2018年05月27日

459 二田物部のルーツは対馬の仁位だったのではないか?

459 二田物部のルーツは対馬の仁位だったのではないか?

20170729

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


この間、物部氏の中核部隊と言われる二田物部(「先代旧事本紀」天神本紀筆頭)を追い求めて来ました。


天物部ら二十五部の人が、同じく兵杖を帯びて天降り、お仕えした。

二田物部(ふただのもののべ)。当麻物部(たぎまのもののべ)。 芹田物部(せりたのもののべ)。鳥見物部(とみのもののべ)。 横田物部(よこたのもののべ)。嶋戸物部(しまとのもののべ)。 浮田物部(うきたのもののべ)。巷宜物部(そがのもののべ)。 足田物部(あしだのもののべ)。須尺物部(すさかのもののべ)。 田尻物部(たじりのもののべ)。赤間物部(あかまのもののべ)。 久米物部(くめのもののべ)。狭竹物部(さたけのもののべ)。 大豆物部(おおまめのもののべ)。肩野物部(かたののもののべ)。 羽束物部(はつかしのもののべ)。尋津物部(ひろきつのもののべ)。 布都留物部(ふつるのもののべ)。住跡物部(すみとのもののべ)

讃岐三野物部(さぬきのみののもののべ)。相槻物部(あいつきのもののべ)。 筑紫聞物部(つくしのきくのもののべ)。播麻物部(はりまのもののべ)。 筑紫贄田物部(つくしのにえたのもののべ)

現代語訳 『先代旧事本紀』による


この二田物部については、その表記について二田、新多、新田、仁田、仁多、仁比田…と多くのバリエーションがあることはこれまで何度も申し上げて来ました。

南から熊本市植木町の田底(清正)二田(二田神社あり)、福岡県八女市星野村仁田原、仁田坂、久留米市田主丸町二田(月読神社あり)、福岡県鞍手郡小竹町新多(陸上自衛隊飯塚駐屯地あり)、宮崎県児湯郡新富町大字新田(航空自衛隊新田原ニュウタバル基地あり)、島根県仁多郡奥出雲町(物部の中心地の上に横田物部の横田町あり)、新潟県柏崎市西山町二田(二田物部神社あり)、秋田県潟上市天王字上江川二田(二田神社あり)、そして、重要な展開地と考えている北関東があるのです。

新潟県から北関東に入るには、主に二つのルートがあります。

まず、新潟県の「新潟」という地名それ自体も「新」を「ニュウ」「ネオ」…と読みたくなる気質を反映していると思うのですが、@その新潟の上越市から千曲川沿いに信越自動車道で東に移動すると、長野、小諸、佐久から群馬県の下仁田に入ります。

もう一つがA式内社二田物部神社がある新潟県柏崎市西山町二田辺りから長岡、小千谷、湯沢、水上、沼田、前橋、高橋へと入ると太田市と新田郡(藪塚本町、新田町、尾島町、)に入ります。

筑豊から石見、出雲を経由し越の国に展開した物部氏は、さらに日本海側に秋田に向かった一派もあったようですが、かなりの勢力が脊梁山脈を越え、群馬、栃木に進出した事はまず間違いないように思います。ここで、基礎的な作業として群馬、栃木の「二田」類似地名の拾い出し作業を行う事にします。


群馬県

無題.png@  群馬県利根郡みなかみ町小仁田

A  新田郡(にったぐん)は、群馬県(上野国)にあった郡。

その一例が新田町です

B  群馬県旧新田町 群馬県南東部新田郡にあった町。新田町は2005327日に閉町し、2005328日に太田市、尾島町、藪塚本町との合併で太田市となった。太田市内の旧新田町地域では、旧地名の前に「新田」が付いている。

C  全体としてみれば、現太田市の太田町が新田郡の中心地だったようです。

遡って、冒頭にあげた石見〜出雲の太田と仁多郡の対応を見る時、この上州群馬の太田市と新田郡との対応は、それだけで同族の移動を感じさせるものです。


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現在、旧新田町は太田市に編入されています 


なお、木枯らし紋次郎上州新田郡は実在したのですが「三日月村」は架空です


栃木県

@  栃木県上都賀郡仁田元村                                 

仁田元村(にたもとむら)は、栃木県上都賀郡にあった村。足尾鉱毒事件によって松木村などとともに廃村になった。正式な廃村時期は不明。現在は「日光市足尾町仁田元渓谷」となっている。アクセスは徒歩のみ。

