2018年08月09日

484 有明海のど真ん中 湯島の神社探訪 “上天草市湯島の諏訪神社”

484 有明海のど真ん中 湯島の神社探訪 “上天草市湯島の諏訪神社”

20170929

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 有明海の湯島と言えば天草島原の乱の談合島として知られていますが、一般にはほとんど知られておらず、“そんな島ってあったっけ?”…といった認識の方が多いかも知れません。

 まずは場所を確認して頂きましょう。

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これまで、熊本では数十人単位の大規模なトレッキングを行っていましたが、最近は各自五月雨的に神社トレッキングを行い始めています。調査をする側としては少人数の方が動きやすく調査にもなるのです。

 熊本では女性メンバーが多く土日に休みに難い事があるため、今後は小規模トレッキングを連発した方が密度も上がり、機動的に動ける事から重複が避けられ(勿論、何度も行くことによってようやく分かる事もあるため必ずしも重複が良くない訳でもないのですが)平日に何度か行う方が良いのではないかと考えていました。

第一、何台もの(時として10台も超える)車で狭い神社に移動するのは大変な事なのですから。

今回は、三人で神社を訪問するという話があった事から急遽湯島諏訪神社を見に行くことにしました。

これは、以前、船着き場に上陸しただけの湯島に上り、湯島の諏訪神社を見たと言うだけの小規模トレッキングのリポートになります。

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この湯島には二十年近く前でしたが、一度だけ、舟釣り(タイ、カサゴ釣り)で波止着けした事がありました。

 それ以来、アコウと猫島としても知られた島をじっくり見たいと思ってきました。

 まさに、個人的には「渡りに船」だった訳で、神社と民俗と猫とアコウが一度に堪能できる「湯島」は一度は踏むべき島だったのです。

 天草島原の乱後、この島も徹底して弾圧が行われたはずで(何しろ反乱の武器である弾丸まで造っていた場所なのです)、キリシタンの痕跡は存在していないはずです。

 こういったところまでもが湯島訪問までのイメージでしたが、30分足らずの船旅(渡船往復1200円)を楽しむ間もなく、直ぐに南側斜面に家並が密集する湯島の集落が見えて来ました。

 勿論、神社研究に於いてはそれほどの重要性はないのでしょうが、有明海の出口とも言っても良い神社は見ておく必要はあったのです。

 まず、「湯島」とは奇妙な名前です。この事が以前から気になっていました。特別温泉が出ている島でもないのに湯島とは…でしたが、意識的に調べさえすれば自ずと理解できる幸運なケースでした。

 以下はネット上にあった有難い資料ですが、調べれば湯島(ユシマ)は石間(イシマ)だった事が書き留められていました。

 火山島だった時代の痕跡は、漁師や船乗りによって代々伝えられていたはずで…もしかしたら岩と岩の間の海底からもガスが沸き湯玉が上がっていた事が地名としても反映されていたのではないかと思うのです。

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明快ですね。普通は他説に容易には順応しないのですが、これは矛盾がなく気になっていたことが払拭できました。もう一つは、東京の「湯島天神」(スサノウ+菅公)との関係です。

「湯島」という名称はこれ以外には見当たらない事から、何らかの関係があるのではないかと考えるのは常識の範囲内です。何やらこの点から町興し村興し風にイベントも行われた事もあるらしいですが、諏訪神社とする湯島神社とは無関係ではないかと考えていました。

 しかし神社を見ると氷解しました。直接の関係があるかは不明ですが、とりあえずは基層に天神様に関係のある神様も祀られていた痕跡があったことからこの点に関しても、一応、関係が全くないとは言えない事が分かり安心しました。祭神はスサノウ→タケミナカタ→金毘羅=オオヤマクイと変わったようです。

今回は息抜きの意味もあったことから、神社さえ見れば、後は、アコウの大木を見て廻り、猫を撫でで、魚でも食べて帰れば満足できそうですので、離島の旅としてはそれだけで完結するのでした。

