2018年06月15日

465 熊本県の興味深いエリア宇城市海東地区の霊符神社初見

465 熊本県の興味深いエリア宇城市海東地区の霊符神社初見

20170824

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 これは一般的に言われている事ではなく全くの当方の印象でしかありませんが、熊本県宇城市から八代市に掛けてのエリアは非常に面白いと思い続けています。

 それは、肥後の印象と言うものがそのまま当てはまらない謎のエリアといった風で、通常の阿蘇氏のエリアであるとか菅原系が強いエリアであるといったとりあえず収まり易い概念が形成できない所であって、そもそもどのような人々が住み着いた所であるのかというテーマが謎のまま残されているのです。

 そもそも、熊本のような保守の権化のような土地柄でありながら半島そのものを思わせるような「東海東」「西海東」という凄い地名が存在する事に驚かされます。


海東村(かいとうむら)は、熊本県中部に位置していた村。現在の熊本県宇城市の海東地区(小川町東海東、小川町西海東、小川町南海東、小川町北海東)にあたる。元寇を描いた蒙古襲来絵詞で有名な、鎌倉時代の御家人 竹崎季長の領地として知られる。

1958年(昭和33年)331日、小川町・益南村と合併し(新)小川町となったため自治体としては消滅した。2005年(平成17年)115日、さらに小川町は、宇土郡三角町・不知火町および下益城郡松橋町・豊野町と合併し現在の宇城市となった。

ウィキペディア(20170824 19:05による


『海東諸国紀』(かいとうしょこくき, 朝鮮語: 해동제국기)は、李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟(しん しゅくしゅう、シン・スクチュ)が日本国と琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。1471年(成宗2年)刊行された。 これに1501年(燕山君7年)、琉球語の対訳集である「語音翻訳」が付け加えられ現在の体裁となった。

1443年(世宗25年)朝鮮通信使書状官として日本に赴いた後、成宗の命を受けて作成したもので、日本の皇室や国王(武家政権の最高権力者)、地名、国情、交聘往来の沿革、使臣館待遇接待の節目などを記録している。「語音翻訳」は1500年(燕山君6年)に来訪した琉球使節から、宣慰使成希顔が聞き書きし、翌年に兵曹判書李季仝の進言で付け加えられた。

ウィキペディア(20170824 19:09による

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これもその一つですが、「霊符神社」という奇妙な名の神社があるのです。

結論から言えば八代の妙見神社の北上を考えれば符合するのですが、ここには百済の正統王族の避退を思わせる話があり、妙見と百済がそのまま繋がるとも思えない事から、尚、すっきりしないのです。

 まず、故)百嶋由一郎先生からは“八代の上に九州王朝の泉地区があります”という話を聴いていました。

 “八代の上“という表現から八代の妙見宮の上流の地区を探していたのですが、そうではなく、”八代の北“の意味で、当然、氷川流域の旧小川町、旧宮原町といった一帯で、元々、「火の君」の本拠地だったとの話もある場所だったのです。

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ここで面白いと思ったのは百済の聖明王の一族の亡命の話です。これについては、過去何度かご紹介していますが、有明海の対岸、佐賀県の現白石町(旧有明町)に稲佐神社(百済の王族が祀られている)があり、この地へ火の君の世話で亡命したという話が残されているのです。

それと同様の話をここでも拾ったのですからその裏を取ったような話なのです。


稲佐神社(イナサジンジャ)


杵島山の東麓、杵島郡白石町(旧有明町)に鎮座する神社です。        

稲佐神社は平安時代初期にはすでに祀られていました。『日本三大実録』の貞観3861)年824日の条に、「肥前国正六位上稲佐神・堤雄神・丹生神ならびに従五位下を授く」とあり、これが稲佐神社が正史に現われた最初の記録です。また、社記には「天神、女神、五十猛命をまつり、百済の聖明王とその子、阿佐太子を合祀す」と記されています。

 平安時代になり、神仏習合(日本古来の「神」と外来の「仏」が融合)の思想が広まると、稲佐大明神をまつる稲佐神社の参道両側に真言寺十六坊が建立され、この一帯を「稲佐山泰平寺」と呼ぶようになりました。

