2018年07月17日

ビアヘロ 056 四国の高良神社“見えてきた大宝元年の神社再編”( 高知市 別役政光 )

ビアヘロ 056 四国の高良神社“見えてきた大宝元年の神社再編”( 高知市 別役政光 )

20180423

太宰府地名研究会 古川 清久


 本稿は古田史学の会の会報(20182月)に掲載されたものですが、全国の高良神社(これに加えて若宮神社…なども)を追い求める当方の立場に近接するものであり、今般、特にお願いして掲載頂いたものです。

 書かれた別役氏は高知市在住の若手研究者ですが、今後も掲載の機会が増えて来るものと考えています。

 僭越ながら、四国の高良神社に関しては私も現地を踏んで15社を確認しており、ひぼろぎ逍遥(跡宮)にブログとして15本を掲載しています(以下のものはその一部です)。


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四国の高良神社調査(徳島‐高知編)E “徳島県四万十市蕨岡の高良神社” 

185

四国の高良神社調査(徳島‐高知編)D “吾北村の若宮神社”

184

四国の高良神社調査(徳島‐高知編)C “徳島市内 飯谷町 高良の高良神社”

183

四国の高良神社調査(徳島‐高知編)B “徳島市内 応神町 古川 の高良神社” 

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四国の高良神社調査(徳島‐高知編)A “阿波の山上集落に佐連の高良神社を探る”

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四国の高良神社調査(徳島‐高知編)@ “阿波の山上集落に末貞の高良神社を探る”


 別役氏は正統派らしく軸足を文献史学に重点を置いたフィールド・ワークを行っておられますので。

このため、当方などに比して寄り緻密、稠密、細密なリポートを書かれています。

 本稿は元々縦書きで作成されたものを掲載上の都合で横書きにしていますので、不具合があるかも知れません。その場合は、改訂版を出させて頂く事として、読みやすく理解しやすくするために地図、写真等についてはこちらの責任で添付させて頂きました。

 まずは、簡潔明瞭な「四国の高良神社」をお読み頂きたいと思います。

 なお、今回はグーグル・アースから地図と画像を採らせて頂きました。それは、読者ご自身でも検索され地番からストリート・ビュー等で周辺検索を試みて頂きたいと思った次第です。


四国の高良神社 見えてきた大宝元年の神社再編                 201821

高知市 別役政光


福岡県久留米市御井町の高良大社(筑後国の一宮)の祭神は高良玉垂命といい、倭の五王との深いつながりがあることを古田史学会の代表・古賀達也氏が指摘(『新・古代学』古田武彦とともに 第四集、一九九九年)している。高良神社の分布を見ると筑後地方に最も集中しているが、西日本を中心に広がり、遠くは青森県を含む東日本にも所々に散見される。インターネットの検索にかかるものに関しては、ホームページ「検索で調べた高良大社の分祀」の地図が分かりやすいが、境内社や小さいところなど、漏れているものも多いと思われる。倭国・九州王朝の勢力圏と関連があるかどうかは多方面からの検証が必要であるが、四国における高良神社の存在を追ってみて、明らかになったことを報告しておきたい。


愛媛・徳島・香川の高良神社

久留米地名研究会・古川清久氏が四国へも足を運び、高良神社を訪れたことが、ブログ『ひぼろぎ逍遥』の中で紹介されているが、愛媛県の高良神社は西条市の石岡八幡宮の摂社としてかろうじて残されていた。他に松山市北斎院町の高家八幡神社、同市高岡町の生石八幡神社、南宇和郡愛南町の八幡神社等いずれも境内社ではあるが、探すほどに数が増え、単立の神社として存在していないことがかえって、九州王朝との関係性の深さを象徴しているようでもある。それに対して、徳島県の高良神社四社は比較的よく残されているという印象を受けた。所在地には「高良」という地名も残っている。香川県では四国八十八か所の案内などにも名前が出る七十番札所・本山寺に隣接する三豊市豊中町の高良神社(祭神・玉垂命)が有名であり、その近辺の財田川水系に数社集中しているが、大半は八幡宮境内社となっている。他に高松市香西南町の高良神社(祭神・武内宿禰命)は香西本町の宇佐八幡神社のお旅所(境外末社)とされており、同社境内の白峰神社には高良神社を含む境内神社五社が大正十二年に合祀されたと記録されている。他にも二〇一四年に一社が廃社になったと聞く。