 さて、「熊本県神社誌」には湯島神社は湯島諏訪神社として建御名方を祀るとそっけなく祭神が書かれているだけでした。

 島には天草五人衆(豊臣政権下の小西領の土豪)でもあった大矢野氏の居城跡もあることから、この建御名方神と言えども、後に大矢野氏が自ら祀ったものである可能性が高く、本来の神は別にあるのではないかと考えていました。

 そこで、神社を見ると思ったとおりで、やはり二つの摂社が境内に置かれていたのです。

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さて、境内には二つの摂社が置かれていました。

 社殿に向かって左に置かれたのが金刀毘羅神社で、右が祇園神社です。

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 ここからは推定ですが、恐らく幕藩体制下には金刀毘羅神社が祀られていて、明治か戦後になって、島原の乱で天草が実質的な天領となる前に祀られていた諏訪神社に戻されたのではないかと考えています。

 では、祇園神社は何でしょうか?それこそが、最も古い祭祀であり、肥後3,500社中1,300社を占める菅原系神社がこの天草の離島にまで及んでいたのではないかと考えるものです。

 では、由緒書をご覧ください。「貞観十八年」の記事の通り、これが最も古い祭祀であり、湯島の人々が古来守り祀ってきた神様であろうと思うものです。

 所謂、金毘羅さんは、家康のフィクサーであった天海僧正によって流布された日吉神社=日枝神社の事であり、これは島原の乱後に持ち込まれたものなのでしょう。

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南方系の海岸性樹木であるアコウはイチジク科の木でしたか、イチジクのような実を着けることから磯ヒヨドリのような恰好の餌となり、この鳥の糞と共に海岸に頻繁に種が撒かれます。

塩分を必要とするため海岸から遠く離れては生きていけないのですが、性の強い木であることから成長も早く右側の木でもほんの25年程度なのです。

そして驚くほどの根を張る事から、別名「絞殺しの木」とも言われ、波際の道路や敷地の護岸のために意図的に植えられる事もあるのです(劣化の激しいコンクリートなどよりよほど強いのです)。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:48| Comment(0) | 日記

2018年08月12日

485ヤマタノオロチ退治異伝(「高良玉垂宮神秘書」)“宮原誠一研究のご紹介”

485ヤマタノオロチ退治異伝(「高良玉垂宮神秘書」)“宮原誠一研究のご紹介”

20170718

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 太宰府地名研究会のエースに宮原誠一氏がおられます。

 氏は3040年に亘り筑前〜筑後の神社研究を続けてこられましたが、百嶋由一郎神社考古学に接してようやく謎が解けたと言われています。

 既に、sp114-1 としてblogを更新続けておられますが、まだ、スタートして間もない事から直ぐにアクセスが上がるという訳には行かないようです。

 このため、宣伝の意味を込めて、No-014 金山彦と竈荒神 を全文転載させて頂くことにしました。

 なお、「ひぼろぎ逍遥」、「同(跡宮)」にもリンクしていますのでsp114-2 、私の駄文よりもよほど立派ですので、是非お読み頂きたいと思って止みません。


2017-07-16 15:30:00

テーマ:神社祭神 百嶋神社考古学

宮原誠一の神社見聞牒(014)
平成29(2017)0716

No.14 金山彦と竈荒神


私が少年の頃、田舎の台所は横に炊事場があり、その炊事場は土間であった。そこに、井戸水をくみ上げる手押しポンプと流し台と竈(かまど)あり、私の地方では「かまど」を「くど」といっていた。羽釜でまきを燃やし炊飯するのである。一番の難点は残り火の不始末から火事火災を起こすことが度々あった。当時の火事の第一原因は、この「かまど」の火の不始末であった。今はガスコンロ、IHヒーターと科学の近代化で、火災の原因は減り、てんぷら揚げの引火、タバコの不始末等が原因に上ってきた。
その台所・炊事場の柱に火炎を背に、右手に剣を持った「いかめしい大明王」の護符が貼ってあった。火災防止の神様であると祖母は云う。「竈荒神」様である。
父から、この竈荒神様の前で「オン ケンバヤ ケンバヤ ソワカ」と唱えると、荒神様が守ってくださると教えられた。今でも、この荒神祭文「オン ケンバヤ ケンバヤ ソワカ」が記憶に残っている。
この竈荒神様。不動明王みたいな形相に鬼のような厳しい表情をされているが、実はそうでなくて、やさしい神様である。