この泰平寺を開いたのは弘法大師(空海)であると伝えられていて、今も弘法大師の着岸した地点が「八艘帆崎」(現辺田)としてその名をとどめています。また、「真言寺十六坊」は、この地方の大小の神社の宮司の立場にあったと言われています。

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八艘帆が崎(ハスポガサキ)佐賀県白石町稲佐神社の境内地の端に残る掲示板


 ここには県道錦江〜大町線が通っているのですが、稲佐神社付近にこの地名が残っています。

県道沿いの境内地と思えるところには、この八艘帆ケ崎の謂れについて書かれた掲示板が建てられています(平成四年四月吉日 大嘗祭記念 稲佐文化財委員会)。
 これによると、杵島山はかつて島であった。欽明天皇の朝命に依より百済の聖明王の王子阿佐太子が従者と共に火ノ君を頼り八艘の船でこの岬に上陸したとの伝承があるとされています(稲佐山畧縁記)。                    

 百済の聖明王は仏教伝来にかかわる王であり、六世紀に朝鮮半島で高句麗、新羅などと闘ったとされていますが、五五四年に新羅との闘いの渦中に敵兵に討たれます。

これは、その闘いの前の話なのでしょうか?それとも、一族の亡命を意味するものなのでしょうか?また、火ノ君とは誰のことなのでしょうか。私には大和朝廷とは別の勢力に思えます。なお、聖明王は武寧王の子であり、武寧王は先頃の天皇発言で話題になった桓武天皇の生母がこの武寧王の子孫とされているのです(続日本紀)。

このような場合に頼りになるのがHP「神奈備」です。孫引きになりますが紹介します。佐賀県神社誌(縣社 稲佐神社)から として 百済国の王子阿佐来朝し此の地に到り、其の景勝を愛し居と定め、父聖明王並びに同妃の廟を建て、稲佐の神とともに尊崇せり。と、あります。稲佐山畧縁記とありますが、掲示板の記述はこれによっても補強されます。今後も調べたいと思いますが、これらに基づくものと思われます。
 本来、「六国史」や「三大実録」あたりから日本書紀や三国史記を詳しく調べなければならないのでしょうが、当面、私の手には負えません。
 少なくとも、この伝承は、杵島山の東側の山裾まで有明海が近接していたことを語っています。


「ひぼろぎ逍遥」438天地元水(テンチモトミズ) “橘 諸兄の本流が菊池に避退した”より


勿論、この百済の王族の亡命は白村江の戦いに先行する6世紀の話ですから、この霊符神社と直接関係がある話ではないのですが、この地が火の君の本拠地であった事はお分かり頂けるのではないでしょうか。

 まず、球磨川(八代市)から宇土半島(宇城市)に掛けて広がる不知火海(八代湾北半)東岸の巨大平野は、ほぼ、古代には存在せず、古代には、最低でも現在の鹿児島本線、3号線より陸側の地域が波際線であったと考えられ、簡略化して言えば、この海東の一帯辺りが古代のウォーター・フロントであり一等地だったのです。

 特に注目しているのが泉(この地の正面にも実際に柱山水源もあるのですが)という地名です。

故)百嶋由一郎氏からは、初期の九州王朝は佐賀県(近年佐賀市に編入された)の久保泉地区と聴いていますが、この泉が東に移動したのが関西の泉佐野、泉大野なのですが、出水、和泉と名を変えているのです。

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なお、『海東諸国紀』については以下をお読み下さい。


九州王朝の近江遷都 『海東諸国紀』の史料批判 京都市 古賀達也   (二〇〇四年一月三十日記)


 さて、社殿を見てこの霊符神社が八代の霊符神社と同系統の妙見(北斗七星信仰)に繋がるものである事は分かりました。

 そして、6世紀の火の君もその系統であろうことも粗方見当がついたのでした。

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八代のそれは妙見=北極星、北斗七星が信仰の対照でしたが、これも同種のものなのでしょう。

一般的には旧八代郡の白木山神宮寺に鎮座した霊符神社が列島の最初のものとされていますので、これはその北への展開なのか、泉地名と火の君との関係からそれよりも遡るものなのかは今後の課題です。

私には「肥後国誌」以前が佐賀の久保泉に見えるのですが…。

「肥後国誌」を絶対視すべきではないと思っているのですが、如何でしょうか?

