2018年08月18日

487 トレッキングで訪問する八幡宮について “福岡県うきは市若宮八幡宮”

487 トレッキングで訪問する八幡宮について “福岡県うきは市若宮八幡宮”

20171010

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 まず、旧浮羽町から吉井町に掛けては物部勢力の最大拠点と言った印象を受けるのですが(これは多くの物部系集落を見ていくと経験的に分かってくるのですがここでは省略します)、この古代の汀線とも言える場所に日ノ岡、月ノ岡古墳があり、若宮八幡宮が鎮座しています。

 今回、古墳については伊藤女史に、若宮八幡に関しては当方が、周辺の物部系神社については宮原氏によるものとしてトレッキングを企画しましたので、本稿はその案内用資料として準備したものです。

 この神社は鎌倉政権成立以前の仁平3年(1153年)に源為朝が現在の神奈川県鎌倉市にある鶴岡八幡宮(日本三大八幡宮のひとつ)を分霊して創建されたと伝えられています。

その源氏の一族とは有名な源為朝、通称、鎮西八郎為朝と言われた人物とされています。

私の実家がある佐賀県の武雄市〜有田町にかけての黒髪山にも鎮西八郎為朝が天童岩を七巻き半巻く大蛇を退治したという伝説が残っています。

落語の世界では“大岩を七巻き半も巻く大蛇とは大きな蛇となるのですが、ハチマキよりは少し短い大蛇…といったオチがつくのです。

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鎮西八郎為朝の話は非常に面白いのですが、話が逸れますのでやめておきます。

 この神社は、現在、応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、三女神、埴安姫命とされています。

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無題.png「福岡県神社誌」では5pにもなるためトップ・ページと最後尾部分のみを掲載


この神社については、以前、短時間見ただけで、初見に近い事からこの程度の下調べに留めておきますが、西日本から北関東まで多くの若宮八幡宮を見てきた経験から言えば、高良玉垂命と若宮=仁徳天皇を祀る神社としての祭祀形態が基層部に存在している事だけは明らかな上に、三女神、埴安姫を祀る祭祀形態も認められる事から、正八幡宮としての可能性もあるようです。

 最低でも、宇佐八幡宮ではなく鶴岡八幡宮という橘一族が造った神社の可能性が高く、この地域の「若宮」と言う地名や、この一帯の神社の背景から言っても橘一族の最大拠点であったことが見えて来るのです。 右は大男強弓の鎮西太郎為朝

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皇宮皇后とは神功皇后であり開化天皇とは高良玉垂命であり若宮とは仁徳天皇のことなのです

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2018年08月19日

ビアヘロ060 天照大御神の母神は播磨の佐用町で祀られている “百嶋神社考古学概論入門編 A”

ビアヘロ060 天照大御神の母神は播磨の佐用町で祀られている “百嶋神社考古学概論入門編 A”

20180623

太宰府地名研究会 古川 清久


 天照大御神と言えば知らぬ者の無い列島開闢に関わる最高神ですが、この神の母神が兵庫県の佐用町の佐用姫神社の境内摂社に祀られています。

 天照大御神の母神などという話をすると、それこそ好い加減な輩と言われそうですが、我々百嶋神社考古学の者には、それこそ国史扱いにされている「古事記」「日本書紀」そのものが偽書であり、事実、百嶋由一郎氏も「古事記」の95%が嘘だと言い切っておりました。

このため通説派の方々のご指摘など耳に入れる意志が毛頭ない事は言うまでもありません。彼等の誤りだとの指摘の根拠はと問えば「記紀」に求められておられるのですから議論する価値などありはしないのです。勿論、これも百嶋由一郎氏から面受の者として聴いた話です。

 “天照、”神武“は、勿論、同時代に糸島から福岡市南区の油山の裾野の一帯に住んでいた”(直接このフレーズの表現ではありませんが、そういう趣旨で話されていました)“神武は福岡市南区柏原(カシワラ)、天照は福岡市南区桧原(ヒバル)に居られた…”決して南九州だかの高千穂などではないのです。