A  宇都宮市立新田小学校 栃木県宇都宮市針ケ谷1丁目1821

B  さくら市立熟田(ニイタ)小学校 栃木県さくら市狹間田1702 

埼玉県

@  仁田山峠 埼玉県飯能市原市場82


足利氏と新田氏

南北朝の初期、互いに争った足利氏と新田氏は先祖を同じにする同族同士でした。

源義家(八幡太郎)の二男義国は下野国足利庄(栃木県足利市)にあって足利氏を称していましたが、義国の長男義重(11141202)は足利庄を出て上野国新田庄(群馬県新田郡)で新田氏を称し、二男義康(11271157)が足利氏を継いだのです。

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ティータイムは歴史話で(資料徹底検証にもとづかない無責任歴史講座)による

関東武士団の新田氏、足利氏が新田地名と関係があるとすると、この二田、仁多、仁井田、新田に蟠踞した関東武士が何故、武士(モノノフ)=物部(モノノベ)と呼ばれたかも見えてきたのではないでしょうか。

 つまり、恐らく筑豊から避退した物部氏が新潟に移動し、さらに山を越え北関東に展開し、関東武士団を形成した可能性を否定できないのではないでしょうか?

 藤原氏はその事を十分に知っていたからこそ、「物部氏」の後裔の武士団を「モノノフ」と呼んだものと思われるのです。家康も新田義貞の後裔ともされていますね。


徳川発祥の地・群馬県太田市の『新田荘』を巡る

新田荘遺跡

「新田荘(にったのしょう)」は、平安時代末期の12世紀中頃に成立した新田氏の荘園です。
源義国の子新田義重は、旧新田郡南西部の早川流域・石田川流域を再開発して19郷を支配下におき、その後さらに37郷を開発し、旧新田郡のほぼ全域と旧太田市の南西部を荘園化したのです。

鎌倉討幕で有名な新田義貞は、義重から8代目に当たります。
現在、国指定史跡となっているのは、この「新田荘」に関連する寺社境内・館跡・湧水地など11の遺跡から構成されています。
 今回は、その内の「徳川発祥の地」を巡っています。

その系譜の概略です。

新田義重から始まった新田氏の一族は、新田荘の各地に館を構え、それぞれの郷村名を名乗り、子を山名(高崎市)、里見(高崎市)にも配して勢力を広げています。なお、義重の子で長楽寺を開いた徳川(得川)義季(世良田義季)は、後に、江戸幕府を開いた家康が、その子孫であるとして徳川氏を名乗ったため、始祖として崇められたのです。

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さて、ここからが今回の話です。

百嶋神社考古学によってこのニギハヤヒに象徴される新多(二田)物部の正体が山幸彦=猿田彦であると知っているものとして、一体誰の子なのかをずっと気にしていました。それについてのある程度の目鼻を着け付けたのが ひぼろぎ逍遥(跡宮)201 宮崎市(日南海岸)のアコウの茂る野島神社でした。

この小稿で“「釣針を失った山幸彦に“龍王に逢いに行くように」と勧め、果たして龍王の娘である豊玉姫と結ばれる事になった“と言うのが神話でしたが、このアドバイスをした塩土(筒)老翁こそ博多の櫛田神社の大幡主であり、その子が豊玉彦だったとすれば話が非常に良く繋がるのです。

“お母さんがだれであるのか?山幸彦は誰であるか、ご素性は一切分かりません。“と言われたのは、故)百嶋由一郎氏でした。ただ、この話には含みがあり、分かっていて話されていなかっただけである事がだんだんと分かってきました。切っ掛けは、百嶋神代系譜「阿蘇ご一家」の山幸彦の部分へのメモ書きでした。ただ、百嶋神社考古学の研究者の内部でもこの部分は見解の差があり私説に留まっています。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)

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山幸彦について、贈)安寧天皇(玉手看)の子と書かれているのです。


安寧天皇(あんねいてんのう、綏靖天皇5 - 安寧天皇38126日)は、日本の第3代天皇(在位:綏靖天皇33715 - 安寧天皇38126日)。

和風諡号は、『日本書紀』では「磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)」、『古事記』では「師木津日子玉手見命」。

神武天皇(初代天皇)の孫。『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。

ウィキペディア(20160723 13:30による


 確かにご存じだった訳です。

 では、贈)安寧天皇(玉手看)の子とされる山幸彦=猿田彦のお父さんとは誰の事なのでしょうか?

