2018年05月07日

453 伊都能売神(イヅノメノカミ)を奉斎する方々へ @

453 伊都能売神(イヅノメノカミ)を奉斎する方々へ @

20170728

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


イヅノメの神を祀る教団の拾い出しをしてみたいと思います。

まずは、出口王仁三郎の大本教が頭に浮かびます。直接的には伊都能売神としては祀ってはいないのですが、…大本教の出口王仁三郎は、本当のミカエルとは「伊都能売(イヅノメ)神のミカエル(省みる)」と述べているようです。伊都能売神はいろいろ論議されていますが、神道に登場する神直日、大直日の子の働きのことともされています。この神直日、大直日は豊玉姫の子の鴨玉依姫、大山咋神なのです。


大宇宙の創造主神とは、永遠に変わることなく、絶対の存在として実在するただ一柱のみご存在になる根本の真の神のことで、古事記ではこの神のことを天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、大本では大国常立大神(おおくにとこたちのおおかみ)というご神名で尊称しています。

主神は、天地万物を司るために、幾百もの神々を生み出され、それぞれに役目を仰せ付けられ、世界を守り開かれています。…


大本では、主神をはじめその正しい神々を総称して、大天主太神(おおもとすめおおみかみ)としておまつりしています。
なお、大本では主神とともに主神の手足となって活動している多くの天使(かみがみ)を神さまとしてあわせておまつりし、各家の祖先の霊魂も丁重におまつりしています。


世界万物を造りたる神はただ独神(ひとりがみ)、天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)とたたえ奉る。天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)の神様をつづめて天帝という。また真神という。
(出口王仁三郎)

大本


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1892年(明治25年)、霊能者出口なおに、「うしとらのこんじん」と名乗る神が憑る。(数年を経て出口王仁三郎の審神者により、この神が国祖国常立尊であると告げられる)1898年(明治31年)出口なおと出口王仁三郎が出会い、教団組織を作ることになる。王仁三郎は、出口なおの娘婿として養子となった。やがて戦前の日本において、有数の巨大教団へと発展した。

ウィキペディア(20170728 15:56による

他にも 愛善苑、大本信徒連合会…などが


次は、岡田茂吉の世界救世教になるでしょうか。


世界救世教(せかいきゅうせいきょう)とは、大本の幹部だった岡田茂吉が1935年(昭和10年)に立教した新宗教系の教団。世界救世教本体に世界救世教いづのめ教団東方之光主之光(すのひかり)教団3教派が包括される形で運営されている。現在の教主は四代目の岡田陽一。国内公称信者数は、2016年(平成28年)版の『宗教年鑑』によると、609,722人。

ウィキペディア(20170728 15:18による

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崇教真光


前身は1901(明治34)に岡田光玉(本名・岡田良一)が設立した「宗教法人 世界真光文明教団」である。1974年(昭和49年)623日に岡田光玉が死去。その葬儀の席上、光玉の遺言に従い幹部のひとり関口榮が二代教え主に就任したことが発表され、その旨が真光誌に記載された[1]。 しかし岡田恵珠は「死去の10日前、光玉からの教え主継承の儀は終えている」と反論し、7月に代表役員の登記を済ませた。 これに対し関口榮は、代表役員の地位を明らかにするために提訴し、昭和52年には「関口榮が代表役員である」という最高裁判決(通称、'真光裁判)を得て、正式に教団の2代教え主に就任した。これによって岡田恵珠は文明教団から分派独立し、1978年(昭和53年)に崇教真光を設立した。崇教真光は正当な霊統を継承しており、唯一の正統であると主張していることもあり、光玉時代の信者の多くを吸収している。「崇教」とは、医学、科学、経済学などを含む、過去の宗教を超えた人類教であるとしている。