 そして、福岡市南区には樋井川まで流れているのです。

 勿論、この神武は神武僭称贈る崇神(ハツクニシラス…)ではなく、呉の太伯(周王家姫氏カムヤマトイワレヒコ)後裔の本物の神武の話です。以下、グループの宮原誠一氏から引用します。


テーマ:神社見聞調考 2017(平成29)301日 宮原誠一の神社見聞蝶(004)

No-0041/8)3人の豊姫ともう一人の玉依姫

古代有名氏神で女性神に、豊玉彦の姫君である豊玉姫・玉依姫(海童女二神)、安曇磯良の妃・豊姫(ゆたひめ)、神武天皇の母・玉依姫がおられ、この4名の姫君は神社の祭神、由緒等で混乱・誤記があちこちと見られる。

ここでは百嶋神社考古学神代系図に沿って、この4名の姫君の関係を明らかにすると共に、その神格を紹介します。

豊姫(とよひめ)は、豊玉姫、玉依姫、豊姫(ゆたひめ)の総称として用いられ、これが混乱の原因になっているようです。豊姫の呼び方は、トヨ姫、ユタ姫、ヨド姫とも呼ばれ、この読み名も混乱に拍車をかけている。

豊玉姫は竜宮神・乙姫神ともいわれ、豊姫(ゆたひめ)は河上大明神ともいわれる。

1 四姫君の総論

まず、四姫君について、次のようにまとめた。

1.()玉依姫

白川伯王(白族)の子・福岡市櫛田神社祭神・大幡主の姉にあたり、玉依姫(たまよりひめ)と呼び、神武天皇の母に当たる。以後、()玉依姫と称し、区別し用いる。

2.豊玉姫

豊玉彦(海神)の姫君で豊玉姫、「とよたまひめ」と称す。彦火火出見命(饒速日)の妃でその子は鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)であり、乙宮の祭神、竜宮神・乙姫神でもある。豊比盗_社の祭神は、この「豊玉姫」を指す。後に大国主の妃になられ、別名「田心姫」とも言い、福岡県・宗像大社の祭神の一人であり、海北の「道主貴みちぬしむち」でもある。

3.()玉依姫

豊玉彦(海神)の姫君で玉依姫、「たまよりひめ」と称す。日吉神社の祭神「大山咋」の妃で崇神帝の母であり、その前は鵜草葺不合命の妃であり、安曇磯良(あずみいそら)の母であった。宝満宮の祭神であり、以後、()玉依姫と称し、区別し用いる。

玉依姫は、藤大臣物部保連(玉垂命)と神功皇后の異国征伐時に、父である海神・豊玉彦に干珠・満珠の玉を借受けにゆく姫君として有名。

4.豊姫

鵜草葺不合命と奈留多姫(なるたひめ)の間の姫君で豊姫、「ゆたひめ」と称す。熊襲タケル後の河上タケルの妹に当たる。安曇磯良の妃となられ、後に佐賀県・川上神社(與止日女神社)の河上大明神になられる。奈留多姫は天忍日命と雨宮姫との間の姫君。(高木大神・神沼河耳 神代系図(6)参照)

以上が四姫君の概要である。

)から4)の三姫君は豊姫の総称として用いられてきた。

豊玉彦は海神と呼ばれ、後の天穂日命である。その父は大幡主であり、外洋航海の腕効きでもあった。海神・豊玉彦の二人の姫君、豊玉姫・()玉依姫は海童女二神と呼ばれる。鵜草葺不合命は大海祗(おおわたつみ)であり、その子、豊姫・大海姫は海童少女二神と呼ばれ、福岡市の志賀海神社の祭神でもあり「少童命(わたつみのみこと)」二神とも呼ばれる。なお、志賀大明神は安曇磯良であり、安曇磯良・豊姫・大海姫はいずれも鵜草葺不合命の子である。この三神を総して、海祗(わたつみ)三神という。安曇磯良は筑前国では「志賀大明神」、日立国では「鹿島大明神」、大和国では「春日大明神」となられている。