 そうです、玉手看とは竜宮城で玉手箱を見た人物である浦島太郎の事なのです。

 しかるに、この野島神社の由緒には冒頭に浦島太郎を祀る神社とし、実質二神しかない祭神の筆頭に塩筒大神を掲げ、もう御一方として猿田彦大神=白髪大明神を掲げておられるのです。

 猿田彦が浦島太郎とは思えないため、塩筒大神(塩土老翁)が浦嶋太郎に当たるはずなのです。

 詳しくは ひぼろぎ逍遥(跡宮)201 宮崎市(日南海岸)のアコウの茂る野島神社 をお読み頂ければ分かって来るのですが、山幸彦=猿田彦=ニギハヤヒが同一神であり、どうやら大幡主の子であったとすると、豊玉彦(ヤタガラス)と高木大神の娘である豊秋ツ姫(高木大神の娘=豊の国東の安岐で産まれたのでは…)の間に産まれた豊玉姫が祀られる対馬の和多都美神社(長崎県対馬市豊玉町仁位)こそ、龍王(実はヤタガラスこと豊玉彦)と豊玉姫(タゴリミホ)が居た場所(龍宮)であり、そこにやって来た後のニギハヤヒこと山幸彦(実は大幡主=塩土老翁=浦島太郎の子)が豊玉姫と恋仲になったのです。


山幸彦は塩土老翁が言ったとおり井戸の脇の桂の木に登ります。すると海神の娘豊玉毘賣の従者が水を汲みにやってきます。井戸にかがみ込んで水を汲もうとしたその瞬間,水面に影がよぎります。はっと思って振り返り仰ぎ見るとそこには「麗しき壮夫(おとこ)ありき」…

…豊玉姫はここで初めて外に出ます。山幸彦と出会った豊玉姫は「すなはち見惑でて、目合して」父の海神に「吾が門に麗しき人あり」と報告するのです。


 関心を持っているのは、その豊玉姫が居たと思われる和多都美神社(長崎県対馬市豊玉町仁位55)の鎮座地が「仁位」であることです。

 何故、ニギハヤヒと呼ばれたかも含め、彼等ニギハヤヒ、新多物部が「仁井田」(ニイタ)とか「新田」(ニッタ)などと呼ばれている起源がこの対馬の豊玉町の「仁位」にあるのではないかと考えられるのです。


和多都美神社


和多都美神社(わたづみじんじゃ)は、長崎県対馬市にある神社。式内社論社、旧社格は村社


主祭神彦

火々出見尊 豊玉姫命


神代の昔、海神である豊玉彦尊が当地に宮殿を造り、この和多都美神社が鎮まる地を「夫姫(おとひめ)」と名付けたという。彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)と豊玉姫命(とよたまひめのみこと)の夫婦神が祀られている。

『延喜式』の「神名帳」 に對馬嶋上縣郡「和多都美神社 名神大」とある。

貞観元年(859年)に清和天皇から従五位上の神階を賜る。

『三代実録』によれば永徳元年(1381年)に従一位を叙せられ、名社大社の一つ に数えられた。

豊玉彦尊には一男二女の神があり、男神は穂高見尊、二女神は 豊玉姫命・玉依姫命という。ある時、彦火々出見尊(山幸彦)は失った釣り針を探して上国より下向し、この宮に滞在すること3年、豊玉姫命を娶り妻としたと伝わる。

大潮の時期、満潮をむかえた境内では社殿の近くまで海水が到達することもある。その光景は龍宮を連想させ、豊玉姫命と彦火火出見尊の出会いに由来する「玉の井」や、満珠瀬・干珠瀬、磯良恵比須の御神体石などもある。

また、本殿の裏手の海宮山の原生林の中を少しく歩くと、磐座がみえてくる。この手前の壇が豊玉姫命の墳墓(御陵)である。ただ、豊玉姫命は”仁位の高山”に葬られたと社家には伝承されているので、この磐座は恐らく古い斎場の跡であったものが、戦後の混乱期に社家がいったん途絶した為、「豊玉姫の墳墓」と言われるようになったと考えられる。豊玉姫命を仁位の高山に葬った事については『楽郊紀聞』に和多都美宮司(わたづみのみやじ)が語ったものが記録されている。

ウィキペディア(20170731 00:16

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仁井浅茅湾和多都美神社海上参道

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posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 00:00| Comment(0) | 日記