2018年07月12日

475 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… F 竹野神社(京丹後市)初見

475 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… F 竹野神社(京丹後市)初見

20170911

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 丹後半島を一周すると經ケ御崎のタンカー座礁から流出油による汚染などが頭に過りました。

 初めて半島を一周したのは、問題のタンカーを目撃できた時期で道路もあまり整備されておらず、人が歩いていると思ったら何匹もの猿の群れだったり…と思い出深いものでした。

 あの頃からすると神秘性が失われ、その分落ち着いて考える事もできるようになってきました。

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 この座礁したタンカーを目撃しただけにそのロケーションと言い強い印象は消えていません。

この経ヶ岬には航空自衛隊の分屯基地(京都府京丹後市袖志無番地 第35警戒隊)が配置されており入間基地の分屯基地になるようです。

無題.pngまさに朝鮮半島と一衣帯水の地であり、多くの渡来系氏族が入ってくる地であることを再認識した次第です。

特に朝鮮半島の東半部から船で出れば自ずと但馬から丹後辺りに漂着するのは理の当然であり、古来、百済系(半島南西岸)というよりも新羅系の人々が雪崩れ込む環境にあった事が理解されるのです。

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式内社 丹後國竹野郡 竹野神社 大 旧府社
御祭神 
天照皇大神 斎宮神社 竹野媛命 建豊波豆羅和氣命 日子坐王命


竹野神社 カーナビ検索 京都府京丹後市丹後町宮249 0772-75-0600

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式内社 丹後國竹野郡 竹野神社 大 旧府社 御祭神 天照皇大神

斎宮神社 竹野媛命 建豊波豆羅和氣命 日子坐王命古くは「タカノ」と呼ばれていたが現在は「タケノ」。 社伝によると、

丹波大県主由碁理の娘で、開化天皇の妃であった竹野媛が年老いて後、天照大神を祀ったのが当社の起源。本殿脇の摂社・斎宮神社の祭神は、開化天皇皇子で丹波道主命の父である日子坐王命、開化天皇皇子で丹波竹野別の祖・建豊波豆羅和氣命、そして竹野媛命。一説には建豊波豆羅和氣命ではなく、竹野媛命の皇子・彦湯産隅命。…

境内には幾つかの境内社があるが詳細はわからなかった。『明治神社誌料』には、斎宮神社、門斎神社、伊豆神社、稲荷神社、十二神社、野々宮神社、厳島神社、愛宕神社の名が記されている。『式内社調査報告』には、上記に加え、上神明神社、下神明神社、大社、矢崎神社の名が載っている。 厳島神社は池の中の小祠だと思う。                               敬愛する玄松子による

伊豆神社は豊玉姫ですね。 ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下をお読み下さい。


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伊豆能売の神とは何か? E “伊豆能賣の中間調査を終えて思う事” 

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伊豆能売の神とは何か? D “伊豆能賣は 何故「イヅノメ」と呼ばれたのか?”

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伊豆能売の神とは何か? C “遠賀川左岸に伊豆能賣を発見した ”遠賀町の伊豆神社“ 

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伊豆能売の神とは何か? B “遠賀川右岸の二つ目の伊豆神社の元宮か?”久我神社 

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伊豆能売の神とは何か? A “二つ目の伊豆神社” イヅノメの神が少し分かってきました

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伊豆能売の神とは何か? @ “遠賀川河口の両岸に伊豆神社が並ぶ”

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出雲の長浜神社の岐の神 “長浜神社再訪”




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百嶋由一郎金神神代系譜


四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す。

『日本書紀』によると、崇神天皇10年(紀元前88?)にそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波に派遣された。なお、この時期の「丹波国」は、後の令制国のうち丹波国、丹後国、但馬国を指す。 教えを受けない者があれば兵を挙げて伐つようにと将軍の印綬を授けられ、翌崇神天皇11年(紀元前87年?)地方の敵を帰順させて凱旋したとされている。なお、崇神天皇は3世紀から4世紀の人物とされている。