ここで、百嶋由一郎氏が残された神代系譜をご覧頂きましょう

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百嶋由一郎極秘系譜(部分)天御中主+大幡主+高木大神が造化三神ですね…


ご覧の通り、列島大卒:姫氏(呉の太伯=「君長」)と白川伯王の娘の神玉依姫=玉前様(千葉県長生郡一宮町一宮にある神社 式内社、上総国一宮 旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社に祀られている)の間に産れたのが本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)であり、同じく列島大卒:姫氏と高木大神の叔母の間に産れたのが大日女貴→卑弥呼→天照大御神と書かれているのです。

 つまり、神武と天照とは腹違いの弟と姉の関係にあったことになるのです。

 それを、天照から下って、下って神武天皇と描いた背景には、藤原がその直接の起源を偽神武こと贈る崇神を神武と思わせ権威付けしたかったからであろうと考えていますが、それを知ってか知らずか(多分、津田を始めとして真面目に調べてなどいないはずですが)、神武は崇神に準える必要から残し、二代〜九代までは全て架空としているのです。


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神武天皇の母神 神玉依姫を祀る玉前神社 カーナビ検索 千葉県長生郡一宮町一宮3048(左)


天照大神の母神 大伽耶の姫を祀る佐用都姫神社 カーナビ検索 兵庫県佐用町本位田甲261(右)


詳しくは、と言っても、作業を始めた段階でしかないのですが、ひぼろぎ逍遥(跡宮)273 として、兵庫県佐用町の佐用都比売神社とは何か? 20160709太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久

 をお読み頂きたいと思います。

 ここでは、玉前神社については訪問しておりませんのでふれません。あくまでも百嶋先生がどう考えておられたかを多少とも復元しようと言うのが今回のお話である事をご理解ください。そのうち玉前神社にも足を延ばしたいと考えています。では、佐用都姫神社の境内摂社をご紹介しましょう。

 神社の掲示板の写真は画素数が低く拡大にしても神名が完全には読み取れない事から、ネット上(古代史探訪)から借用させていただきましたが、境内社として向かって左の手前から塩川神社(速佐須良比売命)、若宮神社(高皇魂命)が、そして左右の別なく最奥部の最も社格の高い場所に水神社彌都波能売命=ミツハノメノミコト)が鎮座していました。

 そして、向かって右の手前から佐用姫稲荷神社(豊受大神)天満神社(菅原道真公)三寶荒神社(火と竈の神様:三宝荒神が何者かは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から177「天高く、青空に誘われ日向の神社探訪 B “白髭神社に再々訪”宮崎県児湯郡川南町の三宝荒神」を参照のこと)、そして、今回一番関心を持っている伯母宮神社片宮神社、天照皇大神)が鎮座しているのでした。

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画像はHP「古代史探訪」より


まず、若宮神社です。この神名の神様は高皇産霊尊で良いと思うのですが、若宮神社との表現には疑問があります。これまでの経験から若宮神社の祭神とは久留米高良大社の高良玉垂命と神功皇后との間に産まれた若宮=斯礼賀志命(シレカシノミコト)=仁徳天皇以外にはありえず(例外として大幡主の若宮=ヤタガラス=豊玉彦も…)、もし、若宮神社との社名が古代からのものであるならば、この佐用都比賣神社の基層には高良大社の存在、威光が存在するように見えてなりません。

それについては今後の課題として、佐用都比賣神社の底流に“高木大神=高皇産霊尊が存在していた”と言う百嶋先生の話はこの境内摂社、若宮神社の存在からある程度推測できそうです。

無題.png次に三寶荒神社です。金山彦=加具土命、軻遇突智の流れを汲む一族とされますが、百嶋神代系譜(三寶荒神)には二人ずつの奥(瀛)ツ彦、奥(瀛)ツ姫が書かれています。もしも、佐用都比賣神社の基層に高木大神があるとすると二系統(というより二代に渡る)のどちらかが気になります。