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天満神社 福岡県田主丸町亀王 境内社「秋葉神社」と祭神「金山彦・軻遇突智神」

ひところ、三宝荒神と云う名を良く耳にしたが、最近は余り聞かなくなった。
先の竈荒神様の護符も「不動明王みたい」なものではなくなり、一般神社の四角ものの護符に変わって穏やかになっている。
その三宝荒神であるが、神仏習合の仏教の「仏 宝 僧」の三宝を守護する神とされるが 根拠となる経典や教義は見当らない。仏教の菩薩 道教 陰陽道 修験 神道などの日本の宗教土壌のなかで複雑に融合しあい造りだされた神といえそうである。
中国で独自に編纂された経典『无障礙経』(むしょうげきょう)では、如来荒神(にょらいこうじん)、麁乱荒神(そらんこうじん)、忿怒荒神(ふんぬこうじん)の三神と説いているが、根拠はない。

竈荒神様の荒神祭文に絡んで、物部氏の鎮魂法の呪詞を参考までに。


物部鎮魂法の一部
足の裏を合わせたあぐらを組み、両手の指を組んだまま、左振り、右、前、後、中と体を振る。「ひ」で一回、「ふ」で一回、・・・「と」まで10回、力を込めて振る。「一二三四五六七八九十」(ひふみよいむなやこと)と唱えながら、そのあとに「布瑠部由良由良止布瑠部」(ふるべゆらゆらとふるべ)と唱える。


福岡県大宰府北谷の寳満宮。昔は寳満宮竈門神社といった。
筑紫野市山家の山家宝満宮の北西の太宰府市内山に宝満宮竈門神社が鎮座する。大宰府政庁(都府楼跡)の鬼門に当る宝満山に大宰府鎮護のために祀られたと云う。
祭神は玉依姫、相殿 神功皇后(左)、応神天皇(右)となっている。
竈門荒神の竈と荒神が結びつくのであるが、その竈門についての由来記がある。


「竈門山」名の由来
「竈門山」という名の由来は、この山の九合目にある竈門岩によるという説と『筑前国続風土記』には、この山が、カマドのような形をしていて、常に雲霧が絶えず、それがちょうどカマドで煮炊きをして煙が立ち上がっているように見えるので竈門山というのだと書いてあります。これは太宰府天満宮方面から見る山の姿です。
多くの方に最も親しまれている「宝満山」の呼び名は、神仏習合によって、この山に鎮まります神が、「宝満大菩薩」とされたところから、山伏の活躍と共に「宝満山」の名称が広く浸透して今日に至っています。


宝満山の名は、山家宝満宮の祭神・宝満大菩薩が勧請され、山伏の活躍によって広められた、とある。また、竈門山の名は、竈門岩と太宰府天満宮方面から見る山の姿が竈に似ていることに因む、とある。竈荒神様の一人に鴨玉依姫が百嶋神社考古学では当てられている。


三宝荒神に戻って、三宝荒神は一人の神様を火神に、二人の神様を竈神に据えることが多い。各地の荒神社をみてみると、火神には、素盞鳴尊、彦火々出見命、金山彦が当てられることが多くあり、竈神には奥津彦神、奥津姫神(長髄彦姉弟、大山咋・玉依姫)、を当てるのがみられる。
荒神様の神徳は「水神」、「農業神」でもあり、「牛馬の守護神」でもあり、「火災防止の神」、「招福の神」でもあり、幅広い霊力ある神様でもある。
竈荒神、三宝荒神共通に見られる神様が金山彦である。
別名「迦具土神、軻遇突智神(かぐつちのかみ)」、と云う。
金山彦は製鉄の神様であり、鉱山開発の神様であるとも云う。有名なのは、「天叢雲の剣 あめのむらくものつるぎ」を作られた神様であるという。