2009年からは、岡田恵珠の弟子であり、その後養子となった岡田晃弥(岡田光央)が三代教え主(現・総裁)として教団を先導している。

教団は、国内に約1000ヵ所 海外に約300ヵ所の拠点があり、世界75ヶ国に約100万人の信者がいるとしている。

ウィキペディア(20170728 15:18による


とにかく大本教系の教団の分派活動は凄まじくとても門外漢には理解しがたいことから、以後は、


非常に分かりやすい資料がある事から無題.pngを参考にさせて頂きました。


18新宗教と埋没神(上) −甦る伊都能売神−


明治三十二年に稲荷講社の一分会からスタートし、幾多の変遷のあと巨大教団に変貌していく大本教は、国家による二度にわたる大弾圧の混乱のなかで多くのひと達に影響を与え、数多くの分派教団を世に出した。私が師事した先々代宮司は、霊相道の宇佐美景堂師と交流があり、伝授された数霊学などを教わったものだが、この宇佐美師が大本に深く関わっていたことを知ったのは、だいぶ後になってからである。このように身近な者が繋がるように、大本の人脈は多岐に亘る。以前この欄で紹介したが神政龍神会を興した海軍大佐・矢野祐太郎、神道天行居の友清歓眞、心霊科学研究会の浅野和三郎、至恩郷・岡本天明を始め、大教団となった生長の家・谷口雅春、同じく世界救世教の創始者・岡田茂吉三五(あなない)教・中野与之助、璽宇・峰村教平等々、その活動を引き継いだ後継者達は現在も教勢を拡大させている。

 更に、これらの教団からの分派した教団も数多い。独自の神想観と、住吉大神を宇宙浄化の神・護国の神霊とする生長の家からは、ピースポール「世界人類が平和でありますように」で知られる白光真宏会が独立した。浄霊手かざし系の総本山とも謂うべき世界救世教になると実に数が多い。分派教団から更に分派した教団まで数えると、その数は四十とも五十教団とも云われており、それらの信徒数の全てを合わせると五百万人を超えると云う。救世教からの主な分派教団としては既に中堅教団となった晴明教、救世主教、救世真教、救いの光教団を始め、世界浄霊会、みろく神教、大夲光之道、慈永堂などのほか、現在伸長中の天聖真美会、“幸せと健康について”を街頭で語りかけ、教勢を伸張させた神慈秀明会、救世神教とその分派・光明みろく会、真光系元祖の世界真光文明教団、更にそこから分派して大教団の地位を築いた崇教真光・神幽現救世真光文明教団・ス光光波世界神団など、枚挙にいとまがない。

 教祖研究での繋がりや、教団関係者が古神道講座を受講することで依頼されて幾つかの教団の職員教育、教義・布教のコンサルタント的な役割、顧問役といったことを引き受けているが、この世界救世教とは、研究会設立以前から関わりを持たせて頂いている。救世教は、内部紛争の一時期があり既に終息しているが、現在は、内部に三教団が併立している。それは、いづのめ教団、東方之光、主之光教団の三教団。余談になるが、私はこのいづのめ教団の祭典部に月に三回ほど伺っている。そこで大学で習った祭事の行事作法、神典や神社神道の知識などと、救世教の神観や神示に就いての情報交換なども行なっている。

 いづのめ教団の“いづのめ”の由来に就いては、『古事記』のただ一ヵ所に登場する伊豆能賣という神に辿り着く。

 このいづのめは、大本の出口王仁三郎の伊豆能売観を経て世界救世教教祖・岡田茂吉の霊示に依り、新たな神相観と働きを持つ伊豆能売が現出する。その霊的ビジョンに依れば日本古来の神々が印度に渡航して化身仏となる。その最高位におられたのが伊豆能売神であり、この伊豆能売神とは、実は観世音菩薩であると云う。岡田茂吉は自分の考察として本地垂迹を、本地とは本元の国日本であり、垂迹とは教えを垂れることとする。“すなわち最後に至って、故郷である日本全土に、一度仏の教えを垂れるとともに、仏華を咲かせ、実を生らせなければならないという蜜意である。”つまり、従来の本地垂迹説をまったく逆の視点で、日本の神の本地が印度の仏であったと云う捉え方をしている。

 その頃、日本は伊豆能売神皇が統治していた。だが、素盞鳴尊を中心とする神々が朝鮮から渡来し、その地位を狙い圧迫して来た。これに応諾しないための威圧や迫害が生命の危機にも及び、日本を逃れ、中国を通って伊豆能売神は印度に落ち延びる。


一応、伊豆能売神を奉斎する教団の概略が把握できたのではないかと思います。

ただ、多くの信仰をお持ちの方を含めて、伊豆能売神が一体誰なのかは全くお分かりになっておられないようです。しかし、百嶋神社考古学には凄い力があるもので、我々のような浅学の者にもその正体が見えて来るのです。そして、直接的に伊豆能売神にも遭遇する事が出来たのです。

詳しくは、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下の6本のblogをお読み下さい。


438

伊豆能売の神とは何か? E “伊豆能賣の中間調査を終えて思う事” 

437

伊豆能売の神とは何か? D “伊豆能賣は 何故「イヅノメ」と呼ばれたのか?”