さて、水神社(彌都波能売命=ミツハノメノミコト)は百嶋最終神代系譜の青枠で良いとして、最大の難問が、伯母宮神社(片宮神社、天照皇大神)の意味です。

この神社の境内摂社の祭神には違和感が付き纏います。塩川神社(速佐須良比売命)にしても普通は天照大御神と塩槌翁(大幡主)とするはずですし、仮に速佐須良比売命としても、これは鴨玉依姫で塩槌翁の孫になると思います。

また、若宮神社=高木大神というのも奇妙です。

さらに佐用姫稲荷神社(豊受大神)というのも、伊勢の外宮を市杵島姫と言いたそうです。明治期の縣社昇格に絡んで祭神が弄られているように見えてなりません。

そのため、そのまま素直に推測できないのですが、極めて重要な古社であることに間違いはなく(勿体無いですね)、伯母宮=天照大御神という組合せに古層が反映されているのではないかとの思いが消せません。

それは、“神武天皇のお母さんは大幡主の姉の神玉依姫ですが、”天照大御神=卑弥呼の母は高木大神の叔母だろう”と言っておられた事から、あくまで推測ですが高木大神の匂いが濃厚な佐用都比賣神社にある伯母宮=天照大御神とは高木大神=高皇産霊尊の妹(叔母)の可能性があるのではないかと思います(極秘系譜を参照のこと)。これも今後の課題ですね。そのうち再々度訪問しようと思っています。

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百嶋神代系譜(三宝荒神)、百嶋最終神代系譜(部分)


一番右端の奥ツ彦は高木大神系統なのですが、ナガスネヒコではないため、もしかしたら百嶋先生も間違っておられるのかも知れません。この点、当方の理解不足から上下が整合しません。課題です。


研究目的で百嶋神代系譜、講演録音声データを必要とされる方は09062983254までご連絡下さい。


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神武天皇の母神を祀る玉前神社についてはメンバーで千葉県在住者にリポートをお願いしています。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | ビアヘロ

2018年08月20日

ビアヘロ061 ヒョウカリイライ(馮河黎来)

ビアヘロ061 ヒョウカリイライ(馮河黎来)

20180710

太宰府地名研究会 古川 清久


以前、ひぼろぎ逍遥152ヒョウカリイライ “福岡市西区 西浦(ニシノウラ)の白木神社”の「馮河黎来」を書きました。

本稿は余計な部分を削り、故)百嶋由一郎氏による手書き資料を加え再編集した改訂版とお考え下さい。

福岡市の西区、糸島半島の東側に唐泊という漁港があります。

これからの季節には近海で雑魚を取りイリコや鯛の干物を作るのでしょうが、玄界灘の懐奥の波静かな入江に白砂が延びる風景は、喧騒渦巻く博多や福岡とは全く異なる穏やかな面持ちを見せています。

この湾奥の小高い岬にも白木神社がありますが、半島の裏側にある神社が今回取り上げる白木神社です。

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そて、この神社の祭礼では「ヒョウカリイライ」という意味不明の掛け声が流れます。

なにやら八代の妙見宮の「オレーオレーティエライタオ」を彷彿とさせますが(ここも呉から頭領がやってきたと言っている…)、ここではこの「ヒョウカリイライ」についてお話しすることにします。


昔の名前は妙見さんだったようだ。 妙見社が鎮座していた所へ、金武地域が北2kmの飯盛神社の神領になったことことこと、五十猛尊がかぶさって祀られたものと推測できる。

尤も、妙見さんと五十猛は九州でつながっているように見える。妙見信仰は北斗七星を祀る信仰で仏教と結び妙見菩薩として祀られたが、これは新羅系渡来人がその信仰を持ち込んだとされる。そう言う意味では素盞嗚尊・五十猛尊も新羅に縁の深い神である。福岡市西区大字西浦妙見の白木神社はやはり五十猛尊を祭神としている。新羅神社が白木神社となったのだろう。熊本県八代市妙見町の八代神社(妙見宮)は白木山に鎮座している。

敬愛するHP「神奈備」より


毎年9月の第1土曜日に『ヒョウカリイライ』という漁祭りが執り行われます。
以前は11日まつりといって 毎年11日でしたが、このお祭りには子どもたちが活躍するので学校のお休みに合わせて第1土曜日になったそうです。