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高知の高良神社

さて、高知県ではどうだろうか。東の端、安芸郡東洋町に甲浦八幡宮摂社としての高良神社(祭神・高良玉垂命)と、県西部の四万十市蕨岡に高良神社(祭神・武内宿禰命)の二社がすぐに確認できた。前者は京都府の石清水八幡宮摂社・高良神社(『徒然草』五二段に登場)と同型の祀られ方のように思える。逆に言うと、八幡神社の摂社や境内社を探すことによって高良神社が見つかることが多いということが経験則として分かってきた。他県で調査される場合にも参考にしてほしい。

後者については、いくつかの謎がある。まずは鳥居横の案内板を見ると「上分字天皇山にあり、祭神は大夫天皇、武内宿弥命である。〜(中略)〜天皇という小字や、瓦が菊の紋であることや、周辺の状況などから、承久の変(一二二一年)によって土佐に配流された土御門上皇の御住所ではなかったかという説があり、研究が進められている」とある。

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大夫天皇(大武天皇)とは何者か

この大夫天皇とは何者なのか。『中村市史 続編』(中村市史編纂委員会、一九八四年)を見ると「高良神社 村社 蕨岡字天皇山 祭神 武内宿禰命。上分沖組の産土神でもと大武天皇。明治元年改称 神社牒には大夫天皇とあり。土佐州郡志には天皇 南路志では大夫権現」といった内容が書かれており、かつては「大武天皇」とも呼ばれていたことが分かる。倭→大倭の変化と同じように尊称を込めて倭の五王・武が大武と呼ばれるようになったのではとの想像も浮かんだが、他に類例はないか探してみた。すると大阪府豊能郡豊能町に天武天皇宮と呼ばれる場所があり、同町観光ボランティアの会のホームページには「遊仙寺の墓地奥に続く森の奥に残された祠。ここに宮があったとされる。神祭は天武天皇で、創立年代は不明。柏尾宮とか大武(ダイブ)天王宮とも呼んでいたという。明治四十年に走落神社へ合併された。『大婦天皇御宝前、正徳元年九月吉日』と刻された石灯籠が走落神社の境内へ移されている」と紹介されている。

天武→大武→大婦と変化したというのだ。しかしこの説は受け入れがたい。尊称の付加や好字への変化はありうるかもしれないが、大和朝廷の天皇その人に対して公式的な呼称以外の表現をあえて用いるであろうか。多元史観に立ってみれば、天皇家とは関係のない偉大な人物が天皇と結び付けられて祀られているという可能性が見えてくる。漢字表記は変化しているが「だいぶ」という音に意味があるのではないだろうか。そう考えると、福岡県飯塚市の大分(だいぶ)八幡宮との関わりが感じられてくる。

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八幡宮のはじまりは大分八幡宮とされ、そこから宇佐八幡宮や筥崎宮が分霊されていった。『八幡宇佐宮託宣集』にも筥崎宮の神託を引いて「我が宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあるが、筥崎宮へ遷座した後も九州五所別宮の第一社として篤く信仰されていたという。中国では、周代に太師・太傅(たいふ)・太保が三公と呼ばれ、天子を助け導き国政に参与する職であったとされる。その太傅、すなわち天子の養育に携わる府が置かれていた場所が大分宮であるとの説もあるくらいだ。「大夫」「大婦」をどう読むかは定かではないが、「たいふ」の音に通じる。「大夫天皇」が天子を補佐した人物というイメージが浮き上がってくる。それゆえに高良神社の祭神が武内宿禰(神宮皇后の後見)と結び付けられることが多いのも一理あるかもしれない。


県下に残る高良神社の痕跡

いずれにしても、一つの事例だけで結論を下すのはデータ不足である。高知県内の他の場所には高良神社はないのだろうか。長岡郡大豊町に高羅大夫社が見えるが、祭神は不明である。高良神社としては、八幡神社の摂社または末社として数社見つかった。安芸郡東洋町野根の野根八幡宮(九州宇佐神宮の分社で鎌倉時代の創建と伝承される)の脇宮二社として左側が高良玉垂神社、右側が若宮神社。四万十市不破の不破八幡宮の境内社。また『皆山集1』(松野尾章行、一八三六〜一九〇二年)には、南国市岡豊山にあった豊岡八幡宮の末社として、高良・若宮社など十数社が記されている。

