九州王朝系氏族の後裔でもある修験の武装集団を潰したのでした。

まあ、これは勝手な思いに過ぎませんので無視して頂いて構いません。

この一帯で卓越するのは大山祗系神社(山神宮、山神社…)でもあるのか、八坂神社に表現される古代のスサノウ系もしくは金山彦系氏族の展開地であったこともが見えて来るのです。

さて、ここには素晴らしいばかりの石垣と龍の手水鉢があります。

手元に神社の資料がないため、今回はこの見事なまでの龍の手水鉢と石垣を見て頂くだけに留めます。

 元々は祭神の牛頭天王が祇園精舎の守護神とされていたのですが、祇園神社、祇園社…とされていたものが、明治の神仏分離令により「八坂神社」と改められたもので、修験の要素が完全に消されたものが八坂神社なのです。

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では、ご覧いただきましょう。

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これほどのものはまず見掛けません。この一帯が明治まで大きな財力を持っていた豊かな土地であった事が良く分かります。その資金源は製鉄だったのかも知れません。

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無題.png祇園社から八坂神社へと変わったことは前述したとおりですが、裏参道に廻ると、鳥居には祇園社と書かれていました。

 この神社にも幾つかの摂社がありますが、ある程度見当は着くものの、こうだとは言い切れません。

 結局、見事な龍の手水鉢と素晴らしいばかりの剃刀さえも入らないような石垣の技術などを見ると、砂鉄による製鉄が主力であった明治まで、この国東が如何に豊かな土地であり、大きな経済力を持っていたかという事が分かるのでした。

 しかし、ここの石垣には感心します。半世紀前まで、石工は二人掛かりで一日働き、石垣を一個づつ組んで行ったと言いますが、これほど立派な石垣は見たことがありません。豊かな財力あっての事です。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記