『古事記』では、4人をそれぞれ個別に記載した記事は存在するが、一括して取り扱ってはおらず、四道将軍の呼称も記載されていない。また、吉備津彦命は別名で記載されている。

また、『常陸国風土記』では武渟川別が、『丹後国風土記』では丹波道主命の父である彦坐王が記述されている。

四道将軍の説話は単なる神話ではなく、豊城入彦命の派遣やヤマトタケル伝説などとも関連する王族による国家平定説話の一部であり、初期ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解がある。事実その平定ルートは、4世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なっている。

大彦命は、孝元天皇の第1皇子で、母は皇后・鬱色謎命(うつしこめのみこと)。開化天皇の同母兄で、娘は崇神天皇皇后の御間城姫命(みまきひめのみこと)、垂仁天皇の外祖父に当たる。舟津神社(福井県鯖江市)、敢国神社(三重県伊賀市)、伊佐須美神社(福島県会津美里町)、古四王神社(秋田県秋田市)等に祀られている。敢国神社の社伝によると同神社より北東1.5Kmの所に位置する御墓山古墳は大彦命の御陵とする。敢国神社の鎮座する三重県伊賀市は大彦命の子孫である阿閉臣(阿敢臣)の発祥の地とされる伝承も残されている。

武渟川別は、大彦命の子。阿倍朝臣等の祖と伝えられる。津神社(岐阜県岐阜市)、健田須賀神社(茨城県結城市)等に祀られている。

また『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が会津であるとされている。(会津の地名由来説話)。このときの両者の行軍経路を阿賀野川(大彦命)と鬼怒川(武渟川別)と推察する見解が哲学者の中路正恒から出されている。

吉備津彦は、孝霊天皇の皇子で、母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)。別名は五十狭芹彦(いさせりひこ)。吉備国を平定したために吉備津彦を名乗ったと考えられているが、古事記には吉備津彦の名は出てこない。桃太郎のモデルの一つであったとも言われている。吉備津神社、吉備津彦神社(岡山県岡山市)、田村神社(香川県高松市)等に祀られている。

丹波道主命は、古事記によると開化天皇の子、彦坐王の子。なお、古事記では彦坐王が丹波に派遣されたとある。母は息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)。娘は垂仁天皇皇后の日葉酢姫(ひばすひめ)。景行天皇の外祖父に当たる。神谷神社(京都府京丹後市)等に祀られている。

無題.png20170911 15:29による

 無題.png当然ながら四道将軍も近畿大和朝廷が送り込んだものなどとされていますが、とんでもない大嘘で、九州王朝の開化天皇=高良玉垂命が臣下でしかない崇神以下に命じて送り込んだもので、全て九州に縁のある将軍なのです。

 この竹野神社にもその一派たる丹波道主命の一族が入っているため開化の名が出てくるのです。

 従って、神殿の扉にも三五の桐紋が打たれており、この一族が天皇家と姻戚関係にある事を示しているのです。金神系譜を読み取る事から始めましょう。多分筑後の旧竹野郡(久留米市)と関係があるのです。


 研究目的で百嶋神代系譜を必要とされる方は09062983254までご連絡ください

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年07月15日

476 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… G 京丹後周辺の「口石」類型地名について

476 突然涼しくなったので丹波丹後の神社調査に… G 京丹後周辺の「口石」類型地名について

20170911

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


今回のシリーズの冒頭に周枳(スキ)という地名の話をしましたが、ここらで息抜きも兼ねて地名の話をしたいと思います。後半は後置修飾語の問題になってしまうでしょう。

 高速道路を使わない移動は多くの地名、人名、屋号に遭遇します。

 国道9号線で東に向かうと島根県太田市の朝倉神社(ここにも朝山町朝倉があります)を通過して山陰本線のJR田儀(タギ)駅の手前に「口田儀」という地名が拾えます。

 この地名が田儀への入口に当たる地名で通常田儀口などと呼ばれるものであることは疑いありません。

 実は、長崎県佐世保市に口ノ尾町があります。

また、二十年前に、旧佐々町(現佐世保市)に口石免(免は長崎県北部に多数確認できる免租地の意味)がある事に気付き、「石」と表記された臼状地の入口の意味としても口が前に着く日本語としてはあまり存在しない地名である事を強く意識していました。