436

伊豆能売の神とは何か? C “遠賀川左岸に伊豆能賣を発見した ”遠賀町の伊豆神社“ 

435

伊豆能売の神とは何か? B “遠賀川右岸の二つ目の伊豆神社の元宮か?”久我神社

434

伊豆能売の神とは何か? A “二つ目の伊豆神社” イヅノメの神が少し分かってきました

433

伊豆能売の神とは何か? @ “遠賀川河口の両岸に伊豆神社が並ぶ”


再掲載


436 伊豆能売の神とは何か? C “遠賀川左岸に伊豆能賣を発見した ”遠賀町の伊豆神社“ 

20170622


伊豆能売を探す作業を始めましたが、太宰府地名研究会でも熱心なフィールド・ワーカーであり、奇妙な祭祀、奇妙な祭神に関するスペシャリストである中島氏が、遠賀川河口の伊豆神社がそれではないかと言った事からこの作業が始まりました。

既に、遠賀川右岸の3社について概略のリポートを書きましたが、今回は左岸の伊豆神社の話です。

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伊豆能売

『古事記』にのみ登場し、『日本書紀』には登場しない。『古事記』でも出自や事跡についての記述が一切ない。神話中では「伊豆能売」とだけ書かれていて、「神」「命」などの神号はつけられていない。

…幕末以降の神道系新宗教の中には、伊豆能売が古代には信仰されていたが後に信仰されなくなった「埋没神」であるとして、新たに信仰の対象にしようとするものもある。…

ウィキペディア(20170622 1103による


現実に伊豆能売神を過去祀っていた可能性がある神社が数社存在し、今でも祀る神社が残されていたのです。

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主神は伊豆能賣です 大社神社、笠松神社、坪内神社は不明ですが後は良く見かける神様です

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これが神殿ですが、今回に関しては是非とも見せて頂きたいと思います


 中島氏の随行を得て訪問した当日、実は、参拝殿で氏子の皆さんがお食事会をされていました。

 氏子総会の打上か?とも思ったのですが、そうではなく水利組合か何かの恒例行事だったようです。

 宴会中でもあったのですが、失礼にも関わらずお邪魔して参拝殿内を見せて頂きました。

中島氏は至って熱心でしかも積極的でさかんに質問されていました。

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重要な事ではないと思いますが、参拝殿には奇妙な絵が掛けられていました。

 大倭天津日嗣國とでもかいてあるのでしょうか?

 図像学は総合的な知識が必要なのですが、力が足りず対応不能です。

 どうも東征に東遷に関わる絵の様でもあり、天照からの日嗣の話の様でもあり、これだけの情報では判別できません。見るべき人が見ればお分かりになるモチーフのようです。

 お分かりの方は09062983254までお教え下さい。

 改めてイズノメ系教団の方々へ、直接的な祭祀の発見もさることながら、実は、この神が誰であり、どこからやって来たのかも分かってきました。実は、これまで周辺の神社を見てきたことから豊玉姫である事が分かる上に、その起源も対馬の木坂であろうとの推定も見えてきたのですが、この話は次に回します。

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百嶋由一郎最終神代系譜(部分)高木大神の娘豊秋ツ姫と豊玉彦の娘が豊の国のイヅノメ神なのです


研究目的で故)百嶋由一郎氏の音声CD(3040h)、手書き資料スキャニングデータ、神代系譜DVDを必要とされる方は、直接、09062983254までご連絡下さい。


「古事記」の95パーセントは嘘ですとは故)百嶋由一郎氏の遺言です。通説の古代史をそのまま真に受ける古代史研究者の皆さんもそろそろ漫画の様な古代史の世界から離脱されてはいかがでしょうか?

posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 20:00| Comment(0) | 日記

ビアヘロ 045 スポット159 百嶋神社考古学からは九州王朝の別の姿が見えてくる の転載

ビアヘロ 045 スポット159 百嶋神社考古学からは九州王朝の別の姿が見えてくる の転載

20180210

太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


古代史、地名研究、民俗学を対象とする「ひぼろぎ逍遥」に対して神社研究に特化した「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)という二本立のblogによって月間30本程度を配信し始めて5年目入りましたが、既にネット上には1200本程度の記事が踊っています。勿論、主要なテーマは九州王朝の探究です。