で、ヒョウカリイライっていう言葉はなぁに?と思いますよねー。
いろいろと尋ねてみたのですが、諸説あるようなので今回は北崎百年史で調べてみました。百年史には話言葉で書かれていて昔話みたいなので そのまま紹介しますね
……………………………………………………………………
「いわれは、江戸時代のことでっしょうな。西浦の鯛というたあ、そりゃあ有名じゃったらしいもんな。
ところが、鯛があんまりとれすぎて、今でいうたら豊漁貧乏ですたいなあ。
鯛の値がさがってしもうたげなもん。そこで困っとるとば聞かしゃった殿様が鯛の値段を決めてやらっしゃったげな。そこで殿様にお礼ばするとと、鯛がこれからもとれますごとお願いしたということじゃろうといわれとります。」
「ヒョウカリイライはどげな漢字ば書くとかようわかりませんばってん、『評価利鯛』ってかくとじゃなかろうかっていわれとります。」

 「北崎よかとこ隊 北崎校区自治協議会」 より


馮河黎来(ヒョウカリイライ、ヒョウガリイライ、ピンフォーリーライ)


その前に、現在は純粋な民俗学研究に移行された牛島稔大氏による「牛島稔太のHP」のサブ・サイトにこれに関連する事が書かれています。一部でをご紹介いたしますので、まずは、お読みになって下さい。


薦神社の神紋は、宇佐と違って三つ巴紋ではない。それは薦神社に置き土産をした人物がいる、この人は自称神武天皇(はつくにしらすすめらみこと)、後で贈祟神天皇となって記録された人物が薦神社に置き土産をしている。この人の紋章が『時計回り一つ巴』である。この祟神天皇の子供の一人、久留米の豊城入彦(元、田主丸の豊木におられた)、大分から移ってきた時にそこにいた。祟神が自分の息子のうちの一人を四道将軍として関東に派遣した茨城県の神住町、鹿島神宮(海幸彦)の武の神様があるところである。ところがこの系統は子孫が威張るという悪い癖がある。福岡地区でその威張るという例をみることができる、福岡市の海岸沿いの西の果て、西浦に白木神社があり、ご祭神は山幸彦であるが、山幸彦の奥様(伊勢の外宮様)の元の旦那である海幸彦が手離さないので、山幸彦は頭にきている。京都の伏見大社の構成は、本当は山幸彦のグループで本当の実力者は奥さんの伊勢の外宮様である。それを元のダンナが手離さない。ヒョウガリーライ、ピンホーリーライ(黎族のくそ野郎、来るなら来てみろ)、西浦の白木神社が一年に一回いまでもそのことを祭りでやっている。

海幸彦は中国大陸にいた頃は黎族といっていた5000年前、黎族の一部が通称、漢民族に追われて、3000年かかって追いこめられた場所が雲南省で、そこにシナ城(シナ族)を作った。そこも追われて、二つのグループにわかれ、一つは櫛田神社のグループの大半は紅河がながれベトナムのハノイに到着する。シナ城のグループはメコン河を利用して南ベトナムの方に流れ込んだ、そして、二つのグループとも海南島で態勢を整えて、日本に移住しようということを打ち合わせた。http://goo.gl/maps/2hr7p
日本にきて天草・苓北に上陸した。http://goo.gl/maps/Yxsyr

そこにしばらくとどまった。日本にきてからは黎族とはいわず耳族(彦山の天忍穂耳)とも称した、そして、阿蘇に移動した。そのころ日本には既に高木の大神系のたくは(た=古川による修正)ちじひめ、ヘブライ人が勢力をもっていた。高木の大神の一族は、日本の皇室と縁組をしていた。日本の怡土に住んで居られて中国の漢民族が派遣していた日本統治のための事務所が糸島にあった、そういう尊い方と縁組をしていたので高木の大神は威張るだけの力があった。その威張ったあとの面影がどこに残っているかというと、熊本荒尾の虚空蔵山、草部(かやべ:朝鮮半島の伽耶、糸島にもある伽耶)吉見神社、今は雲仙市になっているが、もとの地名は雲仙市ではなかった諫早にたいへんちかい有明海側のほう、ここに高木の一族の古い古い遺産が残っている。ここに高木の紋章と鍋島の紋章が合体した独特の紋章(つたの紋章)をみることができる。


「神社伝承から見る古代史」百嶋由一郎先生の世界 --- もう一つの神々の系譜 --- より


「馮河黎来」の意味はお分かりになったでしょうか?