黒石も臼地名の一つで、付近には臼ノ浦など臼地名が目立つ場所でもあります。

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この「口石」地名を石見の太田に「口田儀」として見出した時はかなり強烈な印象を受けたのでした。

 すると、京丹後市の大宮売神社の鎮座地の付近に口大野というかなり大きな地名に気付き、どうも但馬、丹後、丹波、一帯に多くの口○○型地名が存在する事に気付いたのでした。

 奥大野という地名が口大野の傍にある訳で、よくよく考えれば、東大野、西大野も同様ではないかと言われてしまいそうです。

 ただ、通常は大野口と言われるものが口大野と呼ばれているだけの事になるのですが、どうもこの背後には前置修飾語と後置修飾語の問題が民族の衝突、共存の中で地名として結晶している事を考えてしまうのです。

 このような微妙な変化を理解できる事こそが文化的な事で、この際少し拾い出して見ることにしましょう。

@  京丹後から但馬の豊岡市へと向かう県道2号線の峠近くに「口藤」があり、中藤があります。

A  与謝野町(宮津市)には「滝」があり、手前に「口滝」があります。以下、地名のみ。

B  京都府京丹後市 「馬地」(マヂ)&「口馬地」これは石見の「馬路」の物部地名移動ですね…。

C  京都府京丹波町 「口八田」

D  京都府京丹波市 「口塩久」(クチシオク)&「奥塩久」

E  京都府福知山市 「小倉」(未確認)&「口小倉」

F  兵庫県豊岡市出石町 「小野」&「口小野」

G  兵庫県蚊香美町 「大谷」&「口大谷」

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H  兵庫県朝来市 「米地」(メイジ)&「口米地」

I  兵庫県朝来市 「田地」(トウジ)&「口田地」

J  兵庫県朝来市 「八代口」(未確認)&「口八代」

K  兵庫県養父市 「大江」(オオエ)&「口大江」

L  兵庫県宍粟市神河町 「宮野」&「口宮野」…

まだまだ続きますが、後は関心をお持ちの方で試みて下さい。

 さて、話はこれからです。

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Mont Blanc


 写真は言うまでもなくヨーロッパ・アルプスのモン・ブランです。

 皆さんご存じの通りモン・ブランは白い山の意味ですが、山(モン=フランス革命のモンターニュ派=山岳党ですね)+ブラン(白 スペイン語「ブランカ」カサブランカ、イタリア語「ビヤンカ」カーザビアンカ)であり、英語で言えばホワイト・マウンテン(White Mountain)であり、「山白い」と思考している事が分かります。

 日本は、勿論、白山姫(天御中主)ですね。「白い山」と考えるか「山白い」と考えるかは、ヨーロッパ系印欧語でも分列があるように、○○口地名と口○○地名を対等に考える価値があるのです。

 つまり、列島の古代に於いて、前置修飾語と後置修飾語は共存した時期があり、結果的に白い山型の前置修飾語が多数派になったのですが、この○○口地名と口○○地名を考えると面白い事が見えて来るのです。

 口は入口の意味ですが、谷口を考えると、谷も口も同じ名詞同志であり、どっちでも良い事になってしまうのです。

 もしも、谷の入口ですよの入口意味を強調した谷口と言いたいか?まだ入口でしかなく谷はずっと奥にあるという意味で口谷と言いたいかの問題もあるように思ってしまいます。

 ここで、ひぼろぎ逍遥(跡宮)350で取り上げた和風諡号から考えてみた をご覧に入れます。


@  神武 神日本磐余彦天皇(カンヤマトイワレヒコノスメラミコト)       九州王朝正統皇統

A  綏靖 神渟名川耳天皇(カンヌナカワミミノスメラミコト)            阿蘇系(黎族)