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


 白川伯王こそが九州王朝の全期間を通じて支えた最大の実力者なのですが、初期だけを考えれば瀛氏の一族との強力なスクラムでイザナミ、オチノ姫、大幡主、天御中主…がこの一帯で活動していただろうことは否定できないのです。

 決して草深い奈良の山の中辺りの話ではないのです。

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  研究目的のために百嶋由一郎神代系譜、音声CD、手書きデータ…を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 12:18| Comment(0) | 日記

2018年06月18日

466 2017年8月豊後高田トレッキング @ 若宮八幡神社(豊後高田市)

466 20178月豊後高田トレッキング @ 若宮八幡神社(豊後高田市)

20170830

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 大分県では20173月から「大分県神代史研究会」(仮称)を目指しトレッキングを続けていますが、今回は、頻繁に九州のフィールド・ワークを続けておられる内倉武久氏(元朝日新聞記者で「太宰府は日本の首都だった」外3著)と併せ、ブログ数6本、著書数6冊を持つ研究者、フィールド・ワーカー、神社探訪者ばかりのトレッキングとなりました。

 これ以外にも、毎回、入れ替わりながらあと数名が参加される方がおられる事から、徐々にメンバーが増えつつあります。少なくとも学芸員の話を拝聴するだけの研究会が研究会ではない事だけは明らかなのです。特に一番必要なのは地元大分の若手の研究者であり、通説にとらわれない自由で柔軟な思考ができる方です。これもそのうち増えてくるだろうと探査を継続しているところです。

自らの足を使い自らの目と頭を使う方であれば、常時、ウェルカムです。

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既に3月から5回のトレッキングを続けています。

これまでは見栄えのする大社ばかりを選んでいましたので、今回は、あまりご存じの方も多くない地味な神社ばかりだった事から企画した者として多少は心配をしたのですが、あにはからんや極めて中身の充実したものになったようで、大きな発見もあり、参加者も、皆、満足してくれたようで非常に良い企画だったようです。

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いずれにせよ多くの目で複眼的な探査が行えることは非常に良い事で今後も継続します。

 既に本質に迫る神社を研究する匿名による秘密の研究団体を創ろうとの話も出ていて、右から聴いて←に貫けるような学芸員の退屈な話を聴かされるだけの講演会と異なる真実に迫る研究会に発展すればと考えています。間違っても「九州王朝論」を楽しむ会や「邪馬台国本を語る会」は無意味です。

 今回はこの @ 若宮八幡社 A 春日神社 B 身灌神社(二社)を巡るもので、blogでも取り上げることにします。

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これまで、伊美を中心とする国東市周辺、別府市側の杵築市周辺、姫島、そして今回の豊後高田周辺、残るは田渋荘一帯、国東の中心部を巡れば粗方、国東全体の傾向が掴めることになるでしょう。

 ただ、次回(924日)は少し目先を変え、福岡県の豊前市に四公神社と大冨神社を探る事にします。

 さて、国東と言えば六郷満山で知られた仏の国であり天台古刹や修験を感じさせる土地です。

 国東を訪れる人は年年歳歳減っているでしょうが、国東で神社を巡る人はめったにいないでしょう。

 実際、「神社を調べているんです」と言えば妙な顔をされ、あまつさえ神職からも言われるのですからどうしようもないのです。

 さて若宮八幡宮の祭神です。紀氏の国 国東は宇佐神宮の威光に平伏しつつ応神天皇や宇佐の三神を受入れつつも、本来の祭神である高良玉垂命とその長子である仁徳天皇=若宮、当然、母神は神功皇后を祀るものが多いのですが、宇佐に最も近い豊後高田に九州王朝最後の天皇である仁徳が堂々と主神として祀られている事には驚愕をすら感じさせられます。