正直申上げてあまり良い言葉ではなく罵声に近いもので、気を悪くされる方もおられるかも知れません。

ここには、雲南省から入ってきた阿蘇の一族(草部吉見)=鹿島=春日=海幸彦系と、半島から入ってきた「海幸山幸神話」の一方の雄、山幸彦系(新羅)=白木神社勢力の確執が反映されているのです。

その対立の理由は込み入った話になるため控えますが、その海幸側の神社がどこであるかを含め、「ひぼろぎ逍遥」と「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院で、説明しています(一例ですが以下などを…)。


42

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  I “肥後人は支那人だった!?”

33

阿蘇高森の「草壁吉見」神社とは何か?  支 那


ただ、概略だけを言うと、田川郡の香春神社の主神「辛国息長大姫大目命」(カラクニオキナガオオヒメオオメノミコト=支那ツ姫)=伊勢神宮外宮の豊受大神=伏見稲荷の神霊=御霊を前夫である海幸彦側が返さないことをなじっているのです。

この「馮河黎来」の黎の意味は、「黎族」(レイ、リー)を意味し、黎族の連中やってこい!と罵声を浴びせているという事を紹介しておくに留めておきます。

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中国海南省の観光地図


さて、「黎族」は、今も雲南省、貴州省から海南省(海南島)の南、東に住んでいます(海南省には保亭黎苗族自治県外多くの黎族の自治県があり「加茂」地名まで存在します)。

 ついでに申上げておきますが、鹿児島県の「喜入」「嘉例川」、天草の「苓北」…といった地名や鹿児島市、枕崎市に集中する「今給黎」(イマキュウレイ)姓、鹿児島市から大隅半島に集中する「喜入」(キイレ)姓などはその痕跡と考えています。

きっと、この方々の二千年以上前のご先祖様達は、海南島、雲南省にいたのでしょう。

この黎族は雲南省を起点に海路、鹿児島県の吹上浜、薩摩川内から不知火海、有明海沿岸に入っているようなのです。

詳しくはふれませんが、肥後人は元々雲南省麗江にいた多氏の一族=ビルマ・タイ系の人々元で、博多の櫛田神社の主祭神である大幡主を奉祭する一族(民族的には白族)は雲南省昆明にいたと考えています。 

実は、両派とも追われた中国人(大陸に住んでいた黎族と白族)なのですが、この西浦の人々も、多分、越族だろうとは思っていますが、如何なる人々だったかは、まだ見当が付きません。

白木神社(山幸彦)を奉祭する一族としても、そもそも海人族なのでしょうし、山幸彦の素性がまだ詳しくは分からないからです。

百嶋神社考古学では山幸彦は彦火々出見であり、通称「魏志倭人伝」に登場する伊都の長官爾支(ニキ)=ニギハヤヒなのですが、中国の江南から入ってきた海人族を征服し、従えた支配者とすれば、西浦の人々とは民族的に異なる可能性が高いからです。


参考 憑は、〔説文〕の注に…


速く走る、頼みにする、乗る、登る、怒る、不満、という意味がある。憑と通じて、恃む、乗ずる、依る、盛んな、と通じて、徒歩でを渡る、という意味がある。 ネット上の「ニコニコ大百科」による

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以下は百嶋由一郎氏の手書きスキャニング・データです。百嶋神社考古学初期11230321