B  安寧 磯城津彦玉手看天皇(シキツヒコタマテミノスメラミコト)         大幡主(白族)

C  懿徳 大日本彦耜友天皇(オオヤマトヒコスキトモノスメラミコト)      九州王朝正統皇統

D  孝昭 観松彦香殖稲天皇(ミマツヒコカエシネノスメラミコト)          阿蘇系(黎族)

E  孝安 日本足彦国押人天皇(ヤマトタラシシヒコクニオシヒトノスメラミコト)玉名半阿蘇系(黎族)

F  孝霊 大日本根子彦太瓊天皇(オオヤマトネコヒコフトニノスメラミコト)   九州王朝正統皇統

G  孝元 大日本根子彦国牽天皇(オオヤマトネコヒコクニクルノスメラミコト)  九州王朝正統皇統

H  開化 稚日本根子彦大日日天皇(ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト) 九州王朝正統皇統

I  崇神 御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリビコイニエノスメラミコト)       黎族+白族

J  垂仁 活目入彦五十狭茅尊(イクメイリビコイサチノミコト)         宮崎生目神社主神

K  景行 大足彦忍代別天皇(オオタラシヒコオシロワケノスメラミコト)    玉名半阿蘇系(黎族)

L  成務 稚足彦天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト)               素性系統不明

M  仲哀 足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)            九州、山口に痕跡

N  応神 誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)               宇佐素性系統不明

O  仁徳 大鷦鷯天皇(オホサザキノスメラミコト)               九州王朝正統皇統


例外なく彦の付く天皇の和風諡号は「彦」を後ろに持っていかれています。

 ところが考えて下さい。

 ウガヤフキアエズ命は日子波限建鵜草葺不合命 彦波瀲武盧茲草葺不合尊と彦が前に置かれているのです。

 今回の丹波、丹後で有名なヒコイマスオウは日子坐王、彦坐王ですね。

今回の「崇神紀」の関係者ですが、一般には神武天皇の皇后であるとされるヒメタタライスズノミコト 比売多多良伊須気余理比売 媛蹈鞴五十鈴媛命も姫が頭に着いています。百嶋神社考古学ではこれは崇神の妃でしかないのです(別名:富登多多良伊須須岐比売命)。

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これは京丹後市大宮町口大野の口大野公民館 奥大野もあります。ついでに口田儀もご覧ください。

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2018年07月16日

ビアヘロ 055 「 天 皇 」 と 「 元 号 」〜自立王朝の創始宣言〜

ビアヘロ 055 「 天 皇 」 と 「 元 号 」〜自立王朝の創始宣言〜

金澤 弘毅(札幌市)


 二〇一九年四月に現在の天皇が退位され、翌五月に皇太子が新しい天皇に即位されることになりました。これに伴いこれまでの「平成」の元号も改められ、新しい元号(年号)となります。

 長い年月に培われ継続されてきたことゆえ、それでよしとするとしても、「天皇」という称号と地位や「元号」の始まりなど、その成りたちが全くわかりません。いつの時代に、どんな事情で、なにに由来して、誰が決めたのか、公式記録もなく公式見解もないまま定着してしまったようです。既成事実≠セけが何となく居座ってしまうこの国特有の風土なのでしょうか。昨今の政治問題にもみられる決定と進行の不透明さとよく似ています。