金山彦と櫛稲田姫(くしなだひめ)について、百嶋由一郎先生講演から。


百嶋由一郎先生講演「菅原道真の先祖神は何か」2012121
一番最初の九州王朝親衛隊金山彦はどこにおられたか、それは福岡県前原曽根の平原。天照大神の古墳のあるところ、曽根一族が九州王朝の初代親衛隊長金山彦です。金山彦が九州王朝の治政がある程度落ち着いたところで、金山彦の本来の仕事である貴重な鉱物資源を堀るために、場所を移して、ある程度住んでおられた場所が熊本県の山鹿です。
従って、山鹿で神武天皇のお后・吾平津姫をお生み申し上げ、今度は、金山彦の嫁さん(大市姫)が変わって、埴安姫のお子さんとして櫛稲田姫をお生みになった。櫛稲田姫の出身地は熊本の稲田ですが、櫛稲田の名前で有名なのは佐賀の神埼(櫛田神社)です。そのほかの櫛稲田はあとでとっつけたものです。


百嶋由一郎先生講演「玉名・山鹿・菊池の神々」201225
福岡市の隣の糸島市に曽根丘陵地があります。ともかく、昔も今も住むのには一等地です。ここに住んで居られた天照大神及び神武天皇のお姉弟を守っておられたのが金山彦九州王朝親衛隊長だったんです。この金鑚大神はある程度の年齢になってから、嫁さん(大市姫)をもらって、熊本県相良の土地で吾平津姫をお生みになりました。この土地では金山彦になっています。紋章はこれ"円天角地に十字剣"ですよ。そして今度はお后が変わりまして(埴安姫)、おなじ近くで櫛稲田姫をお生みになりました。

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百嶋神代系譜・大幡主・月読命・伊弉諾命・金山彦 神代系図(2)


出雲地方のヤマタノオロチ神話は有名で、ほぼ誰もが知っておられることと思う。
足名椎(あしなつち)夫妻とその娘・櫛稲田姫をヤマタノオロチ(八岐大蛇)から素戔嗚尊が救う物語で、退治したヤマタノオロチを切り裂いたら、アメノムラクモ(天叢雲)の剣が出てきたという話である。
実は、この説話は大山祗と金山彦との争いを説話化したものと云われている。
大山祗と金山彦との百年戦争と言われ、ヤマタノオロチの説話の材料にされ、金山彦夫妻が足名椎夫妻、大山祗はオロチに例えられる。その争いを仲裁したのが素戔嗚尊である。オロチ問題が終わったことは二人の豪族間の争いが終結したことを意味する。


金山彦と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)について、百嶋由一郎先生講演から。


百嶋由一郎先生久留米大学講演「九州王朝前夜」2011716
自分たちの一族である長髄彦が神武天皇に対して弓を引いた。それで、それをお詫びするために長髄彦の親父である素戔鳴は大変苦労されて、何とか天照大神にお詫びする方法を考え出された。それが、天叢雲(あめのむらくも)の剣の献上です。天叢雲の剣でピンとこられない方は、ヤマトタケルが後々お使いになった草薙の剣です。
その献上の使者として、お立ちになったのが少年、大山咋(天葺根命アメノフキネノミコト)。これは佐賀におけるお名前です。後々のお名前が比叡山の日吉大社、熊本にいる頃は国造神社です。