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


百嶋由一郎が残された音声CD、手書きスキャニング資料、神代系譜が必要な方は09062983254まで


 私も若いころ姪浜に十年程住んでいたこともあるのですが、故)百嶋由一郎氏は永らく唐人町にお住まいでしたので全ての事情がお分かりだったのだと思います。

 凡そ紀元前300年頃、八代もそうですが、支那(中国)大陸でも揚子江流域(上海はその頃存在しません海の底です)から多くの呉越の人々が九州西岸に入って来ています。

 この江南の黎族、白族(櫛田神社の大幡主はその首領なのです)によって列島の開拓が始まったのです。

そして、馮河黎来とは、白族系の人々が黎族(後の阿蘇氏)にこっちに来やがれ…やってやるから…とばかりに気勢を上げているという訳なのです。

その「馮河黎来」と罵られている相手方こそ、後の藤原の祖神である阿蘇高森の草部吉見神社のヒコヤイミミ=海幸彦=表面的な春日大社主神であり、実は伊勢神宮外宮の豊受大神の神霊を巡る争いなのです。

百嶋先生は、伊勢の外宮様は、草部吉見(海幸彦)とは三年添っておられますが、大幡主の配下である山幸彦=猿田彦=伊都の長官爾支(ニキ)=ニギハヤヒ=五十猛…とは60年添い遂げられている。とも言われていました。

お祭りの事であり罪はありません。ただ、この言葉には、そういう背景があるという事だけは伝えて頂きたいのです。

博多から唐津からも、多くの海人族が頻繁に中国大陸と行き来していたのです。

だからこそ、大伯(博)道路もあり、大濠公園は蘇州の西湖(水の蘇州の…)を模して造られているのです。

何故なら、櫛田神社の主神である大幡主(造化三神の一神であり=神産巣日神 神皇産霊尊 神魂命とされる)は、神武天皇の流れ(呉の太伯の後裔=列島大卒)を支える陰の実力者であり、山幸彦=猿田彦=ニキ…を指揮する最高神だったからなのです。


参考

馮河

徒歩で黄河を渡ること。無謀なことを行うたとえ。→暴虎馮河(ぼうこひょうが)デジタル大辞泉)


無題.png〔歩いて黄河を渡る意〕むこうみずで危険な行動のたとえ。ひょうか。→ 暴虎ぼうこ馮河


馮河・憑河【ひょうが】とは中国の大きな川である黄河を徒歩で渡ること。黄河を歩いて渡ること。転じて、むこうみずで危険な行動、無謀な勇気のたとえ。「馮・憑」は訓読みで「かちわた(る)」と読める。「徒歩渡る(かちわた無題.pngる)」は「徒歩で川を渡る」という意味。        


リー族 黎

黎族(リー族)は中国の少数民族のひとつ。その約90%以上が海南島に住む。

現在は人口124.8万。黎語を話し、1957年に黎語ラテン文字化方案が考案された。古くより漢族との交流があり、中国語に通ずる者も多い。

百越の分枝駱越(中国語版)が秦・漢以前の時代に移住したことに始まるという。同じく駱越に起源を持つ民族に水族がある。

無題.png民族としての自称は賽、孝、岐、美孚、本地など。11世紀宋の時代より史書にその名が見えるといい、紡織に秀でていたとされる。その技術は「黎錦」と呼ばれ、現在も伝えられているという。

数多ある少数民族の中でも政府から比較的厚遇を与えられているとされるが、それは国共内戦中に中国共産党に味方したためという。なお日中戦争時には日本軍の支配下に置かれた。

                                  20180725 1117による

この黎族は阿蘇氏のルーツであり、元々は中原に展開した古代の主要民族九黎族(多氏、支那氏、耳族、宇治氏…)の一派でしたが(ミャオ族も同様)、漢族他との戦いに敗れ雲南省から海南島を経由し列島に逃げてきた日本人のルーツの一つだったと考えるのです。

これで、「馮河黎来」の意味は大体お分かりではないでしょうか?

要は、“黎族(阿蘇氏)の野郎やってきやがれこの馬鹿野郎どもめ!…”程度の罵倒なのです。

博多に大陸から、半島から多くの民族が入って来ている事、そして、神社の神事に絡んでくるほどの大族になっていること、つまり、倭人、日本人の形成に関係している事がお分かり頂けるのではないでしょうか?

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:13| Comment(0) | ビアヘロ