 この「天皇」と「元号」の出自の曖昧さにも、私は大和王朝に先行する王朝が存在した影≠感じとることができます。

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▼王者の称号としての「天皇」

 中国の神話では、天地開闢には盤古という神が、人間創生には女媧という神が登場します。そして『十八史略』には、この天地開闢と人間創生の時代に人間世界を治める帝王として、天皇氏・地皇氏・人皇氏がいて、住居を作った有巣氏と火を使って食事をすることを発明した燧人氏が人間生活を進化させたと書いています。このあと帝王は三皇(伏羲・神農・黄帝)から五帝(少昊・顓頊・帝嚳・帝堯・帝舜)へと神話伝説の時代が続きます。

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盤古            神農           舜帝


 歴史時代に入って「夏」「商(殷)」「周」の各王朝の王者は、権力の象徴である鉞(まさかり)の象形文字「王」を名のります。そしてこれらの王者は、天帝から地上を治める使命を与えられた者として「天子」と呼ばれます。

 最初に「皇帝」の称号を創造した秦の政王は、自ら三皇五帝を超えるものとして「始皇帝」と称しました。紀元前三世紀晩期のことです。

 「天皇」という日本列島での最高位の称号は、その漢風な字態からして出典が中国に由縁すると推測できますが、その動機も意義も始めた時期も全くわかりません。天皇家の大和王朝史である『古事記』『日本書紀』『続日本紀』も、この件については何も語ってくれません。この列島を代表する王者の称号なのにです。

 恐らく天地と人間の創生期の帝王のひとり、天皇氏に因んだものではないかと推測できますが、あるいは倭国の王者が阿毎(あま=天)氏を名のっていることにも関係するのかもしれません。いずれにしても中国の皇帝(天子)に対等を主張するに等しい「天皇」を称することは、内外に波紋を投ずる重大な国家意思の表明です。自立王朝の創始を宣言する行事が催されて当然のことで、天神地袛を祀る国家祭祀が行われ盛大な典礼が挙行されて、正史に記録されるべきことです。それが大和朝廷の記録にないのです。

 もし「天皇」の称号が、近畿ヤマト政権の創造で大和朝廷だけの固有の称号だとするならば、その意義と由来、創始の時期の記録がないことなど考えられず、不思議でおかしな現象というべきことです。当家に記録がないということは、その発祥創成に関与しておらず他からの継承か奪取によるものではないか、と疑われもしかたがないことです。ということは、大和王朝の王者の称号として「天皇」が定着する前に、既に別な権力者が「天皇」を称していた可能性は排除できないことになります。

 私はここにも、前王朝(九州王朝・倭国)が存在した影≠認めることができるのです。これは多元的史観による複眼的観察者としては当然の帰結で、最近の政権が質問封じに使う印象操作≠ネどという言葉では片づけられるものではありません。


▼「天子」ということ

 私が軍国教育を受けた小学校(国民学校初等科)三年までの幼少期、天皇陛下は「天子さま」でした。敗戦とともに昭和天皇が「人間宣言」をされ、新しい憲法で「象徴天皇」という位置づけになりました。戦中戦前の天皇は神さま同然だったのです。

「天子」とは「天帝の子」の意味で、天帝から地上を治める使命(天命)を授けられた王者のことです。王者に徳がなく治政が乱れると天命が革(か)えられ、王者は別な王者に変えられて王朝も交代します。これが「革命」の語源です。

 六〇七年に隋王朝に遣使をした倭国王の多利思比孤は、自分のことを「日出ずる処の天子」と称し隋の皇帝を「日没する処の天子」と表現して、隋の煬帝の機嫌を損ねました。しかしこれは倭王の単なる強がりなどではなく、立派に理由のあることだったのです。この時の倭国は既に自立して中国王朝の支配下になかったからです。

 三一六年に晋王朝は北方の異族に侵入され亡びます。王族が南遷して東晋を建国しますが、中原から北部一帯は五胡十六国の乱世を経て北朝が形成され、六世紀末まで南北朝時代が続きます。倭国は南朝を正統として六世紀初頭まで臣属してきますが、五一七年に独自の元号を建てて自立します。五八九年に北朝の隋が南朝を亡ぼして中国の統一王朝となりますが、倭国は南朝の帝業を継ぐ者としての大義名分の立場から、隋王朝に対等の地位を主張したのが「日出ずる処の天子…」の国書(外交文書)だったのです。