百嶋由一朗先生講演「神社研究会」2011528
素戔鳴尊が暴れられて、天照を困らせられました。それで周囲から反発を食らいまして、素戔鳴はそれを後悔して、天叢雲の剣を打って、それを天照に献上なさいました。その献上の使者となったのが佐田大神です。その時は、まだ若い青年でした。この功績で佐田大神となったのです。ところが、出雲佐田大社は大社から格下げされてしまいました。その理由は、佐田大神(福岡・熊本では大山咋の神といいます)の長男坊主(稲飯命)がこともあろうに熊襲(羽白熊鷲)とタイアップして神功皇后に喧嘩を仕掛けたのです。それで、息子の馬鹿騒ぎによって大神の大を消されたのです。それで出雲の佐太神社となったのです。挙句の果てに、猿田彦大神に勘違いされています。


天叢雲の剣は、素戔鳴尊が天照大神にお詫びする方法で考え出された。それが、天叢雲の剣の献上で、金山彦が天叢雲剣を打って、献上の使者となったのが、若き大山咋・天葺根命であった。

「ヤマタノオロチと天叢雲の剣」について、高良玉垂宮神秘書第1条から。


高良玉垂宮神秘書第1条
天岩戸の後(中略)樋の川の奥へ入り給う。その川の川上より箸一対流れ下る、人が在ると思し召し、川を伝いに入り給う。片原に在家見えたり。立ち寄りてご覧ずるに、夫婦と姫一人みえたり。泣き悲しみ限りなし。スサノヲ尊、尋ね給う。いかなる人にてあるか?答えていわく。この浦は三年に一度、この川に「いけにえ」あり。今年はわが姫に当たりて、男の肌に触れない女を「いけにえ」に供えるなり。スサノヲ尊聞こし召す。ここに至って、そういうことであるならば、悪龍を退治すべしと仰せおれば、翁、答えて申す。御意にそうすべし。喜びいわく、翁夫婦の名を足名椎(あしなつち) 手名椎という。姫の名を稲田姫と云うなり。
スサノヲ尊その意を得て、まず、「ヤハシリ酒」という毒酒を作りて、舟一艘に積み、上の社に段を構え、姫の形に人形を作り置きたまう。
風水龍王、人形の形が酒に映りて、酒の下に人があると思いて、毒酒を飲み干す。もとより、かくのごとくせんがための企みであれば、川岸に酔い臥したり。スサノヲ尊、これをご覧じてトツカの剣を抜きて、散々に切りたまう。八の尾をことごとく切り給う。その中の一つに切れない尾があり、ご覧ずるに、氷のごとくになる剣あり。取りてご覧ずるに、後の天照大神の三種のうちの宝剣なり。この剣は近江国の伊吹山にて失いたまう。(中略)
スサノヲ尊、宝剣をもって、もとの斎所にもどられ、神たち集まりて、この宝剣を天照大神に贈呈され、喜びはかぎりなし。その時、スサノヲ尊と天照大神仲直りたまう。
(中略)
この宝剣は風水龍王の八つの尾の中の尾にあり。剣のあるところから煙立ちて叢雲のごとくに在るにより、叢雲の剣と申すなり。
その後、草木に火をつけ国土を焼かんせしを伝え聞き、この剣をもって草をなぎ払いたまう。この時より草薙の剣と申すなり。


記紀の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)説話の原典であろう。オロチを騙していかに毒酒を飲ませるかがよく表現されている。考えてみれば、オロチも単純で、酒甕に映った人形姫を、その酒下にいる姫と思って酒を飲み干すのであるから。
「剣のあるところから煙立ちて叢雲のごとくにあるにより、叢雲の剣と申すなり。」
叢雲とは気象学的に積雲もしくは積乱雲に近い雲といわれる。おそらく、たたら製鉄の折、溶鉱炉から立ち込める炎と煙がその様に見えたのであろう。