主 神 大鷦鷯尊 

配 祀 天照大御神、玉祖命、隼總別皇子、大葉枝皇、 小葉枝皇子、雌鳥皇子、多紀理毘賣命

市寸嶋比賣命、天之忍穗耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、 熊野久須比命


 何とも祭神が多いのですが、はっきり分かる祭神は一部です。

 天照は良いとして、玉祖命はお分かりにならないと思います。実は、この神を祀る山口県防府市の玉祖神社=タマノミオヤ神社(同市内に4社)の主神(同社でもこの神が何者かお分かりになっておられないようですが=タマノミオヤ神として理解されているだけ)であり、豊玉彦の祖神にあたる大幡主なのです。

次の隼總別皇子は、はっきりとは分かりませんが、恐らく応神天皇なのでしょう。

大葉枝皇、 小葉枝皇子、雌鳥皇子も見当が着きませんが、もしかしたら神功の連れ子かも知れません。

多紀理毘賣命、市寸嶋比賣命は当然にも宗像の三女神のお二人ですが、大国主のお妃となったお二人の

𧏛貝比売、蛤貝比売に相当する方です。

天之忍穗耳命は、勿論、阿蘇高森の草部吉見であり、天之菩卑能命は玉祖神の子である豊玉彦=ヤタガラスで良いでしょう。

天津日子根命、活津日子根命は宗像の三女神のお二人同様、天照スサノウの子産みの神ですが、最後の熊野久須比命は違います。勿論、熊野三神のお一人ですが、誰もお分かりになっていない事があります。

実は、イザナギと別れた後のイザナミが名を変え玉祖命の(名目上の)お妃となったのが熊野久須比命=ヤタガラスの母神になるのです。

 しかし、隠されている神はあるもので、まず、数が合わないのです。

 全て合わせても14神になり、どう見ても12神隠されている勘定なのです。

 由緒記でも大鷦鷯尊(仁徳天皇)他15神の意味は通常合計15神のはずです(外15神は16神)。ただ、混用もあるため、12神が隠されているとしたのですが、神殿に入ると分かりました。

 神殿に向かって右の脇殿に皇産霊社(高木大神ではないはずですから大幡主=玉祖命)はヤタガラスの親神になるでしょう。

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そして、向かって左の脇殿が問題でした(予想通りでしたが)。

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非常に読み辛いのですが、メンバー全員がうっすらと残った高良神社と読んだようですので間違いないと思います。

 やはり、高良玉垂命は隠されているのです。

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これは本殿の神額ですが、若宮八幡宮と同行の書道家のT氏が読んでくれました。

 結局、祭神の数が合わなかったのは最低でも高良玉垂命隠しだった事がお分かり頂けたと思います。

 その理由は仁徳が高良玉垂命と神功皇后との間に産まれた長子である事実を隠す必要があるからなのです。

 下は久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」の一部と、百嶋由一郎極秘神代系譜の一部分ですが、系譜の皇宮皇后こそ神功皇后その人であり、仲哀死後の彼女と高良玉垂命との間に産まれた5人の皇子の長子こそ若宮こと斯礼賀志命(シレカシノミコト)=九躰皇子の筆頭であり、事実上九州王朝最後の天皇なのです。

 通常の九州王朝論者の方々はフィールド・ワークができない「記」「紀」を聖典とする文献史学派が主流ですから、どなたも問題としていないのです。

 古田後継若しくは九州王朝論の後継と称する九州の組織も、九州に居ながら自らは一切フィールドに出ず、大半は通説派の教育委員会学芸員などから御高説を賜わる下僕に成り下がっているのですから、故)古田武彦も嘆いていることでしょう。

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  研究目的のために百嶋由一郎神代系譜、音声CD、手書きデータ…を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記

2018年06月20日

467 2017年8月豊後高田トレッキング A 春日神社(豊後高田市真玉)

467 20178月豊後高田トレッキング A 春日神社(豊後高田市真玉)