 こうした歴史の流れをみると、「天子」を自称した倭国の王者が中国の皇帝に対抗できる「天皇」を公称していた可能性があります。ところで「天子」を称したこの倭王が妻妾をもつ男性であるのに、この時の近畿ヤマト王権の王者は豊御食炊屋姫(トヨミケカシキヤヒメ=推古)という女性でした。ここから隋に使臣を遣わした倭国王が近畿ヤマト王権の王者ではないことが明らかになります。同時に何世紀も日本列島を代表してきた倭国がヤマト政権とは別な権力中枢であったことにもなります。従って「遣隋使は小野妹子」としてヤマト政権の実績としてきた史学界の定説≠ネど吹き飛んでしまいます。


▼「元号(年号)」のこと

 二〇一九年五月に新天皇の即位に伴い改元され、年号も新しくなります。

 これに関連する報道や解説・論評の全てが、わが国の最初の年号は六四五年の「大化」であるとしています。『日本書紀』に最初に登場した年号というだけが根拠のようです。そこには他の文献との照合・検証・公開論議の跡がみられません。

 年号には次のような意味があります。

(1)建元(元号を建てること)は中国の帝王(天子)の専権でした。時間と暦を支配統御することを意味します。

(2)臣属国や縁辺国が独自の年号をもつと、討伐の理由にされる恐れがありました。

(3)独自の年号をもつことは、その国が中国王朝の支配を離れ、自立して独自の王朝体制となったことを宣言したものとみなされます。

(4)王朝創始により建元された年号が断絶することなく続くことで、その王朝の継続が確認されます。

 もし六四五年の「大化」が本当に最初の年号であるならば、次の三点の疑問に納得できる解答ができなければなりません。

@  その前後に、王朝創始と建元の詔勅やその儀式典礼の記録が全くないこと。

A  七〇一年の「大宝」までの間に無年号の時代が長期間あること。

B  六〇七年に倭国王は既に「日出ずる処の天子」を自称していますが、自立王朝の証しである年号がヤマト政権の記録にはなかったこと。

 鎌倉時代編纂の古文書『二中歴(掌中歴・懐中歴)』に「九州年号」と呼ばれる年代歴があります。五一七年の「継体」から六九五〜七〇〇年の「大化」までの間、31個の年号が切れ目なく続き、七〇一年の大和王朝の年号「大宝」へとつながります。

 「九州年号」が九州王朝倭国が施行したものとするならば、前の三点の疑問も解けてきます。@は、倭国での記録が滅亡に際して亡佚したか、後継の大和王朝により抹殺(七〇八年の禁書刈り=jされた可能性があります。Aは、倭国滅亡による政権交代≠ワで切れ目なく年号が続いています。Bの六〇七年は九州年号の「光元」年間で、『書紀』の六四五年からの「大化」は九州年号の「命長」から「常色」年間に当たります。「天子」に対応する年号は、九州倭国では施行されていたことになります。

 日本列島で最初に施行された年号は五一七年の「継体」です。中国南朝の帝業を引き継ぐ自負と誇りが伝わります。史学界の定説≠謔閧煦齠〇年以上も昔です。

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九州年号 二中歴(掌中歴と懐中歴)


▼「天皇」という称号も「元号(年号)」も中国王朝との関係から理解しなければなりません。いずれも中国王朝の支配から自立して、独自の王朝体制を宣言する用語であったのです。当時の東アジアの国際情勢の中で、とても重要な意味をもつ政治的用語でもあったわけです。

 こうして考察を進めると、「天皇」も「元号(年号)」も大和王朝の創造ではないことが推断されます。別なところの別な王者の創造と施行、と考えられるのです。倭国(九州王朝)は、七世紀後期に介入した朝鮮半島の戦争に大敗して衰弱滅亡します。隠蔽されてきた「九州年号」が真実の歴史≠証言しています。

 「天皇」の称号は六世紀に九州倭国の王者が創始して、七世紀末期か八世紀初頭に大和朝廷が政権交代≠ノよりこれを引き継いだものだろう、と多くの研究者が考えています。私もそのひとりです。従って、長い間地方政権のひとつだった近畿ヤマト王権の始祖王まで遡り、神武天皇、仁徳天皇、雄略天皇などとその時代にはなかった「天皇」号を、全ての王者につけて平気な顔をしている史学界、教育界、言論界の見識の低さに、私は失望しています。


 わが国の歴史認識≠ヘ、近隣国に難癖をつけられるまでもなく、まだまだ未熟なようです。


 「天皇」と「元号」〜自立王朝の創始宣言〜  金澤 弘毅(札幌市)の掲載について


「ひぼろぎ逍遥」編集員 古川清久


今般、北海道の金澤さんから原稿を頂きました。

と、言うよりも、当方からお願いして掲載をお勧めしたのですが、金澤さんとは当方のフィールド・ワークの過程でひょんなことからお知り合いになったのですが、まだ、福津市の宮地嶽神社でお会いしただけの関係でしかありません。

当然ながら、北海道という土地柄から、所謂、文献史学派の研究者のお一人と言う事になるでしょう。

さすがに、北海道から九州王朝の現場の探訪など頻繁に行えるはずはなく、勢い文献史学に向かわざるを得なくなることは必然的で、厳冬期に家の中に閉じこもらざるを得ない北の国の方のこと、それだけ文献に向かい合う情熱は高まり知識を蓄えられている事と思います。

以前、同じく九州王朝を探究する仲間として、ご著書を頂いてもおります。

まだ、通販で手に入れることは可能のようですので興味をお持ちの方は試みて頂きたいと思います。

先方のご意向にもよりますが、今後も論文掲載をお受けできるのではないかと考えています。

今回は、本原稿の縦書きを横書きに変更して掲載する事にしました。

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異説古代史疑 平成私本書紀


金澤さんは札幌市にお住まいです。札幌に於いて九州王朝論の立場から列島の古代史を探るにはそれなりのご苦労があるのではないかと思いますが、冬に雪や氷に閉ざされる北海道のこと、その分研究にとっては拍車がかかるものとも考えております。

今後とも北の大地から九州の古代を探って頂きたいと思うものです。

さて、良く知られた「舜帝」は別にして、「盤古」は犬祖伝説と併せ内倉武久氏が取り上げられ、中国の少数民族地帯と南九州との関係を探求されておられます。

これに対してあまり馴染みがないのが「神農」神です。

中国大陸には今も「神農」神信仰(神農農薬研究所…ほか)があると聞き及んでいますが、実は、しばらく前まで我が列島内でもけっこう見掛けられていたのです。

「神農」は医療と農耕の知識を古代の人々に広めたとされており、それは最古の本草書とされる『神農本草経』に象徴されていると言います。

土地を耕し五穀をまき、農耕を伝え、また、薬となる植物の効用を知らせたとされています。

そして、農具や農薬や薬草などが市場などで取引され、彼らも薬草を売ったそうです。

このためか日本でもお祭りの時に神社の参道などで露天商がこの神農様のお札を屋台の端などに吊るしていたそうです。

的屋の寅さんが吊るしていたかは分かりませんが(的屋と香具師=ヤシとは別なのかも知れません)、縁日の露天商のある種の人々がこの神農様のお札を吊るす風習を持っていた…と言うより、そういった人々が大陸から渡って来て商売をする利権(ある種の特権)を持っていたのではないかと考えています。

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 01:17| Comment(0) | ビアヘロ