素戔鳴尊は天照大神へのお詫びに宝剣を献上するため、金山彦に叢雲の剣の製作を頼んだ。
金山彦はその製作にあたり、砂鉄と炭を原料に「たたら溶鉱炉」を造り、溶けた砂鉄から玉はがねを取り出した。そして、力の限り鋼を打ち宝剣をつくり上げた。その時の形相が今の不動明王の姿に似ていたのであろう。金山彦の後ろに映る溶鉱炉から立ち込める炎は後背の炎に、剣を打つ鍛冶の姿は顔を赤くした鬼の姿に見えたのであろう。
そこで、金山彦のイメージが三宝荒神の不動明王と重なった。背後に炎を背負い、右手に剣を持った不動明王の姿になった。金山彦の姫君・吾平津姫(あいらつひめ)は後の神武天皇・大白太子の后である。その金山彦の姿がいかめしい不動明王の姿とは、イメージが合わない。
そして、金山彦は製鉄の神様であり、鉱山開発の神様となり、溶鉱炉の炎を制御し、火災防止の神様に祀り上げられた。

金山彦は火災防止の神様と祀られている秋葉神社の祭神である。別名、「迦具土神、軻遇突智神(かぐつちのかみ)」、と云う。
昔、村中で大火があると、村神社の境内に火災防止・再発防止のために秋葉神社が境内社として建立された。大火が村中に及ぶと村神社の秋葉神社となることもあった。その例が、福岡県田主丸町片の瀬新町の秋葉神社である。本来の町中には須佐能袁(すさのお)神社が町を守るため鎮座されている。


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秋葉神社  福岡県田主丸町片の瀬新町


福岡県田主丸町片の瀬 宝暦7年(1757) 本町新町全焼。

明治44年6月本町で14戸を焼失する。


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福岡県田主丸町片の瀬本町の鎮守・須佐能袁(すさのお)神社

以上転載


 息をも飲む素晴らしい分析です。自身も「高良玉垂宮神秘書」の解析作業に入らなければならないと考えていたところですが、遠方の神社調査への思いが強く放置してきました。

宮原研究はそれを埋めて余りある物を持っています。是非とも多くの読者がお読みになる事を希望します。

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「高良玉垂宮神秘書」    百嶋由一郎三宝荒神系譜


 これまで、「出雲神話の舞台は九州である」という事をお伝えしてきました。一例ですが、


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大宮神社と猿田彦大神 C 転載 “櫛稲田姫(クシナダヒメ)は熊本県山鹿市で産まれた! ”


では、菊池川を肥後の肥の川と見立て、金山彦、埴安姫(アシナヅチ、テナヅチ)の間にクシナダヒメが産まれている事から、スサノウのヤマタノオロチ退治の舞台は熊本県の山鹿市であろうと考えていましたが、宮原研究では北部九州でも他の地域をお考えになっていたようです。


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 これについては直接お書きになっていませんが、福岡市の油山の麓には樋井川が流れ桧原(ヒバル)と柏原(カシワラ)が存在しているのです。

百嶋先生もご指摘の通り、桧原には天照(姉)が柏原には神武がいた…と言われていました。

勿論、「古事記」のインチキ神話では、天照と神武が姉弟などとは書かれていませんが…、百嶋神代系譜では腹違いの姉弟なのです。

 出雲が藤原により造られたテーマ・パークでしか無い事が幾分かはお分かりになったでしょうか。



研究目的で故)百嶋由一郎氏が残した神代系譜等を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年08月15日

486 九州トップの観光地の湯布院を静かに見守る謎の古社 “若宮八幡神社”

486 九州トップの観光地の湯布院を静かに見守る謎の古社 “若宮八幡神社”

20171010

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 湯布院と言えば九州でもトップ・クラスの観光地であり良く知られた温泉地ですが、我々のような神社研究者にとっては、宇奈岐日女神社には宇奈岐日女が祀られていないとか、椎根津彦を祀る大杵社…といったものにしか関心がわきません。

それはさておき、遠く古代、由布院盆地には大きな湖があり、今、尚お湯が沸き上がる金鱗湖はその名残であろうとも言われています。


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由布院盆地の縁を、久大線が馬蹄形状(U字)に走っていますが、これこそが古代の想定由布湖の縁を意味し、その線上に道路(山野辺の道)もあり、重要な神社も並んでいるのです。

 その日田側からの道路上にこの若宮神社も鎮座しているのです。これだけでもこの神社の重要性は分かるのであり、これまで全く意識してこなかった事の不明を恥じるばかりでした。

 今回、改めて由布院盆地を考えるに及び、改めてこの若宮八幡宮に目が向かったのでした。青丸辺りが湖の水が切られた辺りではないかと考えますが、宇奈岐日女神社の祭神に阿蘇系を色濃く感じるため(これについては)蹴破りを意識せざるを得なかったのです(それについては以下をご覧ください)。


ひぼろぎ逍遥(跡宮)


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湯布院温泉と言えば宇奈岐日女神社 B  “宇奈岐日女は高木大神の孫娘だった

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由布盆地の椎根津彦  

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湯布院温泉と言えば宇奈岐日女神社 A  “祭神配置に認められる阿蘇の神”

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湯布院温泉と言えば宇奈岐日女神社 @  “宇奈岐日女は隠された!”


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若宮八幡宮付近から由布岳を望む

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ご覧の通り、観光客があまり訪れない少し市街地から外れた一角に、若宮八幡宮(神社)があります。

 この間、国東半島を中心に、豊後地方の若宮八幡宮(神社)を数多く見て来ました。

 高良神社と併祀されているもの、境外とは言え近くに高良神社が確認できるもの、当然ながら単独祭祀されているものの高良神社が境内のどこかに隠されている可能性があるもの…と考えています。

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垂れ幕にあるとおり、その基層部にはスサノウ(金山彦)系の存在を感じさせます。

 ただし道真祭祀は明治の合祀によるものである事が掲示により分かります。

 それは宇奈岐日女神社の基層に道真の祭祀が色濃く残されている事とも対応します。

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これは、参拝殿正面に張られていた祭神の表示ですが、八百年代になって宇佐神宮から贈)応神=ホンダワケを勧請した事が分かりますが、弘仁年間とはその位置を考えればかなり遅い事が分かります。

 では、それまで祭祀が存在しなかったなどと考えられるでしょうか?

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 それこそが我々が追及する古層の神々なのです。

 私の考えは以下の通りです。

 まず、宇佐神宮の成立が絡んでいますが、現在のような一社三殿(五神)体制になったのは九世紀になってからであり、神功皇后は相当後になって追加されているのです。

 このため、表向き延喜年間に追祀されたのは神功皇后のみで、実際には仁徳(九州王朝最後の天皇)と高良玉垂命が祀られていたのではないかと考えています。

 その理由は、田霧姫という表記が浮いているからです。

普通は田心姫神として表記される宗像三神の一神であり(現在の宇佐神宮の第二殿には宗像三神が祀られている)、何故、この一神だけが祀られているかが非常に奇妙なのです。

もしも、ここに高良玉垂命が入れば、親子三人がきれいに納まる訳で、この三神が祀られていた痕跡と考えたいのですが、あくまでも仮説でしかありません。

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百嶋由一郎極秘系譜(部分) 皇宮皇后こそ神功皇后であり、開化は勿論高良玉垂命なのです


境内には合祀されたものかそれ以前のものかの判別の付かない摂社(摂社扱いもされていないのかも知れませんが)が置かれています。

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春日神、大神宮も祀られているようです 御穀はスサノウか?


 神社のとなりにはかなりの水量を持つ遊水池がありました。

 由布岳周辺の山に浸透した水がこの地で迸っているのでしょうが、古代に於いてはさらに一層このような水の支配権が重要で、だからこそこのような場所に神社が置かれていたのです。

 この神社が古いと考えた理由は、この遊水池が存在したからですが、他に資料がないためこれ以上踏み込むことは止めておきましょう(大分県には「県神社誌」もないため)。

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研究目的で故)百嶋由一郎氏が残した神代系譜等を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい

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