20170831

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 若宮神社を跡にして次に向かったのは南の春日神社です。

 勿論、豊後高田の中心部にも春日はあるのですが、あれもこれもではなく丹念に、丁寧に踏んで行く事が出来る場合は、できるだけ楽しみを後に残したいのです。

 春日と言えば、言うまでもなく奈良県奈良市春日野町160 0742-22-7788 の春日大社になります。

 多くの神社を見てくるとそれだけで分って来るのですが、多くの重要な港湾=河川=湾奥地=古代の船着き場のそばには決まって春日神社が置かれているのです。

 宇佐も駅館川の河畔に、豊後高田もそうですし国東の中心部に近い真玉でも同様なのです。

 当然、藤原が税金を取っていた痕跡と見れば分かり易いでしょう。

 その事に最初に気付いたのは、十五年も前でしたか、八代の球磨川の河口にも新旧二つの春日神社が置かれていたからでした。その一つは見た目にも古色蒼然たる由緒正しきものに見えたからでした。

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まず、地名の草地ですが、「草」は「伽耶」の置換え若しくは書き替えであり、この神社の一端を垣間見せているのです。

 社殿に向かうと、たまたま宮司と遭遇し、うちのひねくれたメンバーの鋭い質問の多くに的確にお答え頂き、皆、感銘を受けていたようでした。

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そもそも、春日神社とは権力を掌握した藤原氏(中臣氏…実は阿蘇氏=多氏=宇治氏)が自らの一族を守るための軍神を祀ろうとして造営したものであり、本来、その神官もその一族その系統の人々が禰宜を務めるもので、事実上の阿蘇系氏族の経営拠点であり戦略拠点であったと考えられます。

 問題はその軍神であり、それを阿蘇の草部吉見なのですが、彼らはそれを知っていながら政治的に知らぬふりをしているだけなのです。

 そもそも、阿蘇の草部吉見神社にしても草部をクサカベと読んではアウトで、伽耶ケ部=伽耶を抑えていた高木大神=高御産巣日神、高皇産霊尊の次女である栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)への入り婿となり高木大神の配下に入った事から草部(カヤベ、カヤカベ)と名乗ったのです。

 それが、この春日神社の鎮座地にも反映されており、草地とはまさしく伽耶地を意味しているのです。

ここで考えておく必要があるのは、阿蘇系の草部吉見は雲南省麗江から海南島を経由し阿蘇に入って来た黎族であり、高木大神系と阿蘇系のスクラムと考えるべき事です。

従って、宮司自体も高木大神系=彦山修験(正勝吾勝勝速日天忍穂耳命=草部吉見の別名)氏族が就いている事が想像できるのです。

軍神建借間命のご先祖の一族(黎族=多氏=宇治氏=支那人)は、雲南省麗江からメコン川を下り、海に出て海南島に集結し、黒潮に乗り、熊本県の天草下島の苓北町に上陸し(この時点で杵島山方面に移動した分派があったと考えています)、その後阿蘇に移動して、先住者であった高木大神(高御産巣日神)の傘下に入ったのです。

本物の初代神武の時代に随行したのが建借間命のはずであり、崇神の時代とされる四道将軍の中にも草部吉見系氏族がいたことから千葉〜茨城に鹿島(海幸彦)、香取(山幸彦)、息栖(ナガスネヒコ)が鎮座しているのです。

その後(神武後)、九州王朝の時代、第9代開化天皇の時代の四道将軍が東日本に送り込まれるのです。

建借間命が直接送り込まれたのか、この神を奉祭する一族が進出したのかは、まだ、見当が付きません。

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その後、七、八世紀になり藤原が権力を掌握し、一族を守る軍神が必要とされ春日大社が造られる事は良く知られています。

時に、自らの先祖である草部吉見=建借間命の武勇譚を伝え聴いていた藤原系氏族は常陸の鹿島から軍神鹿島大神=武甕槌命を、急遽、奈良の春日野の地に呼び寄せる事にしたのです。

 だからこそ、縁のある熊本の南に嘉島町があり、「常陸国風土記」に登場する杵島振りの歌垣=筑波山の嬥歌=カガイに対応する杵島山の歌垣がある佐賀県白石町の隣に鹿島市が存在しているのです。