現在、日量11001200程度のアクセスとなっており、年間45万程度で当面50万件を目標としています。

従って、サイトの規模を考えてもグループ全体では年間200万件を軽く超えているものと考えています。

無題.pngこの点、質は全く異なるのですが、ハイ・レベルな古田史学の会の「新古代学の扉」が年間10万件累計150万件程度なのです。私の場合その背骨を支えてきたものは大学時代から読み始めた古田武彦3部作でしたが、徐々に非古田、反古田系の九州王朝論にも目を向けるようになり、今や、佃収、内倉武久、米田良三…から神代史研究の第一人者であった百嶋由一郎神社考古学に焦点を絞った九州王朝論を全国化したいと考え作業を進めています。

現在、当方の「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)には25blogHPがリンクされています。このほとんどが多少の差はあれ、久留米の高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)をベースとした百嶋神代史研究の影響を受けており、北部九州が中心ですが北は青森〜東関東、北関東、愛知、南は四国の高知県に百嶋九州王朝研究の立場から神社、古墳…を調べる文献史学派も含めた研究者、記録者、伝承回収者、映像収集家…のネット・ワークが急速に広がりつつあります。

最低でも25人の研究者(只のブロガーじゃねいか…と言われそうですが、それでも恥をかかないようにと皆さん頑張って書かれておられるのです)が集まっておられるのです。

勿論、最近スタートしたばかりの方もおられますし、休眠中だったものを復活させた方もおられます。

しかし、誰だって日量300件のアクセスでも年間では10万件にはなるのです。

当然、全体では楽に年間200万件になると申し上げたのは控えめな推計です。

当方の二本立てと「常陸の国探検隊」に連動する「宮古の縁側日記」が先行していますが、この4本だけでも8090万件のアクセスにはなるのですから、実際には年間200万件でもおかしくはないのです。

ブロガーとは自分で調べ記録を残し後世に残そうとしているのですから、下手に若者が目も向けない本を出すより余程効率の良い媒体になっているのです。

ところが、○○研究会とか○○地名研究会などと名乗っていても、所謂邪馬台国本を齧っているだけとか、研究会とか称する団体に入って仲間内の研究と称する講演でも通説派が作成したパンフレットとインターネットから引っ張り出した資料の継ぎ接ぎによるコピーで熱弁を振るう仲間内の講演も右から聴いて左に貫け、貰った資料さえもいつしか置いた場所も分からなくなってしまうようなものを研究会と思うかどうかの問題なのです。最早、何も調べずに邪馬台国本読みで勝手な事を言うだけの方はいらないのです。

このような団体では10年経っても何の成果も残すことなく潰え去る事にしかないのです。

ましてや、会計報告はやっても編集会議はおろか会報も出さないような団体では研究会でもなければ、外部にしか研究者もいない事になるのです。従って、カラオケ・クラブ同様の親睦会でしかないのです。

しかし研究者とはいるものです。ただ、彼らは群れないからこそ研究者であって独立しているからこそ独自の研究や発見ができるのです。

このように研究者とは、親睦会紛いの何々研究会の傘の中の裾野に産まれ成長するのではなく、あたかも電信柱の様に散ら無題.pngばっているのです。

してみると、その電信柱のネット・ワークにこそ価値がある事に気付くのでした。

ましてや、百嶋由一郎という稀代の神社研究者の存在を知ったのですから、それを何とか後世に引き継ぎ、嘘で固められた「古事記」「日本書紀」、それを批判するとして、その延長上に組み立てられた九州王朝論も通説の臍の緒を引き摺っている事に気付くのです。

その意味でも百嶋研究は本当の意味での九州王朝論に近接する強力なレーザー・メスなのです。

このため、私達はどのような障害も抵抗も排除し後世に引き継ぐ任務まさにミッションを帯びているのです。

そのような何の情念も持たない九州王朝論では、いずれ、邪馬台国九州説に後退し、ほどなく通説派に取り込まれていくことになるでしょう。なお、全国区の「事代主のブログ」も加わられました。

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本当にようやくですが、青森〜東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。
posted by 久留米地名研究会 古川清久 at 11:07| Comment(0) | 日記