地名遺称として高良神社に関連がありそうなのは、「白皇神社:山奈村山田字宮ノコウラ」「天王:枝川村コウラカ峯」「天王社:梅木村カウラ」など。山奈村(現・宿毛市)の白皇神社は弘仁(八一〇〜八二四)年中の勧請とも言われる。他は「〜天王」が祭られている旧地名が「コウラ」となっていることは、それ以前において高良神社があったか、ある時点で名称変更がなされたといった可能性が見えてくる。神社の社地がある場所の地名として、神社名あるいは祭神名がつけられていることが多いことは、『長宗我部地検帳』(十六世紀末)などでも確認できる。よって四万十市蕨岡の「字天皇山」も大夫天皇が祭られていたことによる地名と考える方が順当で、土御門上皇の御住所云々という可能性は低いであろう。

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先出の「天王社:梅木村カウラ」は、現在は高知市鏡梅ノ木の八坂神社(祭神:素盞鳴命)が建っている場所である。秋の大祭(十一月五日)で神社に集っておられた地元のご婦人に聞いたところ、神社の川向を指して「その辺りをコウラと言っていました」とのこと。明治以前は大宝天王宮、大坊天王社、天王とも称していた。天正五年(一五七七)の棟札の記録もあり、その歴史は古く、『神社明細帳』には「神体記云、天王社神躰木工神九躰」とある。まさか高良御子神社(久留米市山川町)の九躰皇子(高良玉垂命の九人の皇子)を祭っていたのではないかとさえ思えてきた。かつては隣村との村境の峠、ホウテン(宝殿か?)という場所に祭られていたとも伝えられており、高良御子神社における古宝殿との相似性が見えてくる。近くの小浜神社は明治元年まで大房天王、大房天皇であり、八社河内神社についても、「神体記云」として「神躰木工神九躰」とある。


大宝元年の神社再編

この「大宝天王」についても滋賀県に類例が見られる。栗東市の大宝神社(旧:大宝天王宮)の由緒として「当神社は、七〇一年疫病流行の時、小平井村信濃堂(シナンド)(現在の栗東市小平井)に鎮座された素盞鳴命(スサノヲノミコト)と稲田姫命を霊仙寺村(栗東市霊仙寺)経由綣村(栗東市綣)の地先、追来神社境内に四月八日にご鎮座。これにより疫病が鎮まったと伝えられる。同年五月一日社名を大宝天王宮と勧請、正一位とされた」とある。一方、追来(オフキ)神社(祭神:多々美彦命)の由緒には「地主の神として大宝年間以前よりこの綣の地に鎮座されている。〜(中略)〜中世には、若宮権現とも呼ばれ現在も通称その名で呼んでいる。〜(中略)〜地主神でありながら大宝神社本殿が主祭神となっているため、無理に境内社としての位置付けになり、若宮でありまた、社名変更を余儀なくされていると推測される」とある。

関東最古の八幡様とされる茨城県下妻市の大宝八幡宮は七〇一年の勧請、三重県尾鷲市の尾鷲神社(大宝天王社)も大宝年間(七〇一〜七〇三年)の勧請とされ、神社名鑑によると大宝天王社、大宝社、あるいは大宝神社は全国に九社のみとされるが、明治元年の名称変更以前は高知県の例(いの町:大宝天皇→大森神社、高知市:大宝神社と日吉神社の合祀→大日神社など)から推し量っても、かなり多かったのではないかと予想される。

明治維新の折に、神仏分離令(太政官布告一九六号)で神社の名称変更の達しがなされたように、九州王朝から大和朝廷への政権交代の節目である七〇一年の大宝律令が出された際にも大きな改変があったと推測される。実際に大宝元年の勧請と伝えられる神社は、八坂神社(滋賀県甲賀市)、松尾大社(京都市)、白鳥神社(長崎県上五島町)、久麻久神社(愛知県西尾市、旧:荒川大宝天王宮)など数多く見られる。大和朝廷と無縁の神々を祭る神社に対して名称変更のみならず、主祭神の交替等の再編成がなされていったのではないだろうか。


   論理が指し示す結論

十分に調べ尽くしたわけではないが、高良神社は決して少なくはなかったと思われる。四国を見渡すと半数以上が八幡宮の境内社となっているものの、かつては高良神社が広く分布していた可能性が見えてきた。明治時代末から大正時代にかけて全国の神社の統廃合が進められ、神社数は六割程度に減少したとされる。高良神社をはじめ存続が困難になった小社は、この段階で境内社となったり、合祀されたものもあるだろう。高知県に関しては一社を除き、それ以前すでに境内社となっていることが確認できる。古くは、大宝年間にその存在を消されてしまったものがあったのではないかとの仮説も浮かび上がってきた。「コウラ」という場所に建つ八坂神社――以前は大宝天王と呼ばれており、『神社明細帳』には「神社牒云カウラ、天王社 一ニコウラ天王」との記述も見つかった。本来は高良神社であったかもしれないものが、伝承が不明確なため、名称変更の時点で牛頭天皇→八坂神社の例に倣い、大宝天王も八坂神社となったと考えられる。

四万十市の高良神社の祭神問題に立ち返ると、「大夫天皇」というのは元来「大宝天皇」であったと考える方が最もつじつまが合うような気がしてきた。「大宝」の漢字表記は「大房」「大坊」などいくつかの変化が見られる。「大夫」「大武」もその一変形ではないだろうか。『神社明細帳』によると、「元ト大武天皇ト称ス明治元年辰三月改称ノ達ニヨリ高良神社ト改称ス」とあり、それまでは主祭神が大夫天皇(大宝天皇)に置き換えられてきたが、伝承に基づき、本来の高良神社(祭神・武内宿禰命)に戻ったと解釈するべきではないだろうか。改称のルールに従えば天皇→八坂神社に名称変更されていたかも知れないと思うと、高良神社が復活したことは真に幸運だったと言えよう。

多元史観による神社再考が望まれる。日本全土には『日本書紀』や『古事記』に登場しない神々が数多く存在したはずである。その原初的な姿を明らかにしてこそ、生きた歴史が見えてくるのではないだろうか。


力作でしたが、今後とも掲載をお願いしたいと考えています。

併せて「四国の高良神社一覧」と「四国の高良神社分布図」を頂きましたので併せて掲載させて頂きます。当方は二〜三回に分けて15社を確認しましたが、さすがに現地の在住者は詳細に調べておられます。

これで、また、調査に行かなければならなくなったようです。

それとも、四国は別役さんにお任せし、他のエリアを優先すべきでしょうか?今年中に、秋田の赤神社と文中にも出てきた青森の高良神社を確認する作業に入ろうと思っています。協力頂ける方、情報を頂ける方はご連絡ください。09062983254まで。(古川)

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:28| Comment(0) | 日記

2018年07月18日

477 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… H 朝来に移動中に遭遇した大生部兵主神社

477 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… H 朝来に移動中に遭遇した大生部兵主神社

20170911

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 今回の目的は丹後、丹波だけではなく、勅使門を持つもう一つの赤磐神社を見ることにありました。

 このため、一時は舞鶴、福井、石川ぐらいまで進出する事も考えたのですが、重要度から考えて赤磐神社を優先し兵庫県朝来市へ戻る事にしました。

 京都府から兵庫県(但馬)に向かうルートはこれまでにも何度も通過していますが、京丹後から朝来へとなると通常通らない但東町経由の初めてのルートになります。

当然にも新しい神社に遭遇する事になるでしょうが、道が結構ハードでくたくたになっていると、目の前におあつらえ向きの神社が見えて来ました。

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延喜式神名帳 大生部兵主神社 但馬国 出石郡鎮座


祭神 武速素盞嗚命 (配祀)武雷命 旧県社

天武天皇12年社地を移して齋祀 齊衡元年(856)現在地に遷座


 この神社は出石蕎麦で知られる豊岡市出石を流れる出石川の上流の支流の薬王寺川の畔にあり、言わば出石の最深部と言っても良いような場所に鎮座しています。

 このため、どう見てもスサノウ系、新羅系を意識してしまい、その偏見を持ってみたのですが、それでも良かったようです。

出石神社は、「記紀」に記される渡来新羅王子の天日槍の伝説の中心となる神社で、現在の祭神には天日槍=スサノウが色濃く反映されています。

このため、この神社も牛頭天王とありスサノウを祀る神社になるはずなのです。

すると、現在は豊岡市に入っているものの出石はスサノウ系の支配地であり、但東とはそのような土地である事が分かります。

 播磨、但馬は、播磨国風土記にあるようにスサノウ系と大国主系が争い、出石のみにスサノウ系が押し込まれ、他は全て大国主系が抑えたと言われており、その事を意識しながら解析する事になります。

「播磨国風土記」の記載では、播磨国の神である伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神とみなせる。「風土記」では伊和大神は出雲から来たという。「伊和」の語源について「風土記」では神酒(みわ)から、或いは大己貴神が国作りを終えて「於和(おわ)」と呟いたためとする。(ウィキペディア)のですが、百嶋神社考古学では「伊和」は「石」の置換えで、「石木」「石来」「石城」がシルクロードの要衝タシクルガンの中国表記の「石城山」である事を知っています。

これについては ひぼろぎ逍遥 339 石尊神社とは何か? “山梨県笛吹市春日居”の石尊神社 外をお読み頂きたいと思います。

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境内に入ると 神社の掃除をしておられる方がおられました。

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昔は集落で担当を決めて当番制で掃除を行う風習がありましたが、少子化どころか無婚化、無産(財産、出産)化、高齢化、過疎化、氏子組織の解体、弱体化、村落共同体の消失によって、宮司家と周辺だけで行わざるを得なくなっているのです。

 現場で落葉を焼却する事も許されないご時世(産廃業者による働きかけにより利権化している)にも拘らず、きちんと掃除がなされ現地で焼却されている事に感動をさえ覚えましたが、この兵主神社の主はスサノウこと牛頭天皇になるのです。

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この神社には本格的な彫り物があります。

 社殿の造りも上から見れば十字型の屋根を持ち金山彦系の造りであることが分かります。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 新羅の王子様スサノウのお妃となる櫛稲田姫は金山彦と博多の櫛田神社の大幡主の妹の埴安姫との間に産まれたプリンセスであり、スサノウ自身も金山彦のお妃であるイザナミの子である事からスサノウと櫛稲田姫の結婚とは系統は異なるものの金山彦系を色濃く反映したものだったのです。

 ここの場合はお妃であったアカル姫を追いかけて出石までやってきた段階であり単純には言えないのですが、社殿の形式から見れば、こういった事が頭に浮かんでくるのです。

敬愛する玄松子氏も「境内の左右に境内社の祠があるが、詳細は未確認。『平成祭データ』には、境内社として稲荷神社の名が載っている。」と書かれていますが、当方も見当が着きません。

 車に戻ると、掃除をされていた女性が神社のパンフレットをお持ちになり、「この神社は掲示板もなく何も分からない事からこれをお持ちください」と言われました。

 有難く頂きましたが、後でお話をお聴きに行くと、この方が宮司だったのです。

 結構若く、キャリア21年と言われていましたから、少子化で神社の後継者が消えて行く中でも女性宮司の奔りと言えるでしょう。

 但馬では朝来市の大社足鹿神社の宮司も女性でしたので、兵庫県では女性宮司の進出が早いのでしょうか。

 昔は考えられなかったのですが、時代は急ピッチで進んでいるのです。

 ただ、予想される過疎化は留まるところを知らず、神社の維持、行事の運営は何とかなるとしても、社殿の建て替えは絶望的と言わざるを得ないでしょう。

 もしかしたら私達は列島文化の象徴とも言える神社、寺院の在り様の最期の姿を見ているのかも知れません。多分、カトリック系の世界遺産登録が進んでいる事も列島文化を消失させる目的があり、それに乗るさもしい輩(村興し町興しの愚かな人々です)。これらに比べれば、くだらないテーマ・パークやレジャー施設や箱ものといったものは何の価値もないものなのですが、時代の移ろいとはそういったもので、こうして歴史は嘘で塗り潰され、歴史の深層=真相は消えて行く事になるのです。

最後に、兵庫県神社庁のデータでは武雷命(タケミカズチノミコト)が祀られている事になるのですが、その痕跡は外を見る限りは分かりませんでした。



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武雷命の表記は気になりますが(始めは崇神の雷と思いました)、百嶋神社考古学の立場からは、タケミカヅチは阿蘇の草部吉見神=海幸彦 その人であり、奈良の春日大社の表向きの神様になるのです。

 そうすると、敬愛する玄松子氏が「境内の左右に境内社の祠があるが、詳細は未確認。『平成祭データ』には、境内社として稲荷神社の名が載っている。」というコメントが俄かに信憑性を帯びてくるのです。

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それは、タケミカヅチ=海幸彦は伊勢の外宮の豊受大神=伏見稲荷の始めの夫神であり、後のそれがニギハヤヒ=山幸彦だからです。


研究目的で百嶋神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 23:58| Comment(0) | 日記

2018年07月21日

478 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… I 宍粟山中の大社 御形神社

478 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… I 宍粟山中の大社 御形神社

20170912

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 丹波丹後の踏査が目的でしたが、実は、もう一つ、但馬は朝来市の勅使門を持つ神社赤淵神社を見ることも予定していました。

 前回の但馬調査で見落としていた神社ですが、あまりにも重要なテーマですので一人で見るには余りにも勿体無く、急遽、大阪から内倉武久(元朝日新聞記者で「太宰府は日本の首都だった」ミネルヴァ書房外3著)氏を呼び出す事にしました。

 内倉氏との調整から、一日間宍粟市への調査に移動することにしましたが、その道すがら立派な神社を見る機会を得ましたので、ここでは兵庫の山中の大神社をご紹介する事にします。

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社殿には由緒が書かれた御影石が置かれています。かなり読み辛いのですが…とりあえず読むと、

「御祭神御形神社は葦原志許男神を主祭神とし右殿に月読神 天日槍神 左殿に高皇産霊神 須佐之男神 をあわせ祀る社である 葦原志許男神は大国主神の別の名だいこくさまのことである…」と続きます。

  播磨については、大国主命とスサノウの争いに高木大神(佐用都姫神社)も関係している事が分かりますね。

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伊和神社も素晴らしいのですが、このような山中の小さな町に何故これほどの大社が?と考えてしまいます。
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境内には幾つかの摂社が置かれていますが、佐閉神社とは恐らく佐用町の佐用都比売神社で侵入を遮る神社とされているようですが、実体は宗像大社の市杵島姫(別名佐代姫)の事だと思います。

社殿が立派な理由は重文指定がされており、昭和46年に二億円が掛けられています。それほどの大社なのです。

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天日槍命と葦原志許乎命が、黒土の志爾嵩に至りおのおの黒葛を三条(みかた)を投げて支配地を決定した。天日槍命の投げた三条は、すべて伊都志(出石)に落ちた。

葦原志許乎命の投げた黒葛は、一条が但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、そして、最後の一条が御方に落ちたため、三条(みかた:御方・御形)という地名となった。

天日槍命の投げた黒葛が出石に落ち、天日槍命を祭神とする出石神社があり、気多郡に葦原志許乎命を祀る気多神社が鎮座し、養父郡にも、大己貴命を祀る養父神社が存在。

そして、御方の地に葦原志許乎命を祀る当社が鎮座する。また、『播磨国風土記』には伊和大神が形見として、自分の杖を植えられたため御形とするという記述もある。

当初は当社の南東にある高峰山山頂に鎮座していたが宝亀三年(772)、御方里の山神社鎮座の小森に

一夜にして三本の大杉が鼎立する夢のお告げによって、社殿を造営し、現社地に遷座。

式内社・御形神社に比定される古社。

明治三十六年までは高見大明神とも称されまた、高皇産靈神を祀る社として「タカミさん」とも呼ばれ、三方東一宮とも称されていた。明治十九年に県社に列格してからは、単に県社ともよばれるようになった。社殿には茗荷紋が付けられていた。境内社は、社殿のある垣の手前右手に忠魂社、本殿の左右に佐閉神社日吉神社。その他にも境内社の祠らしきものがあったが社名は確認していない。

敬愛する玄松子による

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敬愛する玄松子氏のおかげで日吉神社であるとわかりました


玄松子氏は「明治三十六年までは高見大明神とも称されまた、高皇産靈神を祀る社として「タカミさん」とも呼ばれ…」と書かれています。

これによっても佐用神社には高木大神(高皇産靈神)の伯母=実は天照大御神の母神が祀られているようだ(故百嶋由一郎)とされている事(これについては「ひぼろぎ逍遥」跡宮273 兵庫県佐用町の佐用都比売神社とは何か?を参照のこと)との繋がりが見えるうえに、佐閉神社が佐用都比売神社の置換えである事が見えてきたのでした。伊和神社にもそのうち再訪したいと考えています。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記