 ともあれそうして成立した春日神社ですが背景はさらに複雑です。

ここでは、この奈良の春日の背景には踏み入らずこの三笠山春日神社に限定した話にしましょう。

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同社由緒


まず、呉崎への塩井汲み神事が巡行の大行列として行われていた事を知った時、これは九州王朝の神事の名残ではないかと感じました。

それは、以前から気にしていた呉崎の地名がそう思わせていたのですが(倭人は呉の太伯の裔)、久留米の高良大社の巡行も二千人の大行列だったのです。

 そう思わせたのも豊後高田の若宮八幡神社の神殿に勅使門らしきものを見たからでした。

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菊の紋章も鮮やかな豊後高田の若宮八幡神社の勅使門(?)左 門表 右 門裏


 勅使井戸〜勅使門が豊前の大冨神社から呉橋を使う薦神社、宇佐神宮は中継点でしかなく、本当の本拠地は豊後高田つまり国東であり、官道も六郷満山の仏教王国の国東まで伸びていたと考えれば、大松明神事が佐賀長崎県境の観世音寺から久留米の大善寺玉垂宮の鬼夜がとして国東半島の付け根の豊後高田の若宮八幡宮から身潅神社の修正鬼会として繋がっているのではないかという事が見えてきたのでした。

 だからこそ国東は国の東、つまり、九州王朝の東と呼ばれたのだと考えるべきなのです。

 そして、高良大社の正門も唐破風屋根があるのです。「高良玉垂宮宮神秘書」にも一部竜骨船の話が出て来ますが、これも竜骨の入った外洋船を駆使していた九州王朝の栄えある伝統を残すもので、船をひっくり返した構造がそのまま門の構造になっているのです。

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再び三笠山春日神社に話を戻します。

 経津主命が山幸彦=ニギハヤヒは良いとして、祭神について多少の違和感を覚えるのは、武甕槌命と天児屋根命は同一神と考えるからです。

 ただ、代襲、襲名の意味もあり、後裔の誰かが充てられている可能性はあるでしょう。

 一つの可能性として、常陸に進出した鹿島(カシマ)、香取(カトリ)、息栖(イギス)=ナガスネヒコの三神のナガスネヒコが神武に弓を引いた逆賊として排除され天児屋根命と入れ替えられている可能性は考えておく必要があるように思えます。

 最後の姫大神ですが、これが宇佐神宮の第二御殿の姫大神(宗像三神)や妻垣神社の玉依姫と同一神なら話は簡単ですが、この春日の姫大神には九州王朝正統皇統である呉の太伯の後裔を見るのです。

 それほど国東には古い祭祀形態が残されているように思えてなりません。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)


春日神社とは表面的には阿蘇系の草部吉見を祀る神社とされていますが、本当の祭神はお妃である伊勢の外宮の豊受大神=伏見稲荷であり、もっと深くは、その母神の神大市姫=罔象女神(ミズハノメ=大国主命の姉で大山祗命の娘)なのです。

 その痕跡がないかと境内を探ったのですがそれは確認できませんでした。しかし、上の系譜を見て下さい。

 関係する摂社に厳島神社(市杵島姫)があり、スサノウから逃れて姫島に上陸したとされるアカルヒメと言い、アカルヒメを追ってきたとされるスサノウと言い役者がこの一帯に集中している事だけはお分かり頂けるのではないでしょうか?

 呉崎への塩井汲みの巡行と言いこの春日には只ならぬものを感じるのですが、この一帯の調査は始めたばかりであり、これらを調べるにはもう少し多くの事例に当たってからする事にしたいと思います。

無題.png鹿島神宮の跡宮

「ひぼろぎ逍遥」199 「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)の“跡宮”とは何か? で書いたように、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)の“跡宮”の跡宮も、実は、常陸の鹿島神社の武甕槌大神の跡宮から採題したのでした。


  研究目的のために百嶋由一郎神代系譜、音声CD、手書きデータ…を